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* [[中南米]]における貿易実務者・移住者の育成をめざすなど、同地域に対する関心を強く有していた。
* [[中南米]]における貿易実務者・移住者の育成をめざすなど、同地域に対する関心を強く有していた。
* [[第二次世界大戦]]中に'''横浜経済専門学校'''('''横浜経専''')と改称、横浜工業経営専門学校を併設した。
* [[第二次世界大戦]]中に'''横浜経済専門学校'''('''横浜経専''')と改称、横浜工業経営専門学校を併設した。
* [[学制改革]]により'''[[新制大学|新制]][[横浜国立大学]][[経済学部]]・[[経営学部]]の構成母体'''となった。
* [[学制改革]]により'''[[新制大学|新制]][[横浜国立大学経済学部]]・[[横浜国立大学経営学部|経営学部]]の構成母体'''となった。
* 卒業生により同窓会「'''富丘会'''」(発足当初は「横浜高等商業学校同窓会」)が組織されている。
* 卒業生により同窓会「'''富丘会'''」(発足当初は「横浜高等商業学校同窓会」)が組織されている。


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=== 教育・研究の発展 ===
=== 教育・研究の発展 ===
初代校長となった[[田尻常雄]]([[1923年]]〜[[1943年]]在任)は東京高商出身で[[長崎高等商業学校|長崎高商]]第4代校長から横浜高商創立準備委員長に転じた人物で、開校から20年(すなわち本校の存続期間の大半)にわたって校長を務めた。教育方針としては先行の東京高商にって[[ゼミナール]]制が取られ、また商業論・商品学・商業英語・貿易実務などの実践科目に加え、経済原論・金融論・財政学など[[経済学]]科目も選択科目とされ、'''学理研究にも重点が置かれている'''<ref>同上、p.164。これに対して先行の[[神戸商業大学 (旧制)|神戸]]・長崎・[[小樽高等商業学校|小樽]]の各高商では商学関係の実践科目に重点が置かれていた。</ref>。さらに[[1929年]]([[昭和]]4年)には修業年限1年の「'''貿易別科'''」(南米貿易科)が設置され、[[スペイン語]]や農業実習など南米移住・南米貿易の指導者の育成が進められた。
初代校長となった[[田尻常雄]]([[1923年]]〜[[1943年]]在任)は東京高商出身で[[長崎高等商業学校|長崎高商]]第4代校長から横浜高商創立準備委員長に転じた人物で、開校から20年(すなわち本校の存続期間の大半)にわたって校長を務めた。教育方針としては先行の東京高商にって[[ゼミナール]]制が取られ、また商業論・商品学・商業英語・貿易実務などの実践科目に加え、経済原論・金融論・財政学など[[経済学]]科目も選択科目とされ、'''学理研究にも重点が置かれている'''<ref>同上、p.164。これに対して先行の[[神戸商業大学 (旧制)|神戸]]・長崎・[[小樽高等商業学校|小樽]]の各高商では商学関係の実践科目に重点が置かれていた。</ref>。さらに[[1929年]]([[昭和]]4年)には修業年限1年の「'''貿易別科'''」(南米貿易科)が設置され、[[スペイン語]]や農業実習など南米移住・南米貿易の指導者の育成が進められた。


