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{{出典の明記|date=2016年3月12日 (土) 13:04 (UTC)}}
'''執政官'''(しっせいかん、consul '''コンスル''')は、[[古代ローマ]]での[[政務官 (ローマ)|政務官]]のひとつ。都市ローマの長であり、[[共和政ローマ]]の形式上の[[元首]]に当たる。訳語として執政官のほかに'''統領'''を用いることもある。
{{ローマの政治体制}}
'''執政官'''(しっせいかん、{{lang-la|consul}}、'''コンスル''')は、[[古代ローマ]]での[[政務官 (ローマ)|政務官]]のひとつ。都市ローマの長であり、[[共和政ローマ]]の形式上の[[元首]]に当たる。訳語として執政官のほかに'''統領'''を用いることもある。古代ローマでは、以下に例示するように、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。
*「[[アウグストゥス|Imperator Caesar Augustus]] と [[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|Marcus Vipsanius Agrippa]] が執政官の年」(西暦では[[紀元前27年]]に相当)


== 概要 ==
== 概要 ==
執政官は共和政ローマにおける最高職である。定員は2名。平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は[[ローマ軍団|軍団]]を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握し、また戦場においては直接指揮を執った(つまり、[[軍政 (行政)|軍政]]と[[軍令]]の責任者と同時に現場指揮官でもある)。この権限を[[インペリウム]]指揮権と言った。他に、民会や元老院の召集権や議案提出権も保持した。加えて、もう一人の執政官や下位政務官の決定に対し[[拒否権#古代ローマの拒否権|拒否権]]を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、臨時の最高官職であるディクタトル([[独裁官]])を指名する権限もあったが、実際には[[元老院 (ローマ)|元老院]]の協賛を得て指名されたとされている。小説家の[[塩野七生]]は、執政官の権限を『首相兼防衛大臣兼統合参謀本部長<ref>塩野七生『[[ローマ人の物語]] ローマは一日にして成らず』文庫版2巻p96 (新潮文庫)より</ref>』と譬えている
執政官は共和政ローマにおける最高職である。定員は2名。モムゼンは、コンスルという名はこの同僚制から来ているとしている{{Sfn|モムゼン|loc=p.230}}{{efn|[[ラテン語]]の consules (consulの複数形) は「共に飛び跳ねる者、踊る者」を意味する。}}。平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は[[ローマ軍団|軍団]]を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握し、また戦場においては直接指揮を執った(つまり、[[軍政 (行政)|軍政]]と[[軍令]]の責任者と同時に現場指揮官でもある)。これらの権限を[[インペリウム]] (指揮権)と言った。


他に、[[民会 (ローマ)|民会]]や[[元老院 (ローマ)|元老院]]の召集権や法案提出権も保持し、加えてもう一人の執政官や下位政務官の決定に対し[[拒否権#古代ローマの拒否権|拒否権]]を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、最長六ヶ月任期の最高官職である[[独裁官]](ディクタトル)を指名する権限もあったが、実際には元老院の協賛を得て指名されたとされている。
執政官は、元老院が候補者を選び(候補者資格を決定し)、[[ケントゥリア民会]]での選挙により選任される。定員が2名とされたのは[[独裁]]を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった<ref>[[ラテン語]]の consulus は「共に歩く者」を意味する</ref>。任期は1年で、元来は再選は許されなかったが、次第に再選も許されるようになった。


2人の執政官はその権限を例えば一人は行政を、一人は軍務を、という風に分担するわけではなく(もちろんそうしたこともあったが)、基本的には2人が全く同じ権限を有していた。軍務に関してはその担当をくじ引き等で決めることはあったが、拘束力があるわけではなかった{{Sfn|モムゼン|loc=p.230}}。
執政官ほかインペリウム保持者には、先導警士([[リクトル]])が付く特権があった。このリクトルは[[ファスケス]](fasces)と呼ばれる、斧の柄の周りにを棒を束ねたものを捧げ持ち、これはインペリウム保持者であることを示す権威の標章であった<ref>このファスケスは現代[[イタリア語]]では Fascio(ファッショ)で、[[ファシズム]]の語源ともなった。</ref>。


