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'''小林 克也'''(こばやし かつや、[[1941年]][[昭和]]16年[[3月27日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=73|id={{NDLJP|12276264/37}}}}</ref> - )は、[[日本]]の[[ディスクジョッキー|ラジオDJ]]、[[ナレーター]]、[[タレント]]、[[俳優]]。[[広島県]][[福山市]]野上町出身{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて|生きて1|asahidigital|nhk|福山ふるさと大使|yomiuri2103|tokyo2009|daily}}}}。DJに特異な分野を築いた{{R|W平凡830901}}第一人者{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて1|asahidigital|nhk|jukushin|読売110910|dj}}}}、[[ロック (音楽)|ロック]]の[[伝道者]]{{Refnest|group="出典"|{{R|asagei7272|quickjapan|anincline}}}}。「ミスター音楽」と呼ばれる事もある{{R|anincline}}。愛称はKORBY(コービー)。福山ふるさと大使 第1号<ref name="福山ふるさと大使"/><!--- ※リンク切れ アーカイブも見つからない<ref>[https://web.archive.org/web/20171008231519/https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/jouhou-hasshin/103551.html 福山ふるさと大使に小林克也さん].中国新聞(2017/10/7).2017年10月8日閲覧。</ref>--->。
'''小林 克也'''(こばやし かつや、[[1941年]][[昭和]]16年[[3月27日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book ja|title=DJ名鑑 1987|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12276264/37}}|url-access=registration|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|page=73}}</ref> - )は、[[日本]]の[[ディスクジョッキー|ラジオDJ]]{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802}}}}、[[ナレーター]]{{Refnest|group="出典"|{{R|sky|reminder|THE MANZAI}}}}、[[タレント]]{{R|jasrac}}、[[俳優]]{{R|jasrac}}。[[広島県]][[福山市]]野上町出身{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|生きて|生きて1|asahidigital|nhk|福山ふるさと大使|yomiuri2103|tokyo2009|daily}}}}。DJに特異な分野を築いた{{R|W平凡830901}}第一人者{{Refnest|group="出典"|{{R|reminder|生きて1|asahidigital|nhk|jukushin|読売110910|dj}}}}であり、[[ロック (音楽)|ロック]]の[[伝道者]]{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|reminder|asagei7272|quickjapan|anincline}}}}。「ミスター音楽」と呼ばれる事もある{{R|anincline}}。愛称はKORBY(コービー)。福山ふるさと大使 第1号<ref name="福山ふるさと大使"/><!--- ※リンク切れ アーカイブも見つからない<ref>[https://web.archive.org/web/20171008231519/https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/jouhou-hasshin/103551.html 福山ふるさと大使に小林克也さん].中国新聞(2017/10/7).2017年10月8日閲覧。</ref>--->。

[[キッス]]の日本公演に同行した[[アメリカ人]][[ジャーナリスト]]をして「アメリカで立派に[[英語]]の先生になれる」と言わしめた流麗な[[英語]]を話す{{R|themusic197802}}。


[[広島大学附属福山中学校・高等学校|広島大学附属福山高等学校]]卒業、[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|慶應義塾大学経済学部]]中退{{R|W明星830428}}。
[[広島大学附属福山中学校・高等学校|広島大学附属福山高等学校]]卒業、[[慶應義塾大学大学院経済学研究科・経済学部|慶應義塾大学経済学部]]中退{{R|W明星830428}}。
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== 来歴==
== 来歴==
===英語習得からDJデビューまで===
===英語習得からDJデビューまで===
[[教員|教師]]で[[母子家庭]]だった{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|40年男}}}}。大きな[[ラジオ]]が[[玩具|おもちゃ]]で{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|jukushin}}}}、小学校3年生の頃、ラジオの丸ダイヤルをひねると色んな[[言語]]の放送が入ってきた{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|jukushin}}}}。特に小林少年の心を鷲掴みしたのが[[山口県]][[岩国飛行場|岩国基地]]からの[[AFN|極東放送(FEN)]]{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて1|tokyo2009|daily|jukushin|dj|fujitv}}}}。腹をすかせていた時代で、そこから流れてくる[[英語]]には焼いた肉の匂いが漂うような、リッチな響きがあったという{{R|tokyo2009}}。一番ビックリしたのは[[エルヴィス・プレスリー]]の「[[監獄ロック]]」{{R|W宝石840504}}。それまでの音楽観をぶっ飛ばすような[[ドラム・ビート#8ビート|8ビート]]の力強い[[リズム#音楽におけるリズム|リズム]]、強烈な[[テンポ]]に一瞬で虜になったという{{R|W宝石840504}}。当時の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、ラジオが第2期黄金期を迎え、[[ロックンロール]]が若者を席巻していた{{R|jukushin}}。日本のラジオとは違い、曲の解説はせず、[[ジョーク|アメリカンジョーク]]を入れる{{R|jukushin}}、例えば「この曲があまりにもホットだから、こないだアンテナの上に鳥が止まって焼け死んだ」という具合{{R|jukushin}}。お気に入りの番組を聴くために学校を休むこともあった{{R|jukushin}}。そのうちに[[天気予報]]、それから[[ニュース]]と英語を口まねするようになった{{R|tokyo2009}}。学校で英語の音読はピカイチで、先生よりも上手くなり、誰からもが認められ自信を持った。小学校6年の終わりごろから親戚の知り合いから本格的に英語を習い始め、英語の発音を徹底的に鍛えた{{Refnest|group="出典"|{{R|40年男|brutus|eigotownp2}}}}。英語もおしゃべりも全部我流{{R|生きて1}}。
を早くに亡くし{{R|themusic197802}}、[[教員|教師]]だった母親の手育てられた[[母子家庭]]{{Refnest|group="出典"|{{R|themusic197802|tokyo2009|40年男}}}}。大きな[[ラジオ]]が[[玩具|おもちゃ]]で{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|jukushin}}}}、小学校3年生の頃、ラジオの丸ダイヤルをひねると色んな[[言語]]の放送が入ってきた{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|jukushin}}}}。特に小林少年の心を鷲掴みしたのが[[山口県]][[岩国飛行場|岩国基地]]からの[[AFN|極東放送(FEN)]]{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて1|tokyo2009|daily|jukushin|dj|fujitv}}}}。腹をすかせていた時代で、そこから流れてくる[[英語]]には焼いた肉の匂いが漂うような、リッチな響きがあったという{{R|tokyo2009}}。一番ビックリしたのは[[エルヴィス・プレスリー]]の「[[監獄ロック]]」{{R|W宝石840504}}。それまでの音楽観をぶっ飛ばすような[[ドラム・ビート#8ビート|8ビート]]の力強い[[リズム#音楽におけるリズム|リズム]]、強烈な[[テンポ]]に一瞬で虜になったという{{R|W宝石840504}}。当時の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、ラジオが第2期黄金期を迎え、[[ロックンロール]]が若者を席巻していた{{R|jukushin}}。日本のラジオとは違い、曲の解説はせず、[[ジョーク|アメリカンジョーク]]を入れる{{R|jukushin}}、例えば「この曲があまりにもホットだから、こないだアンテナの上に鳥が止まって焼け死んだ」という具合{{R|jukushin}}。お気に入りの番組を聴くために学校を休むこともあった{{R|jukushin}}。そのうちに[[天気予報]]、それから[[ニュース]]と英語を口まねするようになった{{R|tokyo2009}}。学校で英語の音読はピカイチで、先生よりも上手くなり、誰からもが認められ自信を持った。小学校6年の終わりごろから親戚の知り合いから本格的に英語を習い始め、英語の発音を徹底的に鍛えた{{Refnest|group="出典"|{{R|40年男|brutus|eigotownp2}}}}。英語もおしゃべりも全部我流{{R|生きて1}}。


中学時代は[[ボイス・オブ・アメリカ]]や[[ラジオ・オーストラリア|オーストラリア放送]]などの[[短波放送]]を熱心に聴取{{R|40年男}}。1955年、ロックンロール元年を告げる[[ビル・ヘイリー|ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ]]「[[ロック・アラウンド・ザ・クロック]]」も短波で聴いた{{R|40年男}}。エルヴィス・プレスリーをはじめとするロックに夢中になる{{Refnest|group="出典"|{{R|brutus|eigotownp2}}}}。英語の授業で小林が教科書を読むと教室がシーンとなったという{{R|W宝石840504}}。
中学時代は[[ボイス・オブ・アメリカ]]や[[ラジオ・オーストラリア|オーストラリア放送]]、[[中国国際放送|ラジオ北京]]などの[[短波放送]]を熱心に聴取{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|reminder|40年男}}}}。1955年、ロックンロール元年を告げる[[ビル・ヘイリー|ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ]]「[[ロック・アラウンド・ザ・クロック]]」も短波で聴いた{{R|40年男}}。プレスリーや[[エディ・コクラン]]、[[バディ・ホリー]]ら、ロックに夢中になる{{Refnest|group="出典"|{{R|brutus|eigotownp2|岡村}}}}。英語の授業で小林が教科書を読むと教室がシーンとなったという{{R|W宝石840504}}。


