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'''尾崎 雅彦'''(おざき まさひこ[[1958年]][[2月5日]]- )は[[競輪選手#日本競輪選手会|日本競輪選手会]][[東京都|東京]]支部に在籍していた元[[競輪選手]]。[[東京都]]出身。[[日本競輪学校]]第39期生。師匠は父親である尾崎幸雄。[[松戸競輪場]]をホームバンクとしていた。
'''尾崎 雅彦'''(おざき まさひこ[[1958年]][[2月5日]] - )は[[競輪選手#選手会|日本競輪選手会]][[東京都|東京]]支部に在籍していた元[[競輪選手]]。[[東京都]]出身。[[日本競輪学校]]第39期生。師匠は父親である尾崎幸雄。[[松戸競輪場]]をホームバンクとしていた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[京北高等学校]]を中退後に日本競輪学校を受験し、学科、技能の試験とも合格し入学する。競輪学校の同期には、「ウルフ」と称された広島所属の[[木村一利]]がいた。デビュー戦は[[1977年]][[5月5日]]の[[京王閣競輪場]]。初勝利も同日。
[[京北高等学校]]を中退後に日本競輪学校を受験し、学科、技能の試験とも合格し入学する。競輪学校の同期には、「ウルフ」と称された広島所属の[[木村一利]]がいた。デビュー戦は[[1977年]][[5月5日]]の[[京王閣競輪場]]。初勝利も同日。


<!--尾崎の名で最初に思い出されるのは-->[[1979年]]の[[日本選手権競輪]]決勝戦([[立川競輪場]])では、断然人気の[[中野浩一]]をはじめ[[菅田順和]]・[[高橋健二]]と当時の自力型を相手にマークの[[山口健治]]を連れて果敢に逃げ、中野を捲り不発に追い込み、山口に優勝をもたらした一戦だったが、当時中野を力でねじ伏せられる選手というのはまずいないのではないかという状況の中、5着に敗れたとはいえ、尾崎の走りは高く評価された。翌[[1980年]]には[[世界自転車選手権]]のスプリント代表となり、決勝で中野にストレート負けを喫したとはいえ銀メダルを獲得している
<!--尾崎の名で最初に思い出されるのは-->[[1979年]]の[[日本選手権競輪]]決勝戦([[立川競輪場]])では、断然人気の[[中野浩一]]をはじめ[[菅田順和]]・[[高橋健二 (競輪選手)|高橋健二]]と当時の自力型を相手にマークの[[山口健治]]を連れて果敢に逃げ、中野を捲り不発に追い込み、山口に優勝をもたらした一戦だったが、当時中野を力でねじ伏せられる選手というのはまずいないのではないかという状況の中、5着に敗れたとはいえ、尾崎の走りは高く評価された。

[[1980年]]、[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1980|世界選手権]]のスクラッチ(現在の個人スプリント)代表となり、準決勝で[[ジョルダーノ・トリニー]]を破り、決勝では一本目、二本目と、ともに先行策に打って出るも中野にストレートで敗れ銀メダル。


そして[[1981年]]、[[1982年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯]]では共に予選3連勝で優勝に王手をかけるなど、この頃からGI決勝戦の常連の顔となり、また競走得点等では常に上位トップ3に名を連ねるなど、尾崎は競輪界屈指の実力派選手として君臨するようになった。しかしなぜかここまで大きなタイトルには縁がなく、82年の宮杯決勝では優勝目前となりながらもゴール寸前、後方から猛然と追い込んできた[[伊藤豊明]]に交わされてしまった。
そして[[1981年]]、[[1982年]]の[[高松宮記念杯競輪|高松宮杯]]では共に予選3連勝で優勝に王手をかけるなど、この頃からGI決勝戦の常連の顔となり、また競走得点等では常に上位トップ3に名を連ねるなど、尾崎は競輪界屈指の実力派選手として君臨するようになった。しかしなぜかここまで大きなタイトルには縁がなく、82年の宮杯決勝では優勝目前となりながらもゴール寸前、後方から猛然と追い込んできた[[伊藤豊明]]に交わされてしまった。
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だが[[1983年]]の宮杯決勝では、完全優勝を狙う中野浩一が[[梨野英人]]の引き出しでバック・3角を番手で通過、グランドスラム達成に絶対有利の流れになったが、ここで山口健治が放った捨身の捲りを中野が張りに行って僅かに空いたインを突き、先頭でゴールを駆け抜け涙の特別初優勝を果たした。その後も記念では抜群の強さを誇り、真の意味で中野、[[井上茂徳]]の最大のライバルと目されたこともあった。ところが尾崎は[[フラワーライン]]という一大グループ内の絆を大事にしすぎるあまり、肝心なところで甘さを出すケースが少なくなかった。
だが[[1983年]]の宮杯決勝では、完全優勝を狙う中野浩一が[[梨野英人]]の引き出しでバック・3角を番手で通過、グランドスラム達成に絶対有利の流れになったが、ここで山口健治が放った捨身の捲りを中野が張りに行って僅かに空いたインを突き、先頭でゴールを駆け抜け涙の特別初優勝を果たした。その後も記念では抜群の強さを誇り、真の意味で中野、[[井上茂徳]]の最大のライバルと目されたこともあった。ところが尾崎は[[フラワーライン]]という一大グループ内の絆を大事にしすぎるあまり、肝心なところで甘さを出すケースが少なくなかった。


