コンテンツにスキップ

「エディサン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
(18人の利用者による、間の25版が非表示)
1行目: 1行目:
{| style="float: right; margin: 0 0 1em 1em; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 85%; width: 280px;"
[[Image:Mapa Región de Yedisan.png|thumb|エディサンの領域]]
| colspan="2" style="background-color: #efefef; border-bottom:1px #aaa solid; font-size: smaller; text-align: center;" | '''エディサン'''
|-
| colspan="2" style="text-align: center;"|
{| style="background-color: #f9f9f9; border-collapse: collapse;"
|}
[[File:Ukraine-Edisan.png|270px|]]
|-
| colspan="2" style="text-align: center;"|{{legend|#FFE26F|エディサンの地図(18世紀)。}}
|-
| colspan="2" style="text-align: center;"|
{| style="background-color: #f9f9f9; border-collapse: collapse;"
|}
[[File:Odessa theatre.jpg|270px|]]
|-
| colspan="2" style="text-align: center;"|オデッサ・オペラ劇場。
|-
|}


'''エディサン'''([[ルーマニア語]]:Edisan、[[ウクライナ語]]:Єдисан、[[ロシア語]]:Едисан、ドイツ語他:Jedisan、英語他:Yedisan)現在の[[ウクライナ]]南西部と[[モルドバ]]南東部([[沿ドニエストル]]南部)を合わせた歴史的地名。黒海の北、[[ドニエストル川]]と[[ドニ川]]の両河川に挟まれた区域。[[ブジャク]]と[[ベッサラビア]]の東、[[ポ]]と[[ザポリッジャ]]の南、[[タウリダ]]の西に位置する。
'''エディサン'''([[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|Єдисан}}''';[[ルーマニア語]]:'''{{lang|ro|Edisan}}''';[[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Едисан}}''';[[ドイツ語]]:'''{{lang|de|Jedisan}}''';[[英語]]:'''{{lang|en|Yedisan}}''')は[[ウクライナ]]の歴史的地名である。現在のウクライナ南西部と[[モルドバ]]南東部([[沿ドニエストル共和国|沿ドニエストル]]南部)を合わせた歴史的地名。黒海の北、[[ドニエストル川]]と[[ドニプ川]]の両河川に挟まれた区域。[[ブジャク]]と[[ベッサラビア]]の東、[[ポジー]]と[[ザポロージャ]]の南、[[タウリダ]]の西に位置する。


== 歴史 ==
== 概要 ==
中世の頃、[[ウリチ族 (東スラヴ系)|ウーリチ]]、[[ペチェネグ]]、後に[[クマン人]](ポロヴェツ)が暮らしていた。その後[[13世紀]]、[[モンゴル帝国]]による侵略を経て[[ジョチ・ウルス]](金帳汗国)の支配下となった。

中世の頃、[[ウーリチ]]、[[ペチェネグ]]、後に[[クマン人]](ポロヴェツ)が暮らしていた。その後[[13世紀]]、[[モンゴル帝国]]による侵略を経て[[ジョチ・ウルス]](金帳汗国)の支配下となった。


[[15世紀]]には[[リトアニア大公国]]の領土となり、ディークラ(Dykra;「東の地」の意)と呼ばれるようになった。それから[[オスマン帝国]]の諸侯の[[クリミア・ハン国]]の領域となった。
[[15世紀]]には[[リトアニア大公国]]の領土となり、ディークラ(Dykra;「東の地」の意)と呼ばれるようになった。それから[[オスマン帝国]]の諸侯の[[クリミア・ハン国]]の領域となった。


[[中央アジア]]より[[クバン]]地方へ移住を余儀なくされた[[ノガイ・オルダ]]の一部が、[[1724年]]この地域にも西遷してきてエディサンと呼ぶようになった(これ以前の歴史地図にエディサンの名が現れるのは正確ではない)。
[[中央アジア]]より[[クバン]]地方へ移住を余儀なくされた[[ノガイ・オルダ]]の一部が、[[1724年]]この地域にも西遷してきてエディサンと呼ぶようになった(これ以前の歴史地図にエディサンの名が現れるのは正しくない)。

しばしばオスマン帝国の[[シリストラ州 (オスマン帝国)|シリストラ州]](エジ州)の一部となり、[[ハジベイ要塞]](現[[オデッサ]])とエジ要塞(現{{仮リンク|オチャウ|uk|Очаків}})が中心地となった。また、オスマン帝国に隷属するノガイとロシアの後ろ盾を持った[[ザポロージ・コサック]]の対立の場でもあった。