[[広島大学附属福山高等学校]]に首席で合格する<ref>{{Cite book
[[広島大学附属福山高等学校]]に首席で合格する<ref>{{Cite book
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| pages = 19-20
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| quote = 大学一年の時に僕は通訳案内業国家試験を受けて、見事一発で合格したんですよ。
| quote = 大学一年の時に僕は通訳案内業国家試験を受けて、見事一発で合格したんですよ。
}}</ref>{{Refnest|group="出典"|{{R|tokyo2009|daily|W明星830428|W宝石840504}}}}。外国人相手の観光ガイド([[全国通訳案内士|通訳案内士]])のアルバイトをして、実践で英語力を身につけていく{{Refnest|group="出典"|{{R|daily|tokyo2009|anincline}}}}。しかし精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず<ref name="economics"></ref>、大学を中退{{R|tokyo2009}}。[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]「月世界」、[[赤坂プリンスホテル]]「マグノリア」などの外国人相手の[[ナイトクラブ#日本|ナイトクラブ]]などの司会を本業とした{{Refnest|group="出典"|{{R|dj|anincline|W宝石840504}}}}。司会業は32歳まで続けたが、1970年、29歳のとき、エルビス・プレスリーのラスベガス公演を観るため渡米。何と世界のプレスリーを舞台に呼び出す仕事をしていたのは、その日の[[ディナー]]を[[給仕]]している人だった{{R|W宝石840504}}。「俺のやってる仕事は給仕でも出来る仕事だったのか」と大きなショックを受け、以降、プロデュース的な仕事にシフトしていく{{R|W宝石840504}}。
}}</ref>{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|tokyo2009|daily|W明星830428|W宝石840504}}}}。外国人相手の観光ガイド([[全国通訳案内士|通訳案内士]])のアルバイトをして、実践で英語力を身につけていく{{Refnest|group="出典"|{{R|daily|tokyo2009|anincline}}}}。東京に出て来た途端、「お前、訛ってるよ」と[[広島弁]]を笑われ、劣等感がずっとあった{{R|岡村}}。今も英語に広島弁が邪魔し、抜けないという{{R|岡村}}。また大学時代にアメリカで大流行していると聞いた[[レンタルCD|貸しレコード屋]]を友人と慶應義塾大学の前で開く{{R|themusic197802}}。しかし時代が早すぎて学生さえ寄り付かず{{R|themusic197802}}、お店は[[プレイガイド]]→[[外国人タレント#日本における外国人タレント|外人タレント]][[出前|仕出し屋]]→[[スナックバー (飲食店)#日本のスナックバー|スナック]]→英語[[塾]]と変わった{{R|themusic197802}}。精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず<ref name="economics"></ref>、大学を中退{{R|tokyo2009}}。但し、プレイガイドを短期間でもやったことで、[[キョードー東京]]と繋がりが出て{{R|themusic197802}}、1965年から外人タレントの司会の仕事が貰えるようになった{{R|themusic197802}}{{efn|キョードー東京から最初に依頼されたのは1965年の[[リッキー・ネルソン]]の来日公演の司会{{R|themusic197802}}。この時、バックで[[エレクトリックベース|ベース]]を弾いていたのが[[グレン・キャンベル]]で、後日ヒットを出したキャンベルが来日公演した際は小林が司会を務め、旧交を温めた{{R|themusic197802}}。この公演で[[オープニングアクト|前座]]を務めたのが[[:en:Los Indios Tabajaras|ロス・インディオス・タバハラス]]で、この名前が覚えにくく「ロス・インディオス・タビガラス」と言ってしまい満場の大笑いを勝ち取った{{R|themusic197802}}。}}。大学中退後は、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]「月世界」、[[赤坂プリンスホテル]]「マグノリア」などの外国人相手の[[ナイトクラブ#日本|ナイトクラブ]]などの司会を本業とした{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|dj|anincline|yomiuri240217|W宝石840504}}}}。司会業は32歳まで続けたが、1970年、29歳のとき、エルビス・プレスリーのラスベガス公演を観るため渡米。何と世界のプレスリーを舞台に呼び出す仕事をしていたのは、その日の[[ディナー]]を[[給仕]]している人だった{{R|W宝石840504}}。「俺のやってる仕事は給仕でも出来る仕事だったのか」と大きなショックを受け、以降、プロデュース的な仕事にシフトしていく{{R|W宝石840504}}。


電波デビューは、1965年頃、[[豆腐|豆腐屋さん]]の協会の[[コマーシャルメッセージ|CM]]が最初{{R|W平凡850412}}。テレビは『ジーン・ケリーショー』の[[ナレーション]]が最初だが、外国の人名や単語を英語の発音通り喋ったら、[[ディレクター]]から「あまり英語っぽい発音だと聞く人が嫌う、日本語英語になっていない」と怒られた{{R|W平凡850412}}。
電波デビューは、1965年頃、[[豆腐|豆腐屋さん]]の協会の[[コマーシャルメッセージ|CM]]が最初{{R|W平凡850412}}。テレビは『ジーン・ケリーショー』の[[ナレーション]]が最初だが、外国の人名や単語を英語の発音通り喋ったら、[[ディレクター]]から「あまり英語っぽい発音だと聞く人が嫌う、日本語英語になっていない」と怒られた{{R|W平凡850412}}。
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1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・[[アール・エフ・ラジオ日本]])のDJでラジオデビュー{{Refnest|group="出典"|{{R|daily|anincline|40年男}}}}。この番組は[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]の新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる{{Refnest|group="出典"|{{R|dj|j-wave20th}}}}。FENをまねて[[導入部|イントロ]]に歌手のこぼれ話やジョークも交えトークを入れたら、それがウケて仕事が次々と舞い込んだという{{R|tokyo2009}}。
1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・[[アール・エフ・ラジオ日本]])のDJでラジオデビュー{{Refnest|group="出典"|{{R|daily|anincline|40年男}}}}。この番組は[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]の新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる{{Refnest|group="出典"|{{R|dj|j-wave20th}}}}。FENをまねて[[導入部|イントロ]]に歌手のこぼれ話やジョークも交えトークを入れたら、それがウケて仕事が次々と舞い込んだという{{R|tokyo2009}}。


小林の個性を活かしてその名を強烈にアピールしたのが1971年から始まった東京12チャンネル(現・[[テレビ東京]])の『ナウ・エクスプロージョン』([[スポンサー]]は[[JUN (ファッションブランド)|JUN]]){{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|reminder}}}}。同番組はアメリカの[[バラエティ番組|音楽ショー]]の[[フィルム]]を購入して日本で放送したもので{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|reminder}}}}、海外アーティストの動く映像を日本で初めて紹介した[[テレビ番組]]ともいわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|reminder}}}}。DJを務めた小林のそれまでの[[高崎一郎]]や[[糸居五郎]]などとは一味違った英語の迫力、声の個性がヤングリスナーに注目された{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|themusic197802|reminder}}}}。
1974年にラジオのレギュラーが3本一気に終了し、収入がガタ落ちした{{R|W平凡850412}}。マンションを買う予定だった金を[[資本|元手]]に、[[原宿]]で古い[[蝋管|円筒形のレコード]]や[[ブリキ#ブリキの玩具|ブリキのおもちゃ]]など、アメリカの小物を置く雑貨店を開く{{Refnest|group="出典"|{{R|W明星830428|W平凡850412}}}}。自身でアメリカに買い付けに行き、よく持ち帰ったのが[[ネオンサイン]]{{R|W明星830428}}。[[原宿駅]]前で[[チラシ#チラシ、ビラ、フライヤーの呼び名の使い分け、由来|ビラ配り]]もした{{R|W平凡850412}}。そのうち[[古着]]ばかり売れるようになり収支はトントンで7年間店を続けた{{R|W平凡850412}}。

1974年にラジオのレギュラーが3本一気に終了し、収入がガタ落ちした{{R|W平凡850412}}。マンションを買う予定だった金を[[資本|元手]]に、[[原宿]]で古い[[蝋管|円筒形のレコード]]や[[ブリキ#ブリキの玩具|ブリキのおもちゃ]]など、アメリカの小物を置く雑貨店「アメリカン・オールスターズ」を開く{{Refnest|group="出典"|{{R|themusic197802|W明星830428|W平凡850412}}}}。自身でアメリカに買い付けに行き、よく持ち帰ったのが[[ネオンサイン]]{{R|W明星830428}}。[[原宿駅]]前で[[チラシ#チラシ、ビラ、フライヤーの呼び名の使い分け、由来|ビラ配り]]もした{{R|W平凡850412}}。そのうち[[古着]]ばかり売れるようになり収支はトントンで7年間店を続けた{{R|W平凡850412}}。1977年–1978年頃の年収は大半がCM収入で{{R|themusic197802}}、1000–1500万円程度{{R|themusic197802}}。


===スネークマンショーでカルト的人気に===
===スネークマンショーでカルト的人気に===
1976年から選曲家の[[桑原茂一]]、俳優の[[伊武雅刀]]らともに[[大阪放送|ラジオ大阪]]で『[[スネークマンショー]]』を開始{{Refnest|group="出典"|{{R|yomiuri2103|tokyo2009|dj}}}}。「スネークマン」の名は、小林が米国のDJ[[ウルフマン・ジャック]]のパロディとして登場させたキャラクターが由来である(小林が[[巳|巳年]]生まれのため)。『スネークマンショー』で、子どもの頃に憧れていたアメリカの演出に近いラジオ番組が作れた{{R|jukushin}}。
1976年から選曲家の[[桑原茂一]]、俳優の[[伊武雅刀]]らともに[[大阪放送|ラジオ大阪]]で『[[スネークマンショー]]』を開始{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|yomiuri2103|tokyo2009|dj}}}}。「スネークマン」の名は、小林が米国のDJ[[ウルフマン・ジャック]]のパロディとして登場させたキャラクターが由来である(小林が[[巳|巳年]]生まれのため)。『スネークマンショー』で、子どもの頃に憧れていたアメリカの演出に近いラジオ番組が作れた{{R|jukushin}}。『スネークマンショー』の[[コント]]はほとんど小林が考えたものという{{R|岡村}}。


当初はDJスネークマンによる音楽番組であったが、後にDJのオーディションで知り合った[[伊武雅刀]]を誘って{{R|musicmanreport}}、小林がキャラクター「咲坂守」などで2人の掛け合いによるコントを番組の曲間に挟む形式になった。当時としてはシュールで過激、不謹慎、下ネタを連発するコントがやがて話題を呼び、大阪ローカルから東京に進出しマニア的なブームを起こした{{R|yomiuri2103}}。
当初はDJスネークマンによる音楽番組であったが、後にDJのオーディションで知り合った[[伊武雅刀]]を誘って{{R|musicmanreport}}、小林がキャラクター「咲坂守」などで2人の掛け合いによるコントを番組の曲間に挟む形式になった。当時としてはシュールで過激、不謹慎、下ネタを連発するコントがやがて話題を呼び、大阪ローカルから東京に進出しマニア的なブームを起こした{{R|yomiuri2103}}。


