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[[ファイル:Ryoichi Yazu & calculator.jpg|thumb|230px|矢頭良一と発明した「自働算盤」]]
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'''矢頭 良一'''(やず りょういち、[[1878年]](明治11年)[[6月30日]] - [[1908年]](明治41年)[[10月16日]])は、[[日本]]の[[発明家]]。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ[[機械式計算機]]を発明し、これらの製造販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った[[鳥類]]の[[飛翔]]を研究し、動力[[航空機]]の発明を試みたが31歳で没した<ref name=buzen-rekishi>{{Cite web|url=http://www.city.buzen.fukuoka.jp/jinbutsu/yazu/yazu.htm|title=矢頭良一|publisher=[[豊前市]]|accessdate=2009-03-22}}</ref>。
'''矢頭 良一'''(やず りょういち、[[1878年]]([[明治]]11年)[[6月30日]] - [[1908年]](明治41年)[[10月16日]])は、[[日本]]の[[発明家]]。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ[[機械式計算機]]を発明し、これらの製造販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った[[鳥類]]の[[飛翔]]を研究し、動力[[航空機]]の発明を試みたが31歳で没した<ref name="buzen-rekishi"/>。


== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
[[福岡県]][[上毛郡]]黒土村(現在の[[豊前市]])で、後に岩屋の[[村長]]となった父、道一、母、タミの長男して生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:[[福岡県立育徳館高等学校]])に進んだが[[鳥]]の[[飛翔]]に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し[[大阪]]へ出た。大阪で[[数学]]、[[工学]]や[[語学]]などの[[知識]]の必要性を痛感し、[[イギリス人|英国人]]の私塾にもかよって学習したと伝えられる<ref name=miwa-ogai>{{Cite web|author=三輪修|url= http://homepage2.nifty.com/Miwa/Historic%20Computer/Yazu.html |title=私のコンピュータ開発史、矢頭良一(手動計算機)および森鴎外『小倉日記』の一部|publisher=[[@nifty]] |accessdate=2009-03-22}}</ref><ref name=Kenchan>{{Cite web|url= http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/yazu.html |title=矢頭良一|publisher=[[豊前市|ぶぜん]]中津及びぶぜん地区のローカル情報発信サイト|accessdate=2009-03-22}}</ref>。
[[福岡県]][[上毛郡]][[黒土村]](現在の[[豊前市]])で、後に岩屋の[[村長]]となった父、道一、母、タミの長男して生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:[[福岡県立育徳館高等学校]])に進んだが[[鳥]]の[[飛翔]]に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し[[大阪]]へ出た。大阪で[[数学]]、[[工学]]や[[語学]]などの[[知識]]の必要性を痛感し、[[イギリス人|英国人]]の私塾にもかよって学習したと伝えられる<ref name=miwa-ogai>{{Cite web|和書|author=三輪修|url= http://homepage2.nifty.com/Miwa/Historic%20Computer/Yazu.html |title=私のコンピュータ開発史、矢頭良一(手動計算機)および森鴎外『小倉日記』の一部|publisher=[[@nifty]] |accessdate=2009-03-22}}</ref><ref name=Kenchan>{{Cite web|和書|url= http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/yazu.html |title=矢頭良一|publisher=[[豊前市|ぶぜん]]中津及びぶぜん地区のローカル情報発信サイト|accessdate=2009-03-22}}</ref>。22歳の時に帰郷し、[[鳥類]]飛翔の研究の没頭するとともに、[[機械式計算機]]も併せて研究した
22歳の時に帰郷し、[[鳥類]]飛翔の研究の没頭するとともに、[[機械式計算機]]も併せて研究した。


また、良一は[[赤穂浪士]]の一人、[[矢頭教兼]]の父、[[矢頭長助]]の末裔ともいわれる<ref>{{Cite web|date=2008-07-25|url=http://www.city.kitakyushu.jp/file/03010200/happyou/080725kikaiisann.pdf|title=「自働算盤」(機械式卓上計算機)の機械遺産認定について|format=PDF|publisher=[[北九州市]][[北九州市立文学館]]|accessdate=2009-03-22}}</ref>。
また、良一は[[赤穂浪士]]の一人、[[矢頭教兼]]の父、[[矢頭長助]]の末裔ともいわれる<ref>{{Cite web|和書|date=2008-07-25|url=http://www.city.kitakyushu.jp/file/03010200/happyou/080725kikaiisann.pdf|title=「自働算盤」(機械式卓上計算機)の機械遺産認定について|format=PDF|publisher=[[北九州市]][[北九州市立文学館]]|accessdate=2009-03-22}}</ref>。


