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}}
}}
'''九条家'''くじょうけ、{{smaller|正字体:}}九條)は、[[藤原北家]]の[[嫡流]]の一つである[[公家]]、[[華族]]。公家としての家格は[[摂家]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B9%9D%E6%9D%A1/|title=九条(くじょう)の意味|publisher= goo国語辞書 | accessdate=2019-11-29}}</ref>{{Sfn|太田|1934|p=2081}}、華族としての[[爵位]]は[[公爵]]{{sfn|小田部雄次|2006|p=57}}。五摂家筆頭の[[近衛家]]と並ぶほどの高い格式を持った家で、やり摂家の[[二条家]]と[[一条家]]はこの九条家の分家にあたる<ref name="日本"/>


== 歴史 ==
{{読み仮名|'''九条家'''|くじょうけ}}''旧字体''(九條)は、[[摂家|五摂家]]のひとつで[[公家]]である<ref>{{cite web|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B9%9D%E6%9D%A1/|title=九条(くじょう)の意味|publisher= goo国語辞書 | accessdate=2019-11-29}}</ref>{{Sfn|太田|1934|p=2081}}。別称陶化殿
[[藤原北家]][[嫡流]]の[[藤原忠通]]の六男である[[九条兼実]]を祖とする{{Sfn|太田|1934|p=2081}}。兼実は[[鎌倉幕府]]初代将軍[[源頼朝]]と結ぶことで、[[後白河天皇|後白河法皇]]の庇護を受ける甥[[近衛基通]]と対立しつつ摂政関白になった人物として知られる<ref name="日本">{{Kotobank|九条家|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。九条の家号は始祖である兼実の殿第に由来するが、九条の坊名にちなんで「陶化」とも呼ばれた<ref name="世界">{{Kotobank|九条家|2=世界大百科事典 第2版}}</ref>。兼実はその後[[源通親]](土御門通親)との朝廷内の権力争いに敗れて失脚したが、通親の死後には兼実の息子の[[九条良経]]が摂政となっており、九条家の摂関家としての地位を確立した<ref name="世界"/>。また兼実以降は[[橘氏]]を[[家司]]とし、橘氏の実質的な[[氏長者]]である[[是定]]の地位をも世襲するようになった{{sfn|宮崎康充|2009|p=4}}。


良経の嫡男[[九条道家|道家]]は三男[[藤原頼経|頼経]]が頼朝の同母妹の曾孫にあたることからこれを4代将軍として[[鎌倉幕府|鎌倉]]に送り込んでいる(<!--5代将軍も頼経の息子の[[藤原頼嗣|頼嗣]]であり、この2代の九条家出身の将軍を指して-->[[摂家将軍]]<!--と呼ぶ-->)<ref name="ブリタニカ">{{Kotobank|九条家|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。道家は[[仲恭天皇]]の外叔父として摂政となっていたが、[[承久の乱]]後には舅の[[西園寺公経]]が親幕府派であったことから朝廷で主導権を握った。さらに道家は[[関東申次]]となり、幕府に対しても強い影響力を及ぼす存在となった。また長男[[九条教実|教実]]・次男[[二条良実|良実]]、四男[[一条実経|実経]]までをも摂関に据えることに成功した<ref name="世界"/>。
== 概要 ==
[[藤原北家]][[嫡流]]の[[藤原忠通]]の六男である[[九条兼実]]を祖とする家{{Sfn|太田|1934|p=2081}}で、現在日本全国に散らばる[[藤原鎌足]]より続く[[藤原氏|藤原一族]]の男系血統上の宗家にあたる([[家格]]としての嫡流に関しては[[近衛家]]を参照)。[[藤原基経]]創建といわれる[[京都]][[九条通|九条]]にあった九条殿に住んだことが家名の由来。別称は陶化殿。また、兼実の同母弟[[藤原兼房 (太政大臣)|兼房]]の子孫も「九条家」に含めることもあるが、こちらは早い段階で断絶している。


しかし[[寛元]]4年(1246年)に前将軍となっていた鎌倉4代将軍[[九条頼経]]が京都に送還され、道家も関東申次を罷免された([[宮騒動]])<ref>{{Cite journal|和書|title = 相模三浦一族の滅亡|journal = 基礎科学論集 : 教養課程紀要|volume = 10|doi =10.18924/00000188|author = 奥富敬之|authorlink = 奥富敬之|year = 1992|page=19-20}}</ref>。さらに[[建長]]4年([[1252年]])に発生した[[了行]]による謀反事件への九条家の関与が疑われ、頼経の子鎌倉5代将軍[[藤原頼嗣]]は解任された。道家の嫡孫[[九条忠家]]も7月20日に[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の[[勅|勅勘]]を受けて右大臣を解任、さらに騒動の最中の2月には道家も急死したことで、九条家の権勢は完全に失われた。
兼実の孫にあたる[[九条道家|道家]]の子、[[九条教実|教実]]、[[二条良実|良実]]、[[一条実経|実経]]が[[摂関]]となり、それぞれ、九条家、[[二条家]]、[[一条家]]を立てて、[[五摂家]]が成立した。


=== 嫡流を巡る対立 ===
兼実は異母姉である[[藤原聖子]]の皇嘉門院領を伝領し、九条家領の基礎となった。[[平氏政権]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]には批判的で、[[源頼朝]]の推挙で[[摂政]]、次いで[[関白]]となり、以後摂関職は近衛流と九条流から出る。兼実の孫・道家は、子の[[藤原頼経|頼経]]とその息子[[藤原頼嗣|頼嗣]]が相次いで[[鎌倉幕府]]の[[摂家将軍]]となったことにより、朝廷内で権勢を振るった。なお、九条道教の代で教実の血脈が絶えるが、[[二条道平]]の子である[[九条経教|経教]]が九条家を継承した。
道家は教実の子忠家に対して[[譲状|処分状]]([[遺言]]状のようなもの)を渡し、当時の公家にとってもっとも重要な遺産であった日記などの文書類は四男・実経の[[一条家]]の相伝とするが、[[東福寺]]などの一族寺院の管理権を司る[[家長者]]は、まず最初は実経が継ぎ、その次には長男の子、九条忠家が継承して、以後はこの2名の子孫のうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと<!--、2人の子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には家長者はその所領を没収できるもの--><!-- ← 意味が通じません -->とした。
中世に九条家領は広がり、[[江戸時代]]には家禄2044石を領し、のち3052石([[松殿家]]の所領含む)に加増され、[[明治]]に至った。


