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'''中島 みち'''(なかじま みち、[[1931年]][[2月10日]] - )はノンフィクション作家。本名、'''高橋 道'''(たかはし みち)。旧姓、'''中島'''(なかじま)。
'''中島 みち'''(なかじま みち、[[1931年]][[2月10日]] - [[2015年]][[10月29日]])は、[[日本]]の[[ノンフィクション作家]]。本名、'''高橋 道'''(たかはし みち)<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20151030/ddm/041/060/183000c|title=訃報:中島みちさん 84歳=ノンフィクション作家|newspaper=毎日新聞東京朝刊|date=2015年10月30日|publisher=[[毎日新聞社]]|accessdate=2016年6月15日}}</ref>。旧姓、'''中島'''(なかじま)。

[[京都府]]出身。[[東京女子大学]]卒業。


== 人物・経歴 ==
== 人物・経歴 ==
[[京都府]][[京都市]]出身<ref name="NHK_NEWS20151029">{{Cite web|和書|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151029/k10010287531000.html?|title=中島みちさん死去 生命倫理巡る多くの著作|publisher=NHK|work=NHKニュース|date=2015年10月29日|accessdate=2016年6月15日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151103214856/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151029/k10010287531000.html|archivedate=2015年11月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[1948年]]、[[東京都立武蔵高等学校・附属中学校|東京都立武蔵高等女学校]]卒業<ref name="kaiseisha">{{Cite web|和書|url=http://www.kaiseisha.co.jp/index.php?page=shop.author_page&author_id=972&vmcchk=1&option=com_virtuemart&Itemid=15|title=中島みち|accessdate=2016年6月15日|publisher=[[偕成社]]}}</ref>。[[東京女子大学]][[英文科]]卒業<ref name="朝日新聞19590409">{{Cite news|title=タレント・アナ第二号 ラジオ東京に誕生|newspaper=朝日新聞|date=1959-04-09|page=5}}</ref>。[[1953年]]2月に大学卒業後、当時のラジオ東京(現在の[[TBSテレビ|TBS]])にアナウンサー2期生として入社<ref>{{Cite book|和書|title=TBS50年史 資料編|pages=235-236|chapter=III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録|quote=1953.2<2期生> 14人入社(男10・女4) 落合博一 鈴木千秋 高野昭平 竹山恭二 渡辺謙太郎 杉山真太郎 薗田 潤 中川恭一 真山照政 吉川久夫<1952.4入社 報道部員からアナウンサー> 岡本昌子 清水春子 高橋昭夸 中島みち|editor=東京放送|publisher=東京放送|date=2002-01}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編|chapter=TBSアナウンサーの動き|pages=5-7|quote=53.2<2期生>14人入社(男10・女4) 応募2800人 落合 博一 高野 昭平 鈴木 千秋 竹山 恭二 渡辺謙太郎 杉山真太郎 薗田 潤 中川 恭一 真山 照政 吉川 久夫…<52.4入社 報道部員からアナウンサー> 岡本 昌子 清水 春子 高橋 昭夸 中島 みち|editor=東京放送|publisher=東京放送|date=2002-01|format=DVD-ROM & PDF}}</ref>。[[1958年]]12月にラジオ東京を退社<ref name="TBS50th_s_nakajimamichi">{{Cite book|和書|title=TBS50年史 資料編|page=236|chapter=III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録|quote=中島みち[1958.12退社] R「連続小説(1954)」「こどもコンクール(1955)〜こども音楽コンクール(1956)」 TV「婦人スクール(1957)」|editor=東京放送|publisher=東京放送|date=2002-01}}</ref><ref name="TBSana_nakajimamichi">{{Cite book|和書|title=TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編|chapter=TBSアナウンサーの動き|page=7|quote=中島 みち…[58.12 退社] TV「婦人スクール(57)」 R「連続小説(54)」「こどもコンクール(55)〜こども音楽コンクール(56)」「ウエスタン・ヒット・パレード(56)」「ウエスタンのど自慢(56)」|editor=東京放送|publisher=東京放送|date=2002-01|format=DVD-ROM & PDF}}</ref>。[[1959年]][[1月]]、ラジオ東京と嘱託契約しタレントアナ第二号に('''中島道'''名義)<ref name="朝日新聞19590409" />。[[1970年]]に[[中央大学]]大学院法学研究科(刑事法専攻)修士課程修了<ref name="iwanami">{{Cite web|和書|url=https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0709/sin_k374.html|title=岩波新書 「尊厳死」に尊厳はあるか|accessdate=2016-06-15|publisher=[[岩波書店]]}}</ref>。同年[[乳がん]]手術を機に医療の質や安全について関心を持って作家活動を始め、一貫して患者の立場から医療改革を訴え、医療に法律が関わる問題<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG29HBE_Z21C15A0CZ8000/|title=中島みちさんが死去 ノンフィクション作家|newspaper=日本経済新聞|date=2015-10-29|accessdate=2016-06-15}}</ref>とその接点となる諸問題、医療制度、[[安楽死]]、[[癌|がん]]の告知、[[臓器移植]]、[[尊厳死]]など生命倫理の問題医療に関する問題をテーマした作品の執筆、訳書、評論活動が多く、[[脳死]]の状態を「見えない死」と紹介するなど、医療現場が直面する課題を社会に投げかけたり、[[看護の日]]を発案し制定を呼びかけた。[[1975年]]に第1回ジュニア・ノンフィクション文学賞受賞、[[1994年]]には第42回[[菊池寛賞]]を受賞した他、[[日本医療機能評価機構]]評議員、[[日本訪問看護振興財団]]理事なども歴任<ref name="asahi20151029" /><ref name="NHK_NEWS20151029" /><ref name="kaiseisha" /><ref name="iwanami" />。
[[1953年]]2月に大学卒業後、当時のラジオ東京(現在の[[TBSテレビ|TBS]])にアナウンサー2期生として入社し<ref>『TBS50年史』資料編p.235「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」より。</ref><ref>『TBSアナウンサーの動き』p.5より。</ref>、[[1958年]]12月に退社<ref name=TBS50th_s_p236>『TBS50年史』資料編p.236「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」より。</ref><ref name=TBSana_p7>『TBSアナウンサーの動き』p.7より。</ref>。[[1970年]]に[[中央大学]]大学院法学研究科修士課程修了。同年夏に乳がん手術した。その後医療に関する問題をテーマした作品が多く、[[1994年]]にこの功績に第42回[[菊池寛賞]]を受賞した。

