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|支流= 浅野氏'''別家''':[[浅野長重|長重流]]([[赤穂藩|赤穂藩藩主家]]のち[[旗本]])<ref>[[1986年]]([[昭和]]61年)絶家)</ref><br/>浅野氏'''分家'''[[浅野長治|長治流]]([[広島藩#三次藩|三次藩主家]])<ref>[[1720年]]([[享保]]5年)絶家</ref><br/>[[浅野長賢 (広島新田藩主)|長賢流]]([[広島藩#広島新田藩|広島新田藩主家]])<br/>[[浅野長忠|長忠流]]([[武家]]・[[華族]]([[男爵]]))
|支流= 浅野氏'''別家''':[[浅野長重|長重流]]([[赤穂藩|赤穂藩藩主家]]のち[[旗本]])<ref>[[1986年]]([[昭和]]61年)絶家)</ref><br/>浅野氏'''分家'''[[浅野長治|長治流]]([[広三次藩|三次藩主家]])<ref>[[1720年]]([[享保]]5年)絶家</ref><br/>[[浅野長賢 (広島新田藩主)|長賢流]]([[広島新田藩|広島新田藩主家]])<br/>[[三原浅野|長忠流]]([[武家]]・[[華族]]([[男爵]]))
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'''浅野氏'''(あさのし、{{旧字体|淺野氏}})は、[[武家]]・[[華族]]だった[[日本]]の[[氏族]]。[[関白]][[豊臣秀吉]]の[[正室]]・[[高台院|北政所]]の養家だった家で[[浅野長政|浅野長吉(長政)]]が秀吉の下で[[大名]]として台頭。[[宗家]]は江戸時代に[[安芸国|安芸]][[広島藩]](はじめ[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]])主となり、分家に[[三次藩]]、[[広島新田藩]]主、別家<ref>本家が知行を分与したわけでないため別家に当たる。宇和島伊達や鳥取池田と同じ扱い。</ref>に[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主(はじめ[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主)があった。赤穂浅野家は[[忠臣蔵]]で有名である。[[明治維新]]後、宗家は[[華族]]の[[侯爵]]家に列する{{sfn|小田部雄次|2006|p=322}}。[[通字]]は「'''長'''」(広島藩は「'''晟'''」も使用)。家紋は「違い鷹の羽」であるが、宗家のみその羽に渦巻きが入った「芸州鷹の羽」という家紋を使う。
'''浅野氏'''(あさのし、{{旧字体|淺野氏}})は、[[武家]]・[[華族]]だった[[日本]]の[[氏族]]。[[関白]][[豊臣秀吉]]の[[正室]]・[[高台院|北政所]]の養家だった家で[[浅野長政|浅野長吉(長政)]]が秀吉の下で[[大名]]として台頭。[[宗家]]は江戸時代に[[安芸国|安芸]][[広島藩]](はじめ[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]])主となり、分家に[[三次藩]]、[[広島新田藩]]主、別家<ref>本家が知行を分与したわけでないため別家に当たる。宇和島伊達や鳥取池田と同じ扱い。</ref>に[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主(はじめ[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主)があった。赤穂浅野家は[[忠臣蔵]]で有名である。[[明治維新]]後、宗家は[[華族]]の[[侯爵]]家に列する{{sfn|小田部雄次|2006|p=322}}。[[通字]]は「'''長'''」(広島藩は「'''晟'''」も使用)。家紋は「違い鷹の羽」であるが、宗家のみ羽に渦巻きが入った「芸州鷹の羽」という家紋を使う。


== 出自・血統 ==
== 出自・血統 ==
『[[尊卑分脈]]』によれば[[清和源氏]]の[[源頼光]]の孫[[源光信|光信]]は[[美濃国]][[土岐郡]]に住んで[[土岐氏]]と称しその曾孫の[[土岐光行]]が同郡浅野村に居住して浅野判官と称し、その子孫や弟[[土岐光時|光時]]が浅野氏を称するようになったという<ref name="nipo">{{Kotobank|浅野氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。『寛永修諸家系図伝』は広島藩主の浅野氏を光時の子孫であるとしているが、信じるに足りない<ref name="nipo"/>。
『[[尊卑分脈]]』によれば[[清和源氏]]の[[源頼光]]の孫[[源光信|光信]]は[[美濃国]][[土岐郡]]に住んで[[土岐氏]]と称した。その曾孫の[[土岐光行]]が同郡浅野村に居住して浅野判官と称し、その子孫や弟[[土岐光時|光時]]が浅野氏を称するようになったという<ref name="nipo">{{Kotobank|浅野氏|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。『寛永修諸家系図伝』広島藩主の浅野氏を光時の子孫であるとしているが、信憑性は不明<ref name="nipo"/>。


== 宗家 ==
== 宗家 ==
=== 戦国から安土桃山期 ===
『寛永修諸家系図伝』によれば浅野氏は[[尾張国]][[丹羽郡]]浅野荘を本拠としており、[[浅野長勝]]は[[織田信長]]に仕え、早くから[[豊臣秀吉|秀吉]]に属していたという{{sfn|久下実|2021|p=38}}。
『寛永修諸家系図伝』によれば浅野氏は[[尾張国]][[丹羽郡]]浅野荘を本拠としており、[[浅野長勝]]は[[織田信長]]に仕え、早くから[[豊臣秀吉|秀吉]]に属していたという{{sfn|久下実|2021|p=38}}。


