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'''小畑 信良'''(おばた のぶよし、[[1897年]]([[明治]]30年)[[3月29日]] - [[1976年]]([[昭和]]51年)[[5月30日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。最終[[日本軍の階級|階級]]は陸軍[[少将]]。兄に[[小畑英良]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[大阪府]]出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。[[大阪府立茨木高等学校|茨木中学校]]卒。補給を極端に軽視した日本軍において、[[輜重兵|輜重]]将校として[[陸軍大学校]]に入校し卒業した数少ない[[兵站]]の専門家だった。
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[[第二次世界大戦]]開戦前の1941年2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。
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第15軍参謀長時、第15軍司令部で後の[[インパール作戦]]が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。この時、小畑は航空偵察で予想進撃路の視察を行い、峻厳な山岳部では補給路の整備が困難であると認識しており、[[牟田口廉也]]15軍司令官に作戦の中止を求めたものの、却下された。このため小畑は第15軍下の第18師団長[[田中新一]]中将に説得の協力を頼んだが、これがもとで牟田口の逆鱗に触れて参謀長を解任された。
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関東軍情報部奉天支部長に転じ、その後[[第44軍 (日本軍)|第44軍]]参謀長としてソ連軍の満州侵攻を迎える。シベリアに抑留され、[[1956年]](昭和31年)12月に帰国した。


== 年譜 ==
== 年譜 ==
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*[[1929年]](昭和4年)8月 参謀本部附
*[[1929年]](昭和4年)8月 参謀本部附
**10月 参謀本部部員
**10月 参謀本部部員
*[[1931年]](昭和6年)3月 [[陸軍自動車学校]]教官
*[[1931年]](昭和6年)3月 [[陸軍機甲整備学校|陸軍自動車学校]]教官
*[[1932年]](昭和7年)6月 陸軍大学校教官
*[[1932年]](昭和7年)6月 陸軍大学校教官
*[[1933年]](昭和8年)8月 輜重兵[[少佐]]
*[[1933年]](昭和8年)8月 輜重兵[[少佐]]
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== 親族 ==
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* 妻 小畑富子 [[藤津準一]](陸軍少将)の娘。
* 妻 小畑富子 [[藤津準一]](陸軍少将)の娘。
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小畑 信良
小畑信良
生誕 1897年3月29日
大日本帝国の旗 大日本帝国 大阪府
死没 (1976-05-30) 1976年5月30日(79歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1918年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
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小畑 信良(おばた のぶよし、1897年明治30年)3月29日 - 1976年昭和51年)5月30日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良

経歴

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大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。

太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。

1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。この時、小畑は航空偵察で予想進撃路の視察を行い、峻厳な山岳部では兵站の整備が困難であると認識しており、牟田口廉也第15軍司令官に作戦の中止を求めたものの、却下された。このため小畑は第15軍下の第18師団田中新一中将に説得の協力を依頼、田中は4月20日に開かれた兵団長会同の席上で牟田口に再考を促したが、同時に「小畑が牟田口に直接意見具申すべきで、統率上問題である」と述べる。これがもとで牟田口の逆鱗に触れて5月には参謀長を解任された。

関東軍情報部奉天支部長に転じ、その後第44軍参謀長としてソ連軍の満州侵攻を迎える。シベリアに抑留され、1956年(昭和31年)12月に帰国した。

年譜

[編集]

親族

[編集]

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。