コンテンツにスキップ

「利用者:Loup-noir/作業室E」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
ページの白紙化
 
1行目: 1行目:
{{世界の市
|正式名称 =メソロンギ<br>{{flagicon|Greece}}</br>Μεσολόγγι
|愛称 =
|標語 =
|画像 =Street in Messolonghi.jpg
|画像サイズ指定 =250px
|画像の見出し =市内の街路
|市旗 =
|市章 =
|位置図 =Messolonghi map.png
|位置図サイズ指定 =225px
|位置図の見出し =メソロンギの位置
|下位区分種類 =国
|下位区分名 ={{GRE}}
|下位区分種類1 =[[地方]]
|下位区分名1 =[[西ギリシャ]]
|下位区分種類2 =[[県]]
|下位区分名2 =[[エトリア=アカルナニア県]]
|最高行政執行者称号 =
|最高行政執行者名 =
|成立区分 =
|成立日 =
|規模 =
|総面積(平方キロ) =280
|人口の時点 =2001年
|人口に関する備考 =
|総人口 =18,354
|人口密度(平方キロ当たり)=66
|都市圏人口 =
|都市圏人口密度(平方キロ)=
|等時帯 =[[東ヨーロッパ時間|EET]]
|協定世界時との時差 =+2
|夏時間の等時帯 =EEST
|夏時間の協定世界時との時差=+3
|緯度度=38 |緯度分=23 |緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)=N
|経度度=21 |経度分=26 |経度秒= |E(東経)及びW(西経)=E
|標高(メートル) =9
|公式ウェブサイト =[http://www.messolonghi.gr]
|備考 =
}}


'''メソロンギ'''([[ギリシャ語]]:'''{{lang|el|Μεσολόγγι}}''')は、[[ギリシャ]]の[[西ギリシャ]]地方にある町である。人口は約18,000人(2001年)。[[エトリア=アカルナニア県]]の県都であり、県内で第2の人口を持つ都市である。ヒエラ・ポリス・メソロンギウ(聖なる町メソロンギ)として称される。1960年代にはメソロンギ市内を通る国道5号線([[欧州自動車道路]][[E55号線]])が建設された。かつては、[[アグリニオ]]とを結ぶ鉄道の駅が町にあったが、1970年代に廃止された。

== 地理 ==
メソロンギの町は、[[アヘロオス川]]と[[:en:Evinos|エヴィノス川]]の間にあり、[[:en:Gulf of Patras|パトラ湾]]に港を持っている。主な交易品は、[[魚]]や[[ワイン]]、[[タバコ]]などがある。町の北東には[[アラキントス山脈]]が走っている。

== 歴史 ==
メソロンギの町は、[[ヴェネツィア]]人のパルタという人物が著した、[[レパントの海戦]]について書かれた文章の中で、初めて触れられる。メソロンギという名称は、おそらく[[イタリア語]]の2つの単語から来たという説が有力であり、メッツォ(mezzo)とラギ(laghi)で「湖の真ん中」、もしくはメソ(messo)とラギ(laghi)で「湖に囲まれた場所」から来たとされている。1700年までは[[ヴェネツィア共和国]]がこの地を支配していたからである。当時メソロンギの住民はほとんどが[[漁師]]であり、湖底に支柱を立てた上に、防水加工が施された[[藁]]と[[葦]]で作られた、ペラデという小屋に居住していた。

メソロンギの北西には、[[ホメロス]]の叙事詩で描かれている都市である、[[プレウロン]]の遺跡(現在のアスファコヴニ)がある。プレウロンは[[トロイ]]出兵に参加し、紀元前234年に[[アイトーリアのデメトリオス]]に破壊された都市であった。かつては30の塔と7つの門を持つ城壁があったが、今でも[[円形劇場]]と[[貯水槽]]の跡などが残存している。