2015年10月29日に慢性呼吸不全のため[[東京都]][[稲城市]]の病院で死去した<ref name="asahi20151029">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASHBY6TCHHBYUCVL01R.html|title=中島みちさん死去 ノンフィクション作家|newspaper= [[朝日新聞]]|accessdate=2015年10月29日}}</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2015102900881&g=obt 中島みちさん死去=ノンフィクション作家] 時事通信 2015年10月29日{{リンク切れ|date=2016年6月}}</ref>。84歳没。


夫は元[[TBSテレビ|TBS]]報道局次長の高橋照明。長男はTBS記者の高橋一世([[1961年]][[1月21日]] - )。
夫は元[[TBSテレビ|TBS]]報道局次長の高橋照明<ref name="朝日新聞19590409" />。長男はTBS記者の高橋一世([[1961年]][[1月21日]] - )<ref name="asahi20151029" />


== 著書 ==
== 著書 ==
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*『見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1985
*『見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1985
*『[[日中戦争]]いまだ終らず マレー「虐殺」の謎』文芸春秋 1991
*『[[日中戦争]]いまだ終らず マレー「虐殺」の謎』文芸春秋 1991
<blockquote>亡き夫の父である[[松井太久郎]]がシンガポールの戦争資料館発行の資料集に日本軍による華僑虐殺が行われた太平洋戦争中のマレー半島占領時の司令官の一人として載せられていたこと、[[高嶋伸欣]]・[[林博史]]がこのマレーでの華僑虐殺に関する別の資料本を翻訳出版し虐殺生存者らの来日講演を図ったこと等をきっかけに、旧日本軍擁護の立場に立ち、高嶋・林らの先行研究や報告に対し、シンガポール・マレー半島における日本軍による虐殺数についてより少なく主張し、また、赤ん坊を日本兵が放り上げて銃剣で刺し殺したといった日本軍の残虐行為について否定することを主眼に、書かれた著作。医療関係のノンフィクションで知られた著者としては異色の本。