[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]治める[[帝政ロシア]]がこの地域へ拡張を始めたのが[[18世紀]]末であり、[[露土戦争 (1768年)]]の結果[[1774年]]には[[南ブーフ川|南ブーグ川]]以東のエディサンがロシアへ併合された。[[露土戦争 (1787年)]]が[[ヤシ条約]]で終結し、ロシア国境はドニプロ川まで進んだ。ノガイ人は激減し、この地を去り東へと散っていった。ロシアの領有の後の1794年に建設された都市がオデッサである。この地域は[[新ロシア]]の一部として主に[[ロシア人]]と[[ウクライナ人]]を中心とし[[民族ドイツ人]]も含んだ入植者が移り住み、[[ヘルソン県]]という行政区域となった。現在のウクライナでは一部がそれぞれ[[オデッサ州]]と[[ムィコラーイウ州]]となっている。

== 参考文献 ==
*{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12.(新版世界各国史 ; 20)

== 外部リンク ==
* {{uk icon}} [http://history.franko.lviv.ua/IIIch.htm {{lang|uk|''Довідник з історії України''. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.}}]


{{ウクライナの歴史的地域}}
しばしばオスマン帝国の[[シリストラ州 (オスマン帝国)|シリストラ州]](エジ州)の一部となり、ハジベイ(現[[オデッサ]])要塞とエジ(現オチャキ)が中心地となった。また、オスマン帝国に隷属するノガイとロシアの後ろ盾を持った[[ザポロージ・コサック]]の対立の場でもあった。


{{Normdaten}}
[[エカチェリーナ2世]]治める[[帝政ロシア]]がこの地域へ拡張を始めたのが[[18世紀]]末であり、[[第五次露土戦争]]の結果[[1774年]]には[[南ブーグ川]]以東のエディサンがロシアへ併合された。
{{DEFAULTSORT:えていさん}}
[[第六次露土戦争]]が[[ヤシ条約]]で終結し、ロシア国境はドニエプル川まで進んだ。
[[Category:ウクライナの歴史的地域]]
ノガイ人は激減し、この地を去り東へと散っていった。
[[Category:ルーマニアの歴史的地域]]
ロシアの領有の後の1794年に建設された都市がオデッサで、入植者は主に[[ロシア人]]と[[ウクライナ人]]で[[民族ドイツ人]]も含んだ。[[ヘルソン県]]という行政区域となり、現在のウクライナでは一部がそれぞれ[[オデッサ州]]と[[ムィコラーイウ州]]となっている。
[[Category:オスマン帝国の行政区画]]
{{world-stub}}
[[cs:Jedisan]]
[[de:Jedisan]]
[[en:Yedisan]]
[[es:Yedisán]]
[[ru:Едисан]]
[[sk:Jedisan]]

2022年5月8日 (日) 06:09時点における最新版

エディサン

  エディサンの地図(18世紀)。

オデッサ・オペラ劇場。

エディサンウクライナ語:Єдисанルーマニア語:Edisanロシア語:Едисанドイツ語他:Jedisan英語他:Yedisan)はウクライナの歴史的地名である。現在のウクライナ南西部とモルドバ南東部(沿ドニエストル南部)を合わせた歴史的地名。黒海の北、ドニエストル川ドニプロ川の両河川に挟まれた区域。ブジャクベッサラビアの東、ポジーリャザポロージャの南、タウリダの西に位置する。

概要

[編集]

中世の頃、ウーリチペチェネグ、後にクマン人(ポロヴェツ)が暮らしていた。その後13世紀モンゴル帝国による侵略を経てジョチ・ウルス(金帳汗国)の支配下となった。

15世紀にはリトアニア大公国の領土となり、ディークラ(Dykra;「東の地」の意)と呼ばれるようになった。それからオスマン帝国の諸侯のクリミア・ハン国の領域となった。

中央アジアよりクバン地方へ移住を余儀なくされたノガイ・オルダの一部が、1724年この地域にも西遷してきてエディサンと呼ぶようになった(これ以前の歴史地図にエディサンの名が現れるのは正しくない)。

しばしばオスマン帝国のシリストラ州(エジ州)の一部となり、ハジベイ要塞(現オデッサ)とエジ要塞(現オチャーキウ)が中心地となった。また、オスマン帝国に隷属するノガイとロシアの後ろ盾を持ったザポロージャ・コサックの対立の場でもあった。

エカチェリーナ2世治める帝政ロシアがこの地域へ拡張を始めたのが18世紀末であり、露土戦争 (1768年)の結果1774年には南ブーグ川以東のエディサンがロシアへ併合された。露土戦争 (1787年)ヤシ条約で終結し、ロシア国境はドニプロ川まで進んだ。ノガイ人は激減し、この地を去り東へと散っていった。ロシアの領有の後の1794年に建設された都市がオデッサである。この地域は新ロシアの一部として主にロシア人ウクライナ人を中心とし民族ドイツ人も含んだ入植者が移り住み、ヘルソン県という行政区域となった。現在のウクライナでは一部がそれぞれオデッサ州ムィコラーイウ州となっている。

参考文献

[編集]
  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12.(新版世界各国史 ; 20)

外部リンク

[編集]