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'''ショーレム・アレイヘム'''({{lang-yi|שלום־עליכם}}、{{lang-en|Sholem Aleichem}}、{{lang-he|שלום עליכם}}、[[1859年]][[3月2日]]([[ユリウス暦]]2月18日) - [[1916年]][[5月13日]])は、[[ウクライナ]]出身の[[イディッシュ文化|イディッシュ]][[劇作家]]、[[小説家]]、[[ジャーナリスト]]。小説家というよりは劇作家と呼ぶほうが良いとも言われる。 |
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「ショレム・アレイヘム」とは[[イディッシュ語]]では「あなたに平和を」というほどの日常的[[挨拶]]。[[詩篇]]など参照。 |
本名はソロモン・ラビノヴィッツ(Solomon(Shlomoh) Ya'aqobh Rabinowitz, ''Šolem Jakov Rabonovič'')。''ショレム・アレイヘム''、''ショラム・アレイヘム''、''ショーロム・アレイヘム''とも。「ショレム・アレイヘム」とは[[イディッシュ語]]では「あなたに平和を」というほどの日常的[[挨拶]]。[[詩篇]]など参照。 |
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[[アラビア語]]「アッサラーム・アライクム」に相当するが、使われる場面はやや異なる。ショーロム・アレイヘムなどの発音もある。 |
[[アラビア語]]「アッサラーム・アライクム」に相当するが、使われる場面はやや異なる。ショーロム・アレイヘムなどの発音もある。 |
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少年時代から執筆活動を行い、[[オデッサ]]、[[キエフ]]等で[[ジャーナリスト]]生活に入った。 |
[[キエフ]]近郊[[ペレヤスラウ=フメリニツキー|ペレヤスラウ]]生まれ。少年時代から執筆活動を行い、[[オデッサ]]、[[キエフ]]等で[[ジャーナリスト]]生活に入った。 |
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[[1889年]]、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』 |
[[1889年]]、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbibliotek)を創設。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めるが、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものである。 |
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はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『牛乳屋 |
はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『[[牛乳屋テヴィエ]]』(『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』の項を参照)、長編では『{{仮リンク|ステンペーニュ|en|Stempenyu}}』、『[[嵐の中で]]』、遺作『{{仮リンク|Mottel the Cantor's Son|en|Motl, Peysi the Cantor's Son}}』など。 |
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[[1905年]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、[[1906年]]のアメリカ滞在時に[[マーク・トゥエイン]]と会う。[[マーク・トゥエイン]]は、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。 |
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のち一時ヨーロッパに戻り、[[イタリア]]に住んだが、[[1914年]]の[[第一次世界大戦]]の勃発で再び[[ニューヨーク]]へ移住した。1916年、[[結核]]と[[糖尿病]]を併発してニューヨークで逝去。葬儀には10万人が参列した。[[ニューヨーク州]][[クイーンズ区]]のマウントカーメル墓地に埋葬され、生前に決めていた文面が墓石に刻まれた。 |
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郷土の[[シュテットル]]の[[ユダヤ教徒]]の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。 |
郷土の[[シュテットル]]の[[ユダヤ教徒]]の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。 |
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アメリカ、故郷のウクライナなどに記念碑が建立されているほか、[[水星]]の{{仮リンク|ショーレム・アレイヘム (水星のクレーター)|label=クレーター|en|Sholem Aleichem (crater)}}に命名されている。 |
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== イディッシュ文学の大衆化 == |
== イディッシュ文学の大衆化 == |
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[[19世紀]]前半には、[[ロシア帝国]]内においても[[ハスカラー]]の影響を受けてイディッシュ語の近代化を目指す作家が現れたが、彼らにとってイディッシュ文学は「民衆[[啓蒙]]」の手段に過ぎなかったといわれる。「西洋近代文学に追いつけ、追い越せ」の気負いに満ちていたが、「民衆への啓蒙」という姿勢に縛られがちで、頭でっかちなものになりがちだったといわれる。 |
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19世紀後半になると、近代イディッシュ文学の揺籃期(『{{仮リンク|イディッシュ・ルネッサンス|en|Yiddish Renaissance}}』)が訪れた。ショーレム・アレイヘム、[[メンデレ・モイヘル・スフォリム]]、[[イツホク・ペレツ]]の三人は、[[イディッシュ文学]]の第一世代・師といわれ、イディッシュ文学史の黄金時代に位置するともいわれる。彼は「饒舌な口語体」を用い、「イディッシュ文学の大衆化」に道を開いたといわれる。演劇自体はあまり多作ではないが、物語や小説は多くのイディッシュ演劇の[[俳優]]、作家、[[プロデューサー]]にとって着想の源となり、舞台に生かされる。 |
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彼は「饒舌な口語体」を用い、「イディッシュ文学の大衆化」に道を開いたといわれる。 |
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なお、[[1906年]]のアメリカ滞在時に[[マーク・トゥエイン]]と会う。[[マーク・トゥエイン]]は、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。 |