道家が忠家を自身の後継者として考えていたことは、[[嘉禎]]4年(1238年)の忠家の[[元服]]が藤原忠通・兼実父子の先例に則って実施されたこと、[[寛元]]4年(1246年)5月に忠家が病に倒れた時には[[春日大社]]に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文を納めていることから推定可能であり、少なくとも実経をもって忠家を替える考えはなかったものと考えられている<ref>三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学、2000年(平成12年))/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1) P2007年、P86-89</ref>。一方で道家は幼少期から嫌っていた次男・良実を子孫とは認めず、財産も譲らないとしている{{sfn|三田武繁|2019|p=5}}。しかし良実の長男[[二条道良|道良]]はその後も順調に昇進しており、摂関候補者として扱われていた{{sfn|三田武繁|2019|p=5}}。しかし頼嗣解任事件の影響で、忠家の系統の摂関継承は困難になったとみなされるようになった。一方で鎌倉と良好な関係にあった良実は、2年後に関白に就任している{{sfn|三田武繁|2019|p=5}}。
[[明治維新]]後、[[九条道孝]]が[[公爵]]に叙せられ、その四女・節子は[[大正天皇]]の[[皇后]]となった([[貞明皇后]])。


[[文永]]2年(1265年)になって、先の処分状によれば[[九条彦子|宣仁門院(九条彦子)]]から忠家の嫡男[[九条忠教|忠教]]に継承されるはずだった所領を実際に忠教が相続することに対して一条家が異議を挟んだことから両家の対立が激化した。忠教はその後関白になっているものの、問題発生時には正二位[[非参議]]に過ぎず、当時の公家社会の認識では将来摂関の地位に就く可能性はなかった。九条忠家は最終的に[[文永]]10年([[1273年]])に失脚以来21年目にして関白に就任して復権、その後息子の忠教も[[正応]]4年(1291年)に関白に就任したことで、九条家も道家の処分状の要件を満たしたものの、確執のあった一条家は家長者の地位を手放さなかったため、一条家が九条流における嫡流の地位が定着したかにみなされた。また[[弘安]]10年(1287年)には良実の子[[二条師忠]]が関白に就任し、[[二条家]]が摂家として確立された{{sfn|三田武繁|2019|p=1-5}}。
=== 嫡流を巡る対立 ===

九条道家は嫡男・九条教実に先立たれ、次男・良実は事実上の[[勘当]]状態にあった。そこで道家は嫡孫にあたる教実の子・[[九条忠家]]に対して[[譲状|処分状]]([[遺言]]状のようなもの)を渡し、当時の公家にとってもっとも重要な遺産であった[[日記]]などの文書類は一条家の相伝とするが、[[東福寺]]などの一族寺院の管理権を司る[[家長者]]は、まず最初は三男である実経が継ぎ、その次には[[長男]]の子、九条忠家が継承して、以後は2人の子孫のうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと、2人の子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には家長者はその所領を没収できるものとした。また、道家自身、忠家を自身の後継者として考えていたことは、[[嘉禎]]4年([[1238年]])の忠家の[[元服]]が藤原忠通・兼実の先例に従って実施されたこと、[[寛元]]4年([[1246年]])5月に忠家が病に倒れた時には[[春日大社]]に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文を納めていることから推定可能であり、少なくとも実経をもって忠家を替える考えはなかったものと考えられている<ref>三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学、2000年(平成12年))/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1) P2007年、P86-89</ref>。
ところが[[嘉元]]2年(1304年)になって今度は[[一条内実]]が摂関に就任しないまま急逝<!--(死去当日に[[内覧]][[宣下]])--><!--混乱-->、今度は一条家が道家の処分状を満たしていないという疑義が生じた。[[文保]]2年([[1318年]])の[[後醍醐天皇]]の[[即位の礼|即位礼]]の際に[[花山院家定]]と内実の嫡男[[一条内経]]との間で行列の順番を巡る争いが生じた(『[[増鏡]]』)。これは少なくても清華家の家定は摂関の子ではない内経を摂家(九条流の嫡流)とはみなしていなかったことを示している。この状態は翌年の内経の関白就任で解消されたものの、九条家が一条家の家長者独占を不当とみなして後醍醐天皇に対して事態の是正を働きかけ、[[元亨]]4年([[1324年]])に天皇は九条家に対して[[綸旨]]を下し、一門上首が家長者の地位に就くべきであるとした(『九条家文書』九-4)。

=== 嫡流問題の解決 ===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]になって、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[貞治]]4年(1365年)に[[一条経通]]が没すると、一条家に次ぐ勢力であった[[九条経教]]は[[後光厳天皇]]に対して経通の子[[一条房経|房経]]が不当に「家長者」を名乗っていると訴えた。当時、[[長子相続|長子相続制]]が一般的になりつつあり、その論理に従えば道家の長男の子孫の九条家こそが[[家督]]を継ぐべき嫡流に当たるというのである。これに対して房経は、「九条家の家祖が長子だからといって、その流派の嫡流であるとは限らない、一条実経が九条道家から家督を譲られたからこそ、[[九条流]]摂関家の政治的権威を裏付ける文書類である[[桃華堂文庫]]の『[[後二条師通記]]』『[[玉葉]]』『[[玉蘂]]』などが一条家に伝わっているのだ」と反論し、これに対して九条経教は、「実経への継承は九条忠家が幼少であったがゆえの措置であり、九条教実が長命であればこのようなことは起こりえなかった。処分状の宛先<!--(遺言の執行者)-->が仮にでも九条忠家になっていること、問題とされた処分状の正本や東福寺の敷地に関しての土地権利書が九条家に伝承されているのは九条家が嫡流であるからゆえではないか?」と抗弁した。これに対して後光厳天皇は九条家から提出された道家処分状の正本を確認した上で、同年貞治4年(1365年)11月29日に九条家に対して綸旨を下し、「道家の遺志はあくまでも一門上首による家長者の継承であり、その資格を有する九条家と一条家は嫡流としての同格である」と裁決した。

[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には当主[[九条政基]]が[[家司]]の[[唐橋在数]]を殺害したことで失脚し、一時期地方に逼塞することを余儀なくされている。

政基の孫[[九条稙通]]は子が無かったため、大甥(姉[[九条経子|経子]]と[[二条尹房]]の孫)に当たる[[九条兼孝]]を養子に迎え、[[天正]]2年([[1574年]])に家督を譲った(兼孝の3人の弟[[二条昭実]]・[[義演]]・[[鷹司信房]]もそれぞれ二条家・[[醍醐寺]]・[[鷹司家]]を継いだ){{sfn|橋本政宣|2010|p=44}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=8-14}}。兼孝は天正6年([[1578年]])から天正9年([[1581年]])、[[慶長]]5年([[1600年]])から慶長9年([[1604年]])の2度関白を務めたが、慶長9年に息子の[[九条幸家]](当時の名は忠栄、後に改名)が[[豊臣完子]]{{efn|[[豊臣秀吉]]の甥[[豊臣秀勝]]と[[崇源院]]の娘。秀吉の息子[[豊臣秀頼]]の叔母である崇源院はこの時期[[徳川秀忠]]の夫人となっている。また伯母で秀頼の母[[淀殿]]は完子を猶子として育て、完子の結婚では嫁入り道具を送っただけでなく屋敷(九条邸)まで建てている{{sfn|五十嵐公一|2012|p=28-31}}。}}と結婚した一方で娘([[八条宮智仁親王]]室)の急死に衝撃を受け、家督を幸家へ譲り出家隠居した。このような不幸はあったが、九条家は完子と幸家の結婚で[[豊臣氏]]および[[徳川氏]]の縁戚となった{{sfn|五十嵐公一|2012|p=15,26-32}}。

