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「Wikipedia‐ノート:削除依頼/喜連川騒動 20070520」の版間の差分

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削除された内容 追加された内容
→‎著名性: また、修正でした。
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::TV[[水戸黄門]]・[[遠山の金さん]]、その他時代小説や時代劇の題材ととして使われました。
::TV[[水戸黄門]]・[[遠山の金さん]]、その他時代小説や時代劇の題材ととして使われました。


喜連川騒動が関係する「フィックション」として紹介するのはいかがでしょうか?--[[利用者:喜連川一色家|喜連川一色家]] 2007年5月22日 (火) 07:50 (UTC)
::喜連川騒動が関係する「フィックション」として紹介するのはいかがでしょうか?--[[利用者:喜連川一色家|喜連川一色家]] 2007年5月22日 (火) 07:50 (UTC)

*「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」に登場する家臣については、実在の人物と判断して差し支えないと思いますよ。
::[http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-itusiki.htm 「一色家の墓」]
::[http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-oyumi.htm 「足利国朝と喜連川に向かった家臣達」]椎津某は二階堂主殿で、二階堂主膳助の実父です。高修理頭が高野修理、高四郎左衛門で、梶原平右衛門の子が梶原平左衛門(古河の高塩家子孫とメールにて確認済)
::[http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-toujyou.htm 「登場する家臣」]
::[http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-nenpyou 「喜連川町誌の年表抜粋」]
:を参考にして判断いただければ幸いです。--[[利用者:喜連川一色家|喜連川一色家]] 2007年5月22日 (火) 08:44 (UTC)