[[尾張国]][[春日井郡]]北野<ref>現在の[[愛知県]][[北名古屋市]]。</ref>の[[宮後城]]主・[[安井重継]]の子として生まれた[[浅野長政|浅野長吉(長政)]]は、長勝の婿養子となり{{sfn|久下実|2021|p=38}}、同じく[[杉原定利]]から浅野家へ養子に出された[[高台院|おね]]とのちに[[関白]]となる木下藤吉郎(秀吉)との婚姻によって、浅野長政と秀吉は義理の兄弟となった{{sfn|久下実|2021|p=38}}。長政は秀吉の信任を得て大名に出世し、[[豊臣政権]]下において[[五奉行]]の一員に任ぜられた{{sfn|久下実|2021|p=38}}。なお、浅野宗家には[[浅野綱晟|綱晟]]の代に彼の[[正室]]、[[継室]]として[[九条道房]]の娘が入っている。道房の母は[[豊臣秀勝]](秀吉の甥)の娘である[[豊臣完子]]である
[[尾張国]][[春日井郡]]北野<ref>現在の[[愛知県]][[北名古屋市]]。</ref>の[[宮後城]]主・[[安井重継]]の子として生まれた[[浅野長政|浅野長吉(長政)]]は、長勝の婿養子となり{{sfn|久下実|2021|p=38}}、同じく[[杉原定利]]から浅野家へ養子に出された[[高台院|おね]]とのちに[[関白]]となる木下藤吉郎(秀吉)との婚姻によって、浅野長政と秀吉は義理の兄弟となった{{sfn|久下実|2021|p=38}}。長政は秀吉の信任を得て大名に出世し、[[豊臣政権]]下において[[五奉行]]の一員に任ぜられた{{sfn|久下実|2021|p=38}}。


1583年に近江国において2万石を与えられてはじめて大名となり<ref name="nipo"/>、1587年の[[九州征伐]]後に[[若狭国|若狭]]一国を与えられる<ref name="世界">{{Kotobank|1=浅野氏|2=世界大百科事典 第2版}}</ref>。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では長政は軍監として[[朝鮮半島|朝鮮]]に渡っており、その戦功で1593年に長政と[[浅野幸長|幸長]]の父子に[[甲斐国|甲斐]]一国21万石余(長政5万5000石、幸長16万石)が与えられた<ref name="世界"/>{{sfn|新田完三|1984|p=703}}。
[[豊臣政権]]下において、関東へ移封された[[徳川家康]]の領国に接する[[甲斐国]]には豊臣系大名が配置されていた。[[甲斐国]]甲府(24万石)には[[加藤光泰]]が封ぜられていたが、光泰が[[1592年]]([[文禄]]元年)の[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]にて、釜山の陣中で戦死したため、[[加藤貞泰]]が跡を継いでいた。文禄2年([[1593年]])、[[加藤貞泰]]は[[美濃国]]黒野(4万石)へ転封となり、代わって[[浅野長政]]・[[浅野幸長|幸長]]が22万石で甲斐国[[甲府藩]]に入った。[[関ヶ原の戦い]]の際に幸長は[[徳川家康]]に付き功を挙げたことによって37万6千石で[[紀伊国]][[紀州藩|和歌山]]に移封となった。幸長の跡は嫡男の[[浅野長晟|長晟]]が継いだ。


=== 江戸時代 ===
[[1617年]]([[元和 (日本)|元和]]3年)[[安芸国]]広島の[[福島正則]]が無断で石垣の修復工事をしたとして、[[1619年]](元和5年)に[[蟄居]][[改易]]となった。[[浅野長晟]]は[[大坂の陣]]での功績により、[[改易]]となった福島正則に代わって42万6千石で安芸国に入封。浅野宗家の安芸国における領国支配は[[明治維新]]まで続いた。
[[関ヶ原の戦い]]の際に幸長は[[徳川家康]]に付き功を挙げたことによって37万6560石で[[紀伊国]][[紀州藩|和歌山]]に移封となった<ref name="nipo"/>{{sfn|新田完三|1984|p=703}}。幸長の跡は嫡男の[[浅野長晟|長晟]]が継いだ。[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)に[[安芸国]][[広島藩]]主[[福島正則]]が無断で石垣の修復工事をしたとして[[改易]]になった後、代わって長晟が42万6千石で安芸国に入封した<ref name="nipo広島">{{Kotobank|広島藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。以降浅野宗家の安芸国における領国支配は[[明治維新]]まで続いた{{sfn|新田完三|1984|p=704-707}}。


[[幕末]]、[[薩長同盟]]が成立すると浅野家の[[広島藩]]もこれに加わって[[薩長芸三藩盟約|薩長芸三藩同盟]]を締結し<ref name="niki">[[二木謙一]]監修、[[工藤寛正]]編『国別 藩と城下町の辞典』[[東京堂出版]]、[[2004年]]、ISBN 4-490-10651-3 </ref>、倒幕に踏み切った。その一方で[[徳川慶喜]]に[[大政奉還]]の建白書を提出するなどしたため、日和見藩と不信を買い、浅野家はその中枢からは除外される形となった<ref name="藩名広島">{{Kotobank|広島藩|2=藩名・旧国名がわかる事典}}</ref>。
[[元禄]]14年([[1701年]])、分家の[[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]が[[赤穂事件|刃傷事件]]を起こし切腹のうえ改易。この時に赤穂藩の多額の債務を、広島藩が鴻池家から調達して資金提供している<ref>浅野家文書「広島藩御覚書帳」</ref>。(ただし、赤穂側の記録では「本家には綱長が居ないからと言われ援助を断られた」旨が記されており、藩札を六掛けで交換した事になっており、また金銀を藩士に持ち逃げされている。一方、「備前商人は大石らと喧嘩になり借金を踏み倒された」と岡山池田家の記録に残る。)


かし[[戊辰戦争]]では官軍として奮戦し、広島藩士から成る[[応変隊]]、足軽の銃隊、庶民が主力の[[神機隊]]などの広島藩軍は会津藩軍や仙台藩軍との交戦で激戦を繰り広げた。広島藩は戊辰戦争出兵数2272人のうち戦死78人、戦傷118人を出した。戦死者の中には[[広島護国神社]]の祭神となっている神機隊隊士の[[高間省三]]もいる{{sfn|久下実|2021|p=196}}。藩が所有する汽船も出動し、万年号と達観号は奥州方面へ、豊安号は蝦夷地へ派遣された{{sfn|久下実|2021|p=196}}。
綱長は大石の討ち入りを阻止すべく若狭野・家原の両浅野家と共に、[[進藤俊式]]や[[小山良師]]らを説得して脱盟させている。しかし、討ち入りそのものの阻止は出来なかった。


