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| 日本語名 = ベネディクトゥス13世 |
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| タイトル = [[対立教皇]] |
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| 画像説明 = |
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| 就任 = [[1394年]][[9月28日]] |
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| 離任 = [[1417年]][[7月26日]] |
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| 先代 = [[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]] |
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| 次代 = [[クレメンス8世 (対立教皇)|クレメンス8世]] |
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| 司祭 = |
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| 司教 = |
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| その他 = |
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| 本名 = ペドロ・マルティネス・デ・ルナ<br />(Pedro Martínez de Luna) |
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| 生年月日 = [[1328年]][[11月25日]] |
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| 生地 = [[File:Royal Banner of Aragón.svg|20px]][[アラゴン連合王国]]、{{仮リンク|イリュエカ|en|Illueca}} |
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| 没年月日 = [[1423年]][[5月23日]] |
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| 没地 = [[ファイル:Flag of the Land of Valencia (swallowtailed).svg|22px|バレンシア王国]][[バレンシア王国]]、[[ペニスコラ]] |
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| 埋葬地 = |
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| 原国籍 = |
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| 曖昧 = ベネディクトゥス |
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== 生涯 == |
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アラゴン・{{仮リンク|イリュエカ|en|Illueca}}で誕生。[[モンペリエ大学]]で学び教会法教授となり、[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]に仕え[[1375年]]に[[枢機卿]]に任命された。[[1378年]]に[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]を選出した[[コンクラーヴェ]]に出席、初めウルバヌス6世を支持していたが、彼の横暴な態度に我慢出来なくなり、[[教会大分裂]]が始まった際に対立教皇[[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]を支持して[[アヴィニョン]]に残留した。クレメンス7世からは教皇使節に任命され、教皇の代理としてアラゴン・[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]を味方に付け、後に聖人となる[[ビセンテ・フェレール]]を補佐にして支持者集めに奔走した<ref name="バンソン130">バンソン、P130。</ref><ref>クルーラス、P13 - P15、新カトリック大事典編纂委員会、P553 - P554。</ref>。 |
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1394年9月20日にクレメンス7世が死去、アヴィニョンで行われた[[コンクラーヴェ]]で教皇に選出された。[[ローマ]]との合同に努力することを誓い、ローマ教皇[[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]]、[[インノケンティウス7世 (ローマ教皇)|インノケンティウス7世]]、[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]と交渉を試みたがいずれも失敗、支持者だったフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]から見捨てられ、[[1398年]]にはフランス軍の軍勢にアヴィニョンを占領され、5年あまり[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]に立てこもった後、[[1403年]]にアヴィニョンから脱出せざるを得なかった。[[1408年]]から[[ペルピニャン]]を避難場所として提供したアラゴン王[[マルティン1世 (アラゴン王)|マルティン1世]]の支持にすがるほかなくなった<ref name="バンソン130"></ref><ref name="新カトリック大事典編纂委員会554">新カトリック大事典編纂委員会、P554。</ref><ref name="スチュアート183">スチュアート、P183。</ref><ref>クルーラス、P16 - P17、瀬原、P216。</ref>。 |
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しかし、1398年にフランス国内の教会がアヴィニョン教皇庁から離れようとしたことをきっかけに彼の影響力は減少する。フランス軍の軍勢にアヴィニョンを占領され、5年あまり教皇宮殿に立てこもった後、彼は1403年にアヴィニョンから脱出せざるを得なかった。 |