== 自働算盤と航空機 ==
== 自働算盤と航空機 ==
1901年(明治34年)2月、23歳で脱稿した論文「飛学原理」と[[機械式計算機]]の[[模型]]を持ち、[[小倉市|小倉]]に[[赴任]]していた[[森外]]を訪ね、エンジンの[[動力]]によって飛翔する[[機械]]の発明を[[人類]]の飛行のために考えているが、[[資金]]がなく、機械式計算機を造りそれを売って資金を得たいと協力を要請した。以上は「小倉日記」に2月22日付で記されている。同日記の3月1日付には、矢頭に2度目に会ったとあり、同日の記述は「飛行機」という語の初出とも考えられている<ref>[http://dx.doi.org/10.1587/essfr.4.105 "明治時代に開発された我が国最初の計算機「自働算盤」"(電子情報通信学会 基礎・境界ソサイエティ Fundamentals Review Vol. 4 (2010) No. 2 P 105-112)] p. 108, 111</ref>。翌1902年(明治35年)機械式計算機「自働算盤」を発明し、1903年(明治36年)[[特許]]を得た。この手回し機械式計算機を東京・[[小石川]]で生産・販売し資金を得た。(詳細は[[機械式計算機#矢頭良一の自働算盤]]を参照)
1901年(明治34年)2月、23歳で脱稿した論文「飛学原理」<ref>「飛翔原理」とも(西日本新聞の記事による)</ref>と[[機械式計算機]]の[[模型]]を持ち、[[小倉市|小倉]]に[[赴任]]していた[[森外]]を訪ね、エンジンの[[動力]]によって飛翔する[[機械]]の発明を[[人類]]の飛行のために考えているが、[[資金]]がなく、機械式計算機を造りそれを売って資金を得たいと協力を要請した。以上は「小倉日記」に2月22日付で記されている。同日記の3月1日付には、矢頭に2度目に会ったとあり、同日の記述は「飛行機」という語の初出とも考えられている<ref>[https://doi.org/10.1587/essfr.4.105 "明治時代に開発された我が国最初の計算機「自働算盤」"(電子情報通信学会 基礎・境界ソサイエティ Fundamentals Review Vol. 4 (2010) No. 2 P 105-112)] p. 108, 111</ref>。翌1902年(明治35年)機械式計算機「自働算盤」を発明し、1903年(明治36年)[[特許]]を得た。この手回し機械式計算機を東京・[[小石川]]で生産・販売し資金を得た。(詳細は[[機械式計算機#矢頭良一の自働算盤]]を参照)


25歳のときには「漢字早繰辞書」なる[[漢字]]を手早く引ける[[辞書]]を考案し、27歳の時からそれも売り出している<ref>{{Cite web|date=2008-07-25|url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0701/kt_701_070127.htm |title=矢頭良一…大空への夢、計算機発明(福岡県豊前市)|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2009-03-22}}</ref><ref name=buzen-rekishi>{{Cite web|url=http://www.city.buzen.fukuoka.jp/jinbutsu/yazu/yazu.htm|title=矢頭良一|publisher=[[豊前市]]|accessdate=2009-03-22}}</ref>。また東京の[[中央新聞]](明治20年創刊)に「少壮なる発明家矢頭良一氏」が12回連載された<ref name=Kenchan />。漢字早繰辞書の仕組みは、山田昭彦によって確認されており、筆画を「第1種 水平ニ引キタル及(略)」「第2種 上ヨリ下ニ垂下シタル線及(略)」といったように分類し、筆順によって並べたコードにより引くものである。
25歳のときには「漢字早繰辞書」なる[[漢字]]を手早く引ける[[辞書]]を考案し、27歳の時からそれも売り出している<ref name="buzen-rekishi">{{Cite web|和書|url=http://www.city.buzen.fukuoka.jp/jinbutsu/yazu/yazu.htm|title=矢頭良一|publisher=[[豊前市]]|accessdate=2009-03-22}} {{Wayback|url=http://www.city.buzen.fukuoka.jp/jinbutsu/yazu/yazu.htm|date=19991009210921}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2008-07-25|url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0701/kt_701_070127.htm |title=矢頭良一…大空への夢、計算機発明(福岡県豊前市)|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2009-03-22}} {{Wayback|url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0701/kt_701_070127.htm|date=20080926121623}}</ref>。また東京の[[中央新聞]](明治20年創刊)に「少壮なる発明家矢頭良一氏」が12回連載された<ref name=Kenchan />。漢字早繰辞書の仕組みは、山田昭彦によって確認されており、筆画を「第1種 水平ニ引キタル及(略)」「第2種 上ヨリ下ニ垂下シタル線及(略)」といったように分類し、筆順によって並べたコードにより引くものである。