[[1984年]]の[[競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦|競輪祭]]決勝では人気の中心となりながらも目標の[[清嶋彰一]]が勝負所で[[中野浩一]]の捲りの前に動けず、敗れた。
またプレッシャーに弱く、フアンの間からは[[惑星]](人気があるとあっさり負けたり、人気がない時に2着まで入線とか)と呼ばれ人気の割には
車券が買いにくい事で有名だった。また、[[マスク]]も良くて[[輪界]]の[[プリンス]]と呼ばれていた。


[[1984年]]の[[競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦|競輪祭]]決勝では人気の中心となりながらも[[清嶋彰一]]後位で何もできずに敗れたり、はたまた[[1985年]]の[[KEIRINグランプリ]]でも上位人気の一角に推されたが、ジャンで正攻法の位置にいた清嶋を中野が猛然と叩きに出たところ、その動きに尾崎が反応して一旦は中野を外に浮かせてしまうというプレーを見せたというのに、中野が最終バックで捲りを放った際には逆に何もできなかったといったこともあった。さらに[[1992年]]の宮杯決勝では、逃げる[[神山雄一郎]](当時自力で売り出し中)の番手につけながらも、インで粘った[[滝澤正光]]怪物時代に陰りが見え出した頃でこれが最後のタイトル)に番手を奪われ、結果、滝澤に優勝をさらわれてしまったこともあった。結局尾崎が獲得したタイトルは上記の83年の宮杯だけ。総合力という点において中野と双璧と目されたことがあった尾崎にしては少々物足りないといえる
[[1985年]]の[[KEIRINグランプリ]]でも上位人気の一角に推されたが、ジャンで正攻法の位置にいた清嶋を中野が猛然と叩きに出たところ、その動きに尾崎が反応して一旦は中野を外に浮かせてしまうというプレーを見せたというのに、中野が最終バックで捲りを放った際には逆に何もできなかった。


[[1992年]]の宮杯決勝では、逃げる[[神山雄一郎]](当時自力で売り出し中)の番手につけながらも、インで粘った[[滝澤正光]](怪物時代に陰りが見え出した頃でこれが最後のタイトル)に番手を奪われ、結果、滝澤に優勝をさらわれてしまった。結局尾崎が獲得したタイトルは上記の83年の宮杯だけ。総合力という点において中野と双璧と目されたことがあった尾崎にしては少々物足りないといえる。
(それと、タイトルのチャンスは幾つかあったが、特に惜しかったのは第40回日本選手権(千葉)で赤板(残り2周)で東京ライン[[清嶋彰一]](当時先行力は輪界BIG3)-尾崎-[[山口健治]]と絶好の番手で最周回浮上したが、インの[[本田晴美]](当時自力型選手)に粘られて競り合いになり、2コーナーで([[戦法]]の一つ)競り負けと。

尾崎は当時から自力選手で縦の脚(逃げ・捲くり・追い込み)は強かったが、横の脚(競り)には多少不安が、競り込まれると<不安>があった。それを象徴したレースだった。[[吉井秀人]]も同様の脚質だった。
他にもタイトルのチャンスは幾つかあったが、特に惜しかったのは第40回日本選手権(千葉)で赤板(残り2周)で東京ライン[[清嶋彰一]](当時先行力は輪界BIG3)-尾崎-[[山口健治]]と絶好の番手で最周回浮上したが、インの[[本田晴美]](当時自力型選手)に粘られて[[競輪の戦法|競り合い]]になり、2コーナーで競り負けた。尾崎は当時から自力選手で縦脚(先行・捲り・追い込み)は強かったが、横の脚(競り)には多少不安があり、それを象徴したレースであった。[[吉井秀仁]]も同様脚質だった。比較すると山口健治は横の脚が抜群で尾崎-山口、吉井-山口と並ぶと良いコンビだった。山口のように自力型選手から追い込みにうまく転向できていれば、タイトルをもう1~2個取れたとかもしれない
それに比べると山口健治は横の脚が抜群で尾崎-山口、吉井-山口と並ぶと良いコンビだった。