2007年5月22日 (火) 08:44時点における版

検証可能性-信頼できる公刊された情報源

  • (コメント)信頼性に乏しい資料によりウィキペディア外に誤謬が存在しているとしても、それを訂正する任務はウィキペディアの目的を超えていると考えます。そもそもウィキペディアでは信頼性に乏しい資料に拠る記述は書かない、というのが Wikipedia:検証可能性 に基づく簡明な態度です。信頼性に乏しい資料に拠る記述をあえて書いてそれを訂正するという作業は、ノート上でならあり得るとしても記事上で行うべきではないと考えます。--スのG 2007年5月20日 (日) 18:54 (UTC)[返信]
  • 個人調査の結果、「信憑性に乏しい資料」であつても、「公共機関の発刊し発表された資料」であれば、たとえそれが間違った記述であったとしても、Wikipediaとしては、これを書かねばならない(検証資料となり得る)では、なかったかと皆様から教えていただいてますが?この記述を削除し編集することは、それ自体が「個人研究」の発表となりはしないでしょうか?皆様とともに、資料を確認すながら改定修正をおこなって来た、現「喜連川騒動」の投稿文には、個人研究の結果は、記述してないことを、ご確認いただければ幸いです。事件真相の調査研究は、読者個々が行なっていただければと参考文献の広く示したいところですが、参考文献項目は、現在、追加しても、削除されてしまう始末です。しかたないので、文中の文献名を目目立つようにするのが、せいっぱいといった所です。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 05:37 (UTC)[返信]
    • (コメント)ウィキペディアで情報源とすべきなのは「信頼できる公刊された情報源」、その詳細は Wikipedia:信頼できる情報源 にあります。そちらのページについてどなたかに紹介を受けたり、目を通されたことはおありでしょうか? 公刊されただけではだめで「信頼性 (reliability)」が必要です。「信頼性」という言葉にウィキペディアなりの基準がありますので Wikipedia:信頼できる情報源 をご参照下さい。おそらく喜連川一色家さんが信頼性という言葉に対して持っているイメージとは多少異なる意味で使われているでしょう。なお、もしもどなたかが「公刊されたものは必ず書かねばならない」という趣旨をおっしゃったのであれば、それは不完全なコメントです。--スのG 2007年5月21日 (月) 06:04 (UTC)[返信]
喜連川一色家がおっしゃっているのはKs aka 98さんのこの発言のことだと思いますが、これは必ずしも「皆様」がそう考えているわけではないと思います。Ks aka 98さん本人も、「ぼくもこれをがちがちに適用するのがいいと思っているわけではありません」[1]とおっしゃっているわけで、少なくとも議論の余地は大いにあるでしょう。
また、Ks aka 98さんがおっしゃっている趣旨は
  • 公共機関の発刊した資料であれば一応「信頼に足る資料」と認められる(この点については私的には大いに異論があります)
  • 「信頼に足る資料」に記述された内容については、Wikipediaにおいては、更に検証を求めない。
ということですから、最初から「信憑性に乏しい資料」であり間違った記述だと分かっているものを「Wikipediaとしては、これを書かねばならない」とするものではないでしょう。
問題の町誌・町史は、どのような一次資料に基づいて論述されたものかを脚注や参考文献に明記するというような、学術的歴史研究としての最低限の様式を踏んでいません。どう見ても大衆向けの歴史読み物でしかありません。歴史を語るときの資料として、こういうのを信頼に足る情報源とするのは、どうしても無理があると思います。--Dwy 2007年5月21日 (月) 08:21 (UTC)[返信]
その Ks aka 98さんのご解説は、(地方自治体が出している出版物を)情報源とするかしないか、という取捨選択には言及していないようにお見受けします。情報源とするのであれば云々、というお話ではないでしょうか。--スのG 2007年5月21日 (月) 08:34 (UTC)[返信]
こんにちは。今仕事中なんで、夜中にまた来ます。--Ks aka 98 2007年5月21日 (月) 12:03 (UTC)[返信]
安直にたとえますが「三国志演義や水滸伝を情報源とするようなもの」という捉え方をしてよろしいでしょうか? 西遊記を情報源とするよりはマシでしょうけれど。--スのG 2007年5月21日 (月) 18:02 (UTC)[返信]
  • 「喜連川町誌」「喜連川町史」の記述は、私自身、なにがなんでも「残したい」と考えているわけでもないのです。しかしながら、問題は同2誌は、旧喜連川町が発刊した文献であるので栃木県内の全公立図書館、国会図書館、全国の県立中央図書館などで管理閲覧できるものであることです。しかも、この2誌は、問題ある「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」だけの出版物ではないので、一部修正がきかないのです。そのため、仮に現「喜連川騒動」の投稿記述から、この部分を削除したとしても、全国のこの2誌を読んだ方が、Wikipediaに投稿して来る可能性を残すことになります。そこで、であれば、先にこの2誌の内容も、要約して載せておくことにより、これらの混乱をふせぐことになります。しかも、同2誌をすでに読んで、知識として所有する方が読んでも、混乱せずに理解いただけるためには、この2誌の記述は、残すべきではないのか?というのが、私の考えなのです。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 16:05 (UTC)[返信]
    • (コメント)同じ文言を繰り返しますが、ウィキペディア外に誤謬が存在しているとしても、それを訂正する任務はウィキペディアの目的を超えていると考えます。また、混乱を予期して予防する任務もしかりです。それらの任務はしかるべき学術組織に任せるべきであり、ウィキペディアが担うものではないと考えます。--スのG 2007年5月21日 (月) 16:16 (UTC)[返信]
ええと、まず、この「騒動」あるいはその呼び名に相当する出来事が存在すると捉えることが妥当かどうか、については、判断してません。つまり、項目自体が独自の研究に相当するかどうかってことは、考えまてせん。
