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{{Infobox 人物
'''ジャック・コポー'''('''Jacques Copeau''' [[1879年]][[2月4日]] - [[1949年]][[10月20日]])は、[[フランス]]現代演劇の開拓者。劇団主宰者、演劇批評家、劇作家、俳優[[新フランス評論|NRF]]誌創刊グループの一人。[[パリ]]に生まれ、[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]の[[ボーヌ]]に没した
| 氏名 = ジャック・コポー<br>Jacques Copeau
| 画像 = Copeau Harcourt 1936 2.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = ジャック・コポー(1936年)
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1879|02|04|no}}
| 生誕地 = {{FRA}}、[[パリ]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1879|02|04|1949|10|20}}
| 死没地 = {{FRA}}、[[コート=ドール県]][[ボーヌ]]([[ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏|ブルゴーニュ]]
| 死因 =
| 墓地 = [[ペルナン・ヴェルジュレス]]墓地
| 教育 =
| 出身校 = [[リセ・コンドルセ]]
| 職業 = [[劇団]]主宰者、[[演劇]][[評論家|批評家]]、[[劇作家]]、[[俳優]]
| 著名な実績 = [[ヴィユ・コロンビエ劇場]]創設・主宰
| 代表作 =
| 影響を受けたもの =
| 影響を与えたもの =
| 栄誉 = [[レジオンドヌール勲章]]シュヴァイエ
| 公式サイト =
| 署名 =
| 署名サイズ =
}}

'''ジャック・コポー'''(Jacques Copeau[[1879年]][[2月4日]] - [[1949年]][[10月20日]])は、[[フランス]]現代[[演劇]]の開拓者。[[劇団]]主宰者、演劇[[評論家|批評家]][[劇作家]][[俳優]]。[[アンドレ・ジッド]]らとともに[[新フランス評論]](NRF)創刊。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
金具工場を経営する中流家庭に生まれた。[[パリ]]のリセ・コンドルセ([[:fr:Lycée Condorcet|Lycée Condorcet]]に学ぶ。16歳から戯曲作りを試みる。
[[パリ]]で金具工場を経営する中流家庭に生まれた。[[リセ・コンドルセ]]に学ぶ。16歳から戯曲作りを試みる。


1896年、ソルボンヌ(現在の[[パリ大学]]に進む。1902年1月、[[デンマーク]]の女性と結婚し、[[コペンハーゲン]]に住む。その年、長女(後の女優マリー・エレーヌ・ダステ([[:fr:Marie-Hélène Dasté|Marie-Hélène Dasté]]))を得る。
1896年、[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]に進む。1902年1月、[[デンマーク]]の女性と結婚し、[[コペンハーゲン]]に住む。その年、長女(後の女優マリー・エレーヌ・ダステ([[:fr:Marie-Hélène Dasté|Marie-Hélène Dasté]]))を得る。


1903年4月帰国し、[[アルデンヌ県]]の金具工場を管理するが、頻繁に[[パリ]]に出て、[[アンドレ・ジッド|ジッド]]らと交わり、演劇批評で名を広める。1905年、[[パリ]]に移る。次女(後の修道女)を得る。
1903年4月帰国し、[[アルデンヌ県]]の金具工場を管理するが、頻繁にパリに出て、[[アンドレ・ジッド|ジッド]]らと交わり、演劇批評で名を広める。1905年、パリに移る。次女(後の修道女)を得る。


1905年7月、ジョルジュ・プティ(Georges Petit)画廊に勤め、かたわら、演劇誌、エルミタージュ(L'Ermitage)、テアトル(Le Théâtre)、グラン・ルヴュ(La Grande Revue)に、劇評をのせる
1905年7月、[[ジョルジュ・プティ]]画廊に勤め、かたわら、演劇・新聞『{{仮リンク|レルミタージュ|fr|L'Ermitage}}』『{{仮リンク|ル・テアトル|fr|Le Théatre (journal)}}』グラン・ルヴュ(La Grande Revue)に、劇評を寄稿した


画廊に出入りするジッド、シュランベルジェ([[:en:Jean Schlumberger|Jean Schlumberger]])、ゲオン([[:en:Henri Ghéon|Henri Ghéon]])ら文学者・演劇関係者で、1909年2月、[[新フランス評論|NRF]]誌創刊の運びとなり、1912年 - 1914年は、コポーが同誌を編集した。
画廊に出入りするジッド、{{仮リンク|ジャン・シュランベルジェ|fr|Jean Schlumberger}}{{仮リンク|アンリ・ゲオン|fr|Henri Ghéon}}ら文学者・演劇関係者で、1909年2月、[[新フランス評論]](NRF)』創刊、1912年から1914年まで同誌を編集した。


