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その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書のオランダ語版を翻訳した『[[紅夷外科宗伝]]』を刊行しており、同書には[[本草学者]]・[[朱子学者]]として名高かった[[貝原益軒]]が序文を寄せている。宝永5年([[1708年]])には、名声を聞いた時の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田綱政]]の招聘も同様の理由で辞退している。
その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書のオランダ語版を翻訳した『[[紅夷外科宗伝]]』を刊行しており、同書には[[本草学者]]・[[朱子学者]]として名高かった[[貝原益軒]]が序文を寄せている。宝永5年([[1708年]])には、名声を聞いた時の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田綱政]]の招聘も同様の理由で辞退している。

大正4年(1915年)、[[正五位]]を追贈された<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37</ref>。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*[[片桐一男]]「楢林鎮山」 (日蘭学会編 『洋学史事典』より、[[雄松堂出版]]、1984年) ISBN 978-4-841-90002-6
*[[片桐一男]]「楢林鎮山」 (日蘭学会編 『洋学史事典』より、[[雄松堂出版]]、1984年) ISBN 978-4-841-90002-6
*片桐一男 『阿蘭陀通詞の研究』 ([[吉川弘文館]]、1985年) 第8回[[角川源義賞]]
*片桐一男 『阿蘭陀通詞の研究』 ([[吉川弘文館]]、1985年) 第8回[[角川源義賞]]
*W・ミヒェル 「楢林新右衛門(鎮山)― 外科医になった通詞」、『九州の蘭学 - 越境と交流』、34-40頁。<br> [[ヴォルフガング・ミヒェル]]・[[鳥井裕美子]]・[[川嶌眞人]] 共編 (京都:[[思文閣出版]]、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5
*W・ミヒェル 「楢林新右衛門(鎮山)― 外科医になった通詞」、『九州の蘭学 - 越境と交流』、34-40頁。[[ヴォルフガング・ミヒェル]]・[[鳥井裕美子]]・[[川嶌眞人]] 共編 (京都:[[思文閣出版]]、2009年)。ISBN 978-4-7842-1410-5


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楢林鎮山

楢林 鎮山(ならばやし ちんざん、慶安元年12月14日1649年1月26日) - 宝永8年3月29日1711年5月16日))は、江戸時代前期の阿蘭陀通詞医師。諱は時敏、法号は栄休。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に楢林栄久がいる。

長崎の出身。9歳よりオランダ語を学び、19歳の時に出島出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。オランダ商館長の江戸入りに8回通詞として同行したほか、リターン号事件などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、オランダ商館医官より蘭方医学を学んだ。

だが、元禄11年9月27日1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをかけられて閉戸(武家閉門と同義)に処せられて通詞を解任。

その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版を翻訳した『紅夷外科宗伝』を刊行しており、同書には本草学者朱子学者として名高かった貝原益軒が序文を寄せている。宝永5年(1708年)には、名声を聞いた時の将軍徳川綱吉が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、福岡藩主黒田綱政の招聘も同様の理由で辞退している。

大正4年(1915年)、正五位を追贈された[1]

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37

参考文献

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