1907年(明治40年)30歳の時、計算機の販売拡張のため[[福岡市|福岡]]へ一時行ったがその後、[[福岡日日新聞]]にて記事「空中飛行機研究家矢頭良一氏」が15回連載で紹介され、良一の寄稿による「空中飛行船研究の必要」も説かれた<ref name=Kenchan />このように、残された文献に「飛行機」とも「飛行船」ともあるため、いわゆる「空気より軽い航空機」と「空気より重い航空機」の、どちらであるかはっきりしていない。こうした活動と熱意によって、[[井上馨]]や[[鮎川義介]]の援助もあり、1907年(明治40年)小石川で、その後[[雑司が谷]]に工場を移しエンジンを試作したが<ref name=buzen-rekishi />、[[肋膜炎]]の再発で翌1908年(明治41年)に没した。
1907年(明治40年)30歳の時、計算機の販売拡張のため[[福岡市|福岡]]へ一時行ったがその後、[[福岡日日新聞]]にて記事「空中飛行機研究家矢頭良一氏」が15回連載で紹介され、良一の寄稿による「空中飛行船研究の必要」も説かれた<ref name=Kenchan /><ref group="注">このように、残された文献に「飛行機」とも「飛行船」ともあるため、いわゆる「空気より軽い航空機」と「空気より重い航空機」の、どちらであるかはっきりしていない。</ref>。こうした活動と熱意によって、[[井上馨]]や[[鮎川義介]]の援助もあり、1907年(明治40年)小石川で、その後[[雑司が谷]]に工場を移しエンジンを試作したが<ref name="buzen-rekishi"/>、[[肋膜炎]]の再発で翌1908年(明治41年)に没した。


豊前市史に掲載の福岡日日新聞の記事によると(同市サイト『豊前人物誌』より孫引き、物理単位は一部現在のものに換算)、[[模型]]は前後の長さ約3.6[[メートル|m]]、横幅約1.5m、[[鋼鉄]]製で[[アクセサリー|付属品]]も備わり費用は9,500[[円 (通貨)|円]]。実機の完成予想は長さ約16m、幅約4.26m、面積約28[[平方メートル]]であり、重量約6[[トン|t]]、[[翼]]の長さは約6mと記され、最大時速400[[マイル]]、最小時速3マイル、通常時速は200マイル、製造費用は30,000円であったとされる。{{疑問点|date=2013年12月}}
豊前市史に掲載の福岡日日新聞の記事によると(同市サイト『豊前人物誌』より孫引き、物理単位は一部現在のものに換算)、[[模型]]は前後の長さ約3.6[[メートル]]、横幅約1.5メートル、[[鋼鉄]]製で[[アクセサリー|付属品]]も備わり費用は9500[[円 (通貨)|円]]。実機の完成予想は長さ約16メートル、幅約4.26メートル、面積約28[[平方メートル]]であり、重量約6[[トン]]、[[翼]]の長さは約6メートルと記され、最大時速400[[マイル]]、最小時速3マイル、通常時速は200マイル、製造費用は3万円であったとされる。{{疑問点|date=2013年12月}}

エンジンは「実験の結果、好都合なるときは未だ無比の発動機にして、重量僅かに10貫目余、20馬力、分時間に万回転」と、良一没後に父道一が記している(こちらも『豊前人物誌』)<!-- 1マイル=1,609.344メートルと、1,852メートル有り、どちらか不明にてKM表示は避けた --><!-- ← カギカッコの中の表現を換算するとか論外極まる。げきおこぷんぷん丸 -->。{{疑問点|date=2013年12月}}