=== 近世以降 ===
幸家は父と同じく関白を2度務め、最初の在任(慶長13年([[1608年]]) - 慶長17年([[1612年]]))では[[江戸幕府]]の意向を受けて、[[後陽成天皇]]の政仁親王([[後水尾天皇]])への譲位について幕府との関係がこじれた天皇の説得に当たった{{sfn|五十嵐公一|2012|p=38-41}}。2度目の在任([[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]]) - 元和9年([[1623年]]))では[[徳川和子]](東福門院)の入内に尽力した{{sfn|五十嵐公一|2012|p=44-49}}。また[[京狩野]]3代の画家たち([[狩野山楽]]・[[狩野山雪|山雪]]・[[狩野永納|永納]])を庇護し彼等の危機を救うなど、京狩野の存続にも関わっている{{sfn|五十嵐公一|2012|p=210-214}}。

[[寛永]]年間には幸家の三男[[松殿道基|道基]]が[[松殿家]]を再興し、一代限りの摂家とされたが、道基が早世したためその知行1000石は九条家に渡ることとなった{{sfn|長坂良宏|2007|p=1-6}}。これによって近衛家を上回る公家最大の知行を有することとなり、九条家は広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した。

しかし[[江戸時代]]では当主がたびたび早世しており、鷹司家と二条家から養子を迎えていた(鷹司家からは[[九条兼晴|兼晴]]・[[九条幸経|幸経]]、二条家からは[[九条輔嗣|輔嗣]]・[[九条尚忠|尚忠]])。[[幕末]]期には尚忠の娘夙子([[英照皇太后]])が[[孝明天皇]]の[[女御]]となっている{{sfn|橋本政宣|2010|p=44-45}}。


[[明治維新]]後は[[九条道孝]]が[[公爵]]に叙せられ、その四女節子は[[大正天皇]]の[[皇后]]となった([[貞明皇后]])。また道孝の四男[[九条良政]]と五男[[九条良致]]は分家してそれぞれ[[男爵]]となっている{{sfn|小田部雄次|2006|p=354/359}}。[[九条尚忠]]の子[[鶴殿忠善]]も九条家の分家として男爵に叙された([[松殿家#靏殿家 → 鶴殿家|鶴殿家]]){{sfn|小田部雄次|2006|p=345}}。
だが、[[建長]]4年([[1252年]])に発生した[[了行]]による謀反事件に九条家が関わりありとされ、従兄弟にあたる鎌倉幕府[[征夷大将軍|将軍]]九条頼嗣は解任され、忠家も7月20日に[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の[[勅|勅勘]]を受けて右大臣を解任、さらに騒動の最中の2月には祖父・道家も急死したために忠家およびその子孫が摂関を継承することは不可能になったと考えられるようになった。[[文永]]2年([[1265年]])になって、先の処分状によれば[[九条彦子]]こと宣仁門院から忠家の嫡男([[九条忠教|忠教]])に継承されるはずであった所領を実際に忠教が相続することに対して一条家が異議を挟んだことから両家の対立が激化した(忠教はその後関白になっているものの、問題発生時には正二位非参議に過ぎず、当時の公家社会の認識では将来摂関の地位に就く可能性はなかった)。九条忠家は最終的に[[文永]]10年([[1273年]])に失脚以来21年目にして関白に就任して復権、その後息子の忠教も[[正応]]4年([[1291年]])に関白に就任したことで、九条家も道家の処分状の要件を満たしたものの、確執のあった一条家は家長者の地位を手放さなかったため、一条家が九条流における嫡流の地位が定着したかにみなされた。ところが、[[嘉元]]2年([[1304年]])になって今度は[[一条内実]]が摂関に就任しないまま急逝(死去当日に[[内覧]][[宣下]])、今度は一条家が道家の処分状を満たしていないという疑義が生じた。[[文保]]2年([[1318年]])の[[後醍醐天皇]][[即位の礼|即位式]]の際に[[花山院家定]]と[[一条内経]](内実の嫡男)との間で行列の順番を巡る争いが生じた(『[[増鏡]]』)。これは少なくても清華家の家定は摂関の子ではない内経を摂家(九条流の嫡流)とはみなしていなかったことを示している。この状態は翌年の内実の関白就任で解消されたものの、九条家が一条家の家長者独占を不当とみなして後醍醐天皇に対して事態の是正を働きかけ、[[元亨]]4年([[1324年]])に天皇は九条家に対して[[綸旨]]を下し、一門上首が家長者の地位に就くべきであるとした(『九条家文書』九-4)。


通孝の長男、[[九条道実|道実]]が襲爵した後も、九条家は古くから続く公家の生活様式を守り続けた。当主の居間は京都から赤坂台福吉町へ移築したものであり、家の言葉は御殿言葉に限られた。また、家従以下の身分の低い使用人は当主に声をかけることは禁じられていた。こうした生活も[[1933年]](昭和8年)道実が死去し、道秀が襲爵すると変化。当主の居間は東京帝室博物館へ寄贈された(現:[[東京国立博物館]]庭園内九条館)<ref>{{Cite book |和書 |author=千田稔 |title=華族総覧 |publisher=講談社現代新書 |year=2009-07 |page=246-247 |isbn=978-4-06-288001-5}}</ref>。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]になって、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[貞治]]4年([[1365]])に[[一条経通]]が没すると、一条家に次ぐ勢力であった[[九条経教]]は[[後光厳天皇]]に対して経通のである[[一条房経|房経]]が不当に「家長者」を名乗っていると訴えた。当時、[[長子相続|長子相続制]]が一般的になりつつあり、その論理に従えば道家の長男の子孫の九条家こそが[[家督]]を継ぐべき嫡流に当たるというのである。これに対して房経は、「九条家の家祖が長子だからといって、その流派の嫡流であるとは限らない、一条実経が九条道家から家督を譲られたからこそ、[[九条流]]摂関家の政治的権威を裏付ける文書類である[[桃華堂文庫]][[後二条師通記]][[玉葉]][[玉蘂]]が一条家に伝わっているのだ」と反論し、これに対して九条経教は、「実経への継承は九条忠家が幼少であったがゆえの措置であり、九条教実が長命であればこのようなことは起こりえなかった。処分状の宛先(遺言の執行者)が仮にでも九条忠家になっていること、問題とされた処分状の正本や東福寺の敷地に関しての土地権利書が九条家に伝承されているのは九条家が嫡流であるからゆえではないか?」と抗弁した。これに対して後光厳天皇は九条家から提出された道家処分状の正本を確認した上で、同年貞治4年(1365年)[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]に九条家に対して綸旨を下し、「道家の遺志はあくまでも一門上首による家長者の継承であり、その資格を有する九条家と一条家は嫡流としての同格である」と裁決した。[[鎌倉時代]]は一条家が九条流の嫡流であったが、室町中期以降、九条家の地位が上昇し、一条家、九条家が九条流の嫡流とされた。江戸時代中期以降は松殿家の所領も併せて継承することとなり、最大の石高となった九条家が広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した。