虐殺事件の証人として現地で虐殺事件の生存者である蕭文虎に取材、蕭を来日講演させることについては本人につらい思いをさせることとして、林らを批判している<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=日中戦争いまだ終わらず|date=1991-07-15|publisher=文藝春秋|pages=72-76,408-411,23}}</ref>。ただし、中島の著作中においても蕭本人は高嶋らの虐殺事件の掘起し活動や出版への尽力に感謝しているにもかかわらず、著者は蕭自身の真意をきちんと確かめてはいない。1988年の蕭文虎の来日講演時には蕭本人が日本兵による赤ん坊刺殺を目撃したことを語っている<ref>{{Cite book|和書|title=日本軍のマレーシア住民虐殺|date=1989-07-20|publisher=東方出版|page=51-52|volume=アジアの声 第三集|editor=「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会(戦争犠牲者を心に刻む会)}}</ref>。そのため遅くともその頃には、中島も蕭が単なる生存者というだけでなく赤ん坊刺殺の目撃者でもあることを知った筈と思われるが、その点については何ら触れず、また、著者も蕭自身の人柄自体は認めていた筈にもかかわらず、蕭本人に赤ん坊刺殺が実際にあったかどうかをあらためて確かめることもしていない<ref name=":0" />。

林の側では、中島が根拠のない自身の憶測と独断を重ねて結論を出すこと、事件自体の証人としては現地側は蕭の証言のみを取上げ他の生存者には何一つ聞かず、重要なものは加害者側である日本兵らの証言のみに依拠していることを批判している<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=華僑虐殺 日本軍支配下のマレー半島|date=1992-05-30|publisher=すずさわ書店|page=285,286-288|author=林 博史}}</ref>。また、高嶋・林らの翻訳の元となった本は、もともと現地の中華大会堂がその費用と寄付金とで出版し、本の性格上無償で関係者らに配布することが予定されていたものの、遺族に虐殺被害者がいない会員から大会堂が費用を出すことに異論が出て、出版の話自体が止まっていた<ref>{{Cite book|和書|title=旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア|date=2010-12-08|publisher=梨の木舎|page=99|author=高嶋 伸欣}}</ref>。その事情は外部にはあまり知られていなかったが、本の入手を望んでいた高嶋・林が、後にその事情を知り、それまでの寄付金だけでは不足する部分を立替えることを申出たところ、出版の話が再開したものである。この経緯については、日本でも新聞報道され、高嶋・林らの編集による日本語の訳本でも説明されている。これについて中島は、現地新聞で出版自体が両名の「拠出金により初めて可能となったという驚くべき話が記されている」と書いており、これを林は自分らが経緯を隠していたかのように(つまり、あたかも林らの唆しや小細工により、実は両名が自身らのために金を出して出版されたものであったかのように)中傷するものと捉えている<ref name=":1" />。

なお、中島はシンガポールの戦争資料館発行の資料集記載の[[松井太久郎]]とされる写真につき、これを[[松井太久郎]]の写真ではなく実際には[[松井石根]](南京虐殺事件の責任者として処刑された人物)の写真だとしている<ref name=":0" />。元ジャーナリストの加藤裕はこの写真を自身の著書で紹介し、また別のシンガポール中華総商工会議編の記録集にも全く同じ写真が載っていて、そちらでは[[松井太久郎]]と[[西村琢磨]](近衛師団長として、やはり日本軍のマレー半島侵攻に参加している。)の写真にキャプション(説明文)として付けられた名前が資料館の写真とは逆になっていることを報告している<ref>{{Cite book|和書|title=大東亜戦争とマレー、昭南、英領ボルネオ虐殺の真相|date=2015-04-10|publisher=朱鳥社|page=180-181|author=加藤 裕}}</ref>。中島は著書で舅を最期まで看病しており眼鏡を外した写真であっても間違えることはないとし、加藤自身は中島のこの主張を真に受けているが、実際の写真を見る限り、中島の主張とは異なり、[[松井石根]]の写真は掲載されていず、中華総商工会議の記録集のキャプションが正しいものとなっている。中島が見たと語っていた資料集の写真は、単に[[松井太久郎]]の写真と[[西村琢磨]]の写真に付けられたキャプションが入れ違っていただけである。(これは、別の虐殺事件における[[西村琢磨]]の戦犯責任と関わってくる。参照:[[西村琢磨#戦犯裁判]])</blockquote>
*『新々・見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1994
*『新々・見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1994
*『「脳死時代」の生き方と死に方 臓器移植、ガン告知、尊厳死 対話』時事通信社 1994
*『「脳死時代」の生き方と死に方 臓器移植、ガン告知、尊厳死 対話』時事通信社 1994
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*ペギー・アンダーソン『ナース ガン病棟の記録』時事通信社 1981
*ペギー・アンダーソン『ナース ガン病棟の記録』時事通信社 1981
*バーバラ・ハットマン『コード・ブルー 緊急蘇生処置』時事通信社 1984
*バーバラ・ハットマン『コード・ブルー 緊急蘇生処置』時事通信社 1984
*ドミニク・ラピエール『愛より気高く エイズと闘う人々』飛鳥新社 1993
*[[ドミニク・ラピエール]]『愛より気高く エイズと闘う人々』飛鳥新社 1993