横浜高商は第1回卒業生を出した[[1927年]]以降しばらくの間、[[金融恐慌]]に端を発する不景気により困難を極める就職状況に直面するが、田尻校長は財界人との太いコネクションを利用して卒業生の就職斡旋に力をふるい、第1〜8期(1927年〜[[1934年]]度)卒業生の7割程度が企業・銀行に就職している<ref>同上、p.163、165-166。</ref>。横浜高商の名声が高まるにつれて、首都圏で高商をめざす者のうち優秀な生徒がここに集中するようになり、既存の東京商大[[大学予科|予科]]・[[大学専門部 (旧制)|商学専門部]]<ref>それぞれ[[旧制高等学校]]・[[旧制専門学校]]に相当する附設課程で、[[旧制中等学校]]の卒業生を対象とする。</ref>の衰退を招き、両課程の廃止問題をめぐり同大学の[[申酉事件#籠城事件|籠城事件]]([[1931年]])を引き起こす背景となった。
横浜高商は第1回卒業生を出した[[1927年]]以降しばらくの間、[[金融恐慌]]に端を発する不景気により困難を極める就職状況に直面するが、田尻校長は財界人との太いコネクションを利用して卒業生の就職斡旋に力をふるい、第1〜8期(1927年〜[[1934年]]度)卒業生の7割程度が企業・銀行に就職している<ref>同上、p.163、165-166。</ref>。横浜高商の名声が高まるにつれて、首都圏で高商をめざす者のうち優秀な生徒がここに集中するようになり、既存の東京商大[[大学予科|予科]]・[[大学専門部 (旧制)|商学専門部]]<ref>それぞれ[[旧制高等学校]]・[[旧制専門学校]]に相当する附設課程で、[[旧制中等学校]]の卒業生を対象とする。</ref>の衰退を招き、両課程の廃止問題をめぐり同大学の[[申酉事件#籠城事件|籠城事件]]([[1931年]])を引き起こす背景となった。
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教育の発展と並行して研究活動も拡充された。設立2年後の[[1925年]]10月に設置された研究所は[[1941年]]1月には「'''太平洋貿易研究所'''」に改組されて太平洋地域を中心とする資料の整理・研究をすすめた。研究団体としては1929年に「商学会」が発足して機関誌『商学』が創刊されたほか、[[1936年]]11月には「貿易研究会」が発足して[[ブロック経済]]の下での各地域の貿易動向に関する研究を進め、戦時下の[[1942年]]5月発足の「太平洋貿易研究会」に発展した。
教育の発展と並行して研究活動も拡充された。設立2年後の[[1925年]]10月に設置された研究所は[[1941年]]1月には「'''太平洋貿易研究所'''」に改組されて太平洋地域を中心とする資料の整理・研究をすすめた。研究団体としては1929年に「商学会」が発足して機関誌『商学』が創刊されたほか、[[1936年]]11月には「貿易研究会」が発足して[[ブロック経済]]の下での各地域の貿易動向に関する研究を進め、戦時下の[[1942年]]5月発足の「太平洋貿易研究会」に発展した。


課外活動としては同じく横浜に所在する官立高等教育機関で、文・理の相互補完関係にあった横浜高工とスポーツの交流戦が盛んに行われ、特に[[野球]]の対抗戦は「ハマの[[早慶戦]]」と称されて学生・市民の人気を得た。
