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{{政治家
{{政治家
|各国語表記 = おおうち けいご
| 人名 = 大内 啓伍
| 各国語表記 = おおうち けいご
| 画像 = Keigo Ōuchi Morihiro Hosokawa Cabinet 19930809 kaidan1.jpg
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| 画像説明 = 1993年8月9日、[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]にて
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'''大内 啓伍'''(おおうち けいご、[[1930年]][[1月23日]] - [[2016年]][[3月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[勲等]]は[[勲一等]]。[[衆議院議員]](通算6期)、[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]([[細川内閣|76]]・[[羽田内閣|77]])、[[民社党|民社党委員長]](第7代)、同党書記長、同党政策審議会長、[[自由連合 (政党)|自由連合総裁]](初代)などを歴任。
'''大内 啓伍'''(おおうち けいご、[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉[[1月23日]] - [[2016年]]〈[[平成]]28年〉[[3月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[勲等]]は[[正三位]][[勲一等]]。[[厚生省#歴代大臣|厚生大臣]]([[細川内閣|76]]・[[羽田内閣|77]])、[[民社党|民社党委員長]](第7代)・[[書記長]](第6代)・[[政策部会|政策審議会長]](第4代)、[[衆議院]][[沖縄及び北方問題に関する特別委員会|沖縄及び北方問題に関する特別委員長]]、[[自由連合 (日本)|自由連合総裁]](初代)、[[衆議院|衆議院議員]](通算6期)等を歴任した


== 概要 ==
== 来歴 ==
[[東京市]][[京橋区]](現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]])生まれ。生家は[[銀座]]の割烹旅館。[[早稲田大学]]第一[[法学部]]卒業後、[[アメリカ合衆国]]の[[イェール大学]][[大学院]]に留学した。学生時代は当初[[旧司法試験|司法試験]]受験を目指していたが、実家の割烹旅館を訪れていた[[衆議院|衆議院議員]]の[[春日一幸]]に誘われ、政界入りした。[[1953年]]、[[右派社会党]]政策審議会事務局に就職<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASJ3B6CRVJ3BUTFK01Q.html|title=元民社党委員長の大内啓伍さん死去 細川内閣では厚生相|publisher=朝日新聞デジタル|date=2016-03-11|accessdate=2020-02-09}}</ref>。[[1960年]]の[[民主社会党]](後に民社党に改称)結党に参加し、党政策審議会事務局長や、非議員ながら副会長も務める。[[1971年]]には民社党の理論誌『革新』を創刊し、同誌編集長を務めていた(ただし編集の実務は、党職員の寺井融が行っていた<ref>[http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/magazine/013/ren1.htm 連載「裏方物語」2]</ref>)。
=== 民社党職員 ===
[[早稲田大学]]第一[[法学部]]卒業、[[イェール大学]]大学院留学。学生時代は当初[[旧司法試験|司法試験]]受験を目指していたが、実家である[[銀座]]の割烹旅館を訪れていた[[春日一幸]]衆議院議員に誘われ政界入りする。


[[1972年]]、民社党訪中団に参加して[[中華人民共和国]]に入国し、共同声明で[[日中国交正常化]]への支持が表明される<ref>{{Cite web|和書|url=https://worldjpn.net/documents/texts/JPCH/19720413.D1J.html|title=民社党訪中代表団と中日友好協会代表団の共同声明|accessdate=2016-11-04|publisher=東京大学東洋文化研究所}}</ref>。
[[1953年]]に[[右派社会党]]政策審議会事務局に就職。[[1960年]]の[[民社党]]結党に参加し、党政策審議会事務局長、副会長を歴任した。[[1971年]]には民社党の理論誌『革新』を創刊し、編集長に就任(寺井融によると、実務は寺井が行ったという。[http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/magazine/013/ren1.htm 連載「裏方物語」 2])した。


[[1973年]]、[[アウグスト・ピノチェト]]による[[チリ・クーデター]]後、[[民社党]]チリ調査団の一員としてチリに入国し、[[12月18日]]にピノチェトの取材を行った
[[1973年]]、[[アウグスト・ピノチェト]]による[[チリ・クーデター]]後、[[民社党]]チリ調査団に参加してチリに入国[[12月18日]]にピノチェトの取材を行い、チリ・クーデターへの支持を表明する