== 出演番組 ==
== 出演番組 ==
* 連続小説(1954年、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<ref name=TBS50th_s_p236 /><ref name=TBSana_p7 />
* 連続小説(1954年、[[TBSラジオ]])<ref name="TBS50th_s_nakajimamichi" /><ref name="TBSana_nakajimamichi" />
* [[ラジオこどもコンクール]](1955年、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<ref name=TBSana_p7 /><ref>『TBS50年史』資料編p.236「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」では、「こどもコンクール」と表記。</ref>
* [[ラジオこどもコンクール]](1955年、TBSラジオ)<ref name="TBS50th_s_nakajimamichi" /><ref name="TBSana_nakajimamichi" />
* [[こども音楽コンクール]](1956年、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<ref name=TBS50th_s_p236 /><ref name=TBSana_p7 />
* [[こども音楽コンクール]](1956年、TBSラジオ)<ref name="TBS50th_s_nakajimamichi" /><ref name="TBSana_nakajimamichi" />
* [[ウエスタン・ヒット・パレード]](1956年、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<ref name=TBSana_p7 />
* [[ウエスタン・ヒット・パレード]](1956年、TBSラジオ)<ref name="TBSana_nakajimamichi" />
* [[ウエスタンのど自慢]]([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]])<ref name=TBSana_p7 />
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003623730/jpn 国立国会図書館の所蔵情報]
* TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000003623730-00 国立国会図書館の所蔵情報]
** 資料編
** 資料編
** 付録の[[DVD|DVD-ROM]]『ハイブリッド検索編』に収録された[[Portable Document Format|PDF]]ファイル
** 付録の[[DVD|DVD-ROM]]『ハイブリッド検索編』に収録された[[Portable Document Format|PDF]]ファイル
*** 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)
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2024年6月29日 (土) 22:48時点における版

中島 みち(なかじま みち、1931年2月10日 - 2015年10月29日)は、日本ノンフィクション作家。本名、高橋 道(たかはし みち)[1]。旧姓、中島(なかじま)。

人物・経歴

京都府京都市出身[2]1948年東京都立武蔵高等女学校卒業[3]東京女子大学英文科卒業[4]1953年2月に大学卒業後、当時のラジオ東京(現在のTBS)にアナウンサー2期生として入社[5][6]1958年12月にラジオ東京を退社[7][8]1959年1月、ラジオ東京と嘱託契約しタレントアナ第二号に(中島道名義)[4]1970年中央大学大学院法学研究科(刑事法専攻)修士課程修了[9]。同年乳がん手術を機に医療の質や安全について関心を持って作家活動を始め、一貫して患者の立場から医療改革を訴え、医療に法律が関わる問題[10]とその接点となる諸問題、医療制度、安楽死がんの告知、臓器移植尊厳死など生命倫理の問題医療に関する問題をテーマした作品の執筆、訳書、評論活動が多く、脳死の状態を「見えない死」と紹介するなど、医療現場が直面する課題を社会に投げかけたり、看護の日を発案し制定を呼びかけた。1975年に第1回ジュニア・ノンフィクション文学賞受賞、1994年には第42回菊池寛賞を受賞した他、日本医療機能評価機構評議員、日本訪問看護振興財団理事なども歴任[11][2][3][9]

2015年10月29日に慢性呼吸不全のため東京都稲城市の病院で死去した[11][12]。84歳没。

夫は元TBS報道局次長の高橋照明[4]。長男はTBS記者の高橋一世(1961年1月21日 - )[11]

著書

  • 『誰も知らないあした ガン病棟の手記』(中島道)時事通信社 1972 のち文春文庫 
  • 『クワガタクワジ物語』(1974年筑摩書房2002年偕成社文庫
  • 『灰色の奇跡 あるガンワクチンの真実』講談社 1978
  • 『がん病棟の隣人』毎日新聞社 1981 のち文春文庫 
  • 『悔いてやまず』毎日新聞社 1982 「悔いてやまず ガンで逝った夫」文春文庫
  • 『見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1985
  • 日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎』文芸春秋 1991