=== 明治以降 ===
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])11月、浅野家は[[林信篤]]により、桃山時代から絶縁状態にある[[仙台藩]][[伊達氏|伊達家]]との和解を説得される。吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった[[前田綱紀]]、[[徳川吉通]]らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側が国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。
浅野家の官軍への貢献により維新後の[[1869年]]([[明治]]2年)には1万5000石の[[賞典禄]]が下賜された。同年2月に[[浅野長勲|長勲]]が最後の藩主に就任した{{sfn|新田完三|1984|p=707}}。同年、薩長土肥四藩主が[[版籍奉還]]を建白すると長勲も続いた。版籍奉還により6月、長勲は広島知藩事に任命され、[[1871]](明治4年)[[廃藩置県]]ま務め{{sfn|久下実|2021|p=197}}<ref name="nipo"/>。

[[幕末]]、[[薩長同盟]]が成立すると浅野家の[[広島藩]]もこれに加わって薩長芸三藩同盟を締結<ref name="niki">[[二木謙一]]監修、[[工藤寛正]]編『国別 藩と城下町の辞典』[[東京堂出版]]、[[2004年]]、ISBN 4-490-10651-3 </ref>、倒幕に踏み切った。その一方で[[徳川慶喜]]に[[大政奉還]]の建白書を提出するなどしたため、日和見藩と不信を買い、浅野家はその中枢からは除外される形となった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%97%A9-121954#E8.97.A9.E5.90.8D.E3.83.BB.E6.97.A7.E5.9B.BD.E5.90.8D.E3.81.8C.E3.82.8F.E3.81.8B.E3.82.8B.E4.BA.8B.E5.85.B8 藩名・旧国名がわかる事典 広島藩(コトバンク)]</ref>。しかし戊辰戦争では官軍として奮戦し、広島藩士から成る[[応変隊]]、足軽の銃隊、庶民が主力の[[神機隊]]などの広島藩軍は会津藩軍や仙台藩軍との交戦で激戦を繰り広げた。広島藩は戊辰戦争出兵数2272人のうち戦死78人、戦傷118人を出した。戦死者の中には[[広島護国神社]]の祭神となっている神機隊隊士の[[高間省三]]もいる{{sfn|久下実|2021|p=196}}。藩が所有する汽船も出動し、万年号と達観号は奥州方面へ、豊安号は蝦夷地へ派遣された{{sfn|久下実|2021|p=196}}。

こうした浅野家の官軍への貢献により維新後の[[1869年]]([[明治]]2年)には1万5000石の[[賞典禄]]が下賜された{{sfn|新田完三|1984|p=231}}。同年2月に[[浅野長勲|長勲]]が最後の藩主に就任した。同年、薩長土肥四藩主が[[版籍奉還]]を建白すると長勲も続いた。版籍奉還により6月、長勲は広島知藩事に任命され、同月に明治政府に報告した藩負債総額は374万2千290両あった<ref>「広島県の歴史」より『芸備志』巻九十四</ref>。

浅野長勲は知藩事を1871年(明治4年)の[[廃藩置県]]まで務めた。廃藩置県後の報告では[[藩札]]の未回収残が83万両余(銀札では17万9千482貫余)残っており、これらは明治政府により交換されることとなった。さらに広島藩(のち広島県)における重臣(勘定奉行ほか)による[[贋金]]作りが露見し、長勲は二分金や金札が三原要害・東山屋敷・[[浅野忠英]]邸などにおいて製造されていたとの内容の報告書を提出し、関係者が処罰されている(長勲は不定期の謹慎)<ref>同『芸備志』巻九十五</ref>{{sfn|久下実|2021|p=197}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F-25039#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) 浅野氏(コトバンク)]</ref>。


[[1876年]](明治9年)に家禄と[[賞典禄]]が代えられた[[金禄公債]]の額は浅野本家は63万5433円で8位だった(1位[[島津氏|島津公爵家]]132万2845円、2位[[前田氏|前田侯爵家]]119万4077円、3位[[毛利氏|毛利公爵家]]110万7755円、4位[[細川氏|細川侯爵家]]78万280円、5位[[尾張徳川家|尾張徳川侯爵家]]73万8326円、6位[[紀州徳川家|紀州徳川侯爵家]]70万6110円、7位[[山内氏|山内侯爵家]]66万8200円に次ぐ){{sfn|小田部雄次|2006|p=62}}。
[[1876年]](明治9年)に家禄と[[賞典禄]]が代えられた[[金禄公債]]の額は浅野本家は63万5433円で8位だった(1位[[島津氏|島津公爵家]]132万2845円、2位[[前田氏|前田侯爵家]]119万4077円、3位[[毛利氏|毛利公爵家]]110万7755円、4位[[細川氏|細川侯爵家]]78万280円、5位[[尾張徳川家|尾張徳川侯爵家]]73万8326円、6位[[紀州徳川家|紀州徳川侯爵家]]70万6110円、7位[[山内氏|山内侯爵家]]66万8200円に次ぐ){{sfn|小田部雄次|2006|p=62}}。


[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]発布とともに[[侯爵]]に列した。また分家の[[浅野養長]]、一門家老だった三原浅野家の[[浅野忠純]]と東城浅野家の[[浅野守夫]]が[[男爵]]に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=344/351}}。
[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]発布とともに旧大藩知事(旧広島藩の現米は25万8370石で現米15万石以上の大藩に該当)として[[侯爵]]に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=110}}さらに[[1888年]](明治21年)には分家の[[浅野養長]]、[[1900年]](明治33年)には一門家老だった[[三原浅野家]]の[[浅野忠純]]と[[東城浅野家]]の[[浅野守夫]]が[[男爵]]に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=344/351}}。


