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[[File:The Graves of the Three martyr.JPG|thumb|250px|三義士の一人として韓国で顕彰される尹奉吉の墓(左から[[李奉昌]]、'''尹奉吉'''、[[白貞基]]。[[孝昌公園]][[:ko:효창공원|韓国語]])]]
'''尹 奉吉'''([[日本語]]読み;いん ほうきち、[[朝鮮語]]読み;ユン・ポンギル、[[1908年]][[6月21日]] - [[1932年]][[12月19日]])は、[[大韓民国臨時政府|朝鮮]]の[[独立運動家]]。[[テロリズム|テロリスト]]。'''[[上海天長節爆弾事件]]'''の実行犯<ref>{{Harvnb|森川|1976|loc=p.253}}</ref><ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p18135.html 平成22年度 第4回ミニ展示「昭和7年上海爆弾事件の記録」] - 神奈川県ホームページ</ref><ref name=":0">{{Cite web|title=韓国で英雄視される反日テロリストたち 反日=愛国なのか|url=https://news.livedoor.com/article/detail/10958730/|website=ライブドアニュース|accessdate=2020-01-23|language=ja}}</ref>。号は梅軒。
'''尹 奉吉'''([[日本語]]読み;いん ほうきち又はいん ほうきつ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B0%B9%E5%A5%89%E5%90%89-819045#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |title=尹奉吉 |access-date=2022-09-07}}</ref>、[[朝鮮語]]読み;ユン・ポンギル、[[1908年]][[6月21日]] - [[1932年]][[12月19日]])は、[[大韓民国臨時政府|朝鮮]]の[[テロリズム|テロリスト]]で[[殺人|殺人犯]]、[[朝鮮独立運動|独立運動家]]。号は梅軒。


要人2名を含む多数に重軽傷を負わせるテロを起こしたが、自爆には失敗してその場で逮捕され、[[上海派遣軍]]の[[軍法会議]]の死刑判決後に内地で執行された{{R|:0}}。
[[上海天長節爆弾事件]]の実行犯<ref>{{Harvnb|森川|1976|loc=p.253}}</ref><ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p18135.html 平成22年度 第4回ミニ展示「昭和7年上海爆弾事件の記録」] - 神奈川県ホームページ</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=韓国で英雄視される反日テロリストたち 反日=愛国なのか|url=https://news.livedoor.com/article/detail/10958730/|website=ライブドアニュース|accessdate=2020-01-23|language=ja}}</ref>。要人2名を含む多数に重軽傷を負わせる[[テロリズム|テロ]]を起こしたが、自爆には失敗してその場で逮捕され、[[上海派遣軍]]の[[軍法会議]]の死刑判決後に内地で執行された{{R|:0}}。

[[国民の力]]所属の第21代[[韓国国会|国会議員]]の[[尹柱卿]]は長孫娘<ref>{{Cite web |title=윤주경 “지금껏 이런 광복회는 처음… 편가르기로 국민 분열 주도” |url=https://www.chosun.com/national/national_general/2021/05/09/WZVGEQFG6VFCVCUQD7RLXVNNEU/ |website=조선일보 |date=2021-05-09 |access-date=2023-10-27 |language=ko}}</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[忠清南道]][[礼山郡|礼山]]に生まれた。[[1931年]]、[[上海市|上海]]に渡って[[金九]]の組織した抗日武装組織[[韓人愛国党]]に参加し、事件を準備した。
[[忠清南道]][[礼山郡|礼山]]に生まれた。[[本貫]]は[[坡平尹氏]]<ref>{{Cite web |title=윤봉길(尹奉吉) - 한국민족문화대백과사전 |url=http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0042345 |website=encykorea.aks.ac.kr |accessdate=2022-03-11}}</ref>。[[1931年]]、[[上海市|上海]]に渡って[[金九]]の組織した抗日武装組織[[韓人愛国党]]に参加し、事件を準備した。