1909年5月、画廊をやめ、また工場経営からも手を引いて、1910年、[[パリ]]東隣、[[セーヌ=エ=マルヌ県]]のル・リモンに仕事場を構え、『[[カラマーゾフの兄弟]]』の上演台本を練った。それは、1911年、グラン・ルヴュ誌の編集者で演出家の、ジャック・ルーシェ([[:fr:Jacques Rouché|Jacques Rouché]])が持つ芸術座([[:fr:Théâtre Hébertot|Théâtre des Arts]]) で上演された。4月の初演には[[シャルル・デュラン]]が、さらに、10月の再演には[[ルイ・ジューヴェ]]も出演した。注目されたが、入りはよくなかった。
1909年5月、画廊をやめ、また工場経営からも手を引いて、1910年、パリ東隣、[[セーヌ=エ=マルヌ県]]のル・リモンに仕事場を構え、『[[カラマーゾフの兄弟]]』の上演台本を練った。それは、1911年、グラン・ルヴュ誌の編集者で演出家の、ジャック・ルーシェ([[:fr:Jacques Rouché|Jacques Rouché]])が持つ芸術座([[:fr:Théâtre Hébertot|Théâtre des Arts]]) で上演された。4月の初演には[[シャルル・デュラン]]が、さらに、10月の再演には[[ルイ・ジューヴェ]]も出演した。注目されたが、入りはよくなかった。


保守的な国立劇場([[コメディ・フランセーズ]]と[[オデオン座]])と[[写実主義|写実的]]な商業演劇とに飽きたらず、演劇に品位と文学性とを取り戻したかったコポーは、1913年、[[パリ]]6区の古い小劇場を借りて改装し、そこの町名から[[ヴィユ・コロンビエ劇場]]と名付け、一座を組織した。デュラン、ジューヴェら10人の座員は、夏一杯、ル・リモンで稽古を重ね、10月23日、初日の幕を開けた。フランス現代演劇の幕開けであった。NRFの仲間、[[アンドレ・ジッド|ジッド]]、[[ジョルジュ・デュアメル]]、[[ロジェ・マルタン・デュ・ガール]]らが、手伝った。大統領も首相も観劇した。簡潔な装置の無駄のない芝居運びが評判を呼び、[[タイムズ|ロンドン・タイムズ]]にも紹介され、1914年3月、[[イギリス]]巡演をした。
保守的な国立劇場([[コメディ・フランセーズ]]と[[オデオン座]])と[[写実主義|写実的]]な商業演劇とに飽きたらず、演劇に品位と文学性とを取り戻したかったコポーは、1913年、[[パリ]]6区の古い小劇場を借りて改装し、そこの町名から[[ヴィユ・コロンビエ劇場]]と名付け、一座を組織した。デュラン、ジューヴェら10人の座員は、夏一杯、ル・リモンで稽古を重ね、10月23日、初日の幕を開けた。フランス現代演劇の幕開けであった。『新フランス評論』の仲間、[[アンドレ・ジッド|ジッド]]、[[ジョルジュ・デュアメル]]、[[ロジェ・マルタン・デュ・ガール]]らが、手伝った。大統領も首相も観劇した。簡潔な装置の無駄のない芝居運びが評判を呼び、[[タイムズ|ロンドン・タイムズ]]にも紹介され、1914年3月、[[イギリス]]巡演をした。


そして[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]になった。コポーは軍務に志願し、一座の多くも召集され、劇場は閉鎖された。
そして[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]になった。コポーは軍務に志願し、一座の多くも召集され、劇場は閉鎖された。
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1920年2月10日、公演を再開し、12月、近くに、[[ジュール・ロマン]]が校長の、演劇学校を開設した。演劇に純粋で、禁欲的に過ぎる姿勢は、金銭的に報われなかったが、周囲の勧める補助金の申請も、座席数の多い劇場への移転も、演目の拡大も、断った。1922年11月、番頭格のジューヴェが去り、ヴィユ・コロンビエ劇団は、デュラン一座・ジューヴェ一座と、競うことになった。
1920年2月10日、公演を再開し、12月、近くに、[[ジュール・ロマン]]が校長の、演劇学校を開設した。演劇に純粋で、禁欲的に過ぎる姿勢は、金銭的に報われなかったが、周囲の勧める補助金の申請も、座席数の多い劇場への移転も、演目の拡大も、断った。1922年11月、番頭格のジューヴェが去り、ヴィユ・コロンビエ劇団は、デュラン一座・ジューヴェ一座と、競うことになった。


1921年、[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ド・ヌール勲章]]を受ける。
1921年、[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ド・ヌール勲章]]シュヴァリエを受ける。


1923年、『生まれた家』を書き上げ12月に上演するが、ジューヴェ一座の演目に惨敗した。内外の巡演を打ち上げて1924年5月、ヴィユ・コロンビエ劇団を解散した。ジューヴェは俳優の一部を引取り、コポーは手がけた戯曲の上演権を譲った。10月、俳優や生徒35人と、[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]、[[ボーヌ]]市近傍モントイユ(Montreuil)に移った。演劇を地方に広めたい宿願もあった。
1923年、『生まれた家』を書き上げ12月に上演するが、ジューヴェ一座の演目に惨敗した。内外の巡演を打ち上げて1924年5月、ヴィユ・コロンビエ劇団を解散した。ジューヴェは俳優の一部を引取り、コポーは手がけた戯曲の上演権を譲った。10月、俳優や生徒35人と、[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]、[[ボーヌ]]市近傍モントイユ(Montreuil)に移った。演劇を地方に広めたい宿願もあった。