執政官は就任すると、その補佐役として[[クァエストル]]を指名することが出来、裁判と財務の補佐を担当させた{{Sfn|モムゼン|loc=p.233}}。
2名の執政官だけで対処できない事態が発生した場合などは、必要に応じて、執政官経験者に[[プロコンスル]](前執政官)の職でインペリウムを与えて事態の収拾に当たらせることもあった。後にこの制度は常設化し、プロコンスルらに[[属州総督]]として属州経営を担わせた。


==選出==
執政官は絶対的な権力であるインペリウムの保持者であったとは言え、元老院の権威は絶大であり、首都で行使される執政官の権力は元老院の強い意向を受けた。
執政官は、元老院が候補者を選び(候補者資格を決定し)、[[ケントゥリア民会]]での選挙により選任される。定員が2名とされたのは[[独裁]]を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった。任期は1年で、原則として再選は許されなかったが{{efn|と言っても設立当初からプブリコラが3度も連続で務めている。}}、再選されることもあった。


新任の執政官は、毎年[[1月1日]]([[紀元前153年]]より前は[[3月1日]])から任期が開始される。1月1日に就任する官は、正規執政官(consul ordinarius(sg)/consules ordinarii(pl))と呼ばれる。執政官が任死亡すると<ref>上述のように軍指揮官の権限も持っていたため、共和政[[ガイウス・フラミニウス]]のように戦死する執政官もしばしば存在した。</ref>後任が選挙によって選ばれる。こ執政官はとくに補充執政官(consul suffectus(sg)/ consules suffecti(pl))と呼ばれ
新任の執政官は3月1日に就任していたが、[[紀元前153年]][[クィントゥス・フルウィウス・ノビリオル|ノビリオル]]と[[ティトゥス・アンニウス・ルスクス|ルスクス]]の年)から毎年[[1月1日]]{{sfn|MRR1|p=452}}に就任する(共和期には定まっていなかっ{{Sfn|モムゼン|loc=p.231}})。任期は就任した日から一年間であり、正規執政官(consul ordinarius(sg)/consules ordinarii(pl))と呼ばれ


===補充===
[[アウグストゥス]]によりローマが共和政から帝政に移行した後は、多くの属州総督(執政官経験者が就任する)を生み出す必要から正規執政官が死亡した場合だけではなく任期途中で辞任し、他の者に補充執政官として執政官職を経験させるようになる。場合によってはその補充執政官も任期前に辞任し、また他の補充執政官がその座を埋めることもあった。[[コンモドゥス]]が皇帝だった190年にそれはピークを迎え、1年の間になんと25名もの執政官経験者が誕生した。
例えば初代執政官[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]は戦場で敵と刺し違えて戦死したとされ{{Sfn|リウィウス|loc=2.6}}、[[プブリウス・デキウス・ムス (紀元前340年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]父子のようにローマの勝利のためにその身を生贄に捧げる者や{{Sfn|リウィウス|loc=8.9}}、疫病によって執政官が任期途中で死去する例などもあった。そのように欠員が出た場合、共和政前期においては王政時代に摂政として機能していた[[インテルレクス]]が5日交代で選ばれ、補充選挙のための民会を招集した。このようにして補充選挙によって途中から就任した執政官は、入れ替わった正規執政官の任期をそのまま引き継ぎ{{Sfn|モムゼン|loc=p.231}}、補充執政官(consul suffectus(sg)/ consules suffecti(pl))と呼ばれた。


===プロコンスル===
古代ローマでは、以下に例示するように、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。
2名の執政官だけでは手が足りず対処できない事態が発生した場合などは、必要に応じて、執政官経験者に[[プロコンスル]](前執政官)としてインペリウムを与えて事態の収拾に当たらせることもあった。初めてプロコンスルに指名されたのは、[[紀元前326年]]の[[クィントゥス・プブリリウス・ピロ]]である{{sfn|MRR1|p=146}}。後にこの制度は常設化し、プロコンスルらに[[属州総督]]として属州経営を担わせた。
*「[[アウグストゥス|Imperator Caesar Augustus]] と [[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|Marcus Vipsanius Agrippa]] が執政官の年」(西暦では[[紀元前27年]]に相当)