課外活動としては同じく横浜に所在する官立高等教育機関で、文・理の相互補完関係にあった横浜高工とスポーツの交流戦が盛んに行われ、特に[[野球]]の対抗戦は'''の[[早慶戦#○○の早慶戦|早慶戦]]」'''<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461482/48 横浜高等商業学校二十年史]』 62頁</ref>と称されて学生・市民の人気を得た。


=== 戦時体制と新制への移行 ===
=== 戦時体制と新制への移行 ===
[[1941年]]12月以降の戦時体制は、横浜高商を含む高商に工業化への転機を強いることとなった。軍部の高商・商業学校工業化変換により、官立高商のいくつかは[[高等工業学校|工業専門学校]]に転換されたが、横浜高商はそのような途を回避したものの、[[1944年]]4月には長崎・[[名古屋高等商業学校|名古屋]]の各高商と同様、'''「横浜経済専門学校」への改組'''および'''「横浜工業経営専門学校」の併設'''を余儀なくされることとなった。敗戦後の[[1946年]]3月、工業経営専門学校は廃止され、[[学制改革]]のもとで横浜経専は同じ官立の横浜工専(横浜高工を改称)や[[神奈川師範学校|神奈川師範]]・[[神奈川青年師範学校|神奈川青師]]とともに、[[国立学校設置法]]に基づく新制の総合大学の発足をめざすことになった<ref>これに対し公立の[[横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)|横浜立経専]]は、同じく公立(横浜市立)の[[横浜医科大学 (旧制)|(旧制)横浜医大]]とともに公立大学、私立の横浜専門学校は単独昇格による私立大学の発足をめざした。この際、3者が同じ「横浜大学」の名称を申請して競合したため、協議によりそれぞれ横浜国立大学・[[横浜市立大学]]・[[神奈川大学]]の名称で申請し直した。</ref>。そして[[1949年]]5月、新たに発足した'''[[横浜国立大学]]に包括'''されて[[経済学部]]の母体となり、[[1951年]]3月には横浜経専最後の卒業式が挙行され廃止された。
[[1941年]]12月以降の戦時体制は、横浜高商を含む高商に工業化への転機を強いることとなった。軍部の高商・商業学校工業化変換により、官立高商のいくつかは[[高等工業学校|工業専門学校]]に転換されたが、横浜高商はそのような途を回避したものの、[[1944年]]4月には長崎・[[名古屋高等商業学校|名古屋]]の各高商と同様、'''「横浜経済専門学校」への改組'''および'''「横浜工業経営専門学校」の併設'''を余儀なくされることとなった。敗戦後の[[1946年]]3月、工業経営専門学校は廃止され、[[学制改革]]のもとで横浜経専は同じ官立の横浜工専(横浜高工を改称)や[[神奈川師範学校|神奈川師範]]・[[神奈川青年師範学校|神奈川青師]]とともに、[[国立学校設置法]]に基づく新制の総合大学の発足をめざすことになった<ref>これに対し公立の[[横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)|横浜立経専]]は、同じく公立(横浜市立)の[[横浜医科大学 (旧制)|(旧制)横浜医大]]とともに公立大学、私立の横浜専門学校は単独昇格による私立大学の発足をめざした。この際、3者が同じ「横浜大学」の名称を申請して競合したため、協議によりそれぞれ横浜国立大学・[[横浜市立大学]]・[[神奈川大学]]の名称で申請し直した。</ref>。そして[[1949年]]5月、新たに発足した'''[[横浜国立大学]]に包括'''されて[[横浜国立大学経済学部|経済学部]]の母体となり、[[1951年]]3月には横浜経専最後の卒業式が挙行され廃止された。