コポーは内外への講演旅行で資金を稼ぎ、長女マリーを含む俳優らは、[[コメディア・デラルテ]]風の興行をして回った。コポー党(les Copiaux)と呼ばれた。コポーとレ・コピオーとは、1925年末ペルナン・ヴェルジュレス([[:fr:Pernand-Vergelesses|Pernand-Vergelesses]])に移り、近隣各国を巡業した。ペルナンに劇場を建てたいコポーの希望は、しかし、果たせなかった。
コポーは内外への講演旅行で資金を稼ぎ、長女マリーを含む俳優らは、[[コメディア・デラルテ]]風の興行をして回った。コポー党(les Copiaux)と呼ばれた。コポーとレ・コピオーとは、1925年末[[ペルナン・ヴェルジュレス]]([[:fr:Pernand-Vergelesses|Pernand-Vergelesses]])に移り、近隣各国を巡業した。ペルナンに劇場を建てたいコポーの希望は、しかし、果たせなかった。


[[1926年]]春、[[オデオン座]]の主事を勧められ、断った。11月[[ニューヨーク]]へ渡り、英語版『カラマーゾフの兄弟』を演出して成功し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に留まるよう勧められたが、断った。
[[1926年]]春、[[オデオン座]]の主事を勧められ、断った。11月[[ニューヨーク]]へ渡り、英語版『カラマーゾフの兄弟』を演出して成功し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に留まるよう勧められたが、断った。
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1929年10月、コポーの[[コメディ・フランセーズ]]支配人就任を望む声が起こり、流れた。
1929年10月、コポーの[[コメディ・フランセーズ]]支配人就任を望む声が起こり、流れた。


1931年1月、コポー党は解散し、甥のミシェル・サン=ドニ([[:fr:Michel Saint-Denis|Michel Saint-Denis]])が、十五人劇団([[:fr:Compagnie des Quinze |Compagnie des Quinze ]])を組織した。一座は[[ヴィユ・コロンビエ劇場]]で公演した。コポーは、1933年11月 - 1935年2月、『新文学』誌([[:fr:Les Nouvelles Littéraires|Les Nouvelles Littéraires]])に劇評を書いていた。
1931年1月、コポー党は解散し、甥の{{仮リンク|ミシェル・サン=ドニ|fr|Michel Saint-Denis}}([[:fr:Michel Saint-Denis|Michel Saint-Denis]])が、十五人劇団(La Compagnie des Quinze)を組織した。一座は[[ヴィユ・コロンビエ劇場]]で公演した。コポーは、1933年11月 - 1935年2月、『新文学』誌([[:fr:Les Nouvelles Littéraires|Les Nouvelles Littéraires]])に劇評を書いていた。


1936年 - 1938年、[[#コメディ・フランセーズ|コメディ・フランセーズ]]の演出を手がけた。1936年春、[[ルイ・ジューヴェ|ジューヴェ]]が、低迷する同座から総支配人就任を要請され、固辞し、代わりに、コポー、デュラン、ジューヴェらの在野派が演出に参加すると、取り決めたのである。
1936年 - 1938年、[[#コメディ・フランセーズ|コメディ・フランセーズ]]の演出を手がけた。1936年春、[[ルイ・ジューヴェ|ジューヴェ]]が、低迷する同座から総支配人就任を要請され、固辞し、代わりに、コポー、デュラン、ジューヴェらの在野派が演出に参加すると、取り決めたのである。
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1949年3月4日、70歳をパリで祝われ、ボーヌに戻る。[[アルツハイマー型痴呆|アルツハイマー症候群]]を病み、衰弱が進み入院した。昔の弟子が、治療費・生活費を助けた。
1949年3月4日、70歳をパリで祝われ、ボーヌに戻る。[[アルツハイマー型痴呆|アルツハイマー症候群]]を病み、衰弱が進み入院した。昔の弟子が、治療費・生活費を助けた。


1949年10月20日、死去。ペルナンの墓地に葬る。11月27日、[[パリ]]のマリニー劇場([[:fr:Théâtre Marigny|Théâtre Marigny]])で追悼式典が開かれ、演劇界・文壇・映画界の大勢が集まった。老齢不参のジッドの弔辞を、[[マドレーヌ・ルノー]]が代読した。故人の演出を再現して、弟子たちが演技した。
1949年10月20日、ボーヌにて死去、享年70歳。ペルナンの墓地に葬る。11月27日、[[パリ]]のマリニー劇場([[:fr:Théâtre Marigny|Théâtre Marigny]])で追悼式典が開かれ、演劇界・文壇・映画界の大勢が集まった。老齢不参のジッドの弔辞を、[[マドレーヌ・ルノー]]が代読した。故人の演出を再現して、弟子たちが演技した。