[[アウグストゥス]]によりローマが共和政から帝政に移行した後は、多くの属州総督(執政官経験者が就任する)を生み出す必要から、正規執政官が死亡した場合だけではなく、任期途中で辞任する事で他の者に補充執政官として執政官職を経験させるようになる。場合によってはその補充執政官も任期前に辞任し、また他の補充執政官がその座を埋めることもあった。[[コンモドゥス]]が皇帝だった190年にそれはピークを迎え、1年の間になんと25名もの執政官経験者が誕生した。

==制約==
執政官は軍指揮権であるインペリウムの保持者であったとは言え、首都で行使される執政官の権力は制約を受け、元老院にも配慮する必要があった。

執政官ほかインペリウム保持者には、先導警士([[リクトル]])が付く特権があった。このリクトルは[[ファスケス]](fasces)と呼ばれる、斧の柄の周りに棒を束ねたものを捧げ持ち、これはインペリウム保持者であることを示す権威の標章であったが<!-- あまり関係ないのでコメントアウト {{efn|このファスケスは現代[[イタリア語]]では Fascio(ファッショ)で、[[ファシズム]]の語源ともなった。}} -->、初代補充執政官の一人でもある[[プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ]]は、[[ポメリウム]]内では斧部分は取り外すように定め、更に執政官の下した死刑等の極刑に対しては、[[ウァレリウス法#概要|上訴]]を行う権利も制定した{{Sfn|リウィウス|loc=2.8}}。[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]は、執政官の引き継いだ強大な王権を制限するものであったとしている{{Sfn|モムゼン|loc=p.232}}。その後も例えば[[紀元前462年]]の[[護民官]]テレンティリウス{{Sfn|リウィウス|loc=3.9}}などによって、その権力を削減しようと試みられた。

それに対し、独裁官はポメリウム内でもファスケスに斧をつけたままであり、上訴を行う事も出来なかった{{Sfn|リウィウス|loc=2.18}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
===共和政期===
執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された[[紀元前509年]]と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。当初は執政官の名は「'''プラエトル'''<ref>Praetor、一般にローマ史に書かれる「法務官」はこの時代より後の時代のものである。詳細は[[プラエトル]]を参照。</ref>」と呼ばれていたらしいが、[[紀元前305年]]より「'''コンスル'''」という名において引き継がれたという。
執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された[[紀元前509年]]と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。当初は執政官の名は「'''プラエトル'''{{efn|Praetor、一般にローマ史に書かれる「法務官」はこの時代より後の時代のものである。詳細は[[プラエトル]]を参照。}}」と呼ばれていたらしいが、[[紀元前305年]]より「'''コンスル'''」という名において引き継がれたという。モムゼンは、(終身の)王の代わりに二人の一年限定の王が誕生し、Praetores (将軍)、Iudices (判事)、もしくはConsules (同僚)を名乗ったとしている{{Sfn|モムゼン|loc=p.230}}。


初代執政官は、紀元前509年にローマ王[[タルクィニウス・スペルブス]]を追放したルキウス・ユニウス・ブルトゥスと[[ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス]]が務めたとされる{{Sfn|リウィウス|loc=1.60}}。一説によると、まずインテルレクスが置かれ、形式的に王の権力を引き継いだという<ref>[[ハリカルナッソスのディオニュシオス]], 『''ローマ古代誌''』, 4.76.1、4.84.5</ref>。コッラティヌスはすぐに辞任を余儀なくされたため、同年中に初の補充執政官も誕生している{{Sfn|リウィウス|loc=2.2}}。
戦時において選出される執政官には、軍事的才能と名声が重んじられたが、その権限ゆえに執政官の選挙は常に政治的な関心を集めた。初期には執政官は貴族([[パトリキ]])のみに独占され、[[紀元前366年]]はじめて平民([[プレブス]])が執政官となったが、それまでに執政官の選定はしばしばこの時代のパトリキ、プレブスの党争の原因となり、このような対立を避けるために共和政ローマの一時期執政官は一時休職とし、暫定的に6人までの[[トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ|執政官格軍司令官]]という官職が設置され、またたびたび元老院によって[[独裁官]]が置かれることがあった。対立が緩和され[[リキニウス・セクスティウス法]]が公布されると、ふたたび執政官が最高位官職となった。