== 主な当主 ==
== 主な当主 ==
* [[九条兼実]]([[1149年]] - [[1207年]])
* [[九条兼実]] {{smaller|(1149 - 1207)}}
* [[九条良経]]([[1169年]] - [[1206年]])
* [[九条良経]] {{smaller|(1169 - 1206)}}
* [[九条道家]]([[1193年]] - [[1252年]])
* [[九条道家]] {{smaller|(1193 - 1252)}}
* [[九条教実]]([[1210年]] - [[1235年]])
* [[九条教実]] {{smaller|(1210 - 1235)}}
* [[九条稙通]]([[1507年]] - [[1594年]])
* [[九条稙通]] {{smaller|(1507 - 1594)}}
* [[九条兼孝]]([[1553年]] - [[1636年]])
* [[九条兼孝]] {{smaller|(1553 - 1636)}}
* [[九条幸家|九条忠栄]]([[1586年]] - [[1665年]])
* [[九条幸家]] {{smaller|(1586 - 1665)}}
* [[九条道房]]([[1609年]] - [[1647年]])
* [[九条道房]] {{smaller|(1609 - 1647)}}
* [[九条兼晴]]([[1641年]] - [[1677年]])
* [[九条兼晴]] {{smaller|(1641 - 1677)}}
* [[九条輔実]]([[1669年]] - [[1730年]])
* [[九条輔実]] {{smaller|(1669 - 1730)}}
* [[九条師孝]]([[1688年]] - [[1713年]])
* [[九条師孝]] {{smaller|(1688 - 1713)}}
* [[九条幸教]]([[1700年]] - [[1728年]])
* [[九条幸教]] {{smaller|(1700 - 1728)}}
* [[九条稙基]]([[1725年]] - [[1743年]])
* [[九条稙基]] {{smaller|(1725 - 1743)}}
* [[九条尚実]]([[1717年]] - [[1787年]])
* [[九条尚実]] {{smaller|(1717 - 1787)}}
* [[九条道前]]([[1746年]] - [[1770年]])
* [[九条道前]] {{smaller|(1746 - 1770)}}
* [[九条輔家]]([[1769年]] - [[1785年]])
* [[九条輔家]] {{smaller|(1769 - 1785)}}
* [[九条輔嗣]]([[1784年]] - [[1807年]])
* [[九条輔嗣]] {{smaller|(1784 - 1807)}}
* [[九条尚忠]]([[1798年]] - [[1871年]])
* [[九条尚忠]] {{smaller|(1798 - 1871)}}
* [[九条幸経]]([[1823年]] - [[1859年]])
* [[九条幸経]] {{smaller|(1823 - 1859)}}- 最後の九条関白
* [[九条道孝]]([[1839年]] - [[1906年]]){{---}}最後の[[藤氏長者]]
* [[九条道孝]] {{smaller|(1839 - 1906)}}- 最後の[[藤氏長者]]、[[貞明皇后]]の父
* [[九条道実]]([[1870年]] - [[1933年]]){{---}}[[明治]]後期から[[昭和]]前期の[[華族]]。道秀の父、道弘の祖父。
* [[九条道実]] {{smaller|(1870 - 1933)}}<!-- - [[明治]]後期から[[昭和]]前期の[[華族]]。道秀の父、道弘の祖父。--><!-- 特筆性? -->
* [[九条道秀]]([[1895年]] - [[1961年]])
* [[九条道秀]] {{smaller|(1895 - 1961)}}- 最後の九条公爵
* {{anchor|九條道弘|}}[[九條道弘|九条道弘]]([[1933年]] - [[2017年]]){{---}}35代当主。道孝の[[続柄#曾孫|曾孫]]であり、同じく道孝の曾孫である[[上皇明仁]]とは[[はとこ|再従兄弟]]の関係にある。[[平安神宮]][[宮司]]。[[藤原氏]]の後裔で組織する[[藤裔会]]会長を務めた。
* [[九条道弘]] {{smaller|(1933 - 2017)}}-<!-- - 34代当主。道孝の[[続柄#曾孫|曾孫]]であり、同じく道孝の曾孫である[[上皇明仁]]とは[[はとこ|再従兄弟]]の関係にある。--><!-- 諄々自明 --> [[平安神宮]]宮司<!--[[藤原氏]]の後裔で組織する[[藤裔会]]会長を務めた。--><!-- 特筆性? -->
* [[九条道成]]([[1968年]] - )
* [[九条道成]] {{smaller|(1968 - ){{0}}{{0}}{{0}}{{0}}}}- 35代当主、[[明治神宮]]宮司


== 系譜 ==
== 系譜 ==
{{出典の明記|date=2023年3月|section=1}}
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<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">九条家系図</div>
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">九条家系図</div>
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1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係、当主は太字。
1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係、当主は太字。
2) 構成の都合で出生順より組み替え。
2) 構成の都合で出生順より組み替え。

3) 系図の出典元は([[#myj7000-02001a|日本の苗字7000傑]])、([[#okugesan_com-kujyo|摂家-九条家-公卿類別譜(公家の歴史)]])、([[#okugesan_com-hokata.htm-tsukinowa|絶家・社家〔高向・多治比・田向・丹波・月輪・伴〕]])、([[#reichsarchivjp-fskujou|九条(九條)家(摂家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~]])。
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== 家礼 ==
[[源季長]]は兼実に家司として仕え、その系統は九条家[[諸大夫]][[信濃小路家]]となった{{sfn|宮崎康充|2009|p=4}}。江戸時代には信濃小路家のほか徳小路家・石井家・朝山家・宇郷家・芝家・島田家・矢野家・日夏家が諸大夫として仕えている{{Sfn|太田|1934|p=2083}}。

[[橘氏]]は代々摂関家家司として仕えていたが、[[橘以政]]以降九条家に仕えている{{sfn|宮崎康充|2009|p=4}}。


== 九条邸跡 ==
== 九条邸跡 ==
[[File:Shusui-tei Kyoto Gyoen 005.jpg|サムネイル|京都御苑の九条邸跡に現存する。奥中央に見えるのは拾翠亭(しゅうすいてい) (2014年2月22日撮影)]]
[[File:Shusui-tei Kyoto Gyoen 005.jpg|サムネイル|京都御苑の九条邸跡に現存する九条池。奥中央に見えるのは拾翠亭(しゅうすいてい) (2014年2月22日撮影)]]
近世における九条邸は慶長9年に九条幸家と完子の婚儀を期に造営されたものに始まる{{sfn|五十嵐公一|2012|p=30-31}}{{sfn|藤田勝也|2014|p=799}}。翌慶長10年([[1605年]])には御所の東南方に移転し、幸家の屋敷と父兼孝の隠居屋敷が並んで造営されていた{{sfn|藤田勝也|2014|p=799}}{{sfn|五十嵐公一|2012|p=102-104}}。またこの後、院御所西に「下屋敷」が造営され、これまでの屋敷は上屋敷とよばれていたが、[[万治]]4年([[1661年]])の火災で上屋敷は焼失してしまう{{sfn|藤田勝也|2014|p=800}}。[[寛文]]13年([[1673年]])の火災で下屋敷も焼失し、九条家は再建された上屋敷を住居としていた{{sfn|藤田勝也|2014|p=800}}。[[宝永]]5年([[1708年]])に上屋敷は焼失し、宝永6年([[1709年]])に本宅屋敷として再建されたものが幕末維新期まで残った{{sfn|藤田勝也|2014|p=800}}。
現在の[[京都御苑]]の南西部に旧九条邸はあった。