== 演出の記録 ==
== 演出の記録 ==
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=== ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦前) ===
=== ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦前) ===
* 優しさに殺された女(Une femme tuée par la douceur)、ヘイウッド([[:en:Thomasu Heywood|Thomasu Heywood]]、1913.10.23
* 優しさに殺された女(''Une femme tuée par la douceur'')、ヘイウッド([[:en:Thomas Heywood|Thomas Heywood]]、1913.10.23
* 恋は医者、[[モリエール]]、1913.10.23、
* [[恋は医者]]、[[モリエール]]、1913.10.23、
* ルヴェルネ家の息子ら(Les Fils Louverné)、シュランベルジェ([[:fr:Jean Schlumberger|Jean Schlumberger]])、1913.11.11
* ルヴェルネ家の息子ら(''Les Fils Louverné'')、シュランベルジェ、1913.11.11
* バルブリーヌ(Barberine)、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、1913.11.11
* バルブリーヌ(''Barberine'')、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、1913.11.11
* 守銭奴、モリエール、1913.11.23
* [[守銭奴]]、モリエール、1913.11.23
* 靴直し、中世の[[笑劇]]、1913.12.22
* 靴直し、中世の[[笑劇]]、1913.12.22
* バルブイエの嫉妬、モリエール、1914.1.1
* バルブイエの嫉妬、モリエール、1914.1.1
* 交換(L'Échange)、[[ポール・クローデル|クローデル]]、1914.1.22
* 交換''L'Échange'')、[[ポール・クローデル|クローデル]]、1914.1.22
* ルルー爺さんの遺言(Le Testament du Père Leuleu)、[[ロジェ・マルタン・デュ・ガール|デュ・ガール]]、1914
* ルルー爺さんの遺言(''Le Testament du Père Leuleu'')、[[ロジェ・マルタン・デュ・ガール|デュ・ガール]]、1914
* [[カラマーゾフの兄弟]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、1914.2.10
* [[カラマーゾフの兄弟]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、1914.2.10
* 命の水、ゲオン(([[:en:Henri Ghéon|Henri Ghéon]])、1914.4.25
* 命の水、ゲオン、1914.4.25
* [[十二夜]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、1914.5.22
* [[十二夜]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、1914.5.22