さらに[[イエロー・マジック・オーケストラ]]が自身のレコード『[[増殖 (YMOのアルバム)|増殖]]』に「スネークマンショー」を収録し、武道館でライブを一緒に行ったことにより、音楽業界への知名度を上げたのはもちろん、後のエンターテイメントにまで幅広く影響を与えた{{Refnest|group="出典"|{{R|s40otoko|fmkameda}}}}。<!--(以下は[[増殖 (YMOのアルバム)]]に書かれるべき内容。さらに出展も不明)その中の1曲である、小林の声をフィーチャーした「タイトゥン・アップ」は米国でも発売され、[[ビルボード]]・ダンス・チャートにランクインも果たした。-->
さらに[[イエロー・マジック・オーケストラ]]が自身のレコード『[[増殖 (YMOのアルバム)|増殖]]』に「スネークマンショー」を収録し、武道館でライブを一緒に行ったことにより、音楽業界への知名度を上げたのはもちろん、後のエンターテイメントにまで幅広く影響を与えた{{Refnest|group="出典"|{{R|sky|s40otoko|fmkameda}}}}。<!--(以下は[[増殖 (YMOのアルバム)]]に書かれるべき内容。さらに出展も不明)その中の1曲である、小林の声をフィーチャーした「タイトゥン・アップ」は米国でも発売され、[[ビルボード]]・ダンス・チャートにランクインも果たした。-->


[[1980年代]]の[[漫才ブーム]]を起こしたことで知られる『[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]』([[フジテレビジョン]]、1980年 - 1982年)の斬新な演出の一つとして[[ナレーション]]にアメリカナイズされた小林が起用された<ref>[https://web.archive.org/web/20110430162820/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/04/27/kiji/K20110427000707810.html 紳助竜介らブレーク ブーム巻き起こした「THE MANZAI」](Archive)</ref>
[[1980年代]]の[[漫才ブーム]]を起こしたことで知られる『[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]』([[フジテレビジョン]]、1980年 - 1982年)の斬新な演出の一つとして[[ナレーション]]にアメリカナイズされた小林が起用された{{R|THE MANZAI}}


===米国ヒット曲などの伝道師として===
===米国ヒット曲などの伝道師として===
1981年にスタートした[[テレビ朝日]]の音楽番組『[[ベストヒットUSA]]』では司会(VJ:[[ビデオジョッキー|ヴィジュアルジョッキー]])を務め、洋楽[[ミュージックビデオ]]を紹介{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて1|nhk|yomiuri2103|daily}}}}。来日した数多くの米国アーティストに小林自らインタビューを行うなど{{R|genkosha}}、本格的な音楽ジャーナリズムとして名を馳せた{{R|anincline}}。アイドル歌謡曲全盛時代の[[1980年代]]に於いて、日本にいち早く洋楽を紹介した功績は大きい{{Refnest|group="出典"|{{R|生きて1|tokyo2009|W平凡830901|anincline|W明星830428|genkosha|nikkei210518|功績|KGDR|新人間コク宝}}}}。[[小室哲哉]]は『ベストヒットUSA』に大きな影響を受けたと述べており{{R|小室}}、[[ヒップホップ|ヒップホップグループ]]KGDR([[キングギドラ (ヒップホップグループ)|キングギドラ]])のメンバーは3人とも『ベストヒットUSA』からの影響を話しており{{Refnest|group="出典"|{{R|KGDR|新人間コク宝}}}}、[[Kダブシャイン]]は「小林克也に洗脳されてたんです」と述べている{{R|新人間コク宝}}。[[山崎まさよし]]「洋楽を聴き始めたのは『ベストヒットUSA』からです」と述べている{{R|ananweb}}。2003年からは[[ビーエス朝日|BS朝日]]・[[エフエムナックファイブ]]などで継続中。
1981年にスタートした[[テレビ朝日]]の音楽番組『[[ベストヒットUSA]]』では司会(VJ:[[ビデオジョッキー|ヴィジュアルジョッキー]])を務め、洋楽[[ミュージックビデオ]]を紹介{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|reminder|生きて1|nhk|yomiuri2103|daily|yomiuri240217|功績}}}}。来日した数多くの米国アーティストに小林自らインタビューを行うなど{{R|genkosha}}、本格的な音楽ジャーナリズムとして名を馳せた{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|reminder|anincline|yomiuri240217|功績}}}}。アイドル歌謡曲全盛時代の[[1980年代]]に於いて、日本にいち早く洋楽を紹介した功績は大きい{{Refnest|group="出典"|{{R|jasrac|生きて1|tokyo2009|anincline|W明星830428|genkosha|nikkei210518|功績|KGDR|新人間コク宝}}}}。『ベストヒットUSA』は企画としても『[[MTV]]』より早いという{{R|jasrac}}。[[小室哲哉]]は『ベストヒットUSA』に大きな影響を受けたと述べており{{R|小室}}、[[ヒップホップ|ヒップホップグループ]]KGDR([[キングギドラ (ヒップホップグループ)|キングギドラ]])のメンバーは3人とも『ベストヒットUSA』からの影響を話しており{{Refnest|group="出典"|{{R|KGDR|新人間コク宝}}}}、[[Kダブシャイン]]は「小林克也に洗脳されてたんです」と{{R|新人間コク宝}}。[[岡村靖幸]]も「『ベストヒットUSA』から多大な影響を受けた」と{{R|岡村}}、[[山崎まさよし]]「洋楽を聴き始めたのは『ベストヒットUSA』からです」と述べている{{R|ananweb}}。2003年からは[[BS朝日]]・[[エフエムナックファイブ]]などで継続中。


===日本初のラップ===
===日本初のラップ===
1982年に結成した中年バンド「小林克也 & ザ・ナンバーワン・バンド」でのアバンギャルドな音楽活動でも知られる。
1982年に結成した中年バンド「小林克也 & ザ・ナンバーワン・バンド」でのアバンギャルドな音楽活動でも知られる{{R|sky}}


小林自身は「(何年だったかは忘れたが)[[六本木]]を歩いていたら、あるスタッフに呼びとめられて、[[:en:Scratching|スクラッチ]]と[[ラップ]]を聴かされた、アーティスト名は忘れたが、それを聴いて衝撃受けた、これで世界が変わるかもしれないと思うほどで、[[パンク・ロック|パンク]]にやられたときと同じような衝撃を感じた。それですぐ、これをやりたいなと[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]の「[[ラプチュアー]]」の[[レコード|アナログ盤]]をいじって「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を作り、1981年2月21日発売のアルバム『[[スネークマン・ショー]]』に収録したと話している{{Refnest|group="出典"|{{R|billboard-japan18|natalie1803|読売20180406}}}}。[[反復]][[フレーズ]]に乗って登場する2人の[[キャラクター]]が何かと自慢しあう{{R|読売20180406}}、同曲が「'''日本初のラップ'''」である{{Refnest|group="出典"|{{R|読売20180406|日本語ラップ・インタビューズ|allabout161017}}}}。小林は「絶えず音楽を紹介しているから、新しいものが出てくると、僕なりに受け止める。最初のころのラップは『服をたくさん持っている』とひたすら自慢するとか、そういう感じの歌詞だったんです」述べており{{R|読売20180406}}、それが自身の音楽に反映した{{R|読売20180406}}。
小林自身は「(何年だったかは忘れたが)[[六本木]]を歩いていたら、あるスタッフに呼びとめられて、[[:en:Scratching|スクラッチ]]と[[ラップ]]を聴かされた、アーティスト名は忘れたが、それを聴いて衝撃受けた、これで世界が変わるかもしれないと思うほどで、[[パンク・ロック|パンク]]にやられたときと同じような衝撃を感じた。それですぐ、これをやりたいなと[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]の「[[ラプチュアー]]」の[[レコード|アナログ盤]]をいじって「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を作り、1981年2月21日発売のアルバム『[[スネークマン・ショー]]』に収録したと話している{{Refnest|group="出典"|{{R|billboard-japan18|natalie1803|読売20180406}}}}。[[反復]][[フレーズ]]に乗って登場する2人の[[キャラクター]]が何かと自慢しあう{{R|読売20180406}}、同曲が「'''日本初のラップ'''」である{{Refnest|group="出典"|{{R|読売20180406|日本語ラップ・インタビューズ|allabout161017}}}}。小林は「絶えず音楽を紹介しているから、新しいものが出てくると、僕なりに受け止める。最初のころのラップは『服をたくさん持っている』とひたすら自慢するとか、そういう感じの歌詞だったんです」述べており{{R|読売20180406}}、それが自身の音楽に反映した{{R|読売20180406}}。
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『ベストヒットUSA』を観た[[石井聰亙]]から打診され{{Refnest|group="出典"|{{R|W平凡830901|W宝石840504}}}}、1984年『[[逆噴射家族]]』で主演デビュー{{Refnest|group="出典"|{{R|40年男|billboard-japan18|musicman16-6|eigotown}}}}。本作での怪演も評価された。2013年の[[宮藤官九郎]]監督作『[[中学生円山]]』で、[[平岡拓真]]演じる主人公の名前「円山克也」は『逆噴射家族』での小林克也が由来と宮藤は話している<ref>{{Cite book |和書 |author= |title=[[映画秘宝]] |volume=2013年9月号|publisher=[[洋泉社]] |page=7 |isbn= }}</ref>。
『ベストヒットUSA』を観た[[石井聰亙]]から打診され{{Refnest|group="出典"|{{R|W平凡830901|W宝石840504}}}}、1984年『[[逆噴射家族]]』で主演デビュー{{Refnest|group="出典"|{{R|40年男|billboard-japan18|musicman16-6|eigotown}}}}。本作での怪演も評価された。2013年の[[宮藤官九郎]]監督作『[[中学生円山]]』で、[[平岡拓真]]演じる主人公の名前「円山克也」は『逆噴射家族』での小林克也が由来と宮藤は話している<ref>{{Cite book |和書 |author= |title=[[映画秘宝]] |volume=2013年9月号|publisher=[[洋泉社]] |page=7 |isbn= }}</ref>。