[[1976年]]、[[第34回衆議院議員総選挙]]に民社党公認で[[東京都第2区_(中選挙区)|旧東京2区]](定数5)から立候補し、得票数3位で初当選した(同期当選に[[青山丘]]・[[中井洽]]・[[中野寛成]]・[[米沢隆]]らがいた)。旧東京2区は[[石原慎太郎]]([[自由民主党_(日本)|自由民主党]])や[[上田哲]]([[日本社会党]])、[[鈴切康雄]]([[公明党]])らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。初当選後間もない[[1977年]]11月、当選1回ながら[[佐々木良作]]委員長の下で民社党政策審議会長に起用され、[[1985年]]に[[塚本三郎]]書記長の委員長昇格に伴い、後任の書記長に就任した。[[1984年]]、[[沖縄及び北方問題に関する特別委員会|沖縄及び北方問題に関する特別委員長]]に就任。[[1986年]]の[[第38回衆議院議員総選挙]]では、[[撚糸工連事件]]で贈収賄の疑惑が持たれ、民社党を離党した[[横手文雄]]の記者会見に同席した影響からか、旧東京2区では立候補者6人中6位で、最下位で当選した[[日本共産党]]の[[岡崎万寿秀]]に約3,500票及ばず、大内のみが唯一落選した(この総選挙は[[衆参同日選挙]]だったため、立候補者が少なかった)。落選後も党書記長に留まっていたが、[[1989年]]2月に塚本委員長が[[リクルート事件]]への関与を疑われ、辞任。塚本執行部の総退陣により、大内も書記長を辞任する。
=== 衆議院議員 ===
[[1976年]]12月、[[第34回衆議院議員総選挙]]にて[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京都第2区]]より初当選した(当選同期に[[青山丘]]・[[中井洽]]・[[中野寛成]]・[[米沢隆]]など)。旧東京2区は[[石原慎太郎]]([[自由民主党_(日本)|自由民主党]])や[[上田哲]]([[日本社会党]])、[[鈴切康雄]]([[公明党]])らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。


[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]では、旧東京2区から民社党公認で立候補。4年ぶりに当選し、衆議院議員に返り咲いた(入れ替わる形で、前回最下位当選の岡崎が落選)。この総選挙で民社党は20議席を割り込む大敗を喫し、[[永末英一]]委員長が引責辞任。後任の民社党委員長には、大内が就任した。同年、[[鈴木尚之_(労働運動家)|鈴木尚之]]を秘書に採用。[[1992年]]の[[第16回参議院議員通常選挙]]では、民社党の獲得議席は4議席に留まり、同党は[[院内交渉団体|院内交渉会派]]から転落した<ref>党公認としての獲得議席は4議席であったが、東京都選挙区で日本社会党・社会民主連合との共同推薦で無所属として当選した[[森田健作]]が民社党との院内統一会派を組んだ。その後、党公認で当選した[[愛知県選挙区]]の[[新間正次]]が[[新間正次経歴詐称事件|経歴詐称事件]]による公職選挙法違反で当選無効となったため、最終的に党としての当選者数は3議席である。</ref>。[[1993年]]7月の[[第40回衆議院議員総選挙]]では解散前微増の15議席を獲得する。この総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は[[細川護熙]]を首班に、連立政権の発足で合意。[[細川内閣]]で大内は[[厚生大臣]]に任命され、初入閣した。
[[1977年]]11月、当選1回ながら民社党政策審議会長に就任し、[[1985年]]4月、書記長に昇格した。しかし、[[衆参同日選挙]]となった[[1986年]]の[[第38回衆議院議員総選挙]]では、[[撚糸工連事件]]で疑惑浮上した[[横手文雄]]の離党記者会見に同席した影響からか大内自身も落選した。落選後も書記長にとどまっていたが、[[1989年]]2月、[[塚本三郎]]党委員長が[[リクルート事件]]に関与したとされる疑惑の責任を取り執行部が総退陣し、大内も書記長を辞任。