=== ニューヨーク・ヴィユ・コロンビエ劇場([[:en:Garrick Theatre|Garrick Theatre]]) ===
=== ニューヨーク・ヴィユ・コロンビエ劇場([[:en:Garrick Theatre|Garrick Theatre]]) ===
* ヴィユ・コロンビエ即興劇(L'Impromptu du Vieux-Colombier)、コポー、1917.11.27
* ヴィユ・コロンビエ即興劇(''L'Impromptu du Vieux-Colombier'')、コポー、1917.11.27
* スカパンの悪だくみ、モリエール、1917.11.27
* [[スカパンの悪だくみ]]、モリエール、1917.11.27
* ラ・ナット(La navette)、ベック([[:en:Henri Becque|Henri Becque]])、1917.12.5
* ラ・ナヴェット(''La navette'')、ベック([[:en:Henri Becque|Henri Becque]])、1917.12.5
* 聖体秘蹟の四輪馬車(Le Carrosse du St-Sacrement)、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]、1917.12.5
* 聖体秘蹟の四輪馬車(''Le Carrosse du St-Sacrement'')、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]、1917.12.5
* 悪い羊飼い(Les Mauvais Bergers)、[[オクターヴ・ミルボー|ミルボー]]、1918.2.20
* 悪い羊飼い(''Les Mauvais Bergers'')、[[オクターヴ・ミルボー|ミルボー]]、1918.2.20
* 小さな侯爵夫人(La Petite Marquise)、メイラック/アレヴィ([[:en:Henri Meilhac|Henri Meilhac]]/[[:en:Ludovic Halévy|Ludovic Halévy]])、1918.3.5
* 小さな侯爵夫人(''La Petite Marquise'')、メイラック/アレヴィ([[:en:Henri Meilhac|Henri Meilhac]]/[[:en:Ludovic Halévy|Ludovic Halévy]])、1918.3.5
* 我が家の平和(La Paix chez soi)、クルトリーヌ([[:fr:Georges Courteline|Georges Courteline]])、1918.4.2
* 我が家の平和(''La Paix chez soi'')、クルトリーヌ([[:fr:Georges Courteline|Georges Courteline]])、1918.4.2
* 秘密(Le Secret)、ベルンスタイン([[:en:Henri Bernstein|Henri Bernstein]]、1918.10.14
* 秘密(''Le Secret'')、ベルンスタイン([[:en:Henri Bernstein|Henri Bernstein]]、1918.10.14
* [[フィガロの結婚]]、[[カロン・ド・ボーマルシェ|ボーマルシェ]]、1918.10.21
* [[フィガロの結婚]]、[[カロン・ド・ボーマルシェ|ボーマルシェ]]、1918.10.21
* ブランシェット(Blanchette)、ブリュー(Henri Brieux)、1918.10.28
* ブランシェット(''Blanchette'')、ブリュー(Henri Brieux)、1918.10.28
* ジョルジェット・ルムニエ、モーリス・ドネー、1918.11.4
* ジョルジェット・ルムニエ、モーリス・ドネー、1918.11.4
* クランビーユ(Crainquebille)、[[アナトール・フランス]]、1918.11.11
* クランビーユ(''Crainquebille'')、[[アナトール・フランス]]、1918.11.11
* 嫌々ながら医者にされ、モリエール、1918.11.25
* [[いやいやながら医者にされ]]、モリエール、1918.11.25
* ロスメルスホルム、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]、1918.12.2
* ロスメルスホルム、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]、1918.12.2
* ポワリエ氏の婿(Le Gendre de M. Poirier)、オージェ/サンドー([[:en:Émile Augier|Émile Augier]]/[[:en:Jules Sandeau|Jules Sandeau]])、1918.12.9
* ポワリエ氏の婿(''Le Gendre de M. Poirier'')、オージェ/サンドー([[:en:Émile Augier|Émile Augier]]/[[:en:Jules Sandeau|Jules Sandeau]])、1918.12.9
* マリアンヌの気まぐれ、ミュッセ、1918.12.16
* マリアンヌの気まぐれ、ミュッセ、1918.12.16
* 自由の重荷(Le Fardeau de la Liberté)、ベルナール([[:en:Tristan Bernard|Tristan Bernard]])、1918.12.16
* 自由の重荷(''Le Fardeau de la Liberté'')、ベルナール([[:en:Tristan Bernard|Tristan Bernard]])、1918.12.16
* ロマネスク、[[エドモン・ロスタン|ロスタン]]、1918.12.23
* ロマネスク、[[エドモン・ロスタン|ロスタン]]、1918.12.23
* 魔法の杯(La Coupe Enchantée)、[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]、1919.2.17
* 魔法の杯(''La Coupe Enchantée'')、[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]、1919.2.17
* ワシントン、パーシー・マッケイ([[:en:Percy MacKaye|Percy MacKaye]])、1919.2.17
* ワシントン、パーシー・マッケイ([[:en:Percy MacKaye|Percy MacKaye]])、1919.2.17
* 人間嫌い、モリエール、1919.4.17
* [[人間嫌い]]、モリエール、1919.4.17
* 別れの即興曲、コポー、1919.4.17
* 別れの即興曲、コポー、1919.4.17


=== ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦後) ===
=== ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦後) ===
* 冬物語、シェイクスピア、1920.2.10
* [[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]、シェイクスピア、1920.2.10
* 商船テナシティ(Le Paquebot Tenacity)、[[シャルル・ヴィルドラック|ヴィルドラック]]、1920.3.5
* 商船テナシティ(''Le Paquebot Tenacity'')、[[シャルル・ヴィルドラック|ヴィルドラック]]、1920.3.5
* 運動選手の仕事(L'Oeuvre des Athlètes)、[[ジョルジュ・デュアメル|デュアメル]]、1920.4.10
* 運動選手の仕事(''L'Oeuvre des Athlètes'')、[[ジョルジュ・デュアメル|デュアメル]]、1920.4.10
* ふるさとクロムデール(Cromedeyre-le-Vieil)、[[ジュール・ロマン]]、1920.5.17
* ふるさとクロムデール(''Cromedeyre-le-Vieil'')、[[ジュール・ロマン]]、1920.5.17
* 休みの日(La Folle Journée)、マゾー(Emile Mazaud)、1920.7.10
* 休みの日(''La Folle Journée'')、マゾー(Emile Mazaud)、1920.7.10
* 日々の糧、[[ジュール・ルナール|ルナール]]、1920.11.2
* 日々の糧、[[ジュール・ルナール|ルナール]]、1920.11.2
* 階段下の乞食(Le Pauvre sous l'escalier)、ゲオン、1921.1.24
* 階段下の乞食(''Le Pauvre sous l'escalier'')、ゲオン、1921.1.24
* スパルタの死(La Mort de Sparte)、シュランベルジェ、1921.3.23
* スパルタの死(''La Mort de Sparte'')、シュランベルジェ、1921.3.23
* 愛と黄金の書、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、1922.3.7
* 愛と黄金の書、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、1922.3.7
* 安楽死(La Mort joyeuse)、エヴレイノフ(Nicolaï Evreïnov)、1922.3.7
* 安楽死(''La Mort joyeuse'')[[ニコライ・エヴレイノフ|エヴレイノフ]](Nicolaï Evreïnov)、1922.3.7
* 偶然の喜び(Les Plaisirs du hasard)、バンジャマン([[:fr:René Benjamin|René Benjamin]]、1922.4.20
* 偶然の喜び(''Les Plaisirs du hasard'')、バンジャマン([[:fr:René Benjamin|René Benjamin]]、1922.4.20
* サユール(Saül)、ジッド、1922.6.16
* サル(Saül)、ジッド、1922.6.16
* ミシェル・オークレール、ヴィルドラック、1922.12.27
* ミシェル・オークレール、ヴィルドラック、1922.12.27
* 生まれた家(La Maison natale)、コポー、1923.12.13
* 生まれた家(''La Maison natale'')、コポー、1923.12.13
* 愚か者(L'Imbécile)、[[ピエール・ボスト]]、1923
* 愚か者''L'Imbécile'')、[[ピエール・ボスト]]、1923
* 分に応じて(Il faut que chacun soit à sa place)、バンジャマン、1924.2.14
* 分に応じて(''Il faut que chacun soit à sa place'')、バンジャマン、1924.2.14
* 邯鄲(下稽古のみ)、日本の能より、1924.2
* 邯鄲(下稽古のみ)、日本の能より、1924.2