<!--選出される執政官には、その才能と実績、名声が重んじられたが、その権限ゆえに執政官の選挙は常に政治的な関心を集めた。-->初期には執政官は[[パトリキ]](貴族)のみに独占されたが、常にパトリキ側に立って[[プレブス]](平民)を弾圧したかと言われればそうでもなく、[[プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前475年の執政官)|プブリコラの子]]のように両者の融和に努めるケースや{{Sfn|リウィウス|loc=3.17}}、[[スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス|カッシウス]]のように執政官でありながらプレブスに土地を分配しようとして最終的に処刑されるようなケースもあった{{Sfn|リウィウス|loc=2.41}}。プレブス側は最終手段として徴兵拒否という力技に訴える事も多かったため、執政官が間に立って調整に努める場面もあった{{Sfn|リウィウス|loc=2.23、2.29など}}。

しかしながら、例えば[[カヌレイウス法]]成立の過程にあったような、プレブス側の代表者である護民官と対立するケースも確かに存在した{{Sfn|リウィウス|loc=4.2}}。[[土地分配法]]を巡っては、護民官による執政官の告発も相次いだ{{Sfn|リウィウス|loc=2.54など}}。更にはローマが戦争によって拡大していく過程において、その兵力として働いてきたプレブスの発言権も徐々に大きくなり、それに伴いプレブスでも執政官に就任出来るようにすべきだとの声も出てきたため、[[紀元前444年]]からは原則最大6人までの[[トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ|執政武官]]という官職が新設され{{Sfn|リウィウス|loc=4.6}}、毎年護民官と元老院の駆け引きによって、執政官と執政武官のどちらを立てるかが決められた。

その後も対立は続いたが、[[紀元前367年]][[リキニウス・セクスティウス法]]が公布されると{{Sfn|リウィウス|loc=6.42}}、二人の執政官のうち一人はプレブスが就任するようになり、執政武官は廃止となった。しかしその後も、[[アッピウス・クラウディウス・カエクス|カエクス]]がインテルレクスとしてプレブスの執政官就任を妨害するような事もあり、身分間のシコリは存在した。

元老院は政務官経験者によって形成されており、執政官経験者の影響力は大きかった{{sfn|安井|p=39}}。プレブスも執政官を務めることによって力を持ち、彼らも合わせて先祖に執政官や独裁官、執政武官を持つものたちは、[[ノビレス]]と呼ばれるようになり{{sfn|Burckhardt|p=78}}、「ノビリタス支配」と呼ばれる新たな支配体制を形成した{{sfn|安井|p=38}}。

===帝政期===
初期のローマ帝政([[プリンキパトゥス]]、元首政)は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また[[皇帝]]と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし[[541年]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[ユスティニアヌス1世]]によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀に[[ギリシャ語]]が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。
初期のローマ帝政([[プリンキパトゥス]]、元首政)は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また[[皇帝]]と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし[[541年]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[ユスティニアヌス1世]]によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀に[[ギリシャ語]]が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。


===影響===
執政官の名は後の歴史にも幾度か用いられている。領事館制度を創設した[[ヴェネツィア共和国]]では、その[[領事]]にコンスルの称号を名乗らせた(領事官に consul の名が残っているのはそのためである)。また古代ローマへの強い憧憬のもとにあった[[フランス革命|革命]]前後のフランスでは、[[ブリュメールのクーデター]]後に成立した政府の首班に [[第1コンスル|consul]](執政、または統領と和訳される)の語が使われている。
執政官の名は後の歴史にも幾度か用いられている。[[領事館]]制度を創設した[[ヴェネツィア共和国]]では、その[[領事]]にコンスルの称号を名乗らせた(領事官に consul の名が残っているのはそのためである)。また古代ローマへの強い憧憬のもとにあった[[フランス革命|革命]]前後のフランスでは、[[ブリュメールのクーデター]]後に成立した[[統領政府|政府]]の首班に [[第1コンスル|consul]](執政、または統領と和訳される)の語が使われている。