現在でもラジオDJとして活動中{{Refnest|group="出典"|{{R|asagei7272|musicmanreport|s40otoko|fmkameda|DJ}}}}。[[小室哲哉]]は「小林克也さんのあとを継ぎたいとずっと思っている」と話している{{R|小室}}。『小林克也のSUPER DANCE BEATS』など小林の名を冠したCDがいくつか存在する。また、語学力を活かし、英語関連の著書、教材も多数手掛ける。
現在でもラジオDJとして活動中{{Refnest|group="出典"|{{R|asagei7272|musicmanreport|s40otoko|fmkameda|DJ}}}}。自身で「リスナーにより楽しんでもらうために、日本では前例のないことをやってきたと思います」と話す{{R|jasrac}}。[[小室哲哉]]は「小林克也さんのあとを継ぎたいとずっと思っている」と話している{{R|小室}}。『小林克也のSUPER DANCE BEATS』など小林の名を冠したCDがいくつか存在する。また、語学力を活かし、英語関連の著書、教材も多数手掛ける。


1993年10月には、[[エフエムナックファイブ|FM-NACK5]]で『[[ファンキーフライデー]]』が放送開始。関東エリア[[聴取率]]1位の常連番組として、2021年現在で80歳を超えた今でも「9時間生放送」を行っている。
1993年10月には、[[エフエムナックファイブ|FM-NACK5]]で『[[ファンキーフライデー]]』が放送開始。関東エリア[[聴取率]]1位の常連番組として、2021年現在で80歳を超えた今でも「9時間生放送」を行っている。
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2020年8月現在、ほぼ全ての出演番組で朗読コーナーを設置している。
2020年8月現在、ほぼ全ての出演番組で朗読コーナーを設置している。


2021年7月 東京・Zepp Hanedaでライブ「DOUBLE CELEBRATION ECSEACY NIGHT」と題したライブを行った。伊武雅刀がゲスト出演し、と祝って小林と“犬のうんこ”コントを披露。1980年代に人気を博した「スネークマンショー」が一夜限りの復活となった。
2022年11月、長年の音楽業界への貢献を称え、第9回[[JASRAC賞#JASRAC音楽文化賞|JASRAC音楽文化賞]]を受賞<ref>[https://www.jasrac.or.jp/release/22/11_2.html 第9回JASRAC音楽文化賞を発表しました] - JASRAC・2022年11月18日</ref>

2022年11月、長年の音楽業界への貢献を称え、第9回[[JASRAC賞#JASRAC音楽文化賞|JASRAC音楽文化賞]]を受賞{{R|jasrac}}


== 人物==
== 人物==
[[サザンオールスターズ]]の[[桑田佳祐]]とは、[[1980年代]]初頭から長年の交流があり、サザンの楽曲制作に多数協力し、多数のアルバムにSpecial Thanksのかたちでクレジットされている(主に初期作品での英詞の監修)。桑田は小林について「当時から洋楽の知識や新しい情報をたくさんご存知で、僕もいろんな事を克也さんから学びました」と述べている{{Refnest|group="出典"|{{R|musicmanreport|SWITCH30|phussa}}}}。ザ・ナンバーワン・バンドのアルバム『もも』(1982年)で楽曲提供・ヴォーカル参加した「六本木のベンちゃん」の歌詞、"ゴトウ花店"、"秀和レジデンス"など、当時小林が会話に使っていた言葉を羅列したものだという{{R|SWITCH30}}。サザン1982年のアルバム『[[NUDE MAN]]』の1曲目「DJ・コービーの伝説」は、DJ・小林克也をモデルにした楽曲である{{Refnest|group="出典"|{{R|s40otoko|fmkameda|SWITCH30}}}}。小林は『[[KAMAKURA]]』(1985年)収録の「[[KAMAKURA|死体置き場でロマンスを]]」にも[[司会|MC]]として参加している。また、2004年に発売されたサザンのDVD『[[ベストヒットUSAS (Ultra Southern All Stars)|ベストヒットUSAS]]』は全編ベストヒットUSAのパロディであり、小林もサザンのミュージックビデオを紹介するMCとして出演している。2008年の「サザンオールスターズ 『真夏の大感謝祭』 30周年記念LIVE」では、映像で出演し、ライブの開始を告げた。
[[サザンオールスターズ]]の[[桑田佳祐]]とは、[[1980年代]]初頭から長年の交流があり、サザンの楽曲制作に多数協力し、多数のアルバムにSpecial Thanksのかたちでクレジットされている(主に初期作品での英詞の監修)。桑田は小林について「当時から洋楽の知識や新しい情報をたくさんご存知で、僕もいろんな事を克也さんから学びました」と述べている{{Refnest|group="出典"|{{R|musicmanreport|SWITCH30|phussa}}}}。ザ・ナンバーワン・バンドのアルバム『もも』(1982年)で楽曲提供・ヴォーカル参加した「六本木のベンちゃん」の歌詞、"ゴトウ花店"、"秀和レジデンス"など、当時小林が会話に使っていた言葉を羅列したものだという{{R|SWITCH30}}。小林は[[六本木族]]をかすった時期があり{{R|岡村}}、[[六本木]]での体験を小林が歌詞を先に書き{{Refnest|group="出典"|{{R|岡村|natalie1803}}}}、桑田がかなり書き換えたという{{Refnest|group="出典"|{{R|岡村|natalie1803}}}}。それを小林の目の前やり「うわ!すっげえ、こいつ天才だ」と思ったと話している{{R|岡村}}。サザン1982年のアルバム『[[NUDE MAN]]』の1曲目「DJ・コービーの伝説」は、DJ・小林克也をモデルにした楽曲である{{Refnest|group="出典"|{{R|s40otoko|fmkameda|SWITCH30}}}}。小林は『[[KAMAKURA]]』(1985年)収録の「[[KAMAKURA|死体置き場でロマンスを]]」にも[[司会|MC]]として参加している。また、2004年に発売されたサザンのDVD『[[ベストヒットUSAS (Ultra Southern All Stars)|ベストヒットUSAS]]』は全編ベストヒットUSAのパロディであり、小林もサザンのミュージックビデオを紹介するMCとして出演している。2008年の「サザンオールスターズ 『真夏の大感謝祭』 30周年記念LIVE」では、映像で出演し、ライブの開始を告げた。


[[恐怖症|高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、鍵盤恐怖症]]で{{R|W明星830428}}、1982年に[[サンフランシスコ]]の山の上にある[[カルロス・サンタナ|サンタナ]]の別荘を訪ねたら、[[瞑想|瞑想室]]があり、入った途端、[[パニック障害|パニック]]を起こしたという{{R|W明星830428}}。
[[恐怖症|高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、鍵盤恐怖症]]で{{R|W明星830428}}、1982年に[[サンフランシスコ]]の山の上にある[[カルロス・サンタナ|サンタナ]]の別荘を訪ねたら、[[瞑想|瞑想室]]があり、入った途端、[[パニック障害|パニック]]を起こしたという{{R|W明星830428}}。
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** ミュージックオンザロード([[全国ラジオネットワーク|NRN]])- 上記番組の内包コーナーであったが、後継番組でも放送。
** ミュージックオンザロード([[全国ラジオネットワーク|NRN]])- 上記番組の内包コーナーであったが、後継番組でも放送。
* 小林克也の[[オールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]]、1973年7月 - 12月、2007年12月30日 14:30 - 16:30) - 月曜パーソナリティを担当。
* 小林克也の[[オールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]]、1973年7月 - 12月、2007年12月30日 14:30 - 16:30) - 月曜パーソナリティを担当。
* ナガオカ・ワールド・ミュージック(FM東京、1978年ころ{{R|themusic197802}}。日曜夜にFM各局でオンエアされた{{R|themusic197802}}。小林は毎週木曜日の夕方5時ごろ、この時間が最終入稿にあたるキャッシュボックスに国際電話をかけてアメリカの最新チャートの情報を入手し、番組内で最新チャートとして紹介した{{R|themusic197802}})
* [[ねらえ!サウンドライフ]] スゥイング・オン・バード・ランド(ニッポン放送)
* [[ねらえ!サウンドライフ]] スゥイング・オン・バード・ランド(ニッポン放送)
* [[まるのみヤングバーガー]] サウンドカドカワ 克也と純のラジオがなんだ([[ニッポン放送]]、1983年10月 - 1984年4月)
* [[まるのみヤングバーガー]] サウンドカドカワ 克也と純のラジオがなんだ([[ニッポン放送]]、1983年10月 - 1984年4月)
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* Good Morning KOBY ([[J-WAVE]])
* Good Morning KOBY ([[J-WAVE]])
* [[DJ KOBY'S RADIO SHOW]] ([[J-WAVE]])
* [[DJ KOBY'S RADIO SHOW]] ([[J-WAVE]])
* カーセンサーサウンドインモーション(FM横浜)
* [[ZIP HOT 100]] ([[ZIP-FM]]、1994年10月 - 2006年3月)
* [[ZIP HOT 100]] ([[ZIP-FM]]、1994年10月 - 2006年3月)
* TOYOTA RADIO GAGA ([[新潟県民エフエム放送|FM PORT]]、2005年7月 - 12月)
* TOYOTA RADIO GAGA ([[新潟県民エフエム放送|FM PORT]]、2005年7月 - 12月)
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=== テレビ ===
=== テレビ ===
==== 現在 ====
==== 現在 ====
* [[ベストヒットUSA]] ([[BS朝日]]<!--、テレビ朝日でも遅れ放送--> - 土0:00 - 0:30(金曜深夜
* [[ベストヒットUSA]]([[BS朝日]])毎週木よる11:30 - 深夜0:00


==== 過去 ====
==== 過去 ====
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* [[おしゃべり人物伝]] ([[日本放送協会|NHK]])
* [[おしゃべり人物伝]] ([[日本放送協会|NHK]])
* [[海外ウィークリー]] (NHK)
* [[海外ウィークリー]] (NHK)
* [[にんげんマップ]](NHK) - キャスター
* [[どんぶり5656]] ([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
* [[どんぶり5656]] ([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
* [[にほんごでくらそう]](NHK教育)
* [[にほんごでくらそう]](NHK教育)
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=== テレビドラマ ===
=== テレビドラマ ===
* [[さよなら三角]](1983年、フジテレビ) - 町内放送のDJ(拓の父親)
* [[さよなら三角]](1983年、フジテレビ) - 町内放送のDJ(拓の父親)
* [[銀河テレビ小説]] つかこうへいのかけおち'83(1983年、NHK) - DJ男
* [[うちの子にかぎって]] 第5話(1984年、TBS) - 高野伸行
* [[うちの子にかぎって]] 第5話(1984年、TBS) - 高野伸行
* 一度は有る事(1984年、TBS)
* 一度は有る事(1984年、TBS)
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* Home Sweet Tokyo (2017年、NHK) - ヒロユキ
* Home Sweet Tokyo (2017年、NHK) - ヒロユキ
* [[女子グルメバーガー部]](2020年、テレビ東京) - ナレーション
* [[女子グルメバーガー部]](2020年、テレビ東京) - ナレーション
* ある日、下北沢で(2024年放送予定、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/561650|title=鈴木愛理の主演ドラマ「ある日、下北沢で」に小林克也、曽我部恵一ら登場|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2024-02-19|accessdate=2024-02-19}}</ref>