現在は庭園部分のみが整備されて残っている。九条池と呼ばれる庭園の池の中島には鎮守社だった[[厳島神社 (京都市上京区)|厳島神社]]が、また池畔には[[拾翠亭]]と呼ばれる瀟洒な茶室が、いずれも現存している。母屋などの主要な建物は、[[明治|明治時代]]初期の[[東京]]移住命令伴い東の九条邸に移築された。近年になってこれが[[東京国立博物館]]に寄贈され、「九条館」と命名された。
明治10年([[1877年]])には政府によって九条家の敷地は買い上げられた。母屋などの主要な建物は、東京の九条邸に移築された。[[京都御苑]]南西部には庭園部分のみが整備されて残っている。九条池と呼ばれる庭園の池の中島には鎮守社だった[[厳島神社 (京都市上京区)|厳島神社]]が、また池畔には[[拾翠亭]]と呼ばれる瀟洒な茶室が、いずれも現存している。昭和9年([[1934年]]都から移築されてい当主の居室が[[東京国立博物館]]に寄贈され、「九条館」と命名された。


== 幕末領地 ==
== 九条家財産 ==
=== 封建時代の所領 ===
摂関家領は、[[鎌倉時代]]初期に当時の九条兼実と[[近衛基通]]の政治的対立も絡んで九条家と[[近衛家]]の間で分立した。九条家領の中心になったのは兼実の妹[[藤原聖子|皇嘉門院聖子]]が[[1180年]](治承4年)に兼実の子[[九条良通|良通]]に譲った所領であり、[[最勝金剛院]]領11個所、九条領34個所、[[近江国]][[寄人]]、[[和泉国]]、[[摂津国]]、[[近江国]]の[[大番舎人]]などがある<ref name="日本"/>。

[[1204年]](元久元年)に兼実は[[惣処分状]]を作成して所領の保全を図り、総計60か所に及ぶ[[荘園 (日本)|荘園]]が記載されている<ref name="日本"/>。

[[1250年]](建長2年)に兼実の孫九条道家が所領の確保のために作成した惣処分状では、その総計は112個所に及んでいる<ref name="日本"/>。この際に一条実経に譲与された所領は、のちに[[一条家]]領の基礎となり、九条忠家に譲与された所領は、のちに女子[[一期分]]を吸収して九条家領の中心となった<ref name="日本"/>。

しかし鎌倉時代末から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の動乱の中で九条家領は徐々に衰退していき、[[1396年]](応永3年)時にはわずか16個所が[[当知行]]として残っているにすぎなかった<ref name="日本"/>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期の家領目録では21か所を載せているものの、それらはすでに形骸化したものだった<ref name="日本"/>。

[[安土桃山時代]]に[[織田信長]]や豊臣秀吉の天下統一下で石高知行制が成立した後には九条家も[[織田氏]]や豊臣氏から知行地を与えられ、江戸時代に入ると徳川氏から与えられた。江戸時代の所領ははじめ2000石、のちに3000石だった<ref name="日本"/>。

==== 幕末の領地 ====
[[国立歴史民俗博物館]]の『[[旧高旧領取調帳]]データベース』より算出した幕末期の九条家領は以下の通り。(7村・3,052石余)
[[国立歴史民俗博物館]]の『[[旧高旧領取調帳]]データベース』より算出した幕末期の九条家領は以下の通り。(7村・3,052石余)
* [[山城国]][[愛宕郡]]のうち - 3村
* [[山城国]][[愛宕郡]]のうち - 3村
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* [[摂津国]][[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]のうち - 1村
* [[摂津国]][[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]のうち - 1村
** [[池田村]]のうち - 1,000石
** [[池田村]]のうち - 1,000石

=== 明治以降の財産 ===
1876年(明治9年)に旧来の[[家禄]]に代えて発行された[[金禄公債]]の額は6万1071円で旧公家の華族の中では[[三条家]](6万5000円)と[[岩倉家]](6万2298円)に次ぐ第3位の額だが、旧公家華族の公債額は旧大名華族のそれとは天と地ほどの格差があった(旧大名華族トップの[[島津氏|島津家]]は132万2845円){{sfn|小田部雄次|2006|p=62}}。

== 庶流 ==
兼実の子である[[九条良輔|良輔]]の系統を九条家とは別の八条家として扱うべきとする説がある。これは兼実と対立関係にあった八条院女房三位局([[高階盛章]]の娘・[[以仁王]]の室){{efn|八条院は猶子であった以仁王と三位局の間の娘である[[三条姫宮]]に所領を譲ろうとしていたが、兼実は以仁王が謀反人であることを理由に姫宮を排除して自分の外孫の[[昇子内親王]]に継承させようとしていた。つまり、良輔は排除対象である三条姫宮の異父弟にあたることになる(良輔誕生の影響か、最終的に兼実は三条姫宮の[[一期分]]を認めざるを得なくなる)。}}との間に出来た良輔は、本来ならば捨て置くべき処を三位局の庇護者であった[[八条院]]の猶子として引き取られて立身した(九条家や兼実の意向ではない)経緯による考え方である<ref>樋口健太郎「八条院領の伝領と八条良輔」(初出:『年報中世史研究』40号(2015年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)</ref>。

江戸時代には2度に渡り松殿家を再興しているが、いずれも一代限りとなっている{{sfn|長坂良宏|2007|p=1-6}}。明治時代には[[鶴殿家]]・[[松園家]]が分家している。