==歴代執政官==
==歴代執政官==
* [[共和政ローマ執政官一覧]](紀元前509年から紀元前27年)
*[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]
* [[帝政ローマ初期執政官一覧]](紀元前33年から192年まで)
* [[w:List of Roman Consuls|List of Roman Consuls]](ローマ執政官一覧、英語版)

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 脚注 ==
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
<references/>
{{節スタブ|date=2016年3月12日 (土) 13:04 (UTC)}}
* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|リウィウス}}|author=ティトゥス・リウィウス|authorlink=ティトゥス・リウィウス|title=[[ローマ建国史]]}}
*[[プルタルコス]],『[[対比列伝]]』プブリコラ
*{{Cite book|和書|ref={{sfnref|モムゼン}}|author=テオドール・モムゼン|authorlink=テオドール・モムゼン|title=ローマの歴史〈1〉ローマの成立| publisher=名古屋大学出版会 | year=2005 | }}
* {{Cite book|洋書|ref={{sfnref|MRR1}}|author=[[:en:Thomas_Robert_Shannon_Broughton|T. R. S. Broughton]]|title=The Magistrates of the Roman Republic Vol.1| publisher=American Philological Association | year=1951 }}
* {{Cite journal|ref={{sfnref|Burckhardt}}|author=[[:de:Leonhard Burckhardt|L. A. Burckhardt]] |title=The Political Elite of the Roman Republic: Comments on Recent Discussion of the Concepts "Nobilitas and Homo Novus" |journal=Historia |volume=39 |issue=1 |pages=77-99 |publisher=Franz Steiner Verlag | year=1990 |jstor=4436138 }}
* {{Cite journal|和書|ref={{sfnref|安井}}|author=安井萌|title=共和政ローマの「ノビリタス支配」-その実態理解のための一試論- |journal=史学雑誌 |volume=105 |issue=6 |pages=38-65 |publisher=山川出版社| year=1996}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[執政]]
* [[執政]]
* [[ローマ暦]]
* [[ローマ暦]]
* [[共和政ローマ執政官一覧]]
* [[帝政ローマ初期執政官一覧]]
* [[w:List of Roman Consuls|List of Roman Consuls]](ローマ執政官一覧、英語版)


== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:しつせいかん}}
* {{Kotobank|コンスル}}

{{デフォルトソート:しつせいかん}}
[[Category:執政官|*]]
[[Category:共和政ローマ]]
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[[hr:Rimski konzul]]
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[[la:Consul]]
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[[lv:Konsuls (Roma)]]
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[[nds:Kunsel (Rom)]]
[[nl:Consul (Rome)]]
[[nn:Romersk konsul]]
[[no:Romersk konsul]]
[[pl:Konsul rzymski]]
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[[ro:Consul]]
[[ru:Консул (Древний Рим)]]
[[sh:Konzul]]
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[[sr:Конзул]]
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[[uk:Консул (Стародавній Рим)]]
[[zh:罗马执政官]]

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古代ローマ

ローマ時代の政治


統治期間
王政時代
紀元前753年 - 紀元前509年

共和政時代
紀元前508年 - 紀元前27年
帝政時代
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古代ローマの政体
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執政官(しっせいかん、ラテン語: consulコンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。古代ローマでは、以下に例示するように、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。

概要

執政官は共和政ローマにおける最高職である。定員は2名。モムゼンは、コンスルという名はこの同僚制から来ているとしている[1][注釈 1]。平時は内政の最高責任者として政務を執り、戦時は軍団を組織するとともに軍団の最高指揮官として軍務を掌握し、また戦場においては直接指揮を執った(つまり、軍政軍令の責任者と同時に現場指揮官でもある)。これらの権限をインペリウム (指揮権)と言った。

他に、民会元老院の召集権や法案提出権も保持し、加えてもう一人の執政官や下位政務官の決定に対し拒否権を行使する権限が与えられていた。また、非常時と認めた場合は、最長六ヶ月任期の最高官職である独裁官(ディクタトル)を指名する権限もあったが、実際には元老院の協賛を得て指名されたとされている。