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[[1409年]]の[[ピサ教会会議]]で、グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位、そして[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]]の選出が決定されるが、先の2人の教皇が揃って退位を拒否した。これで同時に3人の教皇がたつという異常事態に陥った。ベネディクトゥス13世はアラゴンへの傾斜を強め、[[1410年]]のマルティン1世亡き後に開かれた後継者会議に出席したフェレールを通して、[[1412年]]に自身が推す[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]を新たなアラゴン王に選出([[カスペの妥協]])、支援を取り付けた。また、支持国家の1つである[[スコットランド王国|スコットランド]]の[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]では創立憲章にベネディクトゥス13世の教皇印璽が押されている<ref name="バンソン130"></ref><ref name="新カトリック大事典編纂委員会554"></ref><ref name="スチュアート183"></ref><ref>クルーラス、P17 - P18、スチュアート、P184 - P185、田澤、P179 - P180、瀬原、P227 - P228。</ref>。 |
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フランス、ポルトガル、ナバラの支持を失った彼は、スコットランド、シチリア、カスティーリャ、アラゴンの支持にすがるほかなくなった。1406年に[[インノケンティウス7世 (ローマ教皇)|インノケンティウス7世]]が亡くなると新教皇[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]が選出された。彼はグレゴリウス12世とともにカトリック教会の再統合を水面下で交渉していたが、フランス王[[シャルル6世]]がどちらの派にも組みせず中立を表明したことから話し合いが中断した。1409年の[[ピサ教会会議]]で、グレゴリウスとベネディクトゥスの廃位、そして[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]]の選出が決定されるが、先の2人の教皇が揃って退位を拒否した。これで同時に3人の教皇がたつという異常事態に陥った。 |
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1415年、[[コンスタンツ公会議]]で3人の教皇の廃位が正式決定。グレゴリウス12世は自主的に退位、[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]](アレクサンデル5世の後継者)は捕らえられて廃位された。ベネディクトゥスは退位を拒否したが、 |
だが、[[ローマ王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]が分裂を終わらせるため、公会議召集と呼びかけて各国と交渉を重ね、ベネディクトゥス13世は返事を出さなかったが、[[1415年]]、ジギスムントの尽力で開催された[[コンスタンツ公会議]]で3人の教皇の廃位が正式決定。グレゴリウス12世は自主的に退位、[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]](アレクサンデル5世の後継者)は捕らえられて廃位された。ベネディクトゥス13世は退位を拒否したが、ジギスムントに説得されたフェルナンド1世とカスティーリャ・[[ナバラ王国|ナバラ]]・スコットランドに見放され、フェレールにも離反され孤立、1417年に正式に廃位、新たに[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]が選出された。こうして教会大分裂は終わりを迎えた<ref name="バンソン130"></ref><ref name="新カトリック大事典編纂委員会554"></ref><ref name="スチュアート183"></ref><ref>クルーラス、P18 - P19、田澤、P182 - P183、瀬原、P249 - P250、P269、P273。</ref>。 |
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以後もベネディクトゥス13世は退位を認めず、自分を見放したフェルナンド1世を[[1416年]]に亡くなるまで呪詛し続け、1417年からフェルナンド1世の息子[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]の庇護を受けながら[[バレンシア州|バレンシア]]の[[ペニスコラ]]城へ隠遁した。[[1422年]]に4人枢機卿を任命して後継者選出を命じ、1423年に亡くなるまで自身が正統の教皇だと主張していた。死後はペニスコラで対立教皇[[クレメンス8世 (対立教皇)|クレメンス8世]]が選出されたが弱体で、枢機卿の1人が反発して[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代)|ベネディクトゥス14世]]を選出、内部分裂してアルフォンソ5世のローマへの交渉の道具として利用された末、クレメンス8世は[[1429年]]に退位した<ref name="バンソン130"></ref><ref>クルーラス、P19 - P22、スチュアート、P185、P134 - P135、田澤、P183 - P184。</ref>。 |
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ベネディクトゥス13世の遺体は[[1811年]]にスペインへ侵攻したフランス軍によって、頭部を除いて打ち砕かれて投げ捨てられた。しかし、ペニスコラでは今でもパパ・ルナとして慕われている<ref>バンソン、P130 - P131。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* [[イヴァン・クルーラス]]著、[[大久保昭男]]訳『ボルジア家』[[河出書房新社]]、1989年。 |
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* P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、[[高橋正男]]監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。 |
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* マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。 |
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* [[田澤耕]]『物語カタルーニャの歴史』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2000年。 |
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* 学校法人 [[上智大学#系属校|上智学院]] 新カトリック大事典編纂委員会編『[[新カトリック大事典]] 第4巻』[[研究社]]、2009年。 |
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* [[瀬原義生]]『ドイツ中世後期の歴史像』[[文理閣]]、2011年。 |
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== 関連項目 == |
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* [[サアグン (スペイン)]] |
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* [[ブラナス]] |
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* [[ジャコブ・ド・サンレーシュ]] |
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[[ca:Benet XIII d'Avinyó]] |