武家では江戸時代に大名となり、明治に至って華族となった[[大岡氏]]が九条家の後裔を称している。大岡氏の家伝では九条教実の後裔忠教の孫である[[大岡忠勝]]が[[松平広忠]]に仕え、家祖となったとしている{{Sfn|太田|1934b}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2017年5月|section=1}}
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* {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]][[三上参次]]監修|chapter=九條 クデウ|pages=2081-2084|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/134}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=太田亮|authorlink=太田亮|editor=上田萬年、三上参次監修|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|volume=第1巻|chapter=オホヲカ|pages=1107-1109|url={{NDLDC|1130845/627}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070 |ref={{harvid|太田|1934b}}}}
* {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=九條 クデウ|pages=2081-2084|volume=第2巻|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/134}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070|ref=harv}}
* [[太田亮]]『姓氏家系大辭典』([[角川書店]]、[[1963年]]
* [[太田亮]]『姓氏家系大辭典』([[角川書店]]、1963年)
* {{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20060628100532/http://www.geocities.jp/okugesan_com/kujyo.htm|title=摂家-九条家-公卿類別譜(公家の歴史)|work=公卿類別譜|publisher=Kugyoruibetsufu|accessdate=2017-5-21|ref=okugesan_com-kujyo}}
* [[高橋秀樹]]『日本中世の家と親族』第一部第三章「貴族層における中世的「家」の成立と展開」([[吉川弘文館]]、1996年) ISBN 4642027513
* {{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20080125105548/http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokata.htm#tsukinowa|title=絶家・社家〔高向・多治比・田向・丹波・月輪・伴〕|work=公卿類別譜|publisher=Kugyoruibetsufu|accessdate=2017-5-21|ref=okugesan_com-hokata.htm-tsukinowa}}
* 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号([[北海道大学]]、2000年)/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1)
* [[高橋秀樹]]『日本中世の家と親族』第一部第三章「貴族層における中世的「家」の成立と展開」([[吉川弘文館]]、[[1996年]]) ISBN 4642027513
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20071107120312/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02001a.htm|title=日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏摂家流【2】|publisher=日本の苗字7000傑|accessdate=2017-5-21|ref=myj7000-02001a}}
* {{Cite journal|和書|title = 右大臣兼実の家礼・家司・職事|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1523388080516478080|publisher = 宮内庁書陵部|journal = 書陵部紀要 = Bulletin : study on the Japanese culture in relation to the Imperial Family and Court / 宮内庁書陵部 編|naid = 40017077110|issn = 04474112|author = 宮崎康充|authorlink = 宮崎康充|year = 2009|volume = 61|ref=harv}}
* {{Cite web|url=http://reichsarchiv.jp/people/japan/fskujou.html|title=九条(九條)家(摂家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~|work=Reichsarchiv ~世界帝王事典~|publisher=ネケト|accessdate=2017-5-21|ref=reichsarchivjp-fskujou}}
* [[橋本政宣]]編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
* 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号([[北海道大学]]、[[2000年]])/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、[[2007年]]) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1)
* [[五十嵐公一]]『京狩野三代 生き残りの物語 <small>山楽・山雪・永納と九条幸家</small>』吉川弘文館、2012年。
*{{Cite journal|和書|title = 近世九條家の屋敷について|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282679755832064|publisher = 日本建築学会|journal = 日本建築学会計画系論文集|volume = 79|issue = 697|doi = 10.3130/aija.79.799|naid = 130004895791|issn = 18818161|author = 藤田勝也|authorlink = 藤田勝也|year = 2014|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title =家格の秩序と二条家|url = https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC10002444|publisher = 東海大学文学部|journal = 東海大学紀要|volume = 109|naid = 130004895791|issn = 05636760|author = 三田武繁|authorlink = 三田武繁|year = 2019|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title = 「摂家」松殿家の再興--寛永・明和期の事例から|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009409475441664|publisher = 学習院大学人文科学研究所|journal = 人文|naid = 110006619099|issn = 18817920|author = 長坂良宏|authorlink = 長坂良宏|year = 2007|volume = 6|ref=harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
185行目: 233行目:
{{DEFAULTSORT:くしようけ}}
{{DEFAULTSORT:くしようけ}}
[[Category:九条家|!]]
[[Category:九条家|!]]
[[Category:の家系]]
[[Category:摂関家]]
[[Category:日本の公爵家]]
[[Category:日本の男爵家]]<!--分家の九条良政家と良致家-->

2024年7月5日 (金) 03:21時点における版

九条家
家紋
九条藤くじょうふじ
本姓 藤原北家九条流嫡流
家祖 九条兼実[1]
種別 公家摂家[1]
華族公爵
出身地 山城国京都九条[1]
主な根拠地 山城国京都
著名な人物 慈円
九条良経
九条道家
藤原頼経
藤原頼嗣
九条幸家
九条道孝
貞明皇后
九条道弘
支流、分家 二条家(摂家・公爵
一条家(摂家・公爵)
月輪家(公家)
栗田家(公家)
鶴殿家男爵
凡例 / Category:日本の氏族

九条家(くじょうけ、正字体:九條)は、藤原北家嫡流の一つである公家華族。公家としての家格は摂家[2][1]、華族としての爵位公爵[3]。五摂家筆頭の近衛家と並ぶほどの高い格式を持った家で、やはり摂家の二条家一条家はこの九条家の分家にあたる[4]

歴史

藤原北家嫡流藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする[1]。兼実は鎌倉幕府初代将軍源頼朝と結ぶことで、後白河法皇の庇護を受ける甥近衛基通と対立しつつ摂政関白になった人物として知られる[4]。九条の家号は始祖である兼実の殿第に由来するが、九条の坊名にちなんで「陶化」とも呼ばれた[5]。兼実はその後源通親(土御門通親)との朝廷内の権力争いに敗れて失脚したが、通親の死後には兼実の息子の九条良経が摂政となっており、九条家の摂関家としての地位を確立した[5]。また兼実以降は橘氏家司とし、橘氏の実質的な氏長者である是定の地位をも世襲するようになった[6]

良経の嫡男道家は三男頼経が頼朝の同母妹の曾孫にあたることからこれを4代将軍として鎌倉に送り込んでいる(摂家将軍[7]。道家は仲恭天皇の外叔父として摂政となっていたが、承久の乱後には舅の西園寺公経が親幕府派であったことから朝廷で主導権を握った。さらに道家は関東申次となり、幕府に対しても強い影響力を及ぼす存在となった。また長男教実・次男良実、四男実経までをも摂関に据えることに成功した[5]

しかし寛元4年(1246年)に前将軍となっていた鎌倉4代将軍九条頼経が京都に送還され、道家も関東申次を罷免された(宮騒動[8]。さらに建長4年(1252年)に発生した了行による謀反事件への九条家の関与が疑われ、頼経の子鎌倉5代将軍藤原頼嗣は解任された。道家の嫡孫九条忠家も7月20日に後嵯峨上皇勅勘を受けて右大臣を解任、さらに騒動の最中の2月には道家も急死したことで、九条家の権勢は完全に失われた。

嫡流を巡る対立

道家は教実の子忠家に対して処分状遺言状のようなもの)を渡し、当時の公家にとってもっとも重要な遺産であった日記などの文書類は四男・実経の一条家の相伝とするが、東福寺などの一族寺院の管理権を司る家長者は、まず最初は実経が継ぎ、その次には長男の子、九条忠家が継承して、以後はこの2名の子孫のうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこととした。