2人の執政官はその権限を例えば一人は行政を、一人は軍務を、という風に分担するわけではなく(もちろんそうしたこともあったが)、基本的には2人が全く同じ権限を有していた。軍務に関してはその担当をくじ引き等で決めることはあったが、拘束力があるわけではなかった[1]

執政官は就任すると、その補佐役としてクァエストルを指名することが出来、裁判と財務の補佐を担当させた[2]

選出

執政官は、元老院が候補者を選び(候補者資格を決定し)、ケントゥリア民会での選挙により選任される。定員が2名とされたのは独裁を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった。任期は1年で、原則として再選は許されなかったが[注釈 2]、再選されることもあった。

新任の執政官は3月1日に就任していたが、紀元前153年ノビリオルルスクスの年)から毎年1月1日[3]に就任する(共和政前期には定まっていなかった[4])。任期は就任したその日から一年間であり、正規執政官(consul ordinarius(sg)/consules ordinarii(pl))と呼ばれる。

補充

例えば初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスは戦場で敵と刺し違えて戦死したとされ[5]プブリウス・デキウス・ムス父子のようにローマの勝利のためにその身を生贄に捧げる者や[6]、疫病によって執政官が任期途中で死去する例などもあった。そのように欠員が出た場合、共和政前期においては王政時代に摂政として機能していたインテルレクスが5日交代で選ばれ、補充選挙のための民会を招集した。このようにして補充選挙によって途中から就任した執政官は、入れ替わった正規執政官の任期をそのまま引き継ぎ[4]、補充執政官(consul suffectus(sg)/ consules suffecti(pl))と呼ばれた。

プロコンスル

2名の執政官だけでは手が足りず対処できない事態が発生した場合などは、必要に応じて、執政官経験者にプロコンスル(前執政官)としてインペリウムを与えて事態の収拾に当たらせることもあった。初めてプロコンスルに指名されたのは、紀元前326年クィントゥス・プブリリウス・ピロである[7]。後にこの制度は常設化し、プロコンスルらに属州総督として属州経営を担わせた。

アウグストゥスによりローマが共和政から帝政に移行した後は、多くの属州総督(執政官経験者が就任する)を生み出す必要から、正規執政官が死亡した場合だけではなく、任期途中で辞任する事で他の者に補充執政官として執政官職を経験させるようになる。場合によってはその補充執政官も任期前に辞任し、また他の補充執政官がその座を埋めることもあった。コンモドゥスが皇帝だった190年にそれはピークを迎え、1年の間になんと25名もの執政官経験者が誕生した。

制約

執政官は軍指揮権であるインペリウムの保持者であったとは言え、首都で行使される執政官の権力は制約を受け、元老院にも配慮する必要があった。

執政官ほかインペリウム保持者には、先導警士(リクトル)が付く特権があった。このリクトルはファスケス(fasces)と呼ばれる、斧の柄の周りに棒を束ねたものを捧げ持ち、これはインペリウム保持者であることを示す権威の標章であったが、初代補充執政官の一人でもあるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラは、ポメリウム内では斧部分は取り外すように定め、更に執政官の下した死刑等の極刑に対しては、上訴を行う権利も制定した[8]モムゼンは、執政官の引き継いだ強大な王権を制限するものであったとしている[9]。その後も例えば紀元前462年護民官テレンティリウス[10]などによって、その権力を削減しようと試みられた。

それに対し、独裁官はポメリウム内でもファスケスに斧をつけたままであり、上訴を行う事も出来なかった[11]

歴史

共和政期

執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された紀元前509年と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。当初は執政官の名は「プラエトル[注釈 3]」と呼ばれていたらしいが、紀元前305年より「コンスル」という名において引き継がれたという。モムゼンは、(終身の)王の代わりに二人の一年限定の王が誕生し、Praetores (将軍)、Iudices (判事)、もしくはConsules (同僚)を名乗ったとしている[1]