[[1994年]]2月、細川首相は突如、消費税を廃止し、税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税構想」を発表したが、所管大臣の大内はこれをまったく知らされておらず、[[武村正義]][[内閣官房長官]]や[[村山富市]][[日本社会党委員長|社会党委員長]]に歩調を合わせ、同構想に反対(連立与党内の反対を受け、細川はすぐに撤回)。同年4月の細川退陣を受け、5党で発足した[[羽田内閣]]でも厚生大臣に再任されたが、羽田内閣はわずか64日で総辞職に追い込まれた。同年6月、民社党委員長を退任。12月には、[[新進党]]に合流するため、民社党は解党を決定する。しかし、[[創価学会]]が支持母体である[[公明党]]の参加に大内・塚本の両元委員長は反対し、新進党への参加を見送った。公明党の参加に反発したのは、大内が[[立正佼成会]]、塚本が[[霊友会]]の支援を受けていたという選挙事情が背景の一つにあった。塚本はその後[[自由民主党_(日本)|自民党]]に入党し、大内は一旦[[自由連合 (日本)|自由連合]][[総裁]]を経て、[[村山内閣]]で与党に復帰した自民党に入党し、自民党東京都連最高顧問に就任。
=== 民社党委員長 ===
[[1990年]]2月の[[第39回衆議院議員総選挙]]で代議士に返り咲き、同年4月党委員長に就任、[[鈴木尚之_(労働運動家)|鈴木尚之]]を秘書に採用した。しかし、[[1992年]]7月の[[第16回参議院議員通常選挙]]で民社党は敗北し、同党は交渉会派から転落した。[[1993年]]7月の[[第40回衆議院議員総選挙]]では解散前微増の15議席を獲得。


[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[東京都第4区|東京4区]]から自民党公認で立候補したが、中選挙区時代も議席を争った[[無所属]]の[[新井将敬]]に3万票超の大差で敗れ、次点で落選。新井の死亡に伴う[[1998年]]の[[1998年日本の補欠選挙|補欠選挙]]にも一旦は立候補を表明したが、[[加藤紘一]][[自由民主党幹事長|幹事長]]から次期総選挙における比例名簿順位の優遇を確約され、立候補を見送る(補選には[[森田健作]]が立候補し、当選)。[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では[[比例東京ブロック]]から自民党公認(名簿単独5位)で立候補したが、自民党の東京ブロックでの議席獲得数が4議席に留まったため、次点で落選。政界を引退した。
[[TBSテレビ|TBS]]『[[クイズダービー]]』の「野党の委員長と1年生議員大会」で当時1年生議員の[[柳田稔]]と出場し見事10万点を達成。


[[2016年]][[3月9日]]、[[大田区]]の病院で[[肺炎]]により死去<ref>{{Cite news
第40回衆議院議員総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は[[細川護熙]]を首班とする連立政権の樹立に合意した。[[細川内閣]]で大内は厚生大臣として入閣した。1994年2月に細川首相は消費税を7%とする国民福祉税構想を発表するが、この構想を大内は全く知らされておらず、[[武村正義]][[内閣官房長官]]や[[村山富市]][[日本社会党委員長|社会党委員長]]らと共に反対した。[[1994年]]4月に[[羽田内閣]]でも厚生大臣に再任されたが、2ヶ月で内閣総辞職した。なお、同年6月に党委員長を退任。
|url = https://web.archive.org/web/20160310211158/http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160310-OYT1T50153.html
|title = 大内啓伍・元民社党委員長が死去
|newspaper = [[読売新聞]]
|date = 2016-03-10
|accessdate = 2016-03-13}}</ref><ref>{{Cite news
|url = https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG10H7R_Q6A310C1CZ8000/
|title = 旧民社党委員長の大内啓伍氏が死去 元厚相、86歳
|newspaper = [[日本経済新聞]]
|date = 2016-03-10
|accessdate = 2016-03-13}}</ref><ref>{{Cite news
|url = http://mainichi.jp/articles/20160311/k00/00m/060/113000c
|title = 訃報:大内啓伍さん86歳=元民社党委員長、元厚相
|newspaper = [[毎日新聞]]
|date = 2016-03-10
|accessdate = 2016-03-13}}</ref>。{{没年齢|1930|1|23|2016|3|9}}。[[正三位]]に叙せられる<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016032900233&g=pol 故大内啓伍氏に正三位] - 時事ドットコム 2016年3月29日</ref>。


=== 民社党解党後 ===
== 著書 ==
* {{Cite book ja|title=朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|11928567}}|url-access=registration|publisher=富士社会教育センター出版局|date=1975-02-01}}
同年12月、[[新進党]]へ合流するため、民社党は解党。しかし、[[創価学会]]を支持母体とする[[公明党]]が新進党に合流することを理由とし、大内は党常任顧問の塚本三郎とともに新進党への不参加を表明した。塚本は[[霊友会]]、大内は[[立正佼成会]]の支持を受けていたことが背景にあった。塚本は[[自由民主党 (日本)|自民党]]に入党。大内は[[自由連合 (政党)|自由連合]][[総裁]]を経て、[[村山内閣]]で与党に復帰した[[自由民主党 (日本)|自民党]]に入党した。
* {{Cite book ja|title=われ、事に後悔せず|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12743948}}|url-access=registration|publisher=大和出版|date=1995-03-20|isbn=4804713417}}


