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「下馬木忠綱」の版間の差分

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| 脚注の不足 = 2020-09-01
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| 独自研究 = 2020-09-01
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| 百科事典的でない = 2020-09-01
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'''下馬木 忠綱''' (しもまき ただつぐ)は、[[仁多郡]]大馬木(現在の[[島根県]][[仁多郡]][[奥出雲町]]大馬木)の一部を支配した[[豪族]]・[[武士]]、[[小林館]]主、[[馬木氏綱]]の子孫かつ庶子家の当主、'''讃岐守'''。<ref name="Tadatsugu">「仁多郡史」(1972年) 165頁</ref>別の姓は'''馬木'''(まき)。<ref name="Tadatsugu"/>[[馬木道綱]]、[[馬木乗綱]]、[[馬木孝綱]]の三代にわたって仕えた。<ref name="Tadatsugu"/>


== 生涯 ==
宗家に伝わる「馬木系図」によれば[[山名氏]]の子孫である馬木氏綱の三男・[[馬木綱頼]]を祖とする庶子家の子孫とされる。<ref name="Tadatsugu"/>しかしその後数代にわたって系図が不詳であり、忠綱の父(養父とする説もある)は「下馬木讃岐守応綱」と留守居の連判状に記されるのみで、それ以前の人物は一切不明である <ref name="Tadatsugu"/>[[天正]]3年([[1575年]])に[[三沢氏]]次いで[[尼子氏]]への内通の疑いで誅された人物として「下馬木讃岐守」が見られるが、これが忠綱本人かは判明していない。<ref name="Tadatsugu"/> 年代を考慮して、これは忠綱の子ではないかとする説がある。<ref name="Tadatsugu"/>
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==== 出典 ====

== 出典 ==
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2021年11月13日 (土) 07:26時点における最新版

下馬木 忠綱 (しもまき ただつぐ)は、仁多郡大馬木(現在の島根県仁多郡奥出雲町大馬木)の一部を支配した豪族武士小林館主、馬木氏綱の子孫かつ庶子家の当主、讃岐守[1]別の姓は馬木(まき)。[1]馬木道綱馬木乗綱馬木孝綱の三代にわたって仕えた。[1]

生涯

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宗家に伝わる「馬木系図」によれば山名氏の子孫である馬木氏綱の三男・馬木綱頼を祖とする庶子家の子孫とされる。[1]しかしその後数代にわたって系図が不詳であり、忠綱の父(養父とする説もある)は「下馬木讃岐守応綱」と留守居の連判状に記されるのみで、それ以前の人物は一切不明である。[1]天正3年(1575年)、尼子氏から独立を計り誅された人物として「下馬木讃岐守」が見られるが、これが忠綱本人かは判明していない。[1] 年代を考慮して、これは忠綱の子ではないかとする説がある。[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 「仁多郡史」(1972年) 165頁

参考文献

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外部リンク

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