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ショーレム・アレイヘム、[[メンデレ・モイヘル・スフォリム]]、[[イツホク・ペレツ]]の三人は、[[イディッシュ文学]]の第一世代・師といわれ、イディッシュ文学史の黄金時代に位置するともいわれる。 |
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演劇自体はあまり多作ではないが、物語や小説は多くのイディッシュ演劇の[[俳優]]、作家、[[プロデューサー]]にとって着想の源となり、舞台に生かされる。 |
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== 作品と文献案内 == |
== 作品と文献案内 == |
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* "''Tevye’s daughters''", 1948年 |
* "''Tevye’s daughters''", 1948年 |
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* "''Tevye der milkhiger''", 1894年 『牛乳屋テヴィエ』([[屋根の上のバイオリン弾き]]の原作) |
* "''Tevye der milkhiger''", 1894年 『牛乳屋テヴィエ』([[屋根の上のバイオリン弾き]]の原作) |
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** 『牛乳屋テヴィエ』[[西成彦]]訳, 岩波文庫, 2012年, ISBN 4003277910 |
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== 参考資料 == |
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* [http://www.sholom-aleichem.org/ The Sholom Aleichem Network] |
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* [http://tal.forum2.org/bloody The Bloody Hoax] (a book review) |
* [http://tal.forum2.org/bloody The Bloody Hoax] (a book review) |
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2022年1月12日 (水) 11:55時点における最新版
ショーレム・アレイヘム(イディッシュ語: שלום־עליכם、英語: Sholem Aleichem、ヘブライ語: שלום עליכם、1859年3月2日(ユリウス暦2月18日) - 1916年5月13日)は、ウクライナ出身のイディッシュ劇作家、小説家、ジャーナリスト。小説家というよりは劇作家と呼ぶほうが良いとも言われる。
名前[編集]
本名はソロモン・ラビノヴィッツ(Solomon(Shlomoh) Ya'aqobh Rabinowitz, Šolem Jakov Rabonovič)。ショレム・アレイヘム、ショラム・アレイヘム、ショーロム・アレイヘムとも。「ショレム・アレイヘム」とはイディッシュ語では「あなたに平和を」というほどの日常的挨拶。詩篇など参照。 アラビア語「アッサラーム・アライクム」に相当するが、使われる場面はやや異なる。ショーロム・アレイヘムなどの発音もある。
生涯[編集]
キエフ近郊ペレヤスラウ生まれ。少年時代から執筆活動を行い、オデッサ、キエフ等でジャーナリスト生活に入った。
1889年、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbibliotek)を創設。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めるが、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものである。
はじめコンパクトな短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編としては『牛乳屋テヴィエ』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)、長編では『ステンペーニュ』、『嵐の中で』、遺作『Mottel the Cantor's Son』など。
1905年アメリカに渡り、1906年のアメリカ滞在時にマーク・トゥエインと会う。マーク・トゥエインは、ショーレム・アレイヘムに「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。
のち一時ヨーロッパに戻り、イタリアに住んだが、1914年の第一次世界大戦の勃発で再びニューヨークへ移住した。1916年、結核と糖尿病を併発してニューヨークで逝去。葬儀には10万人が参列した。ニューヨーク州クイーンズ区のマウントカーメル墓地に埋葬され、生前に決めていた文面が墓石に刻まれた。
郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっている。「ユダヤ教徒の純情」さを描いて同志愛の必要性を促したともいわれる。
アメリカ、故郷のウクライナなどに記念碑が建立されているほか、水星のクレーターに命名されている。
イディッシュ文学の大衆化[編集]
19世紀前半には、ロシア帝国内においてもハスカラーの影響を受けてイディッシュ語の近代化を目指す作家が現れたが、彼らにとってイディッシュ文学は「民衆啓蒙」の手段に過ぎなかったといわれる。「西洋近代文学に追いつけ、追い越せ」の気負いに満ちていたが、「民衆への啓蒙」という姿勢に縛られがちで、頭でっかちなものになりがちだったといわれる。
19世紀後半になると、近代イディッシュ文学の揺籃期(『イディッシュ・ルネッサンス』)が訪れた。ショーレム・アレイヘム、メンデレ・モイヘル・スフォリム、イツホク・ペレツの三人は、イディッシュ文学の第一世代・師といわれ、イディッシュ文学史の黄金時代に位置するともいわれる。彼は「饒舌な口語体」を用い、「イディッシュ文学の大衆化」に道を開いたといわれる。演劇自体はあまり多作ではないが、物語や小説は多くのイディッシュ演劇の俳優、作家、プロデューサーにとって着想の源となり、舞台に生かされる。
作品と文献案内[編集]
- "der oytser"『宝』, 1908年(演劇)
- "Stampenyu", 1913年
- "Jewish children", 1920年
- "dos groyse gevins"『大儲け』, 1925年(演劇)
- "The old country", 1946年
- "Tevye’s daughters", 1948年
- "Tevye der milkhiger", 1894年 『牛乳屋テヴィエ』(屋根の上のバイオリン弾きの原作)
- 『牛乳屋テヴィエ』西成彦訳, 岩波文庫, 2012年, ISBN 4003277910
参考資料[編集]
- My Father, Sholom Aleichem, by Marie Waife-Goldberg
- Liptzin, Sol, A History of Yiddish Literature, Jonathan David Publishers, Middle Village, NY, 1972, ISBN 0-8246-0124-6. 66 et. seq.
外部リンク[編集]
- The Sholom Aleichem Network
- The Bloody Hoax (a book review)
- ショーレム・アレイヘム - Find a Grave