=== 年表 ===
=== 年表 ===
* [[1923年]]12月10日:設立。本科を設置(修業年限3年)。
* [[1923年]]12月10日:設立。本科を設置(修業年限3年)。
* [[1924年]]4月:最初の学生募集を行い開校。
* [[1924年]]4月:最初の学生募集を行い開校。
* [[1925年]]7月:横浜高工との野球定期戦始まる。
* [[1925年]]10月:研究所を設置。
* [[1925年]]10月:研究所を設置。
* [[1926年]]4月:夜学部を設置。
* [[1926年]]4月:夜学部を設置。
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== 校地の変遷と継承 ==
== 校地の変遷と継承 ==
[[File:Yokohama Higher Commercial School.jpg|thumb|220px|横浜高等商業学校の校舎]]
設立当初は[[横浜高等工業学校]]('''大岡''')の建物を借用していたが、[[1926年]]3月、南太田町'''清水台'''校地に、震災対策として高商のなかでは比較的早く鉄筋コンクリート造の新校舎を建設して移転した。清水台校地は[[学制改革]]を経て横浜国立大学経済学部に継承され、[[1974年]]3月に'''常盤台'''校地(保土ヶ谷区)に移転するまで使用された。旧清水台校地は、現在は[[神奈川県立横浜清陵総合高等学校]]の校地や清水ヶ丘公園となっている
設立当初は[[横浜高等工業学校]]('''大岡''')の建物を借用していたが、[[1926年]]3月、南太田町'''清水台'''校地に、震災対策として高商のなかでは比較的早く鉄筋コンクリート造の新校舎を建設して移転した。清水台校地は[[学制改革]]を経て[[横浜国立大学経済学部]]に継承され、[[1974年]]3月に'''常盤台'''校地(保土ヶ谷区)に移転するまで使用された。

旧清水台校地は、現在は[[神奈川県立横浜清陵総合高等学校]]の校地や清水ヶ丘公園となっている。

== 学生生活 ==
; 野球部
[[1931年]]11月30日、[[日米野球]]第17戦(旧[[横浜公園平和野球場|横浜公園球場]])で[[1931年のメジャーリーグベースボール#全米大リーグ選抜チームの訪日|全米選抜チーム]]と対戦し5-11で敗退。横浜高商には途中出場の[[宇佐美一夫]]捕手らがいた。宇佐美自身は2打数1安打2打点であった<ref>1931年の日米野球は全17戦実施され全米選抜チームが全勝した。東大を除く[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]各校の現役チームやOBを含めたオールチーム、全日本チームらと数試合、そして[[西村幸生]]投手らがいた[[関西大学野球部|関西大]]、[[大岡虎雄]]がいた[[新日本製鐵八幡硬式野球部|八幡製鉄]]、[[苅田久徳]]や[[久慈次郎]]の全横浜、宇佐美一夫捕手らがいた横浜高商とそれぞれ1試合ずつ対戦した。全米選抜は[[ルー・ゲーリッグ]]や[[レフティ・グローブ]]投手、[[ミッキー・カクレーン]]、[[アル・シモンズ]]、[[ラビット・モランビル]]、[[フランキー・フリッシュ]]、[[ウィリー・カム]]、[[レフティ・オドール]]ら[[メジャーリーグベースボールの選手一覧|メジャーリーガー]]を中心に2名の[[マイナーリーグ|2A]]選手を加えたチームだったが、ゲーリッグは6戦目以降は怪我により不出場。なお、翌[[1932年]]に[[文部省]]より[[野球ノ統制並施行ニ関スル件|野球統制令]]の[[訓令]]が出され、学生野球の興行化に歯止めがかけられ学生とプロとの試合が禁じられた。</ref>。