=== コメディ・フランセーズ ===
=== コメディ・フランセーズ ===
* 空騒ぎ、シェイクスピア、1936.12.7
* [[空騒ぎ]]、シェイクスピア、1936.12.7
* 人間嫌い、モリエール、1936.12.7
* [[人間嫌い]]、モリエール、1936.12.7
* バジャゼ、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]、1937.5.24
* バジャゼ、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]、1937.5.24
* アスモデ(Asmodée)、[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、1937.11.22
* アスモデ(''Asmodée'')、[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、1937.11.22
* デュ・ガール、ルルー爺さんの遺産、1938.11.22
* デュ・ガール、ルルー爺さんの遺産、1938.11.22
* 恋の不意打ち(La Surprise de l'amour de Marivaux)、マリヴォー([[:en:Pierre de Marivaux|Marivaux]])、1938.11.22
* 恋の不意打ち(''La Surprise de l'amour de Marivaux'')、マリヴォー([[:en:Pierre de Marivaux|Marivaux]])、1938.11.22
* ル・シッド、[[ピエール・コルネイユ|コルネイユ]]、1940([[ジャン=ルイ・バロー]]出演)
* ル・シッド、[[ピエール・コルネイユ|コルネイユ]]、1940([[ジャン=ルイ・バロー]]出演)


=== その他 ===
=== その他 ===
* 朝霧(Brouillard du matin)、コポー、1897.3.27(新劇場([[:fr:Nouveau Théâtre|Nouveau Théâtre]]))
* 朝霧(''Brouillard du matin'')、コポー、1897.3.27(新劇場([[:fr:Nouveau Théâtre|Nouveau Théâtre]]))
* カラマーゾフの兄弟(英語版)、ドストエフスキー、1927.1(ニューヨーク、ギルド劇場([[:en:Theatre Guild|Theatre Guild]]))
* カラマーゾフの兄弟(英語版)、ドストエフスキー、1927.1(ニューヨーク、ギルド劇場([[:en:Theatre Guild|Theatre Guild]]))
* お気に召すまま(フランス語版)、シェイクスピア、1934.10.13(アトリエ座([[:fr:Théâtre de l'Atelier|Théâtre de l'Atelier]]))
* [[お気に召すまま]](フランス語版)、シェイクスピア、1934.10.13(アトリエ座([[:fr:Théâtre de l'Atelier|Théâtre de l'Atelier]]))
* 黄金のパンの奇跡(Le Petit pauvre)、コポー、1943.7(ボーヌの慈善病院の中庭)
* 黄金のパンの奇跡(''Le Petit pauvre'')、コポー、1943.7(ボーヌの慈善病院の中庭)


== 参考図書 ==
== 参考図書 ==
* J・ラドリン(清水芳子訳):評伝ジャック・コポー 20世紀フランス演劇の父、未來社(1994)ISBN 9784624700768
* J・ラドリン(清水芳子訳):評伝ジャック・コポー 20世紀フランス演劇の父、未來社(1994)ISBN 4-624-70076-7
* 中田耕治:ルイ・ジュヴェとその時代、作品社(2000)ISBN 48789335534
* 中田耕治:ルイ・ジュヴェとその時代、作品社(2000)ISBN 4-87893-353-4


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.culture.gouv.fr/culture/actualites/celebrations/copeau.htm 没後50年の賛辞](フランス語)
* [http://www.culture.gouv.fr/culture/actualites/celebrations/copeau.htm 没後50年の賛辞](フランス語)
* [http://www.gidiana.net/guidedesspectacles.htm 戯曲の上演日付](フランス語)
* [http://www.gidiana.net/guidedesspectacles.htm 戯曲の上演日付](フランス語)
* {{IMDb name}}
* [http://us.imdb.com/name/nm0178575/ コポーの出演映画](英語)