=== 映画 ===
=== 映画 ===
* [[アメリカン・グラフィティ]](1983年、テレビ朝日) - [[ウルフマン・ジャック]] 役
* [[アメリカン・グラフィティ]](1983年、テレビ朝日) - [[ウルフマン・ジャック]] 役(吹替)
* アメリカン・グラフィティ(1984年、TBSテレビ) - ウルフマン・ジャック 役
* アメリカン・グラフィティ(1984年、TBSテレビ) - ウルフマン・ジャック 役(吹替)
* [[逆噴射家族]](1984年、ATG) - 小林勝国 役
* [[逆噴射家族]](1984年、ATG) - 小林勝国 役
* [[リボルバー (1988年の映画)|リボルバー]](1988年、シネ・ロッポニカ) - 阿久根康男 役
* [[リボルバー (1988年の映画)|リボルバー]](1988年、シネ・ロッポニカ) - 阿久根康男 役
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* [[日清食品]] ウォーキングカラオケプレゼントキャンペーン ※白塗りの顔面、ラメのアイシャドーに眼鏡着用、頭髪の一部を赤く染め、本編ではパンクファッション、エンディングのみ[[三波春夫]]ばりの着流し姿で熱唱。
* [[日清食品]] ウォーキングカラオケプレゼントキャンペーン ※白塗りの顔面、ラメのアイシャドーに眼鏡着用、頭髪の一部を赤く染め、本編ではパンクファッション、エンディングのみ[[三波春夫]]ばりの着流し姿で熱唱。
* [[サンガリア]] ウィスパー ※[[1985年]]頃にアニメ声風の声を発する[[パペット]]とともに出演。ウィスパーは2003年頃に製造中止になり、2010年7月に復刻販売されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://plaza.rakuten.co.jp/sangaria/diary/201009050000/|title=東京ビジネスサミット ウィスパー出展|accessdate=2013-06-26}}</ref>。
* [[サンガリア]] ウィスパー ※[[1985年]]頃にアニメ声風の声を発する[[パペット]]とともに出演。ウィスパーは2003年頃に製造中止になり、2010年7月に復刻販売されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://plaza.rakuten.co.jp/sangaria/diary/201009050000/|title=東京ビジネスサミット ウィスパー出展|accessdate=2013-06-26}}</ref>。
* [[郵便局]] [[国際スピード郵便|国際ビジネス郵便]](1990年)
* [[味の素]] 中華あじ ※CM中当製品を用いて調理された[[チャーハン|炒飯]]などを「チャオ・ファン」などと中国語で呼んでいた。
* [[味の素]] 中華あじ ※CM中当製品を用いて調理された[[チャーハン|炒飯]]などを「チャオ・ファン」などと中国語で呼んでいた。
* [[セイコーエプソン|エプソン]] 「お得祭り」([[2015年]]1月)[[米倉涼子]]と共演。
* [[セイコーエプソン|エプソン]] 「お得祭り」([[2015年]]1月)[[米倉涼子]]と共演。
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== 著書 ==
== 著書 ==
* 小林克也のビートにノッて70短文英会話光文社1987年4月<!--小林の最初の著書、何故英語なのか、自らの来歴に詳しい、-->)ISBN 978-4334051372
* {{Cite book ja|title=小林克也のビートにノッて70短文英会話 : Thinkingからfeelingへ|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12581340}}|url-access=registration|publisher=光文社|series=カッパ・ホームス|date=1987-04-30|isbn=978-4334051372}}<!--小林の最初の著書、何故英語なのか、自らの来歴に詳しい、-->
* 英語のクスリ(イーフロンティア、2001年12月)ISBN 978-4590011219
* 英語のクスリ(イーフロンティア、2001年12月)ISBN 978-4590011219
* うわさのファンキーフライデー(辰巳出版、2009年1月)ISBN 978-4777805013
* うわさのファンキーフライデー(辰巳出版、2009年1月)ISBN 978-4777805013
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<ref name="jasrac">{{Cite web|和書|author= |title=音楽とリスナーの素敵な出会いを演出したい。小林克也さん/DJ、タレント |url=https://www.jasrac.or.jp/profile/culture_award/interview/kobayashi_katsuya.html |website=JASRAC音楽文化賞 受賞者インタビュー |publisher=[[日本音楽著作権協会]] |date=2023–03 |accessdate=2024年2月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308082354/https://www.jasrac.or.jp/profile/culture_award/interview/kobayashi_katsuya.html |archivedate=2023年3月8日 }}[https://www.jasrac.or.jp/release/22/11_2.html 第9回JASRAC音楽文化賞を発表しました] - JASRAC・2022年11月18日</ref>
<ref name="sky">{{Cite web|和書|author= |title=ラジオDJ・小林克也さん |url=https://www.tfm.co.jp/sky/archive/index_pc.php?itemid=135890&catid=1724 |website=[[Skyrocket Company]] |publisher=[[エフエム東京]] |date=2018–08–30 |accessdate=2024年2月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240217122031/https://www.tfm.co.jp/sky/archive/index_pc.php?itemid=135890&catid=1724 |archivedate=2024年2月17日 }}</ref>
<ref name="themusic197802">{{Cite journal |和書 |author = 山口保彦 |title = <small>好評連載 音楽人になりたいキミのための音楽に生きる(2) ディスク・ジョッキーの巻</small> 『なんたって幅広い知識が必要だ <small>男も女もシビレさすアメリカ型超低音バイブレイション・ボイスの男</small> 本格的ディスク・ジョッキー 小林克也』 |journal = [[The Music (日本の雑誌)|The Music]] |issue = 1978年2月号 |publisher = [[小学館]] |pages = 154–157頁 }}</ref>
<<ref name="reminder">[https://reminder.top/110444351/ DJ【小林克也】最新インタビュー (1) そのまま曲名を告げるだけではダサいからね!]、[https://reminder.top/284708330/ DJ【小林克也】最新インタビュー (2) 山下達郎「COME ALONG」と「ベストヒットUSA」]、[https://reminder.top/398479722/ DJ【小林克也】最新インタビュー (3) 音楽業界の劇的な変化と YMO の登場!]</ref>
<ref name="voice">{{Cite book|和書|year=1996|title=声優事典 |edition=第2版|page=115|publisher=キネマ旬報社||isbn= 4-87376-160-3}}</ref>
<ref name="voice">{{Cite book|和書|year=1996|title=声優事典 |edition=第2版|page=115|publisher=キネマ旬報社||isbn= 4-87376-160-3}}</ref>
<ref name="THE MANZAI">{{Cite news |date= |author=木村政雄 |authorlink=木村政雄 |url=http://www.km-jimusho.com/history/051.html |title=木村政雄の私的ヒストリー 第51話 |work=木村政雄の事務所 |publisher= |accessdate=2024年2月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221020014139/http://www.km-jimusho.com/history/051.html |archivedate=2022年10月20日 }}[https://web.archive.org/web/20110430162820/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/04/27/kiji/K20110427000707810.html 紳助竜介らブレーク ブーム巻き起こした「THE MANZAI」](Archive)[https://www.webuomo.jp/culture/370748/ 『M-1はじめました。』|漫才復活! 伝説は崖っぷちから始まった【BOOKレビュー 未知への扉|嶋 浩一郎】]</ref>
<ref name="生きて">{{Cite news|author=増田泉子|date=2017|title=生きて・DJ 小林克也さん(1941年~)|url=https://www.chugoku-np.co.jp/feature/special/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%83%BBDJ%20%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%85%8B%E4%B9%9F%E3%81%95%E3%82%93%281941%E5%B9%B4%EF%BD%9E%29|newspaper=[[中国新聞|中国新聞デジタル]]|publisher=[[中国新聞社]]|accessdate=2023年10月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231010130617/https://www.chugoku-np.co.jp/feature/special/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%83%BBDJ%20%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%85%8B%E4%B9%9F%E3%81%95%E3%82%93%281941%E5%B9%B4%EF%BD%9E%29|archivedate=2023年10月10日}}</ref>
<ref name="生きて">{{Cite news|author=増田泉子|date=2017|title=生きて・DJ 小林克也さん(1941年~)|url=https://www.chugoku-np.co.jp/feature/special/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%83%BBDJ%20%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%85%8B%E4%B9%9F%E3%81%95%E3%82%93%281941%E5%B9%B4%EF%BD%9E%29|newspaper=[[中国新聞|中国新聞デジタル]]|publisher=[[中国新聞社]]|accessdate=2023年10月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231010130617/https://www.chugoku-np.co.jp/feature/special/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%83%BBDJ%20%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%85%8B%E4%B9%9F%E3%81%95%E3%82%93%281941%E5%B9%B4%EF%BD%9E%29|archivedate=2023年10月10日}}</ref>
<ref name="生きて1">{{Cite news|author=|date=2017-10-13|title=<1> 異才 時代読んですべて独学|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/19935|newspaper=中国新聞デジタル|publisher=中国新聞社|accessdate=2023年10月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231010132351/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/19935|archivedate=2023年10月10日}}</ref>
<ref name="生きて1">{{Cite news|author=|date=2017-10-13|title=<1> 異才 時代読んですべて独学|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/19935|newspaper=中国新聞デジタル|publisher=中国新聞社|accessdate=2023年10月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231010132351/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/19935|archivedate=2023年10月10日}}</ref>
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<ref name="yomiuri2103">{{Cite news|author=旗本浩二|date=2021-03-08|title=「こんな番組、もう不要じゃないか」…考え続ける小林克也「ベストヒットUSA」40年|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210302-OYT1T50163/|newspaper=[[読売新聞オンライン]]|publisher=[[読売新聞社]]|accessdate=2022年9月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210307000924/https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210302-OYT1T50163/|archivedate=2021年3月7日}}</ref>
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<ref name="yomiuri240217">{{Cite news|author=|date=2024-02-17|title=[小林克也さん]3度のがん(1)発見のきっかけは「妻のぎっくり腰」…胃の手術は長時間に|url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20240205-OYTET50014/|newspaper=[[読売新聞オンライン|ヨミドクター]]|publisher=読売新聞社|accessdate=2024年2月17日}}</ref>
<ref name="tokyo2009">{{Cite news |author=鈴木伸幸 |date=2020-09-06 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/53630 |title=AFN開局75周年 米の流行伝えたラジオ 日本の音楽・文化に影響 |newspaper=[[東京新聞]] |publisher=[[中日新聞東京本社]] |accessdate=2022年9月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200906044010/https://www.tokyo-np.co.jp/article/53630/ |archivedate=2020年9月9日}}</ref>
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<ref name="W平凡830901">{{cite journal |和書 |author = |title =なぜこうまでハチャメチャを発揮できるのか? 小林克也 |journal = [[週刊平凡]] |issue = 1983年9月1日号 |publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] |pages = 60–61頁 }}</ref>
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<ref name="genkosha">{{Cite web|和書|author= |title=小林克也 洋楽の旅 « 書籍・ムック |url=https://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=25425 |website= |publisher=[[玄光社]] |date= |accessdate=2022年9月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210516190747/https://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=25425 |archivedate=2021年5月16日 }}</ref>
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<ref name="功績">{{Cite web|和書|author= |title=<BS朝日>有田哲平、小林克也がMCを務める「ベストヒットUSA」にゲスト出演!『やっと夢がかなった』 |url=https://thetv.jp/news/detail/1025965/ |website=[[ザテレビジョン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2021–03–25 |accessdate=2022年9月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210928074448/https://thetv.jp/news/detail/1025965/ |archivedate=2021年9月28日 }}{{Cite web|和書|author=なかじましんや |authorlink=中島信也 |title=「ベストヒットUSA」に夢中だった青年が、音楽モノの演出で有頂天に |url=https://www.advertimes.com/20221031/article399322/ |website=AdverTimes アドタイ |publisher=[[宣伝会議]] |date=2022–10–31 |accessdate=2023年10月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221031025255/https://www.advertimes.com/20221031/article399322/ |archivedate=2022年10月31日 }}
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[https://www.asahi.com/articles/DA3S15127271.html (取材考記)独学で習得、小林克也さんからの宿題 英語、まねより日本人らしさ大切に 池田伸壹]{{Cite web|和書|author= |title=第126回:ヒゲもクルマもないけれど、少年には愛がある『シング・ストリート 未来へのうた』 |url=https://www.webcg.net/articles/-/34736 |website=[[カーグラフィック#Web版|webCG]] |publisher=[[カーグラフィック]] |date=2016–07–08 |accessdate=2022年9月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160712021629/https://www.webcg.net/articles/-/34736 |archivedate=2016年7月12日 }}[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/287294 DJ小林克也「ベストヒットUSA」40周年 なぜ胸を打ち続ける]、[https://nikkan-spa.jp/1367600 今も続く『ベストヒットUSA』は80年代青春男の音楽のカンニングペーパーだった]、[https://reminder.top/627466935/ 小林克也か湯川れい子か?「ベストヒットUSA」は「全米トップ40」ともろ被り!]、[http://music-calendar.jp/2018111101 「recommend」 77歳のザ・ナンバーワンDJ。『小林克也・祝喜寿 ~ベストヒットUSA・DJナイト~』]、[https://realsound.jp/2014/08/post-1109.html 人間椅子・鈴木研一が影響を受けた10曲「2010年代も真ん中なのに、70年代HRに惹かれちゃう」]、[https://natalie.mu/music/column/377651 90年代から“カッティングエッジ”を追求する丹修一]、[https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/2974 「邦楽より普通にU2が好き」永野の中二病音楽遍歴][https://nikkan-spa.jp/1760004 <純烈物語>BARBEE BOYSが小田井涼平を邦楽へといざなった<第100回>]</ref>
<ref name="小室">[https://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_4/komuro_in.html 「作家で聴く音楽」JASRAC会員作家インタビューvol.4第四回小室哲哉]、[https://www.billboard-japan.com/sp/d_news/detail/44080/2 小室哲哉「なんでこの2組が?」森山直太朗やSCANDAL等との対談実現……キュウソネコカミとともまさかの邂逅 billboard-japan]、[http://jaykogami.com/2014/10/9555.html 小室哲哉スペシャルロングインタビュー:21世紀の始まり、そして音楽とテクノロジーで感動を共有させる、デジタル音楽の未来図とは?(後半)]</ref>
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<ref name="新人間コク宝">{{Cite book|和書|year=2010|author=吉田豪|authorlink=吉田豪|title=新 人間コク宝|chapter=K DUB SHINEインタビュー 『背負ってないアーティストは、ちょっとイジメたくなりますね』|publisher=[[コアマガジン]]|isbn=9784862529299|pages=56–57}}</ref>
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<ref name="KGDR">[https://natalie.mu/music/pp/kgdr KGDR(ex.キングギドラ)「空からの力」発売20周年記念インタビュー]</ref>
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<ref name="読売20180406">{{Cite news|title=FRI Screen&Music ええやん!かんさい 幅広い知識にじむ低音 小林克也バンド 新アルバム 喜寿『ライブやりたい』|date=2018年4月6日|newspaper=[[読売新聞]]大阪[[夕刊]]|publisher=[[読売新聞大阪本社]]|page=3}}</ref>
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<ref name="岡村">{{Cite book|和書|author=岡村靖幸|authorlink=岡村靖幸|title=岡村靖幸のカモンエブリバディ BONUS TRACK 小林克也さんにラジオと音楽についてお聞きします|url=https://reader.futabasha.co.jp/s?cid=97845753180500000000|year=2023|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4-575-31805-0|pages=259–280}}</ref>
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<ref name="ananweb">{{Cite web|和書|author=かわむらあみり |title=山崎まさよし「手こずりました」と語るデビュー25周年のメモリアルアルバム |url=https://ananweb.jp/column/ongakutusin/370819/ |website=[[an・an|ananweb]] |publisher=[[マガジンハウス]] |date=2021–09–21 |accessdate=2023年10月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210928073716/https://ananweb.jp/column/ongakutusin/370819/ |archivedate=2021年9月28日 }}</ref>
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2024年7月5日 (金) 10:25時点における版