== 脚注 ==
[[1995年]]には自民党東京都連の最高顧問に就任し、[[2000年]]まで務めた。
{{脚注ヘルプ}}

{{Reflist}}
[[1996年]]10月の[[第41回衆議院議員総選挙]]には[[東京都第4区|東京4区]]から自民党公認で出馬するも、落選。[[1998年]]、東京4区[[補欠選挙]]にいったん出馬を表明したが[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]][[加藤紘一]]から次期衆院選比例上位を確約され不出馬。

2000年の[[第42回衆議院議員総選挙]]では[[衆議院小選挙区一覧#比例東京|比例東京ブロック]]から自民党公認(名簿単独5位)で出馬したが、落選。

2016年3月9日に肺炎のため死去。86歳没<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ3B6CRVJ3BUTFK01Q.html 元民社党委員長の大内啓伍さん死去 細川内閣では厚生相] [[朝日新聞]] 2016年3月10日閲覧</ref>。

== 政治思想 ==
=== チリ・クーデターを支持 ===
[[反共主義]]を信奉しており、1973年の[[チリ・クーデター]]を支持した。

『朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ』によれば、大内はピノチェトの倒した[[左翼]]の[[サルバドール・アジェンデ]]政権が、[[選挙]]で[[保守]]・[[中道政治|中道]]共倒れによる漁夫の利(得票率36.3%)であることを理由に「必然性のない政権誕生」(44ページ)と主張。「国民生活は破壊され暗黒社会の様相」「自由と諸権利が不法に侵され」(前掲書56ページ)たと厳しく批判した。

その上で、「議会制民主主義を至上のものとするわれわれが、軍事クーデターそのものを容認することはできない」と前置きしつつ、「軍の行動を必然化させたアジェンデ政権の無法なやり方そのものに根本の問題がある」(前掲書71ページ)と主張した。

ピノチェトの「経済の状態が回復されたとき、そこに新憲法を制定し、新しい議会を創設し文民政治に服する」との発言を引き、「それには最低二、三年の年月を要することであろう。(中略)いま左翼の間では、クーデターの責任を米国に転嫁しようとしたり、またクーデターによる殺傷、抑圧を強調することによってアジェンデ政権の姿勢を合理化しようとする試みが盛んに行われている。しかしそのようなことは、チリの大多数の国民の受け入れないところであろう。/ 私は自分の耳と目で、そのことを実際にチリで確かめてきた。」(前掲書72〜73ページ)と結論づけている(チリの「新憲法」制定は[[1980年]]で、ピノチェトの独裁は[[1990年]]まで続いた)。しかし、ピノチェト政権下のチリでは非共産勢力([[キリスト教民主党 (チリ)|キリスト教民主党]]など)も少なからぬ弾圧を受けていることから、大内の発言はまったくの虚偽であることは後に明らかになる。

大内がクーデターを支持したのは、国内の政局において[[選挙協力]]や[[連立政権]]構想から[[日本共産党]]を排除する狙いもあった。大内は「[[マルクス・レーニン主義]]勢力は、チリの場合のみならず、その独裁政権を確立する過程でつねに連立政権を求めてきた」(前掲書76ページ)と定義づけ、日本共産党も他の共産主義政党のように独裁政権を狙うと非難した。日本共産党排除の大義名分とするためには、アジェンデ政権を「独裁政権」として全否定する必要があったのである。


== 略歴 ==
== 関連項目 ==
* [[細川内閣]]
* 1953年 - 右派社会党政策審議会事務局。
* [[羽田内閣]]
* 1960年 - 民社党結党。
* 1971年 - 党機関紙『革新』編集長就任。
* 1973年 - 民社党チリ調査団。
* 1976年 - 第34回衆議院議員総選挙当選。(以来、連続4選)
* 1977年11月 - 民社党政策審議会長就任。
* 1985年4月 - 民社党書記長に昇格。
* 1986年 - 第38回衆議院議員総選挙落選。
* 1990年2月 - 第39回衆議院議員総選挙当選。(以来、連続2選)
* 1990年4月 - 民社党委員長に昇格。(1994年5月退任)
* 1993年8月9日 - 厚生大臣として初入閣。(翌年6月退任)
* 1994年12月9日 - 民社党解党。自由連合を経て、翌年、自民党入党。
* 1996年10月20日 - 第41回衆議院議員総選挙落選。
* 2000年4月29日 - 勲一等旭日大綬章受章。
* 2000年6月25日 - 第42回衆議院議員総選挙落選。