浅野長勲侯爵は華族銀行と呼ばれた[[十五銀行]]の頭取を務め、1896年時には[[日本鉄道]]の株を10万8318株保有して最大株主になっている(2位の三菱合資会社の[[岩崎久弥]]の2万5796株を大きく引き離している){{sfn|小田部雄次|2006|p=97}}。
浅野長勲侯爵は華族銀行と呼ばれた[[十五銀行]]の頭取を務め、1896年時には[[日本鉄道]]の株を10万8318株保有して最大株主になっている(2位の三菱合資会社の[[岩崎久弥]]の2万5796株を大きく引き離している){{sfn|小田部雄次|2006|p=97}}。[[1898年]](明治31年)の高額所得者ランキングで浅野侯爵家は11位でランクインしている(旧武家華族では3位前田侯爵家、5位島津公爵家、7位毛利公爵家、9位紀州徳川侯爵家、10位[[高松松平家|高松松平伯爵家]]に次ぐ){{sfn|小田部雄次|2006|p=64}}。


大正12年には長勲の幕末・維新期の功績、及び公共事業への功績から浅野家を公爵に陞爵させるよう[[内閣総理大臣]][[山本権兵衛]]に請願が行われているが、不許可となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=52}}。
[[1898年]](明治31年)の高額所得者ランキングに浅野侯爵家は11位でランキングしている(旧大名華族では3位前田侯爵家、5位島津公爵家、7位毛利公爵家、9位紀州徳川侯爵家、10位[[高松松平家|高松松平伯爵家]]に次ぐ){{sfn|小田部雄次|2006|p=64}}。


浅野侯爵家の邸宅は[[東京市]][[本郷区]]向ヶ丘[[弥生 (文京区)|弥生]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=36}}。
浅野侯爵家の邸宅は昭和前期には[[東京市]][[本郷区]]向ヶ丘[[弥生 (文京区)|弥生]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=36}}。


== 分家 ==
== 分家 ==
; 三次浅野家([[備後国|備後]][[広島藩#三次藩|三次藩]]) ※ [[1720年]]([[享保]]5年)絶家
; 三次浅野家([[備後国|備後]][[三次藩]]) ※ [[1720年]]([[享保]]5年)絶家
: [[浅野長晟]]の[[庶長子]]・[[浅野長治]]を祖とする。[[1632年]]([[寛永]]9年)、三次郡・恵蘇郡内5万石を分知され、三次郡に居館を建てて支配した。
: [[浅野長晟]]の[[庶長子]]・[[浅野長治]]を祖とする。[[1632年]]([[寛永]]9年)、三次郡・恵蘇郡内5万石を分知され、三次郡に居館を建てて支配した。
: 3代長経は[[1719年]]([[享保]]4年)に死去し、無嗣のため所領は宗家に返還されたが、長経の弟・長寔に改めて5万石を分知された。しかし、翌年長寔も死去したため、絶家となった<ref name="niki"/>。
: 3代長経は[[1719年]]([[享保]]4年)に死去し、無嗣のため所領は宗家に返還されたが、長経の弟・長寔に改めて5万石を分知された。しかし、翌年長寔も死去したため、絶家となった<ref name="niki"/>。
: なお、赤穂3代藩主浅野内匠頭の正室[[瑤泉院|阿久里]]は初代長治の娘である<ref name="niki"/>。
: なお、赤穂3代藩主浅野内匠頭の正室[[瑤泉院|阿久里]]は初代長治の娘である<ref name="niki"/>。
; 青山浅野家([[広島藩#広島新田藩|広島新田藩]])
; 青山浅野家([[広島新田藩]])
: 宗家5代[[浅野綱長]]の三男・[[浅野長賢 (広島新田藩主)|長賢]]が、[[1730年]]([[享保]]15年)に兄で宗家6代[[浅野吉長|吉長]]から3万石を分知され分家した。[[定府大名|定府]]([[江戸]]常駐)の[[大名]]として列せられ<ref name="niki"/>、藩主家は江戸屋敷の所在地から青山浅野家(青山内証分家)と呼ばれた。
: 宗家5代[[浅野綱長]]の三男・[[浅野長賢 (広島新田藩主)|長賢]]が、[[1730年]]([[享保]]15年)に兄で宗家6代[[浅野吉長|吉長]]から3万石を分知され分家した。[[定府大名|定府]]([[江戸]]常駐)の[[大名]]として列せられ<ref name="niki"/>、藩主家は江戸屋敷の所在地から青山浅野家(青山内証分家)と呼ばれた。
: [[1862年]]([[文久]]2年)6代長興(のちの宗家13代長勲)が宗家を継いだため、翌年1863年(文久3年)に長厚が[[家督]]を継ぎ、翌年安芸国に帰郷して[[吉田郡]]の[[吉田郡山城]]跡の山麓に「御本館」([[吉田陣屋]])を建てて居住した。[[1869年]]([[明治]]2年)に新田藩は宗家と併合した。<ref name="niki"/>なお、その際に当主が華族の地位を返上したため1884年(明治17年)に華族令が出た際には華族でなくなっていたので旧広島新田藩主浅野家には叙爵がなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=66}}。
: [[1862年]]([[文久]]2年)6代長興(のちの宗家13代長勲)が宗家を継いだため、翌年1863年(文久3年)に長厚が[[家督]]を継ぎ、翌年安芸国に帰郷して[[吉田郡]]の[[吉田郡山城]]跡の山麓に「御本館」([[吉田陣屋]])を建てて居住した。[[1869年]]([[明治]]2年)に新田藩は宗家と併合した。<ref name="niki"/>なお、その際に当主が華族の地位を返上したため1884年(明治17年)に華族令が出た際には華族でなくなっていたので旧広島新田藩主浅野家には叙爵がなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=66}}。