山口みたいに自力型選手から追い込みにうまく転向すれば、タイトルをもう1.2個取れたと思う。)
またプレッシャーに弱く、フアンの間からは[[惑星]](人気があるとあっさり負けたり、人気がない時に2着まで入線とか)と呼ばれ人気の割には車券が買いにくい事で有名だった。また、[[マスク]]も良くて[[輪界]]の[[プリンス (曖昧さ回避)|プリンス]]と呼ばれていた。


もっとも、尾崎は40歳を過ぎてもS級で活躍し、引退年となった[[2005年]][[12月26日]]時点においてもS級2班に在籍していた。次期([[2006年]]1月~7月)もS2が確定していたが、夫人の実家が[[寺院]]であったことが縁となり、かねてからその職を受け継ぐ話が出ていたこともあったことから、現役を引退することになった。
もっとも、尾崎は40歳を過ぎてもS級で活躍し、引退年となった[[2005年]][[12月26日]]時点においてもS級2班に在籍していた。次期([[2006年]]1月~7月)もS2が確定していたが、夫人の実家が[[寺院]]であったことが縁となり、かねてからその職を受け継ぐ話が出ていたこともあったことから、現役を引退することになった。
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== 競走スタイル ==
== 競走スタイル ==
全盛期は「逃げよし、捲りよし、追い込みよし」という三拍子揃った自在性の脚質を誇っており、また甘いマスクであったことも手伝って'''プリンス'''というニックネームをつけられた。
全盛期は「逃げよし、捲りよし、追い込みよし」という三拍子揃った自在性の脚質を誇っており、また甘いマスクであったことも手伝って'''プリンス'''というニックネームをつけられた。現役晩年にも、目標選手不発の際には自分で捲りを打つこともあった。

== 若き当時の思い出 (スポーツ新聞より)==
*1979年の日本選手権競輪決勝戦(立川競輪場)では、断然人気の中野浩一をはじめ菅田順和・高橋健二と当時の自力型を相手にマークの山口健治を連れて果敢に逃げ、
中野を捲り不発に追い込み、山口に優勝をもたらした一戦が自分を売り出す”キッカケ”でしたが、「レース時は中野さんを捲くらせないで逃げるのが必死で・・」の思いが強い一戦でした。
*翌年の21才には「競輪選手」を目指してる若者が多くなり、練習場にも沢山来ていたのが、印象深く懐かしい思い出です。
特に葛飾区の方から硬式野球部卒業の選手で体は小さかったが「闘志あふれて豊富な練習量」を見て「練習嫌いな」僕も見習うことが多くて
良く一緒に練習し刺激されたものです。
残念にその選手は膝の怪我で選手には成れずじまいでしたが・・
*よくこの年までS級で頑張れた事に満足しています。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[競輪選手一覧]]
*[[競輪選手一覧]]


== 外部リンク ==
* [http://keirin.jp/pc/racerprofile?snum=009271 選手通算成績] - KEIRIN.JP


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[[Category:競輪選手|おさき まさひこ]]
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[[Category:高松宮記念杯競輪優勝者]]

2021年3月15日 (月) 09:39時点における最新版

獲得メダル
1980 ブザンソン プロ・スプリント

尾崎 雅彦(おざき まさひこ、1958年2月5日 - )は日本競輪選手会東京支部に在籍していた元競輪選手東京都出身。日本競輪学校第39期生。師匠は父親である尾崎幸雄。松戸競輪場をホームバンクとしていた。

経歴

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京北高等学校を中退後に日本競輪学校を受験し、学科、技能の試験とも合格し入学する。競輪学校の同期には、「ウルフ」と称された広島所属の木村一利がいた。デビュー戦は1977年5月5日京王閣競輪場。初勝利も同日。