こばやし かつや
小林 克也
本名 小林 克也[1]
生年月日 (1941-03-27) 1941年3月27日(83歳)
出生地 日本の旗 日本広島県福山市
血液型 A型
ジャンル ラジオDJナレータータレント俳優
活動期間 1970年 -
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小林 克也(こばやし かつや、1941年昭和16年〉3月27日[2] - )は、日本ラジオDJ[出典 1]ナレーター[出典 2]タレント[3]俳優[3]広島県福山市野上町出身[出典 3]。DJに特異な分野を築いた[16]第一人者[出典 4]であり、ロック伝道者[出典 5]。「ミスター音楽」と呼ばれる事もある[22]。愛称はKORBY(コービー)。福山ふるさと大使 第1号[12]

キッスの日本公演に同行したアメリカ人ジャーナリストをして「アメリカで立派に英語の先生になれる」と言わしめた流麗な英語を話す[4]

広島大学附属福山高等学校卒業、慶應義塾大学経済学部中退[23]

来歴

英語習得からDJデビューまで

父親を早くに亡くし[4]教師だった母親の手で育てられた母子家庭[出典 6]。大きなラジオおもちゃ[出典 7]、小学校3年生の頃、ラジオの丸ダイヤルをひねると色んな言語の放送が入ってきた[出典 8]。特に小林少年の心を鷲掴みしたのが山口県岩国基地からの極東放送(FEN)[出典 9]。腹をすかせていた時代で、そこから流れてくる英語には焼いた肉の匂いが漂うような、リッチな響きがあったという[14]。一番ビックリしたのはエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック[26]。それまでの音楽観をぶっ飛ばすような8ビートの力強いリズム、強烈なテンポに一瞬で虜になったという[26]。当時のアメリカは、ラジオが第2期黄金期を迎え、ロックンロールが若者を席巻していた[17]。日本のラジオとは違い、曲の解説はせず、アメリカンジョークを入れる[17]、例えば「この曲があまりにもホットだから、こないだアンテナの上に鳥が止まって焼け死んだ」という具合[17]。お気に入りの番組を聴くために学校を休むこともあった[17]。そのうちに天気予報、それからニュースと英語を口まねするようになった[14]。学校で英語の音読はピカイチで、先生よりも上手くなり、誰からもが認められ自信を持った。小学校6年の終わりごろから親戚の知り合いから本格的に英語を習い始め、英語の発音を徹底的に鍛えた[出典 10]。英語もおしゃべりも全部我流[9]

中学時代はボイス・オブ・アメリカオーストラリア放送ラジオ北京などの短波放送を熱心に聴取[出典 11]。1955年、ロックンロール元年を告げるビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツロック・アラウンド・ザ・クロック」も短波で聴いた[24]。プレスリーやエディ・コクランバディ・ホリーら、ロックに夢中になる[出典 12]。英語の授業で小林が教科書を読むと教室がシーンとなったという[26]

広島大学附属福山高等学校に首席で合格する[30]。入学後も英語に熱中し[22]、英語部に所属[31]。高校2年で英語部の部長に就任[32]。将来は英語を活かす仕事をすると決めていたため、幾何学など英語以外の科目はどうでもよくなったという[33]

