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祖父[[ニコラウス・ジムロック|ニコラウス]]より会社の経営権を引き継ぎ、[[ヨハネス・ブラームス]]や[[アントニン・ドヴォルザーク|アントニーン・ドヴォルジャーク]]の作品のほとんどを出版した。ブラームスの作品16から作品120までを出版した<ref>Simrock (firm) entry at ''New Grove Dictionary of Music & Musicians''</ref>だけでなく、個人的にもブラームスと親交を結び、ブラームスの夏ごとの[[バカンス]]に同行して[[イタリア]]に行った<ref>Johannes Brahms & Elisabeth Herzogenberg, ''Johannes Brahms: The Herzogenberg Correspondence'' Ed. Max Kalbeck, transl. Hannah Bryant. New York: Da Capo Press (1987): 310, * footnote</ref>。ブラームスのお陰で若い頃のドヴォルザークはジムロックからチャンスを与えられた<ref>Grove, ibid.</ref>。ジムロックは、ブラームスにはたいてい高い報酬を支払っていた<ref>David Brodbeck, ''Brahms: Symphony No. 1'' New York: Cambridge University Press (1997): 28. "In his next letter, dated 25 April [1877], Simrock readily agreed to Brahms's request for the princely sum of 5000 Talers (15,000 [Deutsche] Marks)."</ref>が、ドヴォルザークに対しては、その管弦楽曲の出版を渋々引き受けていた<ref>Dvořák Cello Concerto By Jan Smaczny, page 11 Cambridge University Press, 1999</ref>。 |
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ジムロックは、名音楽家であった[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]夫妻の生活にも深くかかわっていたために、ヨアヒムから、妻を誑かした浮気相手と信じ込まれるようになった。それについてブラームスの書いた有名な「長い手紙が、ヨアヒムの離婚訴訟において証拠として引用されることになった<ref>Robert Anderson, "Brahms in Brief" ''The Musical Times'' Summer (1998): 69</ref>。」 |
ジムロックは、名音楽家であった[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]夫妻の生活にも深くかかわっていたために、ヨアヒムから、妻を誑かした浮気相手と信じ込まれるようになった。それについてブラームスの書いた有名な「長い手紙が、ヨアヒムの離婚訴訟において証拠として引用されることになった<ref>Robert Anderson, "Brahms in Brief" ''The Musical Times'' Summer (1998): 69</ref>。」 |
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2021年3月6日 (土) 17:45時点における最新版
フリッツ・ジムロック(Fritz Simrock)ことフリードリヒ・アウグスト・ジムロック(Friedrich August Simrock, 1837年1月2日 ボン - 1901年8月20日 ローザンヌ近郊ウーシー)は、ドイツの楽譜出版社の経営者である。
祖父ニコラウスより会社の経営権を引き継ぎ、ヨハネス・ブラームスやアントニーン・ドヴォルジャークの作品のほとんどを出版した。ブラームスの作品16から作品120までを出版した[1]だけでなく、個人的にもブラームスと親交を結び、ブラームスの夏ごとのバカンスに同行してイタリアに行った[2]。ブラームスのお陰で若い頃のドヴォルザークはジムロックからチャンスを与えられた[3]。ジムロックは、ブラームスにはたいてい高い報酬を支払っていた[4]が、ドヴォルザークに対しては、その管弦楽曲の出版を渋々引き受けていた[5]。
ジムロックは、名音楽家であったヨーゼフ・ヨアヒム夫妻の生活にも深くかかわっていたために、ヨアヒムから、妻を誑かした浮気相手と信じ込まれるようになった。それについてブラームスの書いた有名な「長い手紙が、ヨアヒムの離婚訴訟において証拠として引用されることになった[6]。」
註釈・参考文献
[編集]- ^ Simrock (firm) entry at New Grove Dictionary of Music & Musicians
- ^ Johannes Brahms & Elisabeth Herzogenberg, Johannes Brahms: The Herzogenberg Correspondence Ed. Max Kalbeck, transl. Hannah Bryant. New York: Da Capo Press (1987): 310, * footnote
- ^ Grove, ibid.
- ^ David Brodbeck, Brahms: Symphony No. 1 New York: Cambridge University Press (1997): 28. "In his next letter, dated 25 April [1877], Simrock readily agreed to Brahms's request for the princely sum of 5000 Talers (15,000 [Deutsche] Marks)."
- ^ Dvořák Cello Concerto By Jan Smaczny, page 11 Cambridge University Press, 1999
- ^ Robert Anderson, "Brahms in Brief" The Musical Times Summer (1998): 69