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== 文献 ==
=== 著書 ===
*『朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ』富士社会教育センター出版局、1975年
*『われ、事に後悔せず』大和出版、1995年3月、ISBN 4804713417
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{{Normdaten}}
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== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:おおうち けいこ}}
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[[Category:平成時代の閣僚]]
[[Category:日本の厚生大臣]]
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[[Category:東京都選出の衆議院議員]]
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大内 啓伍
おおうち けいご
1993年8月9日、首相官邸にて
生年月日 (1930-01-23) 1930年1月23日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区
没年月日 (2016-03-09) 2016年3月9日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都大田区
出身校 早稲田大学第一法学部
前職 民社党職員
所属政党右派社会党→)
日本社会党→)
民社党→)
自由連合→)
自由民主党
称号 正三位勲一等旭日大綬章
法学士(早稲田大学)

日本の旗 第75-76代 厚生大臣
内閣 細川内閣
羽田内閣
在任期間 1993年8月9日 - 1994年6月30日

選挙区 旧東京2区
当選回数 6回
在任期間 1976年12月10日 - 1986年6月2日
1990年2月18日 - 1996年9月27日

在任期間 1990年4月10日 - 1994年6月8日
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大内 啓伍(おおうち けいご、1930年昭和5年〉1月23日 - 2016年平成28年〉3月9日)は、日本政治家勲等正三位勲一等厚生大臣(第7677代)、民社党委員長(第7代)・書記長(第6代)・政策審議会長(第4代)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長自由連合総裁(初代)、衆議院議員(通算6期)等を歴任した。

来歴

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東京市京橋区(現在の東京都中央区)生まれ。生家は銀座の割烹旅館。早稲田大学第一法学部卒業後、アメリカ合衆国イェール大学大学院に留学した。学生時代は当初司法試験受験を目指していたが、実家の割烹旅館を訪れていた衆議院議員春日一幸に誘われ、政界入りした。1953年右派社会党政策審議会事務局に就職[1]1960年民主社会党(後に民社党に改称)結党に参加し、党政策審議会事務局長や、非議員ながら副会長も務める。1971年には民社党の理論誌『革新』を創刊し、同誌編集長を務めていた(ただし編集の実務は、党職員の寺井融が行っていた[2])。

1972年、民社党訪中団に参加して中華人民共和国に入国し、共同声明で日中国交正常化への支持が表明される[3]

1973年アウグスト・ピノチェトによるチリ・クーデター後、民社党チリ調査団に参加してチリに入国。12月18日にピノチェトの取材を行い、チリ・クーデターへの支持を表明する。

1976年第34回衆議院議員総選挙に民社党公認で旧東京2区(定数5)から立候補し、得票数3位で初当選した(同期当選に青山丘中井洽中野寛成米沢隆らがいた)。旧東京2区は石原慎太郎自由民主党)や上田哲日本社会党)、鈴切康雄公明党)らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。初当選後間もない1977年11月、当選1回ながら佐々木良作委員長の下で民社党政策審議会長に起用され、1985年塚本三郎書記長の委員長昇格に伴い、後任の書記長に就任した。1984年沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。1986年第38回衆議院議員総選挙では、撚糸工連事件で贈収賄の疑惑が持たれ、民社党を離党した横手文雄の記者会見に同席した影響からか、旧東京2区では立候補者6人中6位で、最下位で当選した日本共産党岡崎万寿秀に約3,500票及ばず、大内のみが唯一落選した(この総選挙は衆参同日選挙だったため、立候補者が少なかった)。落選後も党書記長に留まっていたが、1989年2月に塚本委員長がリクルート事件への関与を疑われ、辞任。塚本執行部の総退陣により、大内も書記長を辞任する。

1990年第39回衆議院議員総選挙では、旧東京2区から民社党公認で立候補。4年ぶりに当選し、衆議院議員に返り咲いた(入れ替わる形で、前回最下位当選の岡崎が落選)。この総選挙で民社党は20議席を割り込む大敗を喫し、永末英一委員長が引責辞任。後任の民社党委員長には、大内が就任した。同年、鈴木尚之を秘書に採用。1992年第16回参議院議員通常選挙では、民社党の獲得議席は4議席に留まり、同党は院内交渉会派から転落した[4]1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では解散前微増の15議席を獲得する。この総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は細川護熙を首班に、連立政権の発足で合意。細川内閣で大内は厚生大臣に任命され、初入閣した。