亡き夫の父である松井太久郎がシンガポールの戦争資料館発行の資料集に日本軍による華僑虐殺が行われた太平洋戦争中のマレー半島占領時の司令官の一人として載せられていたこと、高嶋伸欣林博史がこのマレーでの華僑虐殺に関する別の資料本を翻訳出版し虐殺生存者らの来日講演を図ったこと等をきっかけに、旧日本軍擁護の立場に立ち、高嶋・林らの先行研究や報告に対し、シンガポール・マレー半島における日本軍による虐殺数についてより少なく主張し、また、赤ん坊を日本兵が放り上げて銃剣で刺し殺したといった日本軍の残虐行為について否定することを主眼に、書かれた著作。医療関係のノンフィクションで知られた著者としては異色の本。

虐殺事件の証人として現地で虐殺事件の生存者である蕭文虎に取材、蕭を来日講演させることについては本人につらい思いをさせることとして、林らを批判している[13]。ただし、中島の著作中においても蕭本人は高嶋らの虐殺事件の掘起し活動や出版への尽力に感謝しているにもかかわらず、著者は蕭自身の真意をきちんと確かめてはいない。1988年の蕭文虎の来日講演時には蕭本人が日本兵による赤ん坊刺殺を目撃したことを語っている[14]。そのため遅くともその頃には、中島も蕭が単なる生存者というだけでなく赤ん坊刺殺の目撃者でもあることを知った筈と思われるが、その点については何ら触れず、また、著者も蕭自身の人柄自体は認めていた筈にもかかわらず、蕭本人に赤ん坊刺殺が実際にあったかどうかをあらためて確かめることもしていない[13]

林の側では、中島が根拠のない自身の憶測と独断を重ねて結論を出すこと、事件自体の証人としては現地側は蕭の証言のみを取上げ他の生存者には何一つ聞かず、重要なものは加害者側である日本兵らの証言のみに依拠していることを批判している[15]。また、高嶋・林らの翻訳の元となった本は、もともと現地の中華大会堂がその費用と寄付金とで出版し、本の性格上無償で関係者らに配布することが予定されていたものの、遺族に虐殺被害者がいない会員から大会堂が費用を出すことに異論が出て、出版の話自体が止まっていた[16]。その事情は外部にはあまり知られていなかったが、本の入手を望んでいた高嶋・林が、後にその事情を知り、それまでの寄付金だけでは不足する部分を立替えることを申出たところ、出版の話が再開したものである。この経緯については、日本でも新聞報道され、高嶋・林らの編集による日本語の訳本でも説明されている。これについて中島は、現地新聞で出版自体が両名の「拠出金により初めて可能となったという驚くべき話が記されている」と書いており、これを林は自分らが経緯を隠していたかのように(つまり、あたかも林らの唆しや小細工により、実は両名が自身らのために金を出して出版されたものであったかのように)中傷するものと捉えている[15]

なお、中島はシンガポールの戦争資料館発行の資料集記載の松井太久郎とされる写真につき、これを松井太久郎の写真ではなく実際には松井石根(南京虐殺事件の責任者として処刑された人物)の写真だとしている[13]。元ジャーナリストの加藤裕はこの写真を自身の著書で紹介し、また別のシンガポール中華総商工会議編の記録集にも全く同じ写真が載っていて、そちらでは松井太久郎西村琢磨(近衛師団長として、やはり日本軍のマレー半島侵攻に参加している。)の写真にキャプション(説明文)として付けられた名前が資料館の写真とは逆になっていることを報告している[17]。中島は著書で舅を最期まで看病しており眼鏡を外した写真であっても間違えることはないとし、加藤自身は中島のこの主張を真に受けているが、実際の写真を見る限り、中島の主張とは異なり、松井石根の写真は掲載されていず、中華総商工会議の記録集のキャプションが正しいものとなっている。中島が見たと語っていた資料集の写真は、単に松井太久郎の写真と西村琢磨の写真に付けられたキャプションが入れ違っていただけである。(これは、別の虐殺事件における西村琢磨の戦犯責任と関わってくる。参照:西村琢磨#戦犯裁判