道家が忠家を自身の後継者として考えていたことは、嘉禎4年(1238年)の忠家の元服が藤原忠通・兼実父子の先例に則って実施されたこと、寛元4年(1246年)5月に忠家が病に倒れた時には春日大社に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文を納めていることから推定可能であり、少なくとも実経をもって忠家を替える考えはなかったものと考えられている[9]。一方で道家は幼少期から嫌っていた次男・良実を子孫とは認めず、財産も譲らないとしている[10]。しかし良実の長男道良はその後も順調に昇進しており、摂関候補者として扱われていた[10]。しかし頼嗣解任事件の影響で、忠家の系統の摂関継承は困難になったとみなされるようになった。一方で鎌倉と良好な関係にあった良実は、2年後に関白に就任している[10]

文永2年(1265年)になって、先の処分状によれば宣仁門院(九条彦子)から忠家の嫡男忠教に継承されるはずだった所領を実際に忠教が相続することに対して一条家が異議を挟んだことから両家の対立が激化した。忠教はその後関白になっているものの、問題発生時には正二位非参議に過ぎず、当時の公家社会の認識では将来摂関の地位に就く可能性はなかった。九条忠家は最終的に文永10年(1273年)に失脚以来21年目にして関白に就任して復権、その後息子の忠教も正応4年(1291年)に関白に就任したことで、九条家も道家の処分状の要件を満たしたものの、確執のあった一条家は家長者の地位を手放さなかったため、一条家が九条流における嫡流の地位が定着したかにみなされた。また弘安10年(1287年)には良実の子二条師忠が関白に就任し、二条家が摂家として確立された[11]

ところが嘉元2年(1304年)になって今度は一条内実が摂関に就任しないまま急逝、今度は一条家が道家の処分状を満たしていないという疑義が生じた。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位礼の際に花山院家定と内実の嫡男一条内経との間で行列の順番を巡る争いが生じた(『増鏡』)。これは少なくても清華家の家定は摂関の子ではない内経を摂家(九条流の嫡流)とはみなしていなかったことを示している。この状態は翌年の内経の関白就任で解消されたものの、九条家が一条家の家長者独占を不当とみなして後醍醐天皇に対して事態の是正を働きかけ、元亨4年(1324年)に天皇は九条家に対して綸旨を下し、一門上首が家長者の地位に就くべきであるとした(『九条家文書』九-4)。

嫡流問題の解決

南北朝時代になって、北朝貞治4年(1365年)に一条経通が没すると、一条家に次ぐ勢力であった九条経教後光厳天皇に対して経通の子房経が不当に「家長者」を名乗っていると訴えた。当時、長子相続制が一般的になりつつあり、その論理に従えば道家の長男の子孫の九条家こそが家督を継ぐべき嫡流に当たるというのである。これに対して房経は、「九条家の家祖が長子だからといって、その流派の嫡流であるとは限らない、一条実経が九条道家から家督を譲られたからこそ、九条流摂関家の政治的権威を裏付ける文書類である桃華堂文庫の『後二条師通記』『玉葉』『玉蘂』などが一条家に伝わっているのだ」と反論し、これに対して九条経教は、「実経への継承は九条忠家が幼少であったがゆえの措置であり、九条教実が長命であればこのようなことは起こりえなかった。処分状の宛先が仮にでも九条忠家になっていること、問題とされた処分状の正本や東福寺の敷地に関しての土地権利書が九条家に伝承されているのは九条家が嫡流であるからゆえではないか?」と抗弁した。これに対して後光厳天皇は九条家から提出された道家処分状の正本を確認した上で、同年貞治4年(1365年)11月29日に九条家に対して綸旨を下し、「道家の遺志はあくまでも一門上首による家長者の継承であり、その資格を有する九条家と一条家は嫡流としての同格である」と裁決した。

戦国時代には当主九条政基家司唐橋在数を殺害したことで失脚し、一時期地方に逼塞することを余儀なくされている。

政基の孫九条稙通は子が無かったため、大甥(姉経子二条尹房の孫)に当たる九条兼孝を養子に迎え、天正2年(1574年)に家督を譲った(兼孝の3人の弟二条昭実義演鷹司信房もそれぞれ二条家・醍醐寺鷹司家を継いだ)[12][13]。兼孝は天正6年(1578年)から天正9年(1581年)、慶長5年(1600年)から慶長9年(1604年)の2度関白を務めたが、慶長9年に息子の九条幸家(当時の名は忠栄、後に改名)が豊臣完子[注釈 1]と結婚した一方で娘(八条宮智仁親王室)の急死に衝撃を受け、家督を幸家へ譲り出家隠居した。このような不幸はあったが、九条家は完子と幸家の結婚で豊臣氏および徳川氏の縁戚となった[15]

近世以降

幸家は父と同じく関白を2度務め、最初の在任(慶長13年(1608年) - 慶長17年(1612年))では江戸幕府の意向を受けて、後陽成天皇の政仁親王(後水尾天皇)への譲位について幕府との関係がこじれた天皇の説得に当たった[16]。2度目の在任(元和5年(1619年) - 元和9年(1623年))では徳川和子(東福門院)の入内に尽力した[17]。また京狩野3代の画家たち(狩野山楽山雪永納)を庇護し彼等の危機を救うなど、京狩野の存続にも関わっている[18]

寛永年間には幸家の三男道基松殿家を再興し、一代限りの摂家とされたが、道基が早世したためその知行1000石は九条家に渡ることとなった[19]。これによって近衛家を上回る公家最大の知行を有することとなり、九条家は広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した。

しかし江戸時代では当主がたびたび早世しており、鷹司家と二条家から養子を迎えていた(鷹司家からは兼晴幸経、二条家からは輔嗣尚忠)。幕末期には尚忠の娘夙子(英照皇太后)が孝明天皇女御となっている[20]

明治維新後は九条道孝公爵に叙せられ、その四女節子は大正天皇皇后となった(貞明皇后)。また道孝の四男九条良政と五男九条良致は分家してそれぞれ男爵となっている[21]九条尚忠の子鶴殿忠善も九条家の分家として男爵に叙された(鶴殿家[22]

通孝の長男、道実が襲爵した後も、九条家は古くから続く公家の生活様式を守り続けた。当主の居間は京都から赤坂台福吉町へ移築したものであり、家の言葉は御殿言葉に限られた。また、家従以下の身分の低い使用人は当主に声をかけることは禁じられていた。こうした生活も1933年(昭和8年)道実が死去し、道秀が襲爵すると変化。当主の居間は東京帝室博物館へ寄贈された(現:東京国立博物館庭園内九条館)[23]

主な当主

系譜

家礼

源季長は兼実に家司として仕え、その系統は九条家諸大夫信濃小路家となった[6]。江戸時代には信濃小路家のほか徳小路家・石井家・朝山家・宇郷家・芝家・島田家・矢野家・日夏家が諸大夫として仕えている[24]

橘氏は代々摂関家家司として仕えていたが、橘以政以降九条家に仕えている[6]

九条邸跡

京都御苑の九条邸跡に現存する九条池。奥中央に見えるのは拾翠亭(しゅうすいてい) (2014年2月22日撮影)