1979年日本選手権競輪決勝戦(立川競輪場)では、断然人気の中野浩一をはじめ菅田順和高橋健二と当時の自力型を相手にマークの山口健治を連れて果敢に逃げ、中野を捲り不発に追い込み、山口に優勝をもたらした一戦だったが、当時中野を力でねじ伏せられる選手というのはまずいないのではないかという状況の中、5着に敗れたとはいえ、尾崎の走りは高く評価された。

1980年世界選手権のスクラッチ(現在の個人スプリント)代表となり、準決勝でジョルダーノ・トリニーを破り、決勝では一本目、二本目と、ともに先行策に打って出るも中野にストレートで敗れ銀メダル。

そして1981年1982年高松宮杯では共に予選3連勝で優勝に王手をかけるなど、この頃からGI決勝戦の常連の顔となり、また競走得点等では常に上位トップ3に名を連ねるなど、尾崎は競輪界屈指の実力派選手として君臨するようになった。しかしなぜかここまで大きなタイトルには縁がなく、82年の宮杯決勝では優勝目前となりながらもゴール寸前、後方から猛然と追い込んできた伊藤豊明に交わされてしまった。

だが1983年の宮杯決勝では、完全優勝を狙う中野浩一が梨野英人の引き出しでバック・3角を番手で通過、グランドスラム達成に絶対有利の流れになったが、ここで山口健治が放った捨身の捲りを中野が張りに行って僅かに空いたインを突き、先頭でゴールを駆け抜け涙の特別初優勝を果たした。その後も記念では抜群の強さを誇り、真の意味で中野、井上茂徳の最大のライバルと目されたこともあった。ところが尾崎はフラワーラインという一大グループ内の絆を大事にしすぎるあまり、肝心なところで甘さを出すケースが少なくなかった。

1984年競輪祭決勝では人気の中心となりながらも目標の清嶋彰一が勝負所で中野浩一の捲りの前に動けず、敗れた。

1985年KEIRINグランプリでも上位人気の一角に推されたが、ジャンで正攻法の位置にいた清嶋を中野が猛然と叩きに出たところ、その動きに尾崎が反応して一旦は中野を外に浮かせてしまうというプレーを見せたというのに、中野が最終バックで捲りを放った際には逆に何もできなかった。

1992年の宮杯決勝では、逃げる神山雄一郎(当時自力で売り出し中)の番手につけながらも、インで粘った滝澤正光(怪物時代に陰りが見え出した頃でこれが最後のタイトル)に番手を奪われ、結果、滝澤に優勝をさらわれてしまった。結局尾崎が獲得したタイトルは上記の83年の宮杯だけ。総合力という点において中野と双璧と目されたことがあった尾崎にしては少々物足りないといえる。

他にもタイトルのチャンスは幾つかあったが、特に惜しかったのは第40回日本選手権(千葉)で、赤板(残り2周)で東京ライン清嶋彰一(当時先行力は輪界BIG3)-尾崎-山口健治と絶好の番手で最周回浮上したが、インの本田晴美(当時自力型選手)に粘られて競り合いになり、2コーナーで競り負けた。尾崎は当時から自力選手で縦の脚(先行・捲り・追い込み)は強かったが、横の脚(競り)には多少不安があり、それを象徴したレースであった。吉井秀仁も同様の脚質だった。比較すると山口健治は横の脚が抜群で尾崎、-山口、吉井-山口と並ぶと良いコンビだった。山口のように自力型選手から追い込みにうまく転向できていれば、タイトルをもう1~2個取れたとかもしれない。

またプレッシャーに弱く、フアンの間からは惑星(人気があるとあっさり負けたり、人気がない時に2着まで入線とか)と呼ばれ人気の割には車券が買いにくい事で有名だった。また、マスクも良くて輪界プリンスと呼ばれていた。

もっとも、尾崎は40歳を過ぎてもS級で活躍し、引退年となった2005年12月26日時点においてもS級2班に在籍していた。次期(2006年1月~7月)もS2が確定していたが、夫人の実家が寺院であったことが縁となり、かねてからその職を受け継ぐ話が出ていたこともあったことから、現役を引退することになった。

主な獲得タイトル

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競走スタイル

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全盛期は「逃げよし、捲りよし、追い込みよし」という三拍子揃った自在性の脚質を誇っており、また甘いマスクであったことも手伝ってプリンスというニックネームをつけられた。現役晩年にも、目標選手不発の際には自分で捲りを打つこともあった。

関連項目

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外部リンク

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