  • 『新々・見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1994
  • 『「脳死時代」の生き方と死に方 臓器移植、ガン告知、尊厳死 対話』時事通信社 1994
  • 『奇跡のごとく 患者よ、がんと闘おう』文藝春秋 1999 「がん・奇跡のごとく」文春文庫 
  • 『患者革命 納得の医療納得の死』2002 岩波アクティブ新書
  • 『脳死と臓器移植法』(2000年文春新書
  • 『患者革命-納得の医療 納得の死』(2002年、岩波アクティブ新書
  • 『がんと戦う、がんから学ぶ、がんと生きる』(2003年文春文庫
    • 「誰も知らないあした」「がん病棟の隣人」「悔いてやまず」の合本 
  • 『「尊厳死」に尊厳はあるか-ある呼吸器外し事件から』(2007年岩波新書

翻訳

  • ペギー・アンダーソン『ナース ガン病棟の記録』時事通信社 1981
  • バーバラ・ハットマン『コード・ブルー 緊急蘇生処置』時事通信社 1984
  • ドミニク・ラピエール『愛より気高く エイズと闘う人々』飛鳥新社 1993

出演番組

脚注

  1. ^ “訃報:中島みちさん 84歳=ノンフィクション作家”. 毎日新聞東京朝刊 (毎日新聞社). (2015年10月30日). http://mainichi.jp/articles/20151030/ddm/041/060/183000c 2016年6月15日閲覧。 
  2. ^ a b 中島みちさん死去 生命倫理巡る多くの著作”. NHKニュース. NHK (2015年10月29日). 2015年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月15日閲覧。
  3. ^ a b 中島みち”. 偕成社. 2016年6月15日閲覧。
  4. ^ a b c “タレント・アナ第二号 ラジオ東京に誕生”. 朝日新聞: p. 5. (1959年4月9日) 
  5. ^ 東京放送 編「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』東京放送、2002年1月、235-236頁。「1953.2<2期生> 14人入社(男10・女4) 落合博一 鈴木千秋 高野昭平 竹山恭二 渡辺謙太郎 杉山真太郎 薗田 潤 中川恭一 真山照政 吉川久夫<1952.4入社 報道部員からアナウンサー> 岡本昌子 清水春子 高橋昭夸 中島みち」 
  6. ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、5-7頁。「53.2<2期生>14人入社(男10・女4) 応募2800人 落合 博一 高野 昭平 鈴木 千秋 竹山 恭二 渡辺謙太郎 杉山真太郎 薗田 潤 中川 恭一 真山 照政 吉川 久夫…<52.4入社 報道部員からアナウンサー> 岡本 昌子 清水 春子 高橋 昭夸 中島 みち」 
  7. ^ a b c d 東京放送 編「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』東京放送、2002年1月、236頁。「中島みち[1958.12退社] R「連続小説(1954)」「こどもコンクール(1955)〜こども音楽コンクール(1956)」 TV「婦人スクール(1957)」」 
  8. ^ a b c d e f g h 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、7頁。「中島 みち…[58.12 退社] TV「婦人スクール(57)」 R「連続小説(54)」「こどもコンクール(55)〜こども音楽コンクール(56)」「ウエスタン・ヒット・パレード(56)」「ウエスタンのど自慢(56)」」 
  9. ^ a b 岩波新書 「尊厳死」に尊厳はあるか”. 岩波書店. 2016年6月15日閲覧。
  10. ^ “中島みちさんが死去 ノンフィクション作家”. 日本経済新聞. (2015年10月29日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG29HBE_Z21C15A0CZ8000/ 2016年6月15日閲覧。 
  11. ^ a b c “中島みちさん死去 ノンフィクション作家”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/articles/ASHBY6TCHHBYUCVL01R.html 2015年10月29日閲覧。 
  12. ^ 中島みちさん死去=ノンフィクション作家 時事通信 2015年10月29日[リンク切れ]
  13. ^ a b c 『日中戦争いまだ終わらず』文藝春秋、1991年7月15日、72-76,408-411,23頁。 
  14. ^ 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会(戦争犠牲者を心に刻む会) 編『日本軍のマレーシア住民虐殺』 アジアの声 第三集、東方出版、1989年7月20日、51-52頁。 
  15. ^ a b 林 博史『華僑虐殺 日本軍支配下のマレー半島』すずさわ書店、1992年5月30日、285,286-288頁。 
  16. ^ 高嶋 伸欣『旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア』梨の木舎、2010年12月8日、99頁。 
  17. ^ 加藤 裕『大東亜戦争とマレー、昭南、英領ボルネオ虐殺の真相』朱鳥社、2015年4月10日、180-181頁。 

参考文献

  • TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
    • 資料編
    • 付録のDVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録されたPDFファイル
      • 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)