近世における九条邸は慶長9年に九条幸家と完子の婚儀を期に造営されたものに始まる[25][26]。翌慶長10年(1605年)には御所の東南方に移転し、幸家の屋敷と父兼孝の隠居屋敷が並んで造営されていた[26][27]。またこの後、院御所西に「下屋敷」が造営され、これまでの屋敷は上屋敷とよばれていたが、万治4年(1661年)の火災で上屋敷は焼失してしまう[28]寛文13年(1673年)の火災で下屋敷も焼失し、九条家は再建された上屋敷を住居としていた[28]宝永5年(1708年)に上屋敷は焼失し、宝永6年(1709年)に本宅屋敷として再建されたものが幕末維新期まで残った[28]

明治10年(1877年)には政府によって九条家の敷地は買い上げられた。母屋などの主要な建物は、東京の九条邸に移築された。京都御苑南西部には庭園部分のみが整備されて残っている。九条池と呼ばれる庭園の池の中島には鎮守社だった厳島神社が、また池畔には拾翠亭と呼ばれる瀟洒な茶室が、いずれも現存している。昭和9年(1934年)には京都から移築されていた当主の居室が東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名された。

九条家の財産

封建時代の所領

摂関家領は、鎌倉時代初期に当時の九条兼実と近衛基通の政治的対立も絡んで九条家と近衛家の間で分立した。九条家領の中心になったのは兼実の妹皇嘉門院聖子1180年(治承4年)に兼実の子良通に譲った所領であり、最勝金剛院領11個所、九条領34個所、近江国寄人和泉国摂津国近江国大番舎人などがある[4]

1204年(元久元年)に兼実は惣処分状を作成して所領の保全を図り、総計60か所に及ぶ荘園が記載されている[4]

1250年(建長2年)に兼実の孫九条道家が所領の確保のために作成した惣処分状では、その総計は112個所に及んでいる[4]。この際に一条実経に譲与された所領は、のちに一条家領の基礎となり、九条忠家に譲与された所領は、のちに女子一期分を吸収して九条家領の中心となった[4]

しかし鎌倉時代末から南北朝時代の動乱の中で九条家領は徐々に衰退していき、1396年(応永3年)時にはわずか16個所が当知行として残っているにすぎなかった[4]戦国時代末期の家領目録では21か所を載せているものの、それらはすでに形骸化したものだった[4]

安土桃山時代織田信長や豊臣秀吉の天下統一下で石高知行制が成立した後には九条家も織田氏や豊臣氏から知行地を与えられ、江戸時代に入ると徳川氏から与えられた。江戸時代の所領ははじめ2000石、のちに3000石だった[4]

幕末の領地

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の九条家領は以下の通り。(7村・3,052石余)

  • 山城国愛宕郡のうち - 3村
    • 一乗寺村のうち - 22石余
    • 松ヶ崎村のうち - 252石余
    • 静原村のうち - 101石余
  • 山城国乙訓郡のうち - 1村
    • 円明寺村のうち - 712石余
  • 山城国紀伊郡のうち - 2村
    • 深草村のうち - 623石余
    • 東九条村のうち - 340石
  • 摂津国豊島郡のうち - 1村

明治以降の財産

1876年(明治9年)に旧来の家禄に代えて発行された金禄公債の額は6万1071円で旧公家の華族の中では三条家(6万5000円)と岩倉家(6万2298円)に次ぐ第3位の額だが、旧公家華族の公債額は旧大名華族のそれとは天と地ほどの格差があった(旧大名華族トップの島津家は132万2845円)[29]

庶流

兼実の子である良輔の系統を九条家とは別の八条家として扱うべきとする説がある。これは兼実と対立関係にあった八条院女房三位局(高階盛章の娘・以仁王の室)[注釈 2]との間に出来た良輔は、本来ならば捨て置くべき処を三位局の庇護者であった八条院の猶子として引き取られて立身した(九条家や兼実の意向ではない)経緯による考え方である[30]

江戸時代には2度に渡り松殿家を再興しているが、いずれも一代限りとなっている[19]。明治時代には鶴殿家松園家が分家している。

武家では江戸時代に大名となり、明治に至って華族となった大岡氏が九条家の後裔を称している。大岡氏の家伝では九条教実の後裔忠教の孫である大岡忠勝松平広忠に仕え、家祖となったとしている[31]

脚注

  1. ^ 豊臣秀吉の甥豊臣秀勝崇源院の娘。秀吉の息子豊臣秀頼の叔母である崇源院はこの時期徳川秀忠の夫人となっている。また伯母で秀頼の母淀殿は完子を猶子として育て、完子の結婚では嫁入り道具を送っただけでなく屋敷(九条邸)まで建てている[14]
  2. ^ 八条院は猶子であった以仁王と三位局の間の娘である三条姫宮に所領を譲ろうとしていたが、兼実は以仁王が謀反人であることを理由に姫宮を排除して自分の外孫の昇子内親王に継承させようとしていた。つまり、良輔は排除対象である三条姫宮の異父弟にあたることになる(良輔誕生の影響か、最終的に兼実は三条姫宮の一期分を認めざるを得なくなる)。
  1. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2081.
  2. ^ 九条(くじょう)の意味”. goo国語辞書. 2019年11月29日閲覧。
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 57.
  4. ^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ)『九条家』 - コトバンク
  5. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『九条家』 - コトバンク
  6. ^ a b c 宮崎康充 2009, p. 4.
  7. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『九条家』 - コトバンク
  8. ^ 奥富敬之「相模三浦一族の滅亡」『基礎科学論集 : 教養課程紀要』第10巻、1992年、19-20頁、doi:10.18924/00000188 
  9. ^ 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学、2000年(平成12年))/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1) P2007年、P86-89
  10. ^ a b c 三田武繁 2019, p. 5.
  11. ^ 三田武繁 2019, p. 1-5.
  12. ^ 橋本政宣 2010, p. 44.
  13. ^ 五十嵐公一 2012, p. 8-14.
  14. ^ 五十嵐公一 2012, p. 28-31.
  15. ^ 五十嵐公一 2012, p. 15,26-32.
  16. ^ 五十嵐公一 2012, p. 38-41.
  17. ^ 五十嵐公一 2012, p. 44-49.
  18. ^ 五十嵐公一 2012, p. 210-214.
  19. ^ a b 長坂良宏 2007, p. 1-6.
  20. ^ 橋本政宣 2010, p. 44-45.
  21. ^ 小田部雄次 2006, p. 354/359.
  22. ^ 小田部雄次 2006, p. 345.
  23. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、246-247頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  24. ^ 太田 1934, p. 2083.
  25. ^ 五十嵐公一 2012, p. 30-31.
  26. ^ a b 藤田勝也 2014, p. 799.
  27. ^ 五十嵐公一 2012, p. 102-104.
  28. ^ a b c 藤田勝也 2014, p. 800.
  29. ^ 小田部雄次 2006, p. 62.
  30. ^ 樋口健太郎「八条院領の伝領と八条良輔」(初出:『年報中世史研究』40号(2015年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3
  31. ^ 太田 1934b.

参考文献

関連項目