このため、大学受験では現役時に東京大学東京外国語大学を記念受験で受けたが英語以外の成績に問題があったことから合格せず、浪人で英語の配点が高い慶應義塾大学経済学部に合格し、入学[34][33]。大学1年在学時に運輸省通訳案内業国家試験に合格[35][出典 13]。外国人相手の観光ガイド(通訳案内士)のアルバイトをして、実践で英語力を身につけていく[出典 14]。東京に出て来た途端、「お前、訛ってるよ」と広島弁を笑われ、劣等感がずっとあった[29]。今も英語に広島弁が邪魔し、抜けないという[29]。また大学時代にアメリカで大流行していると聞いた貸しレコード屋を友人と慶應義塾大学の前で開く[4]。しかし時代が早すぎて学生さえ寄り付かず[4]、お店はプレイガイド外人タレント仕出し屋スナック→英語と変わった[4]。精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず[34]、大学を中退[14]。但し、プレイガイドを短期間でもやったことで、キョードー東京と繋がりが出て[4]、1965年から外人タレントの司会の仕事が貰えるようになった[4][注釈 1]。大学中退後は、赤坂「月世界」、赤坂プリンスホテル「マグノリア」などの外国人相手のナイトクラブなどの司会を本業とした[出典 15]。司会業は32歳まで続けたが、1970年、29歳のとき、エルビス・プレスリーのラスベガス公演を観るため渡米。何と世界のプレスリーを舞台に呼び出す仕事をしていたのは、その日のディナー給仕している人だった[26]。「俺のやってる仕事は給仕でも出来る仕事だったのか」と大きなショックを受け、以降、プロデュース的な仕事にシフトしていく[26]

電波デビューは、1965年頃、豆腐屋さんの協会のCMが最初[37]。テレビは『ジーン・ケリーショー』のナレーションが最初だが、外国の人名や単語を英語の発音通り喋ったら、ディレクターから「あまり英語っぽい発音だと聞く人が嫌う、日本語英語になっていない」と怒られた[37]

1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・アール・エフ・ラジオ日本)のDJでラジオデビュー[出典 16]。この番組はワーナー・パイオニアの新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる[出典 17]。FENをまねてイントロに歌手のこぼれ話やジョークも交えトークを入れたら、それがウケて仕事が次々と舞い込んだという[14]

小林の個性を活かしてその名を強烈にアピールしたのが1971年から始まった東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ナウ・エクスプロージョン』(スポンサーJUN[出典 18]。同番組はアメリカの音楽ショーフィルムを購入して日本で放送したもので[出典 19]、海外アーティストの動く映像を日本で初めて紹介したテレビ番組ともいわれる[出典 20]。DJを務めた小林のそれまでの高崎一郎糸居五郎などとは一味違った英語の迫力、声の個性がヤングリスナーに注目された[出典 21]

1974年にラジオのレギュラーが3本一気に終了し、収入がガタ落ちした[37]。マンションを買う予定だった金を元手に、原宿で古い円筒形のレコードブリキのおもちゃなど、アメリカの小物を置く雑貨店「アメリカン・オールスターズ」を開く[出典 22]。自身でアメリカに買い付けに行き、よく持ち帰ったのがネオンサイン[23]原宿駅前でビラ配りもした[37]。そのうち古着ばかり売れるようになり収支はトントンで7年間店を続けた[37]。1977年–1978年頃の年収は大半がCM収入で[4]、1000–1500万円程度[4]

スネークマンショーでカルト的人気に

1976年から選曲家の桑原茂一、俳優の伊武雅刀らともにラジオ大阪で『スネークマンショー』を開始[出典 23]。「スネークマン」の名は、小林が米国のDJウルフマン・ジャックのパロディとして登場させたキャラクターが由来である(小林が巳年生まれのため)。『スネークマンショー』で、子どもの頃に憧れていたアメリカの演出に近いラジオ番組が作れた[17]。『スネークマンショー』のコントはほとんど小林が考えたものという[29]

当初はDJスネークマンによる音楽番組であったが、後にDJのオーディションで知り合った伊武雅刀を誘って[39]、小林がキャラクター「咲坂守」などで2人の掛け合いによるコントを番組の曲間に挟む形式になった。当時としてはシュールで過激、不謹慎、下ネタを連発するコントがやがて話題を呼び、大阪ローカルから東京に進出しマニア的なブームを起こした[13]

さらにイエロー・マジック・オーケストラが自身のレコード『増殖』に「スネークマンショー」を収録し、武道館でライブを一緒に行ったことにより、音楽業界への知名度を上げたのはもちろん、後のエンターテイメントにまで幅広く影響を与えた[出典 24]

1980年代漫才ブームを起こしたことで知られる『THE MANZAI』(フジテレビジョン、1980年 - 1982年)の斬新な演出の一つとしてナレーションにアメリカナイズされた小林が起用された[7]

米国ヒット曲などの伝道師として

1981年にスタートしたテレビ朝日の音楽番組『ベストヒットUSA』では司会(VJ:ヴィジュアルジョッキー)を務め、洋楽ミュージックビデオを紹介[出典 25]。来日した数多くの米国アーティストに小林自らインタビューを行うなど[43]、本格的な音楽ジャーナリズムとして名を馳せた[出典 26]。アイドル歌謡曲全盛時代の1980年代に於いて、日本にいち早く洋楽を紹介した功績は大きい[出典 27]。『ベストヒットUSA』は企画としても『MTV』より早いという[3]小室哲哉は『ベストヒットUSA』に大きな影響を受けたと述べており[47]ヒップホップグループKGDR(キングギドラ)のメンバーは3人とも『ベストヒットUSA』からの影響を話しており[出典 28]Kダブシャインは「小林克也に洗脳されてたんです」と[46]岡村靖幸も「『ベストヒットUSA』から多大な影響を受けた」と[29]山崎まさよしも「洋楽を聴き始めたのは『ベストヒットUSA』からです」と述べている[48]。2003年からはBS朝日エフエムナックファイブなどで継続中。

日本初のラップ

1982年に結成した中年バンド「小林克也 & ザ・ナンバーワン・バンド」でのアバンギャルドな音楽活動でも知られる[5]

小林自身は「(何年だったかは忘れたが)六本木を歩いていたら、あるスタッフに呼びとめられて、スクラッチラップを聴かされた、アーティスト名は忘れたが、それを聴いて衝撃受けた、これで世界が変わるかもしれないと思うほどで、パンクにやられたときと同じような衝撃を感じた。それですぐ、これをやりたいなとブロンディの「ラプチュアー」のアナログ盤をいじって「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を作り、1981年2月21日発売のアルバム『スネークマン・ショー』に収録したと話している[出典 29]反復フレーズに乗って登場する2人のキャラクターが何かと自慢しあう[51]、同曲が「日本初のラップ」である[出典 30]。小林は「絶えず音楽を紹介しているから、新しいものが出てくると、僕なりに受け止める。最初のころのラップは『服をたくさん持っている』とひたすら自慢するとか、そういう感じの歌詞だったんです」述べており[51]、それが自身の音楽に反映した[51]

ザ・ナンバーワン・バンドはラップを本格的にやりたくて作ったバンドで、当時はラップをやったら普通にやるとだいたいトニー谷みたいに「♪あなたのおなまえ、なんてえの?」になってしまう。まずそれを壊さなきゃダメだと考えた。英語でやるつもりはなかったので、日本語のリズムから壊さなければと考え、森繁久彌の主演の「社長シリーズ」(東宝)でフランキー堺日系人役で、岡山弁とも広島弁ともつかない英語混じりのヘンな日本語を使っていたのを思い出し、ハワイの二世とか三世はそれとよく似た日本語と英語が混ざった言葉を自然に使ってると思い付き、「うわさのカム・トゥ・ハワイ」を作った。サビの「きんさい きんさい」のところはトム・トム・クラブの「おしゃべり魔女」からヒントを得た。ニューヨークから入ってきたばかりの独特のリズムを導入して1982年6月21日発売のアルバム『もも』に収録した、等と話している[49]。「うわさのカム・トゥ・ハワイ」は、曲はポップながら、移民の苦労や真珠湾攻撃など、プロテストソング/反戦歌的内容を方言を用いてラップで自虐的に歌うという[51]、その後の日本に於けるラップのプラットフォームを準備する楽曲となった[51]

桑田佳祐は自身の「ラップの起源は『うわさのカム・トゥ・ハワイ』。あれを克也さんに聴かされて、それにちなんで他のラップのアルバムを1、2枚聴いた」と述べている[出典 31]クリス・ペプラーも「『うわさのカム・トゥ・ハワイ』の前には日本にラップはなかった。『うわさのカム・トゥ・ハワイ』が日本で最初のラップ」と述べている[55]宇多丸も「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』は日本語ラップとしてはかなり早い事例」と論じている[56]いとうせいこうも「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」はラップと話しており[57]、スネークマンショーに大きな影響を受け、自身が初めて手掛けた1985年12月21日発売されたアルバム『業界くん物語』を制作する際も参考にしたと話している[57]。いとうは「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』はトム・トム・クラブ的なちょっとファンク寄りのなところにラップが乗ってくる解釈だったと思う。それはヒップホップの可能性の一つだと思っている」などと論じている[57]。「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」は1981年2月21日リリースで、まだトム・トム・クラブはデビューしておらず、同曲はトム・トム・クラブよりも早い。

マルチな活動

ほとんど声(ナレーション)だけで、1983年度CM最多出演に輝いた[58]。内訳はラジオが富士急ハイランド資生堂ブラバスなど7本。テレビフィリップモリスラーク日産サニー。顔を出したテレビCMは日清カップヌードルなど3本で計12本[58]

『ベストヒットUSA』を観た石井聰亙から打診され[出典 32]、1984年『逆噴射家族』で主演デビュー[出典 33]。本作での怪演も評価された。2013年の宮藤官九郎監督作『中学生円山』で、平岡拓真演じる主人公の名前「円山克也」は『逆噴射家族』での小林克也が由来と宮藤は話している[61]

現在でもラジオDJとして活動中[出典 34]。自身で「リスナーにより楽しんでもらうために、日本では前例のないことをやってきたと思います」と話す[3]小室哲哉は「小林克也さんのあとを継ぎたいとずっと思っている」と話している[47]。『小林克也のSUPER DANCE BEATS』など小林の名を冠したCDがいくつか存在する。また、語学力を活かし、英語関連の著書、教材も多数手掛ける。

1993年10月には、FM-NACK5で『ファンキーフライデー』が放送開始。関東エリア聴取率1位の常連番組として、2021年現在で80歳を超えた今でも「9時間生放送」を行っている。

