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'''田畑 麦彦'''(たばた むぎひこ、[[1928年]][[3月31日]] - [[2008年]][[6月6日]])は、日本の家。本名・篠原省三。[[東京府]]生まれ。[[慶應義塾大学]]経済学部卒。
'''田畑 麦彦'''(たばた むぎひこ、[[1928年]][[3月31日]] - [[2008年]][[6月6日]])は、日本の[[小説]]。本名・篠原省三。[[東京府]]生まれ。[[慶應義塾大学経済学部]]卒。


==経歴==
==経歴==
[[東京急行電鉄]][[社長]]を務めた[[篠原三千郎]]の二男として生まれる<ref>[[猪瀬直樹]]『土地の神話』p171-172</ref>。妹の桂子は[[渥美昭夫]]の妻。中学校から[[慶應義塾]]に通う。[[毎日新聞社]]、[[東映映画]]に勤務。
1953年『[[三田文学]]』に「夜の窓」を発表、『[[文藝首都]]』[[同人]]として小説を書く。1962「嬰ヘ短調」[[文藝賞]]受賞。[[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]と結婚していたが、事業の失敗により離婚佐藤はその経緯を「戦いすんで日が暮れて」に書いて[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞した。田畑は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]や直木賞の候補になることもなかった。1969年から1985年まで『[[文藝]]』で同人雑誌評を続け、その後は『[[公評]]』に評論を書いていた。

1953年『[[三田文学]]』に「夜の窓」を発表、『[[文藝首都]]』[[同人]]として小説を書く。1956、同人誌仲間あった[[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]と結婚。1962年「嬰ヘ短調」で[[文藝賞]]受賞。同年より妻愛子とともに[[産業教育]]教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立、経営に参画する。1964年より日本ソノフィルムやエスプリ企画の[[代表取締役]]社長を務めるが、事業の失敗により離婚佐藤はその経緯を「戦いすんで日が暮れて」に書いて[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞した。田畑自身は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]や直木賞の候補になることもなかった。1969年から1985年まで『[[文藝]]』で同人雑誌評を続け、その後は『[[公評]]』に評論を書いていた。


著書は『小鳥が歌をうたつている』(南北社、1965年)『祭壇』(新版・風濤社 1969年)。
著書は『小鳥が歌をうたつている』(南北社、1965年)『祭壇』(新版・風濤社 1969年)。


経営する会社が倒産する寸前の時期に、同人誌仲間の[[北杜夫]]から200万円を借りて踏み倒したこともある北杜夫『マンボウ交遊録』p.86)。また、佐藤愛子との間の娘である佐藤響子は糸杉紗衣の筆名で小説『ハロー・グッドバイ』(朝日新聞社、1996年)を出している
経営する会社が倒産する寸前の時期に、同人誌仲間の[[北杜夫]]から200万円を借りて踏み倒したこともある<ref>北杜夫『マンボウ交遊録』p.86</ref>


佐藤愛子と離婚した後も年1回ほどは娘の顔を見に佐藤家を訪れ、3人で食事をすることがあった<ref name="aiko">佐藤愛子『お徳用 愛子の詰め合わせ』p.247-248</ref>。もともと小児麻痺で歩行困難だったが、晩年はリウマチで車いすになり、2005年頃から佐藤家を訪れることもなくなったという<ref name="aiko" />。
佐藤愛子と離婚した後も年1回ほどは娘の顔を見に佐藤家を訪れ、3人で食事をすることがあった<ref name="aiko">佐藤愛子『お徳用 愛子の詰め合わせ』p.247-248</ref>。もともと[[小児麻痺]]で歩行困難だったが、晩年は[[リウマチ]]で車いすになり、2005年頃から佐藤家を訪れることもなくなったという<ref name="aiko" />。


2008年6月6日、[[間質性肺炎]]のため80歳で死去。佐藤愛子は『晩鐘』(2014年)で田畑のことを描いた。
2008年6月6日、[[間質性肺炎]]のため80歳で死去。佐藤愛子は田畑をモデルに『晩鐘』(2014年)を描いた。


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2021年6月3日 (木) 09:20時点における最新版

田畑 麦彦(たばた むぎひこ、1928年3月31日 - 2008年6月6日)は、日本の小説家。本名・篠原省三。東京府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。

経歴[編集]

東京急行電鉄社長を務めた篠原三千郎の二男として生まれる[1]。妹の桂子は渥美昭夫の妻。中学校から慶應義塾に通う。毎日新聞社東映映画に勤務。

1953年『三田文学』に「夜の窓」を発表、『文藝首都同人として小説を書く。1956年、同人誌仲間であった佐藤愛子と結婚。1962年「嬰ヘ短調」で文藝賞受賞。同年より妻愛子とともに産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立、経営に参画する。1964年より日本ソノフィルムやエスプリ企画の代表取締役社長を務めるが、事業の失敗により離婚。佐藤はその経緯を「戦いすんで日が暮れて」に書いて直木賞を受賞した。田畑自身は芥川賞や直木賞の候補になることもなかった。1969年から1985年まで『文藝』で同人雑誌評を続け、その後は『公評』に評論を書いていた。

著書は『小鳥が歌をうたつている』(南北社、1965年)『祭壇』(新版・風濤社 1969年)。

経営する会社が倒産する寸前の時期に、同人誌仲間の北杜夫から200万円を借りて踏み倒したこともある[2]

佐藤愛子と離婚した後も年1回ほどは娘の顔を見に佐藤家を訪れ、3人で食事をすることがあった[3]。もともと小児麻痺で歩行困難だったが、晩年はリウマチで車いすになり、2005年頃から佐藤家を訪れることもなくなったという[3]

2008年6月6日、間質性肺炎のため80歳で死去。佐藤愛子は田畑をモデルに『晩鐘』(2014年)を描いた。

脚注[編集]

  1. ^ 猪瀬直樹『土地の神話』p171-172
  2. ^ 北杜夫『マンボウ交遊録』p.86
  3. ^ a b 佐藤愛子『お徳用 愛子の詰め合わせ』p.247-248