横浜高商野球部は、[[横浜高等工業学校|横浜高工]]と共に強豪として鳴らし、[[全国高等専門学校野球大会]]では昭和4年の第6回大会([[1929年]])で初優勝後、その後進大会(全国実業専門学校野球大会)でも3度優勝している。


== 校長 ==
== 校長 ==
*初代:[[田尻常雄]](- 1943年11月)
*初代:[[田尻常雄]](- 1943年11月)
**[[長崎高等商業学校|長崎高商]]より転任。後の新制[[東京経済大学]]学長。
**[[長崎高等商業学校|長崎高商]]より転任。後の新制[[東京経済大学]]学長。
*第2代:岡野鑑記(1943年11月 - 1946年3月)
*第2代:[[岡野鑑記]](1943年11月 - 1946年3月)
**元横浜高商教授。<!--[[関東軍]]参謀部第四課経済顧問(財政・金融)、-->[[建国大学]]より転任。
**元横浜高商教授。<!--[[関東軍]]参謀部第四課経済顧問(財政・金融)、-->[[建国大学]]より転任。
*第3代:[[糸魚川祐三郎]](1945年11月24日<ref name=kp5664>『官報』第5664号、昭和20年11月28日。</ref> - )
*第3代:[[糸魚川祐三郎]](1945年11月24日<ref name=kp5664>『官報』第5664号、昭和20年11月28日。</ref> - )
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== 著名な出身者 ==
== 著名な出身者 ==
*[[平八郎]]:[[経済学者]]。[[横浜国立大学]]名誉教授。
*[[堅二]]:[[会計学者]]。[[横浜国立大学]][[名誉教授]]
*[[長洲一二]]: [[経済学者]]。[[横浜国立大学]]名誉教授。元[[神奈川県知事]]。[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]に進学
*[[大崎平八郎]]:[[経済学者]]。横浜国立大学名誉教授。
*[[越村信三郎]]:経済学者。横浜国立大学名誉教授・元学長
*[[長洲一二]]: 経済学者。横浜国立大学名誉教授。元[[神奈川県知事]]。[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]に進学。
*[[秦野章]]:[[警視総監]]。[[参議院]]議員。[[日本大学]]専門部政治科に進学。
*[[秦野章]]:[[警視総監]]。[[参議院]]議員。[[日本大学]]専門部政治科に進学。
*[[三好徹]]: [[直木三十五賞|直木賞]]作家。
*[[三好徹]]: [[直木三十五賞|直木賞]]作家。
*[[西堀正弘]]: [[外交官]]。元[[国連大使]]。東京商科大学に進学。
*[[西堀正弘]]: [[外交官]]。元[[国連大使]]。東京商科大学に進学。
*[[宮崎義一]]: 経済学者。[[京都大学]]名誉教授。東京商科大学に進学。
*[[宮崎義一]]: 経済学者。[[京都大学]]名誉教授。東京商科大学に進学。
*[[若杉明]]:会計学者。横浜国立大学名誉教授。
*[[大石八治]]: 元[[衆議院議員]]([[自由民主党]])。[[大石千八]]の父。
*[[藤岡喜久男]]:歴史学者。
*町田業太: 元[[兼松|兼松江商]]社長(1965~76年)。
*[[富岡幸雄]]:日本における[[税理士]]の第一号。[[公認会計士]]。[[租税|租税学]]者。[[中央大学]][[名誉教授]]。[[瑞宝中綬章]]受章。
*[[大石八治]]: 元[[衆議院議員]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])。[[大石千八]]の父。
*[[町田業太]]: 元[[兼松|兼松江商]]社長(1965~76年)。
*秋田金一: 元[[あいおい損害保険|大東京火災海上保険]]社長(1970~76年)。
*秋田金一: 元[[あいおい損害保険|大東京火災海上保険]]社長(1970~76年)。
*小関周一: 元[[三菱製紙]]社長(1970~78年)。
*[[小関周一]]: 元[[三菱製紙]]社長(1970~78年)。
*鈴木勲: 元[[ゼネラル石油]]社長(1973~85年)。
*鈴木勲: 元[[ゼネラル石油]]社長(1973~85年)。
*石上實: 元[[日本製紙|十条製紙]]社長(1982~88年)。
*[[石上實]]: 元[[日本製紙|十条製紙]]社長(1982~88年)。
*野村長: [[東陽テクニカ]]創業者。
*[[野村長]]: [[東陽テクニカ]]創業者。
*川島喜八郎: 元[[本田技研工業]]副社長。
*川島喜八郎: 元[[本田技研工業]]副社長。
*[[中村伊一]]: 元[[ワコール]]副社長。元[[京都証券取引所]]理事長。東京商科大学に進学。
*[[中村伊一]]: 元[[ワコール]]副社長。元[[京都証券取引所]]理事長。東京商科大学に進学。
*[[上野豊]]: [[上野トランステック]]名誉会長。元[[横浜商工会議所]]会頭。
*[[上野豊]]: [[上野トランステック]]名誉会長。元[[横浜商工会議所]]会頭。
*長尾貫一: 元[[丸三証券]]社長。
*[[浜崎忠治]]: 元[[プロ野球選手]]([[中日ドラゴンズ]])。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]][[プロ野球審判員|審判]]。[[浜崎真二]]の弟。
*[[浜崎忠治]]: 元[[プロ野球選手]]([[中日ドラゴンズ]])。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]][[プロ野球審判員|審判]]。[[浜崎真二]]の弟。
*[[宇佐美一夫]]: 元プロ野球選手(国鉄スワローズ)。
*[[長富政武]] - 元プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]])。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考・関連文献 ==
== 参考・関連文献 ==
* 横浜高等商業学校 『横浜高等商業学校二十年史』 [[1943年]]
* 横浜高等商業学校 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461482 横浜高等商業学校二十年史]』 [[1943年]]
* 週刊朝日 『青春風土記;旧制高等学校』第1巻、[[朝日新聞社]]、[[1978年]]
* [[週刊朝日]] 『青春風土記;旧制高等学校』第1巻、[[朝日新聞社]]、[[1978年]]
** 横山政男「横浜高等商業学校」を収録。
** 横山政男「横浜高等商業学校」を収録。
* [[橘木俊詔]] 『三商大 東京・大阪・神戸:日本のビジネス教育の源流』 [[岩波書店]]、[[2012年]] ISBN 9784000230438
* [[橘木俊詔]] 『三商大 東京・大阪・神戸:日本のビジネス教育の源流』 [[岩波書店]]、[[2012年]] ISBN 9784000230438
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*[[学制改革]]
*[[学制改革]]
*[[横浜高等工業学校]]・[[神奈川師範学校]]・[[神奈川青年師範学校]] - 新制[[横浜国立大学]]の前身校
*[[横浜高等工業学校]]・[[神奈川師範学校]]・[[神奈川青年師範学校]] - 新制[[横浜国立大学]]の前身校
*[[日本経営学会]]