いわゆる地方史の文献は、その信頼度という点については玉石混淆としか言い様のないのが現実だと思います。この点については、Dwy さんのご意見に同意します。発刊後、地方史研究が進んでいる地域もあるでしょうし、進んでいない地域もあるでしょう。より信頼できる研究があるならば、そちらに沿って記述するべきです。ただ、他に真っ当な研究がないのであれば、地方自治体などが出している地方史が、それ自体の信頼性が十分に担保できないとしても、研究の基礎として扱うべき資料の一つとなるでしょう。つまり、地方史研究に置いては、絶対的な信頼度は低いとしても、相対的にそれが一番信頼できるとみなさざるをえない位置にあることが、多いのではないか、と思います。この場合、ウィキペディアの執筆者は、その地方史文献の信頼度が十分高くないからと言って、自分の考えを真実だとして記述することは許されません。ぼくの書き込みの意図は、地方自治体などから出版されている地方史文献の他に、その題材を直接取り上げている信頼できる資料がないという前提で、自分が正しいと信じることを書くのではなく、まずはその地方史文献の記述を書きましょう、ということです。方針で言えば、独自研究は載せないを視野に入れての書き込みでした。
このような状況で、執筆を進めるならば、まず十分信頼できないとはいえ、その地方史文献にある記述を採り、他の資料との整合性を探っていくというのが、望ましい態度だと思います。出典を示しながら、ある部分では文献の記述を補強し、ある部分ではそれを否定することになるでしょう。そこで、意図的に偏りを作ることは避けられるべきです。今なら学問的には、蔵を調べさせてもらったり聞き取りしたりということも求められるかもしれませんが、これらの調査手法はウィキペディアでは、許されません。
喜連川一色家さんは、地方史文献の記述を「間違い」と認識していらっしゃるようですが、それはまだ一般的には「間違い」ではないと思われます。たとえ、将来の研究によって地方史文献の記述が間違いであることが決定したとしても、現時点では、喜連川一色家さんよりも、地方史文献のほうが信頼できると考えざるをえません。ですから、今のところは、「間違い」と書いてはいけない。しかし、出典を示しながら、地方史文献の記述に合致しない資料を示すことはできます。その選択が恣意的であったり、論理的でなければ、ノートで指摘されるでしょう。
以下は、個人的な考えで、異論もあると思います。地方史の分野は、大衆文化などと同様、直接その内容について扱った十分に信頼できる研究が存在しないケースも少なくないと思うんですね。では、その地域には歴史がないかというとそんなことはなくて、なんとか歴史記述を試みることも、あっていいと思います。十分信頼できる情報源が存在しないものは、ウィキペディアに書けない、となると、チンドン屋も書けないわけで。聞き取りのような一次調査を自ら行うことや、家の蔵で見つかった非公開の家系図を根拠とすることは、ウィキペディアでは許されませんが、多くの資史料を漁り、検証可能性を担保し、中立的観点を保持しながら、断片的な記述を論理的に繋ぎ合わせることは、非常に困難が伴う作業ですが、不可能ではない。ひたすら資料を漁り、事実を積み上げていく作業は、とにかく時間がかかりますし、地域に関する資料は、その土地に住んでいる人でなければアクセスできないこともあります。そういう作業を行う意志があるなら、事実と推察と自分の考えを区別する学問的態度を身につけたり、これまで実証的な研究が行われなかった分野で実証性を確保する方法を考えたりして、ウィキペディアの方針に合致する形で貢献できるはずです。学問的態度は、ウィキペディアで学ぶことだってできると思いますし、事実を積み重ねる作業の後に、誰かが大胆に整理して、解決されるかもしれません。検証可能性を担保し、中立的観点を保持することを心がけた、未完成な記事は、許容されていいのではないかなあと思っている次第です。--Ks aka 98 2007年5月21日 (月) 16:35 (UTC)[返信]
実は、私がここでいろいろ問題提起し議論しているのは、以前英語版で論争して結局結論が出ないままに終わってしまっているこの議論を心の中で引きずっているからです。そのときの論争は、英語版の「対馬」の記事において韓国の新聞の記事をソースとして書かれていた「対馬は新羅の支配を受けていた」等の(私に言わせれば)トンデモ説に関するもので、私の主張は「新聞は学術的な歴史研究を発表するフォーラムじゃないから、古代史の記事を書く場合の「信頼に足る情報源」とはなりえない」というものでした。
私の主張(はっきり言って英語版の他の方々の受け売りなのですが)をもう少し詳しく説明すると、歴史研究とは一次資料(同時代資料)を収集・整理し解釈を加える作業である。したがって、論述のもとになった第一次資料が脚注・参考文献等で詳細に記載されていない研究は、最低限の学術的レベルを満たしていないと言える。新聞記事はこの基準を満たしていないから、(新聞記事自体を一次資料として使用する場合を除き)「信頼に足る情報源」とはならない。というものでした。
そこで、喜連川騒動で町誌・史をソースに記事を書いてよいとされる方にお聞きしたいのですが、町誌・史をOKとしておいて、韓国の新聞記事(一流紙らしいです)を排除できる理屈がありますでしょうか?皆さんが救おうとしている喜連川騒動を救いたい気持ちは私にもあるのですが、こちらを救ってしまうと、あちらも立てなければいけなくなるような気がして・・・。「日本語版と英語版は別だ!」というのもありかもしれませんが、それでは私の良心が少し痛みます。脱線してしまい申し訳ありません。--Dwy 2007年5月21日 (月) 18:47 (UTC)(--Dwy 2007年5月22日 (火) 05:44 (UTC)加筆)[返信]
  • 「喜連川町史」と「喜連川町誌」の記述を、なぜ本来敵視すべき私が、投稿本文に記述してるかの理由を説明させていただきます。まず、同2誌は、地方自治体が正式に発刊したものであるので、「古文書」と同じ扱いで、日本国では、永久保存されるものなのです。たとえその内容が、信憑性に劣るものであってもです。それは、日本国がそれを正しい文献としてではなく、将来に渡って、検証可能とするためです。ですから、いつでも検証材料となるように、一般開示しているのです。そして、そうである以上、この2誌の記述が一般論となるのです。であれば、この記述を無視して、私に都合よく一方の「江戸時代の文献」の存在だけでWikipediaのおいて記述することは、それこそ「独自の研究」となってしまうのです。そこで、2誌の記述を最初に記述し、補足するような形で「江戸の文献」の開示の形をとっているのです。私個人の心情としては、旧喜連川町発刊の2誌の記述など本来残したくないことをご理解いただければとおもいます。当然「江戸の文献」も日本国としては、同2誌と同じ公的文献であり、同等以上に保管され、一般開示しているものです。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 22:28 (UTC)[返信]