エンジンは「実験の結果、好都合なるときは未だ無比の発動機にして、重量僅かに10貫目余、20馬力、1分時間に3万回転」と、良一没後に父道一が記している(こちらも『豊前人物誌』)<!-- 1マイル=1,609.344メートルと、1,852メートル有り、どちらか不明にてKM表示は避けた --><!-- ← カギカッコの中の表現を換算するとか論外極まる。げきおこぷんぷん丸 -->。{{疑問点|date=2013年12月}}
<!--「機械式計算機」の記事と重複するため外す--><!--
自働算盤は特許を得て、販売価格250円とし200台以上も売れ<ref name=Kenchan />、森鴎外の日記によれば[[夏目漱石]]も持ち歩き<ref>{{Cite web|date=2006-03-13|url=http://okehazama.cocolog-nifty.com/hiru_tsuki/2006/03/post_b99a.html|title=わが国の電卓産業が歩んできた道(1)(国立科学博物館 産業技術史講座から)1903年|format=PDF|publisher=昼間の青い月、美術館・博物館めぐり|accessdate=2009-03-22}}</ref>、また[[陸軍省]]、[[内務省 (日本)|内務省]]、[[農業試験場#日本における農業試験場|農事試験場]]等に販売された。しかしその後、タイガー計算器などが大量生産されるようになったこと、小倉日記の紛失などもあり、自働算盤は忘れられていった(たとえば[[城憲三]]らによる『計算機械』からは言及がない)。
自働算盤は特許を得て、販売価格250円とし200台以上も売れ<ref name=Kenchan />、森鴎外の日記によれば[[夏目漱石]]も持ち歩き<ref>{{Cite web|date=2006-03-13|url=http://okehazama.cocolog-nifty.com/hiru_tsuki/2006/03/post_b99a.html|title=わが国の電卓産業が歩んできた道(1)(国立科学博物館 産業技術史講座から)1903年|format=PDF|publisher=昼間の青い月、美術館・博物館めぐり|accessdate=2009-03-22}}</ref>、また[[陸軍省]]、[[内務省 (日本)|内務省]]、[[農業試験場#日本における農業試験場|農事試験場]]等に販売された。しかしその後、タイガー計算器などが大量生産されるようになったこと、小倉日記の紛失などもあり、自働算盤は忘れられていった(たとえば[[城憲三]]らによる『計算機械』からは言及がない)。


1951年に小倉日記が発見され、その中に自働算盤についての記述があったことから、森鴎外研究家や古い計算機のコレクターから興味を持たれるようになり、豊前市の久富家に保存されていたのが発見された(1965年小林安司、1977年内山昭。現代のように情報が流通する時代ではなかったため、どちらも「初の発見」と扱われた)。[[北九州市立文学館]]に寄贈され、現在は同館の蔵である。2008年(平成20年)には[[機械遺産]]のNo.30に認定された<ref>http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_030.html</ref>。
1951年に小倉日記が発見され、その中に自働算盤についての記述があったことから、森鴎外研究家や古い計算機のコレクターから興味を持たれるようになり、豊前市の久富家に保存されていたのが発見された(1965年小林安司、1977年内山昭。現代のように情報が流通する時代ではなかったため、どちらも「初の発見」と扱われた)。[[北九州市立文学館]]に寄贈され、現在は同館の蔵である。2008年(平成20年)には[[機械遺産]]のNo.30に認定された<ref>http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_030.html</ref>。
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一方、「飛学原理」は現在行方不明である。
なお、「飛学原理」は現在行方不明である。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書
* {{Cite web|url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/pdf/18555.pdf|title=矢頭良一の機械式卓上計算機「自働算盤」に関する調査報告、8/9ページ|format=PDF|pages=8/9ページ|publisher=[[国立科学博物館]]|language=日本語及び英語|accessdate=2010-08-27}}
| url = http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/019.pdf
* {{Citation|last=朝日新聞|year=2010|title=「時価1億円」最古の国産計算機 発明家親族が寄贈|url=http://www.asahi.com/national/update/0818/SEB201008180049.html|publisher=asahi.com|date=2010-08-19|accessdate=2010-08-29}}
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* {{Cite web|和書
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2024年7月17日 (水) 13:36時点における最新版

矢頭良一と発明した「自働算盤」

矢頭 良一(やず りょういち、1878年明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した[1]

生い立ち

[編集]

福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学工学語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる[2][3]。22歳の時に帰郷し、鳥類飛翔の研究の没頭するとともに、機械式計算機も併せて研究した。