1994年2月、細川首相は突如、消費税を廃止し、税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税構想」を発表したが、所管大臣の大内はこれをまったく知らされておらず、武村正義内閣官房長官村山富市社会党委員長に歩調を合わせ、同構想に反対(連立与党内の反対を受け、細川はすぐに撤回)。同年4月の細川退陣を受け、5党で発足した羽田内閣でも厚生大臣に再任されたが、羽田内閣はわずか64日で総辞職に追い込まれた。同年6月、民社党委員長を退任。12月には、新進党に合流するため、民社党は解党を決定する。しかし、創価学会が支持母体である公明党の参加に大内・塚本の両元委員長は反対し、新進党への参加を見送った。公明党の参加に反発したのは、大内が立正佼成会、塚本が霊友会の支援を受けていたという選挙事情が背景の一つにあった。塚本はその後自民党に入党し、大内は一旦自由連合総裁を経て、村山内閣で与党に復帰した自民党に入党し、自民党東京都連最高顧問に就任。

1996年第41回衆議院議員総選挙には東京4区から自民党公認で立候補したが、中選挙区時代も議席を争った無所属新井将敬に3万票超の大差で敗れ、次点で落選。新井の死亡に伴う1998年補欠選挙にも一旦は立候補を表明したが、加藤紘一幹事長から次期総選挙における比例名簿順位の優遇を確約され、立候補を見送る(補選には森田健作が立候補し、当選)。2000年第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロックから自民党公認(名簿単独5位)で立候補したが、自民党の東京ブロックでの議席獲得数が4議席に留まったため、次点で落選。政界を引退した。

2016年3月9日大田区の病院で肺炎により死去[5][6][7]。86歳没。正三位に叙せられる[8]

著書

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  • 朝のこない夜はない : 保革伯仲から連合時代へ』富士社会教育センター出版局、1975年2月1日。
  • われ、事に後悔せず』大和出版、1995年3月20日。ISBN 4804713417

脚注

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  1. ^ “元民社党委員長の大内啓伍さん死去 細川内閣では厚生相”. 朝日新聞デジタル. (2016年3月11日). https://www.asahi.com/articles/ASJ3B6CRVJ3BUTFK01Q.html 2020年2月9日閲覧。 
  2. ^ 連載「裏方物語」2
  3. ^ 民社党訪中代表団と中日友好協会代表団の共同声明”. 東京大学東洋文化研究所. 2016年11月4日閲覧。
  4. ^ 党公認としての獲得議席は4議席であったが、東京都選挙区で日本社会党・社会民主連合との共同推薦で無所属として当選した森田健作が民社党との院内統一会派を組んだ。その後、党公認で当選した愛知県選挙区新間正次経歴詐称事件による公職選挙法違反で当選無効となったため、最終的に党としての当選者数は3議席である。
  5. ^ “大内啓伍・元民社党委員長が死去”. 読売新聞. (2016年3月10日). https://web.archive.org/web/20160310211158/http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160310-OYT1T50153.html 2016年3月13日閲覧。 
  6. ^ “旧民社党委員長の大内啓伍氏が死去 元厚相、86歳”. 日本経済新聞. (2016年3月10日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG10H7R_Q6A310C1CZ8000/ 2016年3月13日閲覧。 
  7. ^ “訃報:大内啓伍さん86歳=元民社党委員長、元厚相”. 毎日新聞. (2016年3月10日). http://mainichi.jp/articles/20160311/k00/00m/060/113000c 2016年3月13日閲覧。 
  8. ^ 故大内啓伍氏に正三位 - 時事ドットコム 2016年3月29日

関連項目

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公職
先代
丹羽雄哉
羽田孜(臨時代理)
日本の旗 厚生大臣
第76代:1993年 - 1994年
第77代:1994年
次代
羽田孜(臨時代理)
井出正一
議会
先代
渡辺朗
日本の旗 衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長
1984年 - 1985年
次代
青山丘
党職
先代
(創設)
自由連合総裁
初代:1995年
次代
(廃止)
先代
永末英一
民社党委員長
第7代:1990年 - 1994年
次代
米沢隆
先代
塚本三郎
民社党書記長
第6代:1985年 - 1989年
次代
米沢隆
先代
河村勝
民社党政策審議会長
第4代:1977年 - 1985年
次代
米沢隆