初代執政官は、紀元前509年にローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放したルキウス・ユニウス・ブルトゥスとルキウス・タルクィニウス・コッラティヌスが務めたとされる[12]。一説によると、まずインテルレクスが置かれ、形式的に王の権力を引き継いだという[13]。コッラティヌスはすぐに辞任を余儀なくされたため、同年中に初の補充執政官も誕生している[14]

初期には執政官はパトリキ(貴族)のみに独占されたが、常にパトリキ側に立ってプレブス(平民)を弾圧したかと言われればそうでもなく、プブリコラの子のように両者の融和に努めるケースや[15]カッシウスのように執政官でありながらプレブスに土地を分配しようとして最終的に処刑されるようなケースもあった[16]。プレブス側は最終手段として徴兵拒否という力技に訴える事も多かったため、執政官が間に立って調整に努める場面もあった[17]

しかしながら、例えばカヌレイウス法成立の過程にあったような、プレブス側の代表者である護民官と対立するケースも確かに存在した[18]土地分配法を巡っては、護民官による執政官の告発も相次いだ[19]。更にはローマが戦争によって拡大していく過程において、その兵力として働いてきたプレブスの発言権も徐々に大きくなり、それに伴いプレブスでも執政官に就任出来るようにすべきだとの声も出てきたため、紀元前444年からは原則最大6人までの執政武官という官職が新設され[20]、毎年護民官と元老院の駆け引きによって、執政官と執政武官のどちらを立てるかが決められた。

その後も対立は続いたが、紀元前367年リキニウス・セクスティウス法が公布されると[21]、二人の執政官のうち一人はプレブスが就任するようになり、執政武官は廃止となった。しかしその後も、カエクスがインテルレクスとしてプレブスの執政官就任を妨害するような事もあり、身分間のシコリは存在した。

元老院は政務官経験者によって形成されており、執政官経験者の影響力は大きかった[22]。プレブスも執政官を務めることによって力を持ち、彼らも合わせて先祖に執政官や独裁官、執政武官を持つものたちは、ノビレスと呼ばれるようになり[23]、「ノビリタス支配」と呼ばれる新たな支配体制を形成した[24]

帝政期

初期のローマ帝政(プリンキパトゥス、元首政)は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また皇帝と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし541年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。

影響

執政官の名は後の歴史にも幾度か用いられている。領事館制度を創設したヴェネツィア共和国では、その領事にコンスルの称号を名乗らせた(領事官に consul の名が残っているのはそのためである)。また古代ローマへの強い憧憬のもとにあった革命前後のフランスでは、ブリュメールのクーデター後に成立した政府の首班に consul(執政、または統領と和訳される)の語が使われている。

歴代執政官

脚注

注釈

  1. ^ ラテン語の consules (consulの複数形) は「共に飛び跳ねる者、踊る者」を意味する。
  2. ^ と言っても設立当初からプブリコラが3度も連続で務めている。
  3. ^ Praetor、一般にローマ史に書かれる「法務官」はこの時代より後の時代のものである。詳細はプラエトルを参照。

出典

  1. ^ a b c モムゼン, p.230.
  2. ^ モムゼン, p.233.
  3. ^ MRR1, p. 452.
  4. ^ a b モムゼン, p.231.
  5. ^ リウィウス, 2.6.
  6. ^ リウィウス, 8.9.
  7. ^ MRR1, p. 146.
  8. ^ リウィウス, 2.8.
  9. ^ モムゼン, p.232.
  10. ^ リウィウス, 3.9.
  11. ^ リウィウス, 2.18.
  12. ^ リウィウス, 1.60.
  13. ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス, 『ローマ古代誌』, 4.76.1、4.84.5
  14. ^ リウィウス, 2.2.
  15. ^ リウィウス, 3.17.
  16. ^ リウィウス, 2.41.
  17. ^ リウィウス, 2.23、2.29など.
  18. ^ リウィウス, 4.2.
  19. ^ リウィウス, 2.54など.
  20. ^ リウィウス, 4.6.
  21. ^ リウィウス, 6.42.
  22. ^ 安井, p. 39.
  23. ^ Burckhardt, p. 78.
  24. ^ 安井, p. 38.

参考文献

関連項目

外部リンク