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[[Category:1949年没]]

2022年3月1日 (火) 14:02時点における最新版

ジャック・コポー
Jacques Copeau
ジャック・コポー(1936年)
生誕 (1879-02-04) 1879年2月4日
フランスの旗 フランスパリ
死没 (1949-10-20) 1949年10月20日(70歳没)
フランスの旗 フランスコート=ドール県ボーヌブルゴーニュ
墓地 ペルナン・ヴェルジュレス墓地
出身校 リセ・コンドルセ
職業 劇団主宰者、演劇批評家劇作家俳優
著名な実績 ヴィユ・コロンビエ劇場創設・主宰
栄誉 レジオンドヌール勲章シュヴァイエ
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ジャック・コポー(Jacques Copeau、1879年2月4日 - 1949年10月20日)は、フランス現代演劇の開拓者。劇団主宰者、演劇批評家劇作家俳優アンドレ・ジッドらとともに新フランス評論(NRF)誌を創刊。

経歴

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パリで金具工場を経営する中流家庭に生まれた。リセ・コンドルセに学ぶ。16歳から戯曲作りを試みる。

1896年、ソルボンヌ大学に進む。1902年1月、デンマークの女性と結婚し、コペンハーゲンに住む。その年、長女(後の女優マリー・エレーヌ・ダステ(Marie-Hélène Dasté))を得る。

1903年4月帰国し、アルデンヌ県の金具工場を管理するが、頻繁にパリに出て、ジッドらと交わり、演劇批評で名を広める。1905年、パリに移る。次女(後の修道女)を得る。

1905年7月、ジョルジュ・プティ画廊に勤め、かたわら、演劇雑誌・新聞『レルミタージュフランス語版』、『ル・テアトルフランス語版』、『グラン・ルヴュ(La Grande Revue)』に、劇評を寄稿した。

画廊に出入りするジッド、ジャン・シュランベルジェフランス語版アンリ・ゲオンフランス語版ら文学者・演劇関係者で、1909年2月、『新フランス評論(NRF)』誌を創刊し、1912年から1914年まで同誌を編集した。

1909年5月、画廊をやめ、また工場経営からも手を引いて、1910年、パリ東隣、セーヌ=エ=マルヌ県のル・リモンに仕事場を構え、『カラマーゾフの兄弟』の上演台本を練った。それは、1911年、グラン・ルヴュ誌の編集者で演出家の、ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)が持つ芸術座(Théâtre des Arts) で上演された。4月の初演にはシャルル・デュランが、さらに、10月の再演にはルイ・ジューヴェも出演した。注目されたが、入りはよくなかった。

保守的な国立劇場(コメディ・フランセーズオデオン座)と写実的な商業演劇とに飽きたらず、演劇に品位と文学性とを取り戻したかったコポーは、1913年、パリ6区の古い小劇場を借りて改装し、そこの町名からヴィユ・コロンビエ劇場と名付け、一座を組織した。デュラン、ジューヴェら10人の座員は、夏一杯、ル・リモンで稽古を重ね、10月23日、初日の幕を開けた。フランス現代演劇の幕開けであった。『新フランス評論』の仲間、ジッドジョルジュ・デュアメルロジェ・マルタン・デュ・ガールらが、手伝った。大統領も首相も観劇した。簡潔な装置の無駄のない芝居運びが評判を呼び、ロンドン・タイムズにも紹介され、1914年3月、イギリス巡演をした。

そして1914年8月、第一次世界大戦になった。コポーは軍務に志願し、一座の多くも召集され、劇場は閉鎖された。

大戦末期の1917年、文化省に依頼されたアメリカ講演旅行中、一座の興行を促され、帰国して出直し、2シーズンを打った。滞米中座員と摩擦があり、デュランを解雇した。戦後の1919年6月23日帰国し、ヴィユ・コロンビエ劇場をコンクリートの常設舞台に改装した。

1920年2月10日、公演を再開し、12月、近くに、ジュール・ロマンが校長の、演劇学校を開設した。演劇に純粋で、禁欲的に過ぎる姿勢は、金銭的に報われなかったが、周囲の勧める補助金の申請も、座席数の多い劇場への移転も、演目の拡大も、断った。1922年11月、番頭格のジューヴェが去り、ヴィユ・コロンビエ劇団は、デュラン一座・ジューヴェ一座と、競うことになった。

1921年、レジオン・ド・ヌール勲章シュヴァリエを受ける。

1923年、『生まれた家』を書き上げ12月に上演するが、ジューヴェ一座の演目に惨敗した。内外の巡演を打ち上げて1924年5月、ヴィユ・コロンビエ劇団を解散した。ジューヴェは俳優の一部を引取り、コポーは手がけた戯曲の上演権を譲った。10月、俳優や生徒35人と、ブルゴーニュボーヌ市近傍のモントルイユ(Montreuil)に移った。演劇を地方に広めたい宿願もあった。