また、良一は赤穂浪士の一人、矢頭教兼の父、矢頭長助の末裔ともいわれる[4]

自働算盤と航空機

[編集]

1901年(明治34年)2月、23歳で脱稿した論文「飛学原理」[5]機械式計算機模型を持ち、小倉赴任していた森鷗外を訪ね、エンジンの動力によって飛翔する機械の発明を人類の飛行のために考えているが、資金がなく、機械式計算機を造りそれを売って資金を得たいと協力を要請した。以上は「小倉日記」に2月22日付で記されている。同日記の3月1日付には、矢頭に2度目に会ったとあり、同日の記述は「飛行機」という語の初出とも考えられている[6]。翌1902年(明治35年)機械式計算機「自働算盤」を発明し、1903年(明治36年)特許を得た。この手回し機械式計算機を東京・小石川で生産・販売し資金を得た。(詳細は機械式計算機#矢頭良一の自働算盤を参照)

25歳のときには「漢字早繰辞書」なる漢字を手早く引ける辞書を考案し、27歳の時からそれも売り出している[1][7]。また東京の中央新聞(明治20年創刊)に「少壮なる発明家矢頭良一氏」が12回連載された[3]。漢字早繰辞書の仕組みは、山田昭彦によって確認されており、筆画を「第1種 水平ニ引キタル及(略)」「第2種 上ヨリ下ニ垂下シタル線及(略)」といったように分類し、筆順によって並べたコードにより引くものである。

1907年(明治40年)30歳の時、計算機の販売拡張のため福岡へ一時行ったがその後、『福岡日日新聞』にて記事「空中飛行機研究家矢頭良一氏」が15回連載で紹介され、良一の寄稿による「空中飛行船研究の必要」も説かれた[3][注 1]。こうした活動と熱意によって、井上馨鮎川義介の援助もあり、1907年(明治40年)小石川で、その後雑司が谷に工場を移しエンジンを試作したが[1]肋膜炎の再発で翌1908年(明治41年)に没した。

豊前市史に掲載の『福岡日日新聞』の記事によると(同市サイト『豊前人物誌』より孫引き、物理単位は一部現在のものに換算)、模型は前後の長さ約3.6メートル、横幅約1.5メートル、鋼鉄製で付属品も備わり費用は9500。実機の完成予想は長さ約16メートル、幅約4.26メートル、面積約28平方メートルであり、重量約6トンの長さは約6メートルと記され、最大時速400マイル、最小時速3マイル、通常時速は200マイル、製造費用は3万円であったとされる。[疑問点]

エンジンは「実験の結果、好都合なるときは未だ無比の発動機にして、重量僅かに10貫目余、20馬力、1分時間に3万回転」と、良一没後に父道一が記している(こちらも『豊前人物誌』)。[疑問点]

なお、「飛学原理」は現在行方不明である。

脚注

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注釈

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  1. ^ このように、残された文献に「飛行機」とも「飛行船」ともあるため、いわゆる「空気より軽い航空機」と「空気より重い航空機」の、どちらであるかはっきりしていない。

出典

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  1. ^ a b c 矢頭良一”. 豊前市. 2009年3月22日閲覧。 アーカイブ 1999年10月9日 - ウェイバックマシン
  2. ^ 三輪修. “私のコンピュータ開発史、矢頭良一(手動計算機)および森鴎外『小倉日記』の一部”. @nifty. 2009年3月22日閲覧。
  3. ^ a b c 矢頭良一”. ぶぜん中津及びぶぜん地区のローカル情報発信サイト. 2009年3月22日閲覧。
  4. ^ 「自働算盤」(機械式卓上計算機)の機械遺産認定について” (PDF). 北九州市北九州市立文学館 (2008年7月25日). 2009年3月22日閲覧。
  5. ^ 「飛翔原理」とも(西日本新聞の記事による)
  6. ^ "明治時代に開発された我が国最初の計算機「自働算盤」"(電子情報通信学会 基礎・境界ソサイエティ Fundamentals Review Vol. 4 (2010) No. 2 P 105-112) p. 108, 111
  7. ^ 矢頭良一…大空への夢、計算機発明(福岡県豊前市)”. 読売新聞 (2008年7月25日). 2009年3月22日閲覧。 アーカイブ 2008年9月26日 - ウェイバックマシン

外部リンク

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