[[第一次上海事変]]停戦交渉の最中であった[[1932年]][[4月29日]][[天皇誕生日#近世・現代|天長節]]([[天皇誕生日]])の日、上海の[[日本人]]街の[[魯迅公園|虹口公園]]で行われた祝賀式典会場に、宣教師[[ジョージ・アシュモア・フィッチ]]の運転する車で入り込んだ尹奉吉は、要人群の席に向かって[[手榴弾]]を投擲。爆発で多数を死傷させる事件を引き起こした。
[[第一次上海事変]]停戦交渉の最中であった[[1932年]][[4月29日]][[天皇誕生日#近世・現代|天長節]]([[天皇誕生日]])の日、上海の[[日本人]]街の[[魯迅公園|虹口公園]]で行われた祝賀式典会場に入り込んだ尹奉吉は、要人群の席に向かって[[手榴弾]]を投擲。爆発で多数を死傷させる事件を引き起こした。


[[上海派遣軍]][[司令官]][[大将|陸軍大将]][[白川義則]]と上海日本人居留民団行政委員長で医師の[[河端貞次]]が死亡。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]][[司令長官]][[海軍中将]][[野村吉三郎]]、[[第9師団 (日本軍)|第9師団長]][[陸軍中将]][[植田謙吉]]、上海駐在[[総領事]][[村井倉松]]、上海駐在[[公使]][[重光葵]]、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数が重傷を負った。後の[[1945年]]9月、[[東京湾]]の[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]艦上で行われた[[降伏]]式典で降伏文書に署名した外相(当時)重光葵が杖をついているのはこの事件で片足を失ったためである<ref>{{Cite web|title=【河崎真澄の視線】85年前のテロリストたたえる韓国 中韓共闘の反日活動にもきしみ|url=https://www.sankei.com/column/news/170320/clm1703200008-n1.html|website=産経ニュース|date=2017-03-20|accessdate=2020-01-23|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。
[[上海派遣軍]][[司令官]][[大将|陸軍大将]][[白川義則]]と上海日本人居留民団行政委員長で医師の[[河端貞次]]が死亡。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]][[司令長官]][[海軍中将]][[野村吉三郎]]、[[第9師団 (日本軍)|第9師団長]][[陸軍中将]][[植田謙吉]]、上海駐在[[総領事]][[村井倉松]]、上海駐在[[公使]][[重光葵]]、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数が重傷を負った。後の[[1945年]]9月、[[東京湾]]の[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]艦上で行われた[[降伏]]式典で降伏文書に署名した外相(当時)重光葵が杖をついているのはこの事件で片足を失ったためである<ref>{{Cite web|和書|title=【河崎真澄の視線】85年前のテロリストたたえる韓国 中韓共闘の反日活動にもきしみ|url=https://www.sankei.com/article/20170320-TLAY5RPFHBL43J7Q2QAHPH7AOY/|website=産経ニュース|date=2017-03-20|accessdate=2020-01-23|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。


尹奉吉は現場で[[日本]]の関係者に取り押さえられた。[[5月25日]]、[[被害者]]が軍人であったことから上海派遣軍軍法会議で裁かれ、[[死刑]][[判決]]を受けた。[[11月18日]] [[大阪市|大阪]]の[[衛戍]]刑務所へ移監され、さらに[[12月18日]]、陸軍第9師団<ref>上海派遣軍の主要師団であった。</ref>の駐屯地である[[石川県]][[金沢市]]軍法会議拘禁所へ移管されて留置。[[12月19日]]7時27分、練兵場のある市内、三小牛山で[[銃殺刑]]に処された。遺体は隣山である[[野田山]]の金沢市共同墓地に埋葬された。
尹奉吉は現場で[[日本]]の関係者に取り押さえられた。[[5月25日]]、[[被害者]]が軍人であったことから上海派遣軍[[軍法会議]]で裁かれ、[[死刑]][[判決]]を受けた。[[11月18日]] [[大阪市|大阪]]の[[衛戍]]刑務所へ移監され、さらに[[12月18日]]、陸軍第9師団<ref>上海派遣軍の主要師団であった。</ref>の駐屯地である[[石川県]][[金沢市]]軍法会議拘禁所へ移管されて留置。[[12月19日]]7時27分、[[練兵場]]のある市内、三小牛山で[[銃殺刑]]に処された。遺体は隣山である[[野田山]]の金沢市共同墓地に埋葬された。