コポーは内外への講演旅行で資金を稼ぎ、長女マリーを含む俳優らは、コメディア・デラルテ風の興行をして回った。コポー党(les Copiaux)と呼ばれた。コポーとレ・コピオーとは、1925年末ペルナン・ヴェルジュレスPernand-Vergelesses)に移り、近隣各国を巡業した。ペルナンに劇場を建てたいコポーの希望は、しかし、果たせなかった。

1926年春、オデオン座の主事を勧められ、断った。11月ニューヨークへ渡り、英語版『カラマーゾフの兄弟』を演出して成功し、アメリカに留まるよう勧められたが、断った。

1929年10月、コポーのコメディ・フランセーズ支配人就任を望む声が起こり、流れた。

1931年1月、コポー党は解散し、甥のミシェル・サン=ドニフランス語版Michel Saint-Denis)が、十五人劇団(La Compagnie des Quinze)を組織した。一座はヴィユ・コロンビエ劇場で公演した。コポーは、1933年11月 - 1935年2月、『新文学』誌(Les Nouvelles Littéraires)に劇評を書いていた。

1936年 - 1938年、コメディ・フランセーズの演出を手がけた。1936年春、ジューヴェが、低迷する同座から総支配人就任を要請され、固辞し、代わりに、コポー、デュラン、ジューヴェらの在野派が演出に参加すると、取り決めたのである。

1936年 - 1937年、数本の映画にも出演した。

1940年5月、支配人の輪禍のため、コメディ・フランセーズの臨時支配人を勤めた。ジャン=ルイ・バローを加入させた。ドイツ軍のフランス侵入に、一時疎開してから復帰するが、占領軍に1941年1月解任され、ペルナンに隠棲した。

1943年7月、ボーヌの慈善病院の中庭で、自作の『黄金のパンの奇跡』を上演した。

1949年3月4日、70歳をパリで祝われ、ボーヌに戻る。アルツハイマー症候群を病み、衰弱が進み入院した。昔の弟子が、治療費・生活費を助けた。

1949年10月20日、ボーヌにて死去、享年70歳。ペルナンの墓地に葬る。11月27日、パリのマリニー劇場(Théâtre Marigny)で追悼式典が開かれ、演劇界・文壇・映画界の大勢が集まった。老齢不参のジッドの弔辞を、マドレーヌ・ルノーが代読した。故人の演出を再現して、弟子たちが演技した。

演出の記録

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数字は、初演の年月日。再演は、ほとんど記さない。

ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦前)

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ニューヨーク・ヴィユ・コロンビエ劇場(Garrick Theatre

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ヴィユ・コロンビエ劇場(一次大戦後)

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  • 冬物語、シェイクスピア、1920.2.10
  • 商船テナシティ(Le Paquebot Tenacity)、ヴィルドラック、1920.3.5
  • 運動選手の仕事(L'Oeuvre des Athlètes)、デュアメル、1920.4.10
  • ふるさとクロムデール(Cromedeyre-le-Vieil)、ジュール・ロマン、1920.5.17
  • 休みの日(La Folle Journée)、マゾー(Emile Mazaud)、1920.7.10
  • 日々の糧、ルナール、1920.11.2
  • 階段下の乞食(Le Pauvre sous l'escalier)、ゲオン、1921.1.24
  • スパルタの死(La Mort de Sparte)、シュランベルジェ、1921.3.23
  • 愛と黄金の書、トルストイ、1922.3.7
  • 安楽死(La Mort joyeuse)、エヴレイノフ(Nicolaï Evreïnov)、1922.3.7
  • 偶然の喜び(Les Plaisirs du hasard)、バンジャマン(René Benjamin、1922.4.20
  • サウル(Saül)、ジッド、1922.6.16
  • ミシェル・オークレール、ヴィルドラック、1922.12.27
  • 生まれた家(La Maison natale)、コポー、1923.12.13
  • 愚か者(L'Imbécile)、ピエール・ボスト、1923
  • 分に応じて(Il faut que chacun soit à sa place)、バンジャマン、1924.2.14
  • 邯鄲(下稽古のみ)、日本の能より、1924.2

コメディ・フランセーズ

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その他

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  • 朝霧(Brouillard du matin)、コポー、1897.3.27(新劇場(Nouveau Théâtre))
  • カラマーゾフの兄弟(英語版)、ドストエフスキー、1927.1(ニューヨーク、ギルド劇場(Theatre Guild))
  • お気に召すまま(フランス語版)、シェイクスピア、1934.10.13(アトリエ座(Théâtre de l'Atelier))
  • 黄金のパンの奇跡(Le Petit pauvre)、コポー、1943.7(ボーヌの慈善病院の中庭)

参考図書

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  • J・ラドリン(清水芳子訳):評伝ジャック・コポー 20世紀フランス演劇の父、未來社(1994)ISBN 4-624-70076-7
  • 中田耕治:ルイ・ジュヴェとその時代、作品社(2000)ISBN 4-87893-353-4

外部リンク

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