== 別家 ==
== 別家 ==
; 赤穂浅野家'''([[播磨国]][[赤穂藩]]) ※ [[1701年]]([[元禄]]14年)絶家
; 赤穂浅野家([[播磨国]][[赤穂藩]]) ※ [[1701年]]([[元禄]]14年)絶家
:[[関ヶ原の戦い]]で戦功を挙げた[[浅野長政]]は、隠居料として常陸真壁・筑波5万石の領地を得たが、[[1611年]]([[慶長]]16年)9月7日に死去し、三男の[[浅野長重|長重]](当時、[[真岡藩]]主)がその隠居料を継いだ。公収によって真岡と真壁を合わせて領したが、[[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年)に[[常陸国]]笠間に移封<ref name="niki"/>。長直の代に播磨国赤穂、加西、加東、作用の4郡、53,500石で移封された。しかし3代[[浅野長矩|長矩]](内匠頭)の代のとき、江戸城内での長矩の[[吉良義央]]への殿中刃傷事件で[[改易]]となり、『[[忠臣蔵]]』で知られる[[赤穂事件]]が起きるきっかけとなった<ref name="niki"/>。
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; 浅野大学家'''(再興・赤穂浅野家) ※ [[1986年]]([[昭和]]61年)絶家
; 浅野大学家(再興・赤穂浅野家) ※ [[1986年]]([[昭和]]61年)絶家
:その後、広島浅野宗家にお預けとなっていた[[浅野長矩]]の弟の[[浅野長広]]が宝永6年(1709年)8月20日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、[[旗本]]に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。
:その後、広島浅野宗家にお預けとなっていた[[浅野長矩]]の弟の[[浅野長広]]が宝永6年(1709年)8月20日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、[[旗本]]に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。


:以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り<ref>『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』</ref>、[[浅野長栄]]は弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、長栄の孫である長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した<ref>泉岳寺浅野家墓碑</ref>。
:以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り<ref>『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』</ref>、[[浅野長栄]]は弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、長栄の孫である長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した<ref>泉岳寺浅野家墓碑</ref>。


; 若狭野浅野家'''(赤穂郡相生村)
; 若狭野浅野家(赤穂郡相生村)
:浅野長恒が1671年に兄・長友から三千石を分与されて成立。
:赤穂浅野家の分家旗本。[[浅野長恒]]が1671年に兄・長友から三千石を分与されて成立。


; 家原浅野家'''(加東郡<ref>古代の賀茂郡(加茂郡)が加東郡・加西郡に分割して発足。</ref>家原)
; 家原浅野家(加東郡<ref>古代の賀茂郡(加茂郡)が加東郡・加西郡に分割して発足。</ref>家原)
:浅野長賢が同年、同じく三千五百石を分与されて成立。
:赤穂浅野家の分家旗本。[[浅野長賢 (旗本)|浅野長賢]]が同年、同じく三千五百石を分与されて成立。


== 歴代当主 ==
== 歴代当主 ==
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| 14
| 14
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| [[ファイル:Asano Nagamasa Portrait.png|80px]]
| [[浅野長政]]<br/>{{small|([[1547年]]-[[1611年]])}}
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| 先代の養子<br/>{{small|([[安井重継]]の子)}}
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|}
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=== 三次浅野家 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! 代数
! 肖像
! 名前<br/>{{small|(生没年)}}
! 続柄
! 位階
! 備考
! 息子
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| 1
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| [[浅野長治]]<br/>{{small|([[1614年]]-[[1675年]])}}
| [[浅野長晟]]の庶長子
| [[従五位下]]
| 初代三次藩主
|
|-
|
| [[File:丸に違い鷹の羽.png|80px]]
| [[浅野長尚]]<br/>{{small|([[1644年]]-[[1666年]])}}
| 先代の甥<br/>{{small|([[浅野光晟]]の次男)}}
| [[従五位下]]
| 三次藩主世嗣(未相続)
|
|-
| 2
| [[File:丸に違い鷹の羽.png|80px]]
| [[浅野長照]]<br/>{{small|([[1652年]]-[[1705年]])}}
| 先代の甥<br/>{{small|([[浅野光晟]]の三男)}}
| [[従五位下]]
| 2代三次藩主
|
|-
| 3
| [[File:丸に違い鷹の羽.png|80px]]
| [[浅野長澄]]<br/>{{small|([[1671年]]-[[1718年]])}}
| 先代の甥<br/>{{small|([[浅野綱晟]]の次男)}}
| [[従五位下]]
| 3代三次藩主
|
|-
| 4
| [[File:丸に違い鷹の羽.png|80px]]
| [[浅野長経]]<br/>{{small|([[1709年]]-[[1719年]])}}
| 先代の三男
|
| 4代三次藩主
| 除封
|}
== 系譜 ==
== 系譜 ==
; <small>実線は実子、点線(縦)は養子、[[家長|当主]]は'''太字'''、点線(横)は婚姻関係。'''「長勝」までの系図は伝説に近く極めて信用ならない。'''</small>
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*{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=[[浅見雅男]]|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
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*{{Cite book|和書|date=2021年(令和3年)|title=広島藩|author=[[久下実]]|series=藩物語|publisher=[[現代書館]]|isbn=978-4768471579|ref=harv}}
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*{{Cite book|和書|date=2015年(平成27年)|title=〈華族爵位〉請願人名辞典 |author=松田敬之|authorlink=松田敬之|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn= 978-4642014724|ref=harv}}
== 関連項目 ==
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2024年7月4日 (木) 15:41時点における最新版

浅野氏
家紋
浅野違い鷹の羽あさの ちがい たかのは
本姓 清和源氏土岐氏流
家祖 土岐光時
種別 武家
華族侯爵
出身地 美濃国土岐郡浅野村?
尾張国丹羽郡浅野村?
主な根拠地 美濃国
尾張国
紀伊国
安芸国
東京市本郷区
著名な人物 浅野長政
浅野長矩(浅野内匠頭)
支流、分家 浅野氏別家長重流赤穂藩藩主家のち旗本[1]
浅野氏分家長治流三次藩主家[2]
長賢流広島新田藩主家
長忠流武家華族男爵))
凡例 / Category:日本の氏族