尹に爆弾テロを命じた金九一派及び李裕弼<ref>([[:ko:이유필|이유필]])</ref>一派は、在上海江西路角東北義勇軍後援会幹部の[[朱慶瀾]](中国国民党委員会員)から[[報酬]]として2万8千円を受領した。
尹に爆弾テロを命じた金九一派及び[[李裕弼]]<ref>([[:ko:이유필|이유필]])</ref>一派は、在上海江西路角東北義勇軍後援会幹部の[[朱慶瀾]](中国国民党委員会員)から[[報酬]]として2万8千円を受領した。


=== 死後 ===
=== 死後 ===
[[image:Yun BongGil before execution.jpg|thumb|処刑直前の尹奉吉]]
[[image:尹奉吉慰霊碑.jpg|thumb|尹奉吉の慰霊碑(金沢市)]]
[[image:尹奉吉慰霊碑.jpg|thumb|尹奉吉の慰霊碑(金沢市)]]
当時[[中華民国]]政府主席だった[[蔣介石]]は、事件を聞いて「中国の100万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げたので感激だ」<ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/624/179624.html | title=「尹奉吉の業績は長く輝くだろう」蔣介石の献詩を公開 | publisher=中央日報 | date=2013-12-19 | accessdate=2013-12-19}}</ref>と評価した。前述のように金九一派に褒美を支払い、それまで無視していた[[大韓民国臨時政府]]の活動を支援するようになった。その後、台湾に退き、国民政府総裁となった蔣介石は、朝鮮戦争でも一貫して韓国を支援し、1966年に[[朴正煕]]が台湾に訪れた際にも尹奉吉の親族について言及しており、事件は中国のために行われたと評価して友好の礎と考えていた<ref>ただし1992年に韓国は(朝鮮戦争の敵国であった)中華人民共和国と国交を樹立するにあたって、あっさりと台湾と断交した。([[台韓関係]]も参照)</ref>。
当時[[中華民国]]政府主席だった[[蔣介石]]は、事件を聞いて「中国の100万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げたので感激だ」<ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/624/179624.html | title=「尹奉吉の業績は長く輝くだろう」蔣介石の献詩を公開 | publisher=中央日報 | date=2013-12-19 | accessdate=2013-12-19}}</ref>と評価した。前述のように金九一派に褒美を支払い、それまで無視していた[[大韓民国臨時政府]]の活動を支援するようになった。その後、台湾に退き、国民政府総裁となった蔣介石は、[[朝鮮戦争]]でも一貫して韓国を支援し、1966年に[[朴正煕]]が台湾に訪れた際にも尹奉吉の親族について言及しており、事件は中国のために行われたと評価して友好の礎と考えていた<ref>ただし1992年に韓国は(朝鮮戦争の敵国であった)[[中華人民共和国]]と国交を樹立するにあたって、あっさりと台湾と断交した。([[台韓関係]]も参照)</ref>。

尹の遺骨は、[[1946年]][[3月6日]]に[[在日韓国・朝鮮人]]によって発掘され、[[白貞基]]らの遺骨と共に韓国に持ち帰られた<ref>{{Citation |和書|last=辛|first=基秀|editor=|year=1992| title =アリラン峠をこえて : 「在日」から国際化を問う |publisher =解放出版社|isbn=}}</ref>。[[ソウル特別市|京城]](ソウル)で葬儀を挙行した後、国立孝昌公園に改葬された。[[大韓民国|韓国]]政府は、1962年に[[建国勲章]]大韓民国章(1等級)を贈り、独立運動の[[義士]]として顕彰し、独立記念館に祀っている。[[安重根]]・[[金佐鎮]]・[[柳寛順]]とならんで韓国海軍の潜水艦の艦名ともされた。このように韓国では義士と称されており、日本でも遺体が埋葬されていた石川県金沢市に慰霊碑が建立されている。