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[[en:Antipope Benedict XIII]] |
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[[es:Benedicto XIII (antipapa)]] |
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[[fr:Benoît XIII (antipape)]] |
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[[it:Antipapa Benedetto XIII]] |
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[[la:Benedictus XIII (antipapa)]] |
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[[hu:XIII. Benedek]] |
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[[nl:Tegenpaus Benedictus XIII]] |
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[[pt:Antipapa Bento XIII]] |
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[[sv:Benedictus XIII (motpåve)]] |
2022年3月31日 (木) 15:10時点における最新版
ベネディクトゥス13世 | |
---|---|
対立教皇 | |
![]() | |
教皇就任 | 1394年9月28日 |
教皇離任 | 1417年7月26日 |
先代 | クレメンス7世 |
次代 | クレメンス8世 |
個人情報 | |
出生 |
1328年11月25日![]() |
死去 |
1423年5月23日![]() |
その他のベネディクトゥス |
ベネディクトゥス13世(Benedictus XIII, 1328年11月25日 - 1423年5月23日)は、カトリック教会の対立教皇(在位:1394年 - 1417年)。アラゴン王国の大貴族ルナ家出身で本名はペドロ・マルティネス・デ・ルナ(Pedro Martínez de Luna)。アラゴンではエル・パパ・ルナ(El Papa Luna)として知られる。
生涯
[編集]アラゴン・イリュエカで誕生。モンペリエ大学で学び教会法教授となり、グレゴリウス11世に仕え1375年に枢機卿に任命された。1378年にウルバヌス6世を選出したコンクラーヴェに出席、初めウルバヌス6世を支持していたが、彼の横暴な態度に我慢出来なくなり、教会大分裂が始まった際に対立教皇クレメンス7世を支持してアヴィニョンに残留した。クレメンス7世からは教皇使節に任命され、教皇の代理としてアラゴン・カスティーリャを味方に付け、後に聖人となるビセンテ・フェレールを補佐にして支持者集めに奔走した[1][2]。
1394年9月20日にクレメンス7世が死去、アヴィニョンで行われたコンクラーヴェで教皇に選出された。ローマとの合同に努力することを誓い、ローマ教皇ボニファティウス9世、インノケンティウス7世、グレゴリウス12世と交渉を試みたがいずれも失敗、支持者だったフランス王シャルル6世から見捨てられ、1398年にはフランス軍の軍勢にアヴィニョンを占領され、5年あまり教皇宮殿に立てこもった後、1403年にアヴィニョンから脱出せざるを得なかった。1408年からペルピニャンを避難場所として提供したアラゴン王マルティン1世の支持にすがるほかなくなった[1][3][4][5]。
1409年のピサ教会会議で、グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位、そしてアレクサンデル5世の選出が決定されるが、先の2人の教皇が揃って退位を拒否した。これで同時に3人の教皇がたつという異常事態に陥った。ベネディクトゥス13世はアラゴンへの傾斜を強め、1410年のマルティン1世亡き後に開かれた後継者会議に出席したフェレールを通して、1412年に自身が推すフェルナンド1世を新たなアラゴン王に選出(カスペの妥協)、支援を取り付けた。また、支持国家の1つであるスコットランドのセント・アンドルーズ大学では創立憲章にベネディクトゥス13世の教皇印璽が押されている[1][3][4][6]。
だが、ローマ王ジギスムントが分裂を終わらせるため、公会議召集と呼びかけて各国と交渉を重ね、ベネディクトゥス13世は返事を出さなかったが、1415年、ジギスムントの尽力で開催されたコンスタンツ公会議で3人の教皇の廃位が正式決定。グレゴリウス12世は自主的に退位、ヨハネス23世(アレクサンデル5世の後継者)は捕らえられて廃位された。ベネディクトゥス13世は退位を拒否したが、ジギスムントに説得されたフェルナンド1世とカスティーリャ・ナバラ・スコットランドに見放され、フェレールにも離反され孤立、1417年に正式に廃位、新たにマルティヌス5世が選出された。こうして教会大分裂は終わりを迎えた[1][3][4][7]。
以後もベネディクトゥス13世は退位を認めず、自分を見放したフェルナンド1世を1416年に亡くなるまで呪詛し続け、1417年からフェルナンド1世の息子アルフォンソ5世の庇護を受けながらバレンシアのペニスコラ城へ隠遁した。1422年に4人枢機卿を任命して後継者選出を命じ、1423年に亡くなるまで自身が正統の教皇だと主張していた。死後はペニスコラで対立教皇クレメンス8世が選出されたが弱体で、枢機卿の1人が反発してベネディクトゥス14世を選出、内部分裂してアルフォンソ5世のローマへの交渉の道具として利用された末、クレメンス8世は1429年に退位した[1][8]。
ベネディクトゥス13世の遺体は1811年にスペインへ侵攻したフランス軍によって、頭部を除いて打ち砕かれて投げ捨てられた。しかし、ペニスコラでは今でもパパ・ルナとして慕われている[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e バンソン、P130。
- ^ クルーラス、P13 - P15、新カトリック大事典編纂委員会、P553 - P554。
- ^ a b c 新カトリック大事典編纂委員会、P554。
- ^ a b c スチュアート、P183。
- ^ クルーラス、P16 - P17、瀬原、P216。
- ^ クルーラス、P17 - P18、スチュアート、P184 - P185、田澤、P179 - P180、瀬原、P227 - P228。
- ^ クルーラス、P18 - P19、田澤、P182 - P183、瀬原、P249 - P250、P269、P273。
- ^ クルーラス、P19 - P22、スチュアート、P185、P134 - P135、田澤、P183 - P184。
- ^ バンソン、P130 - P131。
参考文献
[編集]- イヴァン・クルーラス著、大久保昭男訳『ボルジア家』河出書房新社、1989年。
- P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
- マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
- 田澤耕『物語カタルーニャの歴史』中央公論新社(中公新書)、2000年。
- 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第4巻』研究社、2009年。
- 瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年。