著名性

どうせなら、後からまた議論しなくても良いように、問題になりそうなところを今全部指摘しておく方がよいだろうと思うので、ここで問題提起します。(このページが適切な場所かどうかはわかりません。記事のノート等、他の場所で議論すべきであれば、ご指摘ください。)

「喜連川騒動」というのは、Wikipedia:著名性の観点から見るとどうでしょう?このルール(まだ草案ではありますが)によると

著名性のある話題とは、その話題そのものから独立した立場にある情報源に基づいた、複数の、些細でない形で発表された著作(作品・仕事)に取り上げられている事象です。多くの場合、ある話題に関する項目がウィキペディアに著されるためには、著名性についての最低限の規準を満たさなければなりません。この要求は、その話題について検証できる百科事典の項目を執筆するために十分な出典が存在することを確実にするためです。

ということになっています。

喜連川一色家さんによると、「喜連川騒動」を「騒動」として正面から扱った資料は喜連川町史と喜連川町誌しかなく、しかもそれは事件関係者の子孫の方(おそらく同一人物?)が書かれたものだそうです。「話題そのものから独立した立場にある情報源 」、「複数の、些細でない形で発表された著作」はかなり怪しい気もします。(喜連川一色家さんが「町史・誌=公式文書=すごく重要」と思っていらっしゃるのは分かっていますが、私の中では「町誌・史=学術的レベルに達しない素人歴史家の研究=学問的にはすごく些細」です。)--Dwy 2007年5月22日 (火) 06:19 (UTC)[返信]

一般論として町史・誌が即アウトということにはならないとは思いますけれど、私が素人なりに喜連川町史と喜連川町誌の当該部分(記事から外部リンクされていた文章)を評価するならば、事実関係の矛盾以前の問題として心情描写やセリフや脚色が多く、これは歴史物の小説だなあ、といったところです。もちろん、ウィキペディアの記事中で「この本は史書ではなく小説だ」と書いてしまうと独自研究 (original research) になるのでできません。「幕府の文書にはこのように記録されている。この事件を題材にこのような歴史本がかかれ、その中ではこのように書かれた。」と書ければ楽なのですけれど、それももちろん独自の総合・合成 (original synthesis) となってしまうためにグレーゾーン、いったいどうすればよいやら。--スのG 2007年5月22日 (火) 07:12 (UTC)[返信]
  • 署名性として、とりあえずネット上では次の物がある。
夜桜乙女捕り物帳「つむじ風」和久田正明書
喜連川藩喜連川尊信喜連川昭氏お家騒動Wikipedia内の投稿
また、
TV水戸黄門遠山の金さん、その他時代小説や時代劇の題材ととして使われました。
喜連川騒動が関係する「フィックション」として紹介するのはいかがでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 07:50 (UTC)[返信]
  • 「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」に登場する家臣については、実在の人物と判断して差し支えないと思いますよ。
「一色家の墓」
「足利国朝と喜連川に向かった家臣達」椎津某は二階堂主殿で、二階堂主膳助の実父です。高修理頭が高野修理、高四郎左衛門で、梶原平右衛門の子が梶原平左衛門(古河の高塩家子孫とメールにて確認済)
「登場する家臣」
「喜連川町誌の年表抜粋」
を参考にして判断いただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 08:44 (UTC)[返信]