「福田蓼汀」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
(10人の利用者による、間の10版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
{{文学}} |
|||
⚫ | |||
== |
== 生涯 == |
||
[[山口県]]萩町(現在の[[萩市]])生まれ。父は[[陸軍]][[中将]]の[[福田彦助]]。 |
[[山口県]]萩町(現在の[[萩市]])生まれ。父は[[陸軍]][[中将]]の[[福田彦助]]、母は「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」の俳人であった[[福田無声女]]。 |
||
[[東北大学]]在学中に学友の勧めで[[高浜虚子]]門に入 |
[[東北帝国大学]]法文学部法科在学中に学友の勧めで[[高浜虚子]]門に入る。[[山口青邨]]の「[[夏草]]」にも所属し、1940年には「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、[[川端茅舎]]、[[松本たかし]]、[[中村草田男]]らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、[[橋本鶏二]]の「年輪」、[[野見山朱鳥]]の「菜殻火」、[[波多野爽波]]の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。1961年の[[俳人協会]]設立にも参画、のちに副会長も務めている。 |
||
1939年の[[八ヶ岳]]登山を皮切りに日本各地の山々を踏破、山岳俳人の第一人者として名を高める。戦後に隆盛した[[社会性俳句]]の流れからも一線を画し、季節感情と対象を具体的に把握しようとする写実精神を主張。「山岳と自然の純粋美を讃える作品」([[岡田日郎]])としての山岳俳句を作り続けた。1969年には次男が[[奥黒部]]で遭難死するという不幸があり、この悲しみを詠んだ「秋風挽歌」30句(『俳句』11月号掲載)などの業績により、1970年に第四回[[蛇笏賞]]を受賞した。1984年に[[勲四等]][[瑞宝章]]を受章<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E7%94%B0+%E8%93%BC%E6%B1%80-1653810 20世紀日本人名事典]</ref>。1988年1月18日、没。享年82。 |
|||
1948年には自ら「山火」を創刊してその主宰となるほか、[[橋本鷄二]]の「年輪」、[[野見山朱鳥]]の「菜殻火」、[[波多野爽波]]の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。また、1939年の八ヶ岳登山を皮切りに、日本各地の山々を踏破し、山岳俳人の第一人者として名を高めた。 |
|||
「山火」は門人の[[岡田日郎]]が継いだ。 |
|||
== 著書 == |
|||
1970年に'''「秋風挽歌」'''が第四回[[蛇笏賞]]を受賞するが、これは奥黒部での二男の遭難死を悼んで詠んだものである。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
*『福田蓼汀全句集』(1984年) |
|||
*『神の山仏の山』(1989年) |
|||
'''随筆など''' |
|||
1988年1月18日、没。享年82。 |
|||
*『黒部幻影』(1971年) |
|||
*『四季賛歌』(1975年) |
|||
*『銀箭金壺』(1979年) |
|||
== |
==脚注== |
||
<references/> |
|||
山岳俳句の第一人者として名高い。[[岡田日郎]]は蓼汀を「山岳と自然の純粋美を讃える作品」と単刀直入に評価した。また、蓼汀本人も季節感情と対象を具体的に把握しようとする写実精神を主張し、当時隆盛を極めた「社会性俳句」とは一線を画すというスタイルを貫いた。 |
|||
== |
==参考文献== |
||
⚫ | |||
{{節stub}} |
|||
== 外部リンク == |
|||
⚫ | |||
*[http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19980911,19981217,20090722&tit=%95%9F%93c%E4%F8%92%F3&tit2=%95%9F%93c%E4%F8%92%F3%82%CC 増殖する俳句歳時記 福田蓼汀の句] |
|||
⚫ | |||
*[http://www.weblio.jp/content/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E8%93%BC%E6%B1%80 現代俳句人名事典 福田蓼汀の句] |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
など。また、山岳に対する本も多数著述している。 |
|||
==参考文献== |
|||
⚫ | |||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:ふくた りようてい}} |
{{DEFAULTSORT:ふくた りようてい}} |
||
[[Category:俳人]] |
[[Category:20世紀日本の俳人]] |
||
[[Category:20世紀日本の登山家]] |
|||
[[Category:山口県出身の人物]] |
[[Category:山口県出身の人物]] |
||
[[Category:東北大学出身の人物]] |
|||
[[Category:勲四等瑞宝章受章者]] |
|||
[[Category:1905年生]] |
[[Category:1905年生]] |
||
[[Category:1988年没]] |
[[Category:1988年没]] |
2021年8月16日 (月) 12:41時点における最新版
福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は、日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。
生涯
[編集]山口県萩町(現在の萩市)生まれ。父は陸軍中将の福田彦助、母は「ホトトギス」の俳人であった福田無声女。
東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。山口青邨の「夏草」にも所属し、1940年には「ホトトギス」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、川端茅舎、松本たかし、中村草田男らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。1961年の俳人協会設立にも参画、のちに副会長も務めている。
1939年の八ヶ岳登山を皮切りに日本各地の山々を踏破、山岳俳人の第一人者として名を高める。戦後に隆盛した社会性俳句の流れからも一線を画し、季節感情と対象を具体的に把握しようとする写実精神を主張。「山岳と自然の純粋美を讃える作品」(岡田日郎)としての山岳俳句を作り続けた。1969年には次男が奥黒部で遭難死するという不幸があり、この悲しみを詠んだ「秋風挽歌」30句(『俳句』11月号掲載)などの業績により、1970年に第四回蛇笏賞を受賞した。1984年に勲四等瑞宝章を受章[1]。1988年1月18日、没。享年82。 「山火」は門人の岡田日郎が継いだ。
著書
[編集]句集
- 『山火』(1948年)
- 『碧落』(1952年)
- 『源流』(1966年)
- 『秋風挽歌』(1970年)
- 『霰』(1976年)
- 『福田蓼汀全句集』(1984年)
- 『神の山仏の山』(1989年)
随筆など
- 『黒部幻影』(1971年)
- 『四季賛歌』(1975年)
- 『銀箭金壺』(1979年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]外部リンク
[編集]