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2024年8月27日 (火) 12:34時点における最新版

横浜高等商業学校
(横浜高商)
創立 1923年
所在地 横浜市
初代校長 田尻常雄
廃止 1951年
後身校 横浜国立大学
同窓会 富丘会

横浜高等商業学校(よこはまこうとうしょうぎょうがっこう)は、1923年大正12年)12月に設立された旧制専門学校であり、略称は横浜高商( - こうしょう)である。

なお、本項目では改称後の横浜経済専門学校( - けいざいせんもんがっこう)についても記述する。

概要

[編集]
  • 全国第11番目の官立高等商業学校で、本科の他、聴講科・貿易別科を設置した。
  • 神奈川県下では横浜高等工業学校に次いで2番目に設立された(官立)高等教育機関であり、理系の横浜高工とはスポーツの交流戦など密接な関係があった。
  • 中南米における貿易実務者・移住者の育成をめざすなど、同地域に対する関心を強く有していた。
  • 第二次世界大戦中に横浜経済専門学校横浜経専)と改称、横浜工業経営専門学校を併設した。
  • 学制改革により新制横浜国立大学経済学部経営学部の構成母体となった。
  • 卒業生により同窓会「富丘会」(発足当初は「横浜高等商業学校同窓会」)が組織されている。

沿革

[編集]

設立の経緯

[編集]

官立の高等商業学校は1887年東京高等商業学校設立[1]以来、国内では近畿に3校、九州に2校、中国・北海道・東北に各1校設置されていたが、関東地方では東京高商⇒東京商大の1校のみしか存在しなかったため、「官立第11高商」が設置される候補地としては横浜市が有力になっていた。また神奈川県・横浜市は、多くの高等教育機関が所在する東京府東京市の近隣に位置することもあって高等教育の整備が遅れ、1920年大正9年)になってようやく、官立高等教育機関(高等工業学校)として横浜高工が設置されたという事情もあった。以上を背景に、横浜高等商業学校が、理系の横浜高工に次いで文系の高等教育機関(高等商業学校)として設置されることとなった[2]。当初、横浜高商は1924年設置・翌1925年開校が予定されていたが、1923年9月の関東大震災で横浜を始めとする神奈川県の主要都市が大きな被害を受けたことから、震災からの復興のシンボルとして設置が1年早まり、同年末には設立(官制公布)、翌1924年4月の開校となった[3]

教育・研究の発展

[編集]

初代校長となった田尻常雄1923年1943年在任)は東京高商出身で長崎高商第4代校長から横浜高商創立準備委員長に転じた人物で、開校から20年(すなわち本校の存続期間の大半)にわたって校長を務めた。教育方針としては先行の東京高商に倣ってゼミナール制が取られ、また商業論・商品学・商業英語・貿易実務などの実践科目に加え、経済原論・金融論・財政学など経済学科目も選択科目とされ、学理研究にも重点が置かれている[4]。さらに1929年昭和4年)には修業年限1年の「貿易別科」(南米貿易科)が設置され、スペイン語や農業実習など南米移住・南米貿易の指導者の育成が進められた。

横浜高商は第1回卒業生を出した1927年以降しばらくの間、金融恐慌に端を発する不景気により困難を極める就職状況に直面するが、田尻校長は財界人との太いコネクションを利用して卒業生の就職斡旋に力をふるい、第1〜8期(1927年〜1934年度)卒業生の7割程度が企業・銀行に就職している[5]。横浜高商の名声が高まるにつれて、首都圏で高商をめざす者のうち優秀な生徒がここに集中するようになり、既存の東京商大予科商学専門部[6]の衰退を招き、両課程の廃止問題をめぐり同大学の籠城事件1931年)を引き起こす背景となった。

教育の発展と並行して研究活動も拡充された。設立2年後の1925年10月に設置された研究所は1941年1月には「太平洋貿易研究所」に改組されて太平洋地域を中心とする資料の整理・研究をすすめた。研究団体としては1929年に「商学会」が発足して機関誌『商学』が創刊されたほか、1936年11月には「貿易研究会」が発足してブロック経済の下での各地域の貿易動向に関する研究を進め、戦時下の1942年5月発足の「太平洋貿易研究会」に発展した。

課外活動としては同じく横浜に所在する官立高等教育機関で、文・理の相互補完関係にあった横浜高工とスポーツの交流戦が盛んに行われ、特に野球の対抗戦は「浜の早慶戦[7]と称されて学生・市民の人気を得た。

戦時体制と新制への移行

[編集]

1941年12月以降の戦時体制は、横浜高商を含む高商に工業化への転機を強いることとなった。軍部の高商・商業学校工業化変換により、官立高商のいくつかは工業専門学校に転換されたが、横浜高商はそのような途を回避したものの、1944年4月には長崎・名古屋の各高商と同様、「横浜経済専門学校」への改組および「横浜工業経営専門学校」の併設を余儀なくされることとなった。敗戦後の1946年3月、工業経営専門学校は廃止され、学制改革のもとで横浜経専は同じ官立の横浜工専(横浜高工を改称)や神奈川師範神奈川青師とともに、国立学校設置法に基づく新制の総合大学の発足をめざすことになった[8]。そして1949年5月、新たに発足した横浜国立大学に包括されて経済学部の母体となり、1951年3月には横浜経専最後の卒業式が挙行され廃止された。