[[金錫源]]は自身の回顧録で「日本天皇の誕生日(天長節)の祝賀式の壇上に爆弾を投げて、陸軍大将白川義則を倒し、韓国人の気概を世界に示した」と書いている<ref>{{cite book|和書| author = 金錫源 | title = 老兵の恨 | page = 84}}</ref>。
尹の遺骨は、[[1946年]][[3月6日]]に[[在日韓国・朝鮮人]]によって発掘され、[[白貞基]]らの遺骨と共に韓国に持ち帰られた<ref>{{Citation |和書|last=辛|first=基秀|editor=|year=1992| title =アリラン峠をこえて : 「在日」から国際化を問う |publisher =解放出版社|isbn=}}</ref>。[[ソウル特別市|京城]](ソウル)で葬儀を挙行した後、国立孝昌公園に改葬された。[[大韓民国|韓国]]政府は、1962年に建国勲章大韓民国章(1等級)を贈り、独立運動の義士として顕彰し、独立記念館に祀っている。[[安重根]]・[[金佐鎮]]・[[柳寛順]]とならんで韓国海軍の潜水艦の艦名ともされた。このように韓国では義士と称されており、日本でも遺体が埋葬されていた石川県金沢市に慰霊碑が建立されている。


[[2020年]][[10月]]、[[アメリカ合衆国の高等教育|アメリカの大学]]に進学する全世界の学生が使用する[[SAT (大学進学適性試験)|SAT]]と[[アドバンスト・プレイスメント|AP]]の[[教科書]]が、歴史上ほとんどの期間、[[朝鮮]]は[[中国]]の[[植民地]]だったと記述していることが[[JTBCニュースルーム]]の取材で明らかになったが<ref name="JTBC">{{Cite news |author= |url=https://mnews.jtbc.joins.com/News/Article.aspx?news_id=NB11973829 |title="한반도는 대대로 중국 땅"?…미 교재 '엉터리 세계사' |newspaper=[[JTBCニュースルーム]] |publisher=|date=2020-10-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201028204752/https://mnews.jtbc.joins.com/News/Article.aspx?news_id=NB11973829 |archivedate=2020-10-28 |deadlinkdate=}}</ref>、[[JTBCニュースルーム]]によると、[[百度]]が運営する[[百度百科]]でも、尹奉吉や[[安重根]]や[[金九]]や[[尹東柱]]が[[朝鮮族]]と表記されており、[[尹東柱]]は[[国籍]]も中国になっている<ref name="JTBC"/>。[[朝鮮族]]が中国籍を取得したのが[[1954年]]であることを勘案すれば、事実関係が間違っており、これらの独立活動家が[[満州|満洲]]、[[上海市|上海]]、[[吉林省]]に居住して独立活動を行っていたためとみられるが、この場合、朝鮮の[[抗日パルチザン|抗日運動]]が中国の抗日運動の歴史に編入される<ref name="JTBC"/>。
[[金錫源]]は自身の回顧録で「日本天皇の誕生日(天長節)の祝賀式の壇上に爆弾を投げて、陸軍大将白川義則を倒し、韓国人の気概を世界に示した」と書いている<ref>{{cite book|和書| author = 金錫源 | title = 老兵の恨 | pages = 84}}</ref>。