=== ギリシャ独立戦争 ===
1770年の[[オルロフの反乱]]では、メソロンギ艦隊は敗北し、町は[[オスマン帝国]]に占領された。また、1821年5月20日にはメソロンギが[[オスマン帝国]]に反逆し、[[ギリシャ独立戦争]]の間、町はギリシャ人反乱軍にとっての主要な要塞となった。1822年にはオスマン帝国軍に町は包囲されたが、守り切ることに成功した。しかし1825年4月15日には、30,000人を率いた[[:en:Reşid Mehmed Pasha|レシド・メフメト・パシャ]]と、[[ムハンマド・アリー]]の息子で10,000人を率いた[[イブラヒム・パシャ]]によって2度目の包囲が開始された。1年間の包囲の末、飢餓に直面するようになったために、1826年4月10日夜にメソロンギ市民は包囲された町から脱出することを試みた。その時メソロンギ市民は10,500人であり、その中で装備した者はわずか3,500人であった。しかし計画は密告され、脱出に成功できた者はほとんどいなかった。
メソロンギ市民のこの英雄的姿勢と、その後のトルコ・エジプト連合軍によるメソロンギ市民の虐殺を考慮して、後にメソロンギの町は「ヒエラ・ポリス(聖なる町)」という名誉的な称号を授与された。

[[イギリス]]の有名な詩人で、親[[ギリシア]]的であった[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]は、[[ギリシャ人]]反乱軍を支援したが、1824年にメソロンギの地で亡くなった。現在町には、彼の心臓が収められた[[慰霊碑]]と、彼の彫像が安置されている。

=== 現代 ===
メソロンギの町は、街並みが絵のように美しいでけでなく、都市計画がされており都市機能を兼ね備えた、現代的な都市である。一方で、伝統的な建築様式で造られた、興味深い建築物もいくつか残されていて、現代ギリシャ史に関係するような人物も住んでいたことが多い。

== 著名な出身者 ==
*[[:en:Epameinontas Deligeorgis|エパミノンダス・デリギオルギス]](1829-1879、[[ギリシャ王国]]首相)
*[[:en:Kostis Palamas|コスティス・パラマス]](1859-1943、詩人・[[オリンピック賛歌]]の作詞者)
*[[:en:Charilaos Trikoupis|ハリラオス・トリクピス]](1832-1896、[[ギリシャ王国]]首相)
*[[:en:Nikolaos Trikoupis|ニコラオス・トリクピス]](1869-1956、ギリシャ軍司令官)
*[[:en:Spyridon Trikoupis|スピリドン・トリクピス]](1788-1873、[[ギリシャ王国]]首相)
*[[:en:Dimitrios Valvis|ディミトリオス・ヴァルヴィス]](1814-1886、[[ギリシャ王国]]首相)
*[[:en:Zinovios Valvis|ジノヴィオス・ヴァルヴィス]](1800-1872、[[ギリシャ王国]]首相)


== 人口推移 ==
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0"
|- bgcolor="#efefef"
! 年 !! 人口(人)!! 増減 !! 市人口(人)!! 増減
|-
| 1981 || 11,375 || - || - || -
|-
| 1991 || 10,916 || -459/-4.04% || 16,859 || -
|-
| 2001 || 12,225 || +1,309/+11.99% || 17,988 || +1,129/+6.70%
|}


== 双子都市 ==
*{{flagicon|Switzerland}} - [[シェーフリスドルフ]]([[:en:Schöfflisdorf|en]])、[[スイス]]

== 参考 ==
[http://www.ypes.gr Δείτε τη Διοικητική Διαίρεση] {{el icon}}(2009年9月9日閲覧。)

== 外部リンク ==
*[http://www.messolonghi.gr/ メソロンギ市公式HP] {{el icon}}
*[http://www.water-technology.net/projects/acheloos/acheloos3.html The Acheloos delta forms the Messolongi Lagoon]

2010年1月20日 (水) 13:05時点における最新版