年表

[編集]
  • 1923年12月10日:設立。本科を設置(修業年限3年)。
  • 1924年4月:最初の学生募集を行い開校。
  • 1925年7月:横浜高工との野球定期戦始まる。
  • 1925年10月:研究所を設置。
  • 1926年4月:夜学部を設置。
  • 1927年3月:第1回卒業式を挙行。横浜高等商業学校同窓会が発足。
  • 1929年4月:貿易別科を設置(修業年限1年)。
  • 1929年:研究団体「商学会」発足。機関誌『商学』創刊。
  • 1936年11月:貿易研究会結成。
  • 1937年:田尻常雄校長の命名により同窓会を「富丘会」と改称。
  • 1941年1月:研究所を改組し太平洋貿易研究所設置。
  • 1942年5月:太平洋貿易研究会発足。
  • 1944年4月:横浜経済専門学校と改称、横浜工業経営専門学校を併設。
  • 1946年3月:工業経営専門学校廃止。
  • 1949年5月:横浜国立大学に包摂され経済学部となる。
  • 1951年3月:横浜経済専門学校最後の卒業式。廃止。

校地の変遷と継承

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横浜高等商業学校の校舎

設立当初は横浜高等工業学校大岡)の建物を借用していたが、1926年3月、南太田町清水台校地に、震災対策として高商のなかでは比較的早く鉄筋コンクリート造の新校舎を建設して移転した。清水台校地は学制改革を経て横浜国立大学経済学部に継承され、1974年3月に常盤台校地(保土ヶ谷区)に移転するまで使用された。

旧清水台校地は、現在は神奈川県立横浜清陵総合高等学校の校地や清水ヶ丘公園となっている。

学生生活

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野球部

1931年11月30日、日米野球第17戦(旧横浜公園球場)で全米選抜チームと対戦し5-11で敗退。横浜高商には途中出場の宇佐美一夫捕手らがいた。宇佐美自身は2打数1安打2打点であった[9]

横浜高商野球部は、横浜高工と共に強豪として鳴らし、全国高等専門学校野球大会では昭和4年の第6回大会(1929年)で初優勝後、その後進大会(全国実業専門学校野球大会)でも3度優勝している。

校長

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著名な出身者

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脚注

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  1. ^ 設立時の名称は「高等商業学校」。1902年に東京高等商業学校と改称し、1920年大学令による(旧制)東京商科大学に昇格した。
  2. ^ その後、同市には1928年に公立学校として横浜市立横浜商業学校 (Y校) 専修科を母体とする横浜市立横浜商業専門学校(Y専、第二次世界大戦中に横浜市立経済専門学校と改称)、翌1929年には私立学校として横浜専門学校も設立されるなど高等教育機関(旧制専門学校)も増設されたが、旧制大学は設置されるに至らなかった。
  3. ^ 橘木俊詔『三商大』p.162。
  4. ^ 同上、p.164。これに対して先行の神戸・長崎・小樽の各高商では商学関係の実践科目に重点が置かれていた。
  5. ^ 同上、p.163、165-166。
  6. ^ それぞれ旧制高等学校旧制専門学校に相当する附設課程で、旧制中等学校の卒業生を対象とする。
  7. ^ 横浜高等商業学校二十年史』 62頁
  8. ^ これに対し公立の横浜市立経専は、同じく公立(横浜市立)の(旧制)横浜医大とともに公立大学、私立の横浜専門学校は単独昇格による私立大学の発足をめざした。この際、3者が同じ「横浜大学」の名称を申請して競合したため、協議によりそれぞれ横浜国立大学・横浜市立大学神奈川大学の名称で申請し直した。
  9. ^ 1931年の日米野球は全17戦実施され全米選抜チームが全勝した。東大を除く東京六大学各校の現役チームやOBを含めたオールチーム、全日本チームらと数試合、そして西村幸生投手らがいた関西大大岡虎雄がいた八幡製鉄苅田久徳久慈次郎の全横浜、宇佐美一夫捕手らがいた横浜高商とそれぞれ1試合ずつ対戦した。全米選抜はルー・ゲーリッグレフティ・グローブ投手、ミッキー・カクレーンアル・シモンズラビット・モランビルフランキー・フリッシュウィリー・カムレフティ・オドールメジャーリーガーを中心に2名の2A選手を加えたチームだったが、ゲーリッグは6戦目以降は怪我により不出場。なお、翌1932年文部省より野球統制令訓令が出され、学生野球の興行化に歯止めがかけられ学生とプロとの試合が禁じられた。
  10. ^ 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。

参考・関連文献

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外部リンク

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関連項目

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