浅野氏(あさのし、旧字体淺野氏)は、武家華族だった日本氏族関白豊臣秀吉正室北政所の養家だった家で浅野長吉(長政)が秀吉の下で大名として台頭。宗家は江戸時代に安芸広島藩(はじめ紀伊和歌山藩)主となり、分家に三次藩広島新田藩主、別家[3]播磨赤穂藩主(はじめ常陸笠間藩主)があった。赤穂浅野家は忠臣蔵で有名である。明治維新後、宗家は華族侯爵家に列する[4]通字は「」(広島藩は「」も使用)。家紋は「違い鷹の羽」であるが、宗家のみ、羽に渦巻きが入った「芸州鷹の羽」という家紋を使う。

出自・血統

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尊卑分脈』によれば、清和源氏源頼光の孫・光信は、美濃国土岐郡に住んで土岐氏と称した。その曾孫の土岐光行が同郡浅野村に居住して浅野判官と称し、その子孫や弟光時が浅野氏を称するようになったという[5]。『寛永修諸家系図伝』では、広島藩主の浅野氏を光時の子孫であるとしているが、信憑性は不明[5]

宗家

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戦国から安土桃山期

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『寛永修諸家系図伝』によれば、浅野氏は尾張国丹羽郡浅野荘を本拠としており、浅野長勝織田信長に仕え、早くから秀吉に属していたという[6]

尾張国春日井郡北野[7]宮後城主・安井重継の子として生まれた浅野長吉(長政)は、長勝の婿養子となり[6]、同じく杉原定利から浅野家へ養子に出されたおねとのちに関白となる木下藤吉郎(秀吉)との婚姻によって、浅野長政と秀吉は義理の兄弟となった[6]。長政は秀吉の信任を得て大名に出世し、豊臣政権下において五奉行の一員に任ぜられた[6]

1583年に近江国において2万石を与えられてはじめて大名となり[5]、1587年の九州征伐後に若狭一国を与えられる[8]文禄の役では長政は軍監として朝鮮に渡っており、その戦功で1593年に長政と幸長の父子に甲斐一国21万石余(長政5万5000石、幸長16万石)が与えられた[8][9]

江戸時代

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関ヶ原の戦いの際に幸長は徳川家康に付き功を挙げたことによって37万6560石で紀伊国和歌山に移封となった[5][9]。幸長の跡は嫡男の長晟が継いだ。1619年元和5年)に安芸国広島藩福島正則が無断で石垣の修復工事をしたとして改易になった後、代わって長晟が42万6千石で安芸国に入封した[10]。以降浅野宗家の安芸国における領国支配は明治維新まで続いた[11]

幕末薩長同盟が成立すると浅野家の広島藩もこれに加わって薩長芸三藩同盟を締結し[12]、倒幕に踏み切った。その一方で徳川慶喜大政奉還の建白書を提出するなどしたため、日和見藩と不信を買い、浅野家はその中枢からは除外される形となった[13]

しかし戊辰戦争では官軍として奮戦し、広島藩士から成る応変隊、足軽の銃隊、庶民が主力の神機隊などの広島藩軍は会津藩軍や仙台藩軍との交戦で激戦を繰り広げた。広島藩は戊辰戦争出兵数2272人のうち戦死78人、戦傷118人を出した。戦死者の中には広島護国神社の祭神となっている神機隊隊士の高間省三もいる[14]。藩が所有する汽船も出動し、万年号と達観号は奥州方面へ、豊安号は蝦夷地へ派遣された[14]

明治以降

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浅野家の官軍への貢献により維新後の1869年明治2年)には1万5000石の賞典禄が下賜された。同年2月に長勲が最後の藩主に就任した[15]。同年、薩長土肥四藩主が版籍奉還を建白すると長勲も続いた。版籍奉還により6月、長勲は広島知藩事に任命され、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた[16][5]

1876年(明治9年)に家禄と賞典禄が代えられた金禄公債の額は浅野本家は63万5433円で8位だった(1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位山内侯爵家66万8200円に次ぐ)[17]

1884年(明治17年)の華族令発布とともに旧大藩知事(旧広島藩の現米は25万8370石で現米15万石以上の大藩に該当)として侯爵に列した[18]。さらに1888年(明治21年)には分家の浅野養長1900年(明治33年)には一門家老だった三原浅野家浅野忠純東城浅野家浅野守夫男爵に列した[19]

浅野長勲侯爵は華族銀行と呼ばれた十五銀行の頭取を務め、1896年時には日本鉄道の株を10万8318株保有して最大株主になっている(2位の三菱合資会社の岩崎久弥の2万5796株を大きく引き離している)[20]1898年(明治31年)の高額所得者ランキングで浅野侯爵家は11位でランクインしている(旧武家華族では3位前田侯爵家、5位島津公爵家、7位毛利公爵家、9位紀州徳川侯爵家、10位高松松平伯爵家に次ぐ)[21]

大正12年には長勲の幕末・維新期の功績、及び公共事業への功績から浅野家を公爵に陞爵させるよう内閣総理大臣山本権兵衛に請願が行われているが、不許可となっている[22]

浅野侯爵家の邸宅は昭和前期には東京市本郷区向ヶ丘弥生にあった[23]