===記念館===
=== 記念館 ===
*梅軒尹奉吉記念館([[ソウル特別市]]瑞草区、[[良才市民の森駅]]から徒歩10分)
*梅軒尹奉吉記念館([[ソウル特別市]]瑞草区、[[良才市民の森駅]]から徒歩10分)
*梅亭([[上海市]]虹口区、[[魯迅公園]]内)
*梅亭([[上海市]]虹口区、[[魯迅公園]]内)
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書| last= 森川| first=哲郎|author-link=森川哲郎|chapter=上海公園の凄惨なテロリズム―血の海に変わった天長節祝賀会|year =1976| title =朝鮮独立運動暗殺史| publisher =三一書房}}{{ASIN|B000J9JHBU}}
* {{Citation |和書| last= 森川| first=哲郎|author-link=森川哲郎|chapter=上海公園の凄惨なテロリズム―血の海に変わった天長節祝賀会|year =1976| title =朝鮮独立運動暗殺史| publisher =[[三一書房]]}}{{ASIN|B000J9JHBU}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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[[Category:暗殺者]]
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[[Category:20世紀朝鮮の人物]]
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[[Category:忠清南道出身の人物]]

2024年6月30日 (日) 16:07時点における最新版

尹 奉吉
事件の3日前に撮られた写真
生誕 (1908-06-21) 1908年6月21日
大韓帝国 忠清南道礼山郡
死没 (1932-12-19) 1932年12月19日(24歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 石川県金沢市
別名 梅軒
罪名 殺人罪、殺人未遂、傷害罪爆発物取締罰則違反の併合罪[1]
刑罰 死刑(銃殺刑)
配偶者 裵用順
子供 2児
親戚 尹柱卿(孫娘)
有罪判決 1932年5月25日
テンプレートを表示
尹奉吉
各種表記
ハングル 윤봉길
漢字 尹奉吉
発音: ユン・ポンギル
日本語読み:

いん ほうきち

いん ほうきつ
ローマ字 Yoon Bong-gil
テンプレートを表示
三義士の一人として韓国で顕彰される尹奉吉の墓(左から李奉昌尹奉吉白貞基孝昌公園韓国語

尹 奉吉日本語読み;いん ほうきち又はいん ほうきつ[2]朝鮮語読み;ユン・ポンギル、1908年6月21日 - 1932年12月19日)は、朝鮮テロリスト殺人犯独立運動家。号は梅軒。

上海天長節爆弾事件の実行犯[3][4][5]。要人2名を含む多数に重軽傷を負わせるテロを起こしたが、自爆には失敗してその場で逮捕され、上海派遣軍軍法会議の死刑判決後に内地で執行された[5]

国民の力所属の第21代国会議員尹柱卿は長孫娘[6]

概要

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忠清南道礼山に生まれた。本貫坡平尹氏[7]1931年上海に渡って金九の組織した抗日武装組織韓人愛国党に参加し、事件を準備した。

第一次上海事変停戦交渉の最中であった1932年4月29日天長節天皇誕生日)の日、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典会場に入り込んだ尹奉吉は、要人群の席に向かって手榴弾を投擲。爆発で多数を死傷させる事件を引き起こした。

上海派遣軍司令官陸軍大将白川義則と上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が死亡。第三艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在総領事村井倉松、上海駐在公使重光葵、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数が重傷を負った。後の1945年9月、東京湾ミズーリ艦上で行われた降伏式典で降伏文書に署名した外相(当時)重光葵が杖をついているのはこの事件で片足を失ったためである[8]

尹奉吉は現場で日本の関係者に取り押さえられた。5月25日被害者が軍人であったことから上海派遣軍軍法会議で裁かれ、死刑判決を受けた。11月18日 大阪衛戍刑務所へ移監され、さらに12月18日、陸軍第9師団[9]の駐屯地である石川県金沢市軍法会議拘禁所へ移管されて留置。12月19日7時27分、練兵場のある市内、三小牛山で銃殺刑に処された。遺体は隣山である野田山の金沢市共同墓地に埋葬された。

尹に爆弾テロを命じた金九一派及び李裕弼[10]一派は、在上海江西路角東北義勇軍後援会幹部の朱慶瀾(中国国民党委員会員)から報酬として2万8千円を受領した。

死後

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処刑直前の尹奉吉
尹奉吉の慰霊碑(金沢市)