2018年8月には、NHK-FMで『小林克也の音楽グラフィティ』を5夜に亘って放送し、ピーター・バラカン、山下達郎、亀淵昭信らと鼎談を繰り広げた[63]。同番組の中で『ベストヒットUSA』では自分の好きな曲はほとんどかからず、ピーターがうらやましかったと秘話を明らかにした。同年、放送人の会[64]より特別賞を贈られる[65]

2020年8月現在、ほぼ全ての出演番組で朗読コーナーを設置している。

2021年7月 東京・Zepp Hanedaでライブ「DOUBLE CELEBRATION ECSEACY NIGHT」と題したライブを行った。伊武雅刀がゲスト出演し、と祝って小林と“犬のうんこ”コントを披露。1980年代に人気を博した「スネークマンショー」が一夜限りの復活となった。

2022年11月、長年の音楽業界への貢献を称え、第9回JASRAC音楽文化賞を受賞[3]

人物

サザンオールスターズ桑田佳祐とは、1980年代初頭から長年の交流があり、サザンの楽曲制作に多数協力し、多数のアルバムにSpecial Thanksのかたちでクレジットされている(主に初期作品での英詞の監修)。桑田は小林について「当時から洋楽の知識や新しい情報をたくさんご存知で、僕もいろんな事を克也さんから学びました」と述べている[出典 35]。ザ・ナンバーワン・バンドのアルバム『もも』(1982年)で楽曲提供・ヴォーカル参加した「六本木のベンちゃん」の歌詞、"ゴトウ花店"、"秀和レジデンス"など、当時小林が会話に使っていた言葉を羅列したものだという[54]。小林は六本木族をかすった時期があり[29]六本木での体験を小林が歌詞を先に書き[出典 36]、桑田がかなり書き換えたという[出典 37]。それを小林の目の前やり「うわ!すっげえ、こいつ天才だ」と思ったと話している[29]。サザン1982年のアルバム『NUDE MAN』の1曲目「DJ・コービーの伝説」は、DJ・小林克也をモデルにした楽曲である[出典 38]。小林は『KAMAKURA』(1985年)収録の「死体置き場でロマンスを」にもMCとして参加している。また、2004年に発売されたサザンのDVD『ベストヒットUSAS』は全編ベストヒットUSAのパロディであり、小林もサザンのミュージックビデオを紹介するMCとして出演している。2008年の「サザンオールスターズ 『真夏の大感謝祭』 30周年記念LIVE」では、映像で出演し、ライブの開始を告げた。

高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、鍵盤恐怖症[23]、1982年にサンフランシスコの山の上にあるサンタナの別荘を訪ねたら、瞑想室があり、入った途端、パニックを起こしたという[23]

第二言語ながらネイティブに近い英語を話す。口の形、舌の位置、口の周りの筋肉を鍛えることを重視しており、そのノウハウはVHSビデオテープ『English My Way!』で明かされている。

通訳案内士の活動当初は、訊かれても何もわからず、ただひたすら"I don't know.(わからない)"を繰り返し、ついには「神社」と「中華飯店」を間違えてしまい、観光客を激怒させてしまった。そのため、解雇になりかける。ところがその次の客には音楽知識で場の空気を盛り上げ、大いに気に入られた。ちなみにその客は、アメリカ合衆国のラジオ局の副社長だった。

高校時代、古文をカリキュラムとして学習させられることに関し、「なんでこんなに誰も使わない死んだ言葉を勉強しなきゃならないんだろう?」と疑問に感じた。その影響か、大学受験では入試科目に古典が一切なく、英語の配点が大きかった慶應義塾大学経済学部に入学する。

ユニクロ(UNIQLO)が[67]、1984年6月に広島市中心部に開いた1号店(中区袋町)開店の時[68]、広島ローカルのCMに起用され、のち全国展開が始まってからも、しばらくの間CM等に登場していた[68]。当時の店名は「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)といい、この略称が後の「ユニクロ」の元になっている[68]。なお、この1号店は現在はない[68]。また、ユニクロが現在のような有名ショップになった後も、再度CM出演したことがある[68]

ねるとん紅鯨団』に出演した際に、好きなタイプの女性を訊かれて「ソフィア・ローレン」と答えている。

ザ・ベストヒット'83』ではビートたけしと共演。細川たかしの「矢切の渡し」を英語風に「ヤギリノワタシ!」と紹介した。

広島東洋カープのファンであり[15]、自身のラジオ番組でよく話題に挙げる。2014年からマツダスタジアムでのカープ主催試合で、7回裏のカープ攻撃前にオーロラビジョンで流れるカープファンによる著名人が歌う「それ行けカープ」リレー映像の企画が立ち上がった際、ギャラが安く、約50人が断る中、小林が真っ先に出演を快諾[69]、「レジェンド」がOKしたと知った若い芸能人が小林に続いて出演を決めた[69]

出演

ラジオ番組

現在

過去

上記のうち、『ファンキーフライデー』『お願い!DJ!』『ZIP HOT 100』の3番組はいずれも4時間以上の長時間生放送番組であり、放送日もそれぞれ金曜・土曜・日曜と連続している点は注目に値する。しかし、『ZIP HOT 100』は本人の意思により3月26日放送をもって降板した。詳しい経緯は 小林克也のRADIO BAKA の「3つ目のボタン」中の『小林時々日記』に書かれている。

テレビ

現在

過去

テレビドラマ

映画

アニメ声優

PV

ゲーム

イントロ

ナレーター/CM

CM(テレビ)

声の出演(テレビ)

  • 笑点共同企画 福T(シャツ)・福バッグ・福ジャン(ジャンパー)キャンペーンCMソング(サントリー) - 『笑点』の司会者であった5代目三遊亭圓楽に声が似ていることから起用された。
  • Veryカープ!(中国放送 (RCC)) - テレビラジオでのカープ中継のキャッチフレーズのジングルを担当。

ほか多数

ナレーション(テレビ)

ほか多数

ラジオ

ほか

音声ガイド

楽曲

  • つりビット-「踊ろよ、フィッシュ」(山下達郎のカバー・ラジオから流れるDJという設定での出演)
  • Blue Sky Waseda (Keio)-東京六大学応援歌

その他コンテンツ

レコード・CD

ザ・ナンバーワン・バンド名義

アルバム

  • もも(1982年6月21日、invitation
  • 東京あたり(1983年6月21日、invitation)
  • ラジオ ショー(1984年、invitation)
  • はっぱすいすい(1985年、invitation)
  • BAD SONGS(1986年5月21日、invitation)ベスト・アルバム
  • ワイルドで行こう(1987年、紅白
  • 極楽ドンバ(1989年10月25日、ポリスター)
  • ます(1993年2月24日、ビクター音楽産業
  • ももんこ(1993年11月21日、SPEEDSTAR)『もも』から『ます』までの6アルバムから選んだベスト・アルバム
  • 鯛 最後の晩餐(2018年3月21日、SPEEDSTAR)[78]
    • 鯛 最後の晩餐(2CD+MOOK)(完全生産限定盤)(VIZL-1355)
    • 鯛 最後の晩餐 通常盤(VICL-64984)

シングル

  • うわさのカム・トゥ・ハワイ/ザ・ナンバーワン・バンドのテーマ
  • 六本木のベンちゃん/最新アメリカ式美容体操(桃を食べよう)
  • 野球小僧/プロレスを10倍楽しく見る方法/今でも豊登を愛しています
  • USA慕情 MIX#01/MIX#02
    「USA慕情」は歌詞に、駄洒落的にアメリカ合衆国の州の名前を盛り込んだ曲。
  • ワイルドで行こう/ワイルドで行こう -Valentine Mix-
  • 僕ちゃんたちのお店/ゲット オフ マイ スーパーポコ
  • 六本木のおじさん/レゲエのおじさん

スネークマン・ショー名義

カツヤ・コバヤーシ名義

  • アルバム『GO GO BOY』(1988年、紅白

花咲コバヤシ名義

  • アルバム『SHA-LA-LA GARDEN』(2001年11月7日)

ZELDA

  • アルバム『CARNAVAL』(1983年11月5日、日本フォノグラム)収録 #8「東京TOWER」 - 招き猫カゲキ団

その他参加作品

著書

  • 小林克也のビートにノッて70短文英会話 : Thinkingからfeelingへ』〈カッパ・ホームス〉、光文社、1987年4月30日。ISBN 978-4334051372
  • 英語のクスリ(イーフロンティア、2001年12月)ISBN 978-4590011219
  • うわさのファンキーフライデー(辰巳出版、2009年1月)ISBN 978-4777805013
  • 小林克也 洋楽の旅(玄光社、2021年5月)ISBN 978-4768314838

CDブック

  • 中国新聞SELECT×RCCラジオ Veryカープ! 名選手列伝100人の物語 Vol.1(2018年6月26日、中国新聞社
  • 中国新聞SELECT×RCCラジオ Veryカープ! 名選手列伝100人の物語 Vol.2(2018年7月31日、中国新聞社)
  • 中国新聞SELECT×RCCラジオ Veryカープ! 名選手列伝100人の物語 Vol.3(2018年9月21日、中国新聞社)
  • 中国新聞SELECT×RCCラジオ Veryカープ! 名選手列伝100人の物語 Vol.4(2018年10月27日、中国新聞社)

脚注

注釈

  1. ^ キョードー東京から最初に依頼されたのは1965年のリッキー・ネルソンの来日公演の司会[4]。この時、バックでベースを弾いていたのがグレン・キャンベルで、後日ヒットを出したキャンベルが来日公演した際は小林が司会を務め、旧交を温めた[4]。この公演で前座を務めたのがロス・インディオス・タバハラスで、この名前が覚えにくく「ロス・インディオス・タビガラス」と言ってしまい満場の大笑いを勝ち取った[4]

出典

  1. ^ a b 『声優事典』(第2版)キネマ旬報社、1996年、115頁。ISBN 4-87376-160-3 
  2. ^ a b c d DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、73頁。
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  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 山口保彦「好評連載 音楽人になりたいキミのための音楽に生きる(2) ディスク・ジョッキーの巻 『なんたって幅広い知識が必要だ 男も女もシビレさすアメリカ型超低音バイブレイション・ボイスの男 本格的ディスク・ジョッキー 小林克也』」『The Music』1978年2月号、小学館、154–157頁。 
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出典(リンク)

参考文献

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関連項目

外部リンク