分家

[編集]
三次浅野家(備後三次藩) ※ 1720年享保5年)絶家
浅野長晟庶長子浅野長治を祖とする。1632年寛永9年)、三次郡・恵蘇郡内5万石を分知され、三次郡に居館を建てて支配した。
3代長経は1719年享保4年)に死去し、無嗣のため所領は宗家に返還されたが、長経の弟・長寔に改めて5万石を分知された。しかし、翌年長寔も死去したため、絶家となった[12]
なお、赤穂3代藩主浅野内匠頭の正室阿久里は初代長治の娘である[12]
青山浅野家(広島新田藩
宗家5代浅野綱長の三男・長賢が、1730年享保15年)に兄で宗家6代吉長から3万石を分知され分家した。定府江戸常駐)の大名として列せられ[12]、藩主家は江戸屋敷の所在地から青山浅野家(青山内証分家)と呼ばれた。
1862年文久2年)6代長興(のちの宗家13代長勲)が宗家を継いだため、翌年1863年(文久3年)に長厚が家督を継ぎ、翌年安芸国に帰郷して吉田郡吉田郡山城跡の山麓に「御本館」(吉田陣屋)を建てて居住した。1869年明治2年)に新田藩は宗家と併合した。[12]なお、その際に当主が華族の地位を返上したため1884年(明治17年)に華族令が出た際には華族でなくなっていたので旧広島新田藩主浅野家には叙爵がなかった[24]

別家

[編集]
赤穂浅野家(播磨国赤穂藩) ※ 1701年元禄14年)絶家
関ヶ原の戦いで戦功を挙げた浅野長政は、隠居料として常陸真壁・筑波5万石の領地を得たが、1611年慶長16年)9月7日に死去し、三男の長重(当時、真岡藩主)がその隠居料を継いだ。公収によって真岡と真壁を合わせて領したが、1622年元和8年)に常陸国笠間に移封[12]。長直の代に播磨国赤穂、加西、加東、作用の4郡、53,500石で移封された。しかし3代長矩(内匠頭)の代のとき、江戸城内での長矩の吉良義央への殿中刃傷事件で改易となり、『忠臣蔵』で知られる赤穂事件が起きるきっかけとなった[12]
浅野大学家(再興・赤穂浅野家) ※ 1986年昭和61年)絶家
その後、広島浅野宗家にお預けとなっていた浅野長矩の弟の浅野長広が宝永6年(1709年)8月20日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。
以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り[25]浅野長栄は弁官の支配とされた。赤穂浅野家は、長栄の孫である長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した[26]
若狭野浅野家(赤穂郡相生村)
赤穂浅野家の分家旗本。浅野長恒が1671年に兄・長友から三千石を分与されて成立。
家原浅野家(加東郡[27]家原)
赤穂浅野家の分家旗本。浅野長賢が同年、同じく三千五百石を分与されて成立。

歴代当主

[編集]

浅野宗家

[編集]
代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 息子
浅野長勝より前は伝説に近く信憑性がないため省略。
13 浅野長勝
(?-1575年?)
14 浅野長政
(1547年-1611年)
先代の養子
(安井重継の子)
従四位下
(1910年従三位追贈)
初名:浅野長吉
豊臣政権五奉行
常陸真壁藩
浅野幸長(長男・紀州藩主)
浅野長晟(次男・広島藩主)
浅野長重(三男・真壁藩主→笠間藩主)
15 浅野幸長
(1576年-1613年)
先代の長男 従四位下
(1915年従三位追贈)
初名:浅野長慶
紀伊和歌山藩
16 浅野長晟
(1586年-1632年)
先代の弟
(浅野長政の次男)
従四位下 紀伊和歌山藩
安芸広島藩
浅野長治(庶長子・三次藩主)
浅野光晟(次男・広島藩主)
17 浅野光晟
(1617年-1693年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野綱晟(長男・広島藩主)
浅野長照(三男・三次藩主)
18 浅野綱晟
(1637年-1673年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野綱長(長男・広島藩主)
浅野長澄(次男・三次藩主)
19 浅野綱長
(1659年-1708年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野吉長(長男・広島藩主)
浅野長賢(三男・広島新田藩主)
中川久慶(四男・岡藩主)
20 浅野吉長
(1681年-1752年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野宗恒(長男・広島藩主)
21 浅野宗恒
(1717年-1788年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野重晟(長男・広島藩主)
水野忠鼎(次男・唐津藩主)
浅野長員(三男・広島新田藩主)
22 浅野重晟
(1743年-1814年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野斉賢(次男・広島藩主)
森快温(三男・三日月藩主)
浅野忠順(七男・三原浅野家養子)
23 浅野斉賢
(1773年-1831年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野斉粛(長男・広島藩主)
24 浅野斉粛
(1817年-1868年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主 浅野慶熾(長男・広島藩主)
25 浅野慶熾
(1836年-1858年)
先代の長男 従四位下 安芸広島藩主
26 浅野長訓
(1812年-1872年)
先代の養子
(浅野長懋の五男)
従四位下 名前は長訓→茂長→長訓
広島新田藩主→安芸広島藩主
浅野長勲(長男・侯爵)
27 浅野長勲
(1842年-1937年)
先代の養子
(浅野懋昭の長男)
従一位 名前は長興→茂勲→長勲
広島新田藩主→広島藩主→同知藩事
駐イタリア公使
貴族院議員
侯爵
28 浅野長之
(1864年-1947年)
先代の養子
(浅野懋績の九男)
正三位[23] 宮内省官僚
十五銀行取締
貴族院議員
侯爵
浅野長武(長男・侯爵)
大河内輝信(次男)
浅野鐵馬(三男・男爵)
29 浅野長武
(1895年-1964年)
先代の長男 東京国立博物館長
貴族院議員
侯爵
浅野長愛(長男)
山階芳正(次男)
30 浅野長愛
(1927年-2007年)
先代の長男 学習院高等科長及び中等科長
山階鳥類研究所理事長
浅野長孝(長男)
31 浅野長孝
(1956年-存命中)
先代の長男