当時中華民国政府主席だった蔣介石は、事件を聞いて「中国の100万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げたので感激だ」[11]と評価した。前述のように金九一派に褒美を支払い、それまで無視していた大韓民国臨時政府の活動を支援するようになった。その後、台湾に退き、国民政府総裁となった蔣介石は、朝鮮戦争でも一貫して韓国を支援し、1966年に朴正煕が台湾に訪れた際にも尹奉吉の親族について言及しており、事件は中国のために行われたと評価して友好の礎と考えていた[12]

尹の遺骨は、1946年3月6日在日韓国・朝鮮人によって発掘され、白貞基らの遺骨と共に韓国に持ち帰られた[13]京城(ソウル)で葬儀を挙行した後、国立孝昌公園に改葬された。韓国政府は、1962年に建国勲章大韓民国章(1等級)を贈り、独立運動の義士として顕彰し、独立記念館に祀っている。安重根金佐鎮柳寛順とならんで韓国海軍の潜水艦の艦名ともされた。このように韓国では義士と称されており、日本でも遺体が埋葬されていた石川県金沢市に慰霊碑が建立されている。

金錫源は自身の回顧録で「日本天皇の誕生日(天長節)の祝賀式の壇上に爆弾を投げて、陸軍大将白川義則を倒し、韓国人の気概を世界に示した」と書いている[14]

2020年10月アメリカの大学に進学する全世界の学生が使用するSATAP教科書が、歴史上ほとんどの期間、朝鮮中国植民地だったと記述していることがJTBCニュースルームの取材で明らかになったが[15]JTBCニュースルームによると、百度が運営する百度百科でも、尹奉吉や安重根金九尹東柱朝鮮族と表記されており、尹東柱国籍も中国になっている[15]朝鮮族が中国籍を取得したのが1954年であることを勘案すれば、事実関係が間違っており、これらの独立活動家が満洲上海吉林省に居住して独立活動を行っていたためとみられるが、この場合、朝鮮の抗日運動が中国の抗日運動の歴史に編入される[15]

記念館

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脚注

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  1. ^ 山口隆『尹奉吉 : 暗葬の地・金沢から』社会評論社、1994年。ISBN 4784503463 
  2. ^ 尹奉吉”. 2022年9月7日閲覧。
  3. ^ 森川 1976, p.253
  4. ^ 平成22年度 第4回ミニ展示「昭和7年上海爆弾事件の記録」 - 神奈川県ホームページ
  5. ^ a b 韓国で英雄視される反日テロリストたち 反日=愛国なのか”. ライブドアニュース. 2020年1月23日閲覧。
  6. ^ 윤주경 “지금껏 이런 광복회는 처음… 편가르기로 국민 분열 주도”” (朝鮮語). 조선일보 (2021年5月9日). 2023年10月27日閲覧。
  7. ^ 윤봉길(尹奉吉) - 한국민족문화대백과사전”. encykorea.aks.ac.kr. 2022年3月11日閲覧。
  8. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2017年3月20日). “【河崎真澄の視線】85年前のテロリストたたえる韓国 中韓共闘の反日活動にもきしみ”. 産経ニュース. 2020年1月23日閲覧。
  9. ^ 上海派遣軍の主要師団であった。
  10. ^ 이유필
  11. ^ “「尹奉吉の業績は長く輝くだろう」蔣介石の献詩を公開”. 中央日報. (2013年12月19日). http://japanese.joins.com/article/624/179624.html 2013年12月19日閲覧。 
  12. ^ ただし1992年に韓国は(朝鮮戦争の敵国であった)中華人民共和国と国交を樹立するにあたって、あっさりと台湾と断交した。(台韓関係も参照)
  13. ^ 辛基秀『アリラン峠をこえて : 「在日」から国際化を問う』解放出版社、1992年。 
  14. ^ 金錫源『老兵の恨』、84頁。 
  15. ^ a b c “"한반도는 대대로 중국 땅"?…미 교재 '엉터리 세계사'”. JTBCニュースルーム. (2020年10月14日). オリジナルの2020年10月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201028204752/https://mnews.jtbc.joins.com/News/Article.aspx?news_id=NB11973829 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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