赤穂浅野家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 息子
1 浅野長重
(1588年-1632年)
浅野長政の三男 従五位下 常陸真壁藩主→笠間藩 浅野長直(長男・笠間藩主→赤穂藩主)
2 浅野長直
(1610年-1672年)
先代の長男 従五位下 常陸笠間藩主→播磨赤穂藩 浅野長友(長男・赤穂藩主)
浅野長賢(養子・旗本)
浅野長恒(養子・旗本)
3 浅野長友
(1643年-1675年)
先代の長男 従五位下 播磨赤穂藩主 浅野長矩(長男・赤穂藩主)
浅野長広(次男・旗本)
4 浅野長矩
(1667年-1701年)
先代の長男 従五位下 播磨赤穂藩主
「浅野内匠頭
忠臣蔵で著名
5 浅野長広
(1670年-1734年)
先代の弟
(浅野長友の次男)
「浅野大学
旗本
浅野長純(長男)
6 浅野長純
(1707年-1754年)
先代の長男[28] 旗本 浅野長延(長男)
7 浅野長延
(1736年-1792年)
先代の長男[28] 旗本 浅野長貞(長男)
8 浅野長貞
(1747年-1808年)
先代の長男[28] 旗本 浅野長邦(長男)
9 浅野長邦
(1776年-1852年)
先代の長男[28] 旗本 浅野長年(長男)
10 浅野長年
(?-1863年)
先代の長男[28] 旗本 浅野長栄(長男)
11 浅野長栄
(1839年-1889年)
先代の長男[28] 旗本→朝臣 浅野静子(娘)
12 浅野静子 先代の娘[28] 浅野正言(息子)
13 浅野正言 先代の息子[28] 浅野長和(息子)
14 浅野長和 先代の息子[28] 浅野長楽(息子)
15 浅野長楽 先代の息子[28]

三次浅野家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 息子
1 浅野長治
(1614年-1675年)
浅野長晟の庶長子 従五位下 初代三次藩主
浅野長尚
(1644年-1666年)
先代の甥
浅野光晟の次男)
従五位下 三次藩主世嗣(未相続)
2 浅野長照
(1652年-1705年)
先代の甥
浅野光晟の三男)
従五位下 2代三次藩主
3 浅野長澄
(1671年-1718年)
先代の甥
浅野綱晟の次男)
従五位下 3代三次藩主
4 浅野長経
(1709年-1719年)
先代の三男 4代三次藩主 除封

系譜

[編集]
実線は実子、点線(縦)は養子、当主太字、点線(横)は婚姻関係。「長勝」までの系図は伝説に近く極めて信用ならない。
 
杉原家利
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勝福院[29]
 
 
 
浅野長勝
 
 
 
七曲殿家次朝日殿
 
 
 
定利
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[諸説3と4]
長生院
 
 
 
長政1[通説]
長生院
高台院木下家定高台院
 
 
 
豊臣秀吉長慶院[通説]
長生院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幸長長晟長重
 
 
 
 
 
長晟長直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光晟長治長友長賢[30]長恒[31]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長尚長照長矩長広長武[32]長豊大久保忠高富沢利実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱晟長照長尚長澄長広長時長根長逵長寿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱長長澄長経長寔長純長充[33]長致[34]長哥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉長中川久慶長賢長寔長延長貞小川義長長谷川長熙長富
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗恒長喬長貞三枝守春依田長房松前広配長泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重晟水野忠鼎[35]長員長員長容長邦長光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉賢森快温長懋長容長年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉粛懋昭懋績長訓長栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慶熾
 
 
長之長厚長勲静子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長訓長勲阿部正桓養長長厚正言
 
 
 
 
 
長勲[36]長和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長之長道長楽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長武大河内輝信
 
 
 
長愛
 
 
 
長孝

脚注

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  1. ^ 1986年昭和61年)絶家)
  2. ^ 1720年享保5年)絶家
  3. ^ 本家が知行を分与したわけでないため別家に当たる。宇和島伊達や鳥取池田と同じ扱い。
  4. ^ 小田部雄次 2006, p. 322.
  5. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『浅野氏』 - コトバンク
  6. ^ a b c d 久下実 2021, p. 38.
  7. ^ 現在の愛知県北名古屋市
  8. ^ a b 世界大百科事典 第2版『浅野氏』 - コトバンク
  9. ^ a b 新田完三 1984, p. 703.
  10. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『広島藩』 - コトバンク
  11. ^ 新田完三 1984, p. 704-707.
  12. ^ a b c d e f g 二木謙一監修、工藤寛正編『国別 藩と城下町の辞典』東京堂出版2004年ISBN 4-490-10651-3
  13. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『広島藩』 - コトバンク
  14. ^ a b 久下実 2021, p. 196.
  15. ^ 新田完三 1984, p. 707.
  16. ^ 久下実 2021, p. 197.
  17. ^ 小田部雄次 2006, p. 62.
  18. ^ 浅見雅男 1994, p. 110.
  19. ^ 小田部雄次 2006, p. 344/351.
  20. ^ 小田部雄次 2006, p. 97.
  21. ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
  22. ^ 松田敬之 2015, p. 52.
  23. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 36.
  24. ^ 浅見雅男 1994, p. 66.
  25. ^ 『冷光君御伝記 播磨赤穂浅野家譜』
  26. ^ 泉岳寺浅野家墓碑
  27. ^ 古代の賀茂郡(加茂郡)が加東郡・加西郡に分割して発足。
  28. ^ a b c d e f g h i j 斎藤茂 1975, pp. 110.
  29. ^ 樋口美濃守の娘。
  30. ^ 交代寄合竹谷松平家当主松平清昌の末子。
  31. ^ 赤穂藩重臣大石良重の長男。
  32. ^ 赤穂藩重臣・大石良重の次男、浅野長恒の実弟。
  33. ^ 藪忠通の三男
  34. ^ 堀直堯の三男
  35. ^ 水野忠邦の祖父
  36. ^ 広島新田藩家督相続後、宗家相続。

参考文献

[編集]
  • 浅野史蹟顕彰会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 浅野荘と浅野氏』浅野史蹟顕彰会、1917年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926969/32 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 浅野氏」『寛政重修諸家譜https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577366/4 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 久下実『広島藩』現代書館〈藩物語〉、2021年(令和3年)。ISBN 978-4768471579 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 
  • 斎藤茂『赤穂義士実纂』赤穂義士実纂頒布会、1975年(昭和50年)。 
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 

関連項目

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