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{{Infobox Dalai Lama
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'''ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォ'''({{bo|t=ལཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་}}、[[1838年]][[11月1日]] - [[1856年]][[1月31日]])は、[[チベット仏教]][[ゲルク派]]の有力な転生系譜で[[観音菩薩]]の[[化身ラマ|化身]]とされる勝者王([[ダライ・ラマ]])の11代目<ref group="注釈">ダライ・ラマ(ཏཱ་ལའི་བླ་མ་) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する[[化身ラマ]]の[[名跡]]である。その名は、大海を意味する[[モンゴル語]]の「ダライ Далай,ཱ་ལའི」と、[[グル|師]]([[上人]])を意味する[[チベット語]]の「[[ラマ (チベット)|ラマ]] བླ་མ་ 」とを合わせたものである。[[#デエ|デエ(2005)p.127]]</ref>。ケードゥプギャムツォ、ケードゥブ・ギャムツォ、ケードゥプ・ギャンツォとも表記される。東部[[チベット]]のガルタル(ガサール、現在は[[中華人民共和国]]四川省カンゼ・チベット族自治州[[道孚県]])の生まれ<ref name=rekidaidalai>[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/successive.html 「歴代ダライ・ラマ法王」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]</ref>。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティ<ref name=rekidaidalai/>。[[1842年]]から死去する1856年までのあいだ、[[ガンデンポタン]]を行政府とするダライ・ラマ政権の[[首長]]の座にあった<ref group="注釈">ガンデンポタンとは、[[1642年]]にダライ・ラマを国主としてチベットに成立したダライ・ラマ政権の[[行政機関]]のことである。</ref>。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ([[ダライ・ラマ9世|9世]]〜[[ダライ・ラマ12世|12世]])のうちの1人である。
'''ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォ'''({{bo|t=ལཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་}}、[[1838年]][[11月1日]] - [[1856年]][[1月31日]])は、[[チベット仏教]][[ゲルク派]]の有力な転生系譜で[[観音菩薩]]の[[化身ラマ|化身]]とされる勝者王([[ダライ・ラマ]])の11代目<ref group="注釈">ダライ・ラマ(ཏཱ་ལའི་བླ་མ་) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する[[化身ラマ]]の[[名跡]]である。その名は、大海を意味する[[モンゴル語]]の「ダライ Далай,ཱ་ལའི」と、[[グル|師]]([[上人]])を意味する[[チベット語]]の「[[ラマ (チベット)|ラマ]] བླ་མ་」とを合わせたものである。[[#デエ|デエ(2005)p.127]]</ref>。ケードゥプギャムツォ、ケードゥブ・ギャムツォ、ケードゥプ・ギャンツォとも表記される。東部[[チベット]]のガルタル(ガサール、現在は[[中華人民共和国]]四川省カンゼ・チベット族自治州[[道孚県]])の生まれ<ref name=rekidaidalai>[http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/successive.html 「歴代ダライ・ラマ法王」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]</ref>。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティ<ref name=rekidaidalai/>。[[1842年]]から死去する1856年までのあいだ、[[ガンデンポタン]]を行政府とするダライ・ラマ政権の[[首長]]の座にあった<ref group="注釈">ガンデンポタンとは、[[1642年]]にダライ・ラマを国主としてチベットに成立したダライ・ラマ政権の[[行政機関]]のことである。</ref>。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ([[ダライ・ラマ9世|9世]]〜[[ダライ・ラマ12世|12世]])のうちの1人である。


== 出生と即位 ==
== 出生と即位 ==
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== 短い治世 ==
== 短い治世 ==
ダライ・ラマ11世の在位期間は約14年間であったが、そのあいだチベットは[[シク王国]]に臣従する南西の[[カシミール地方]]の[[ドグラー]]勢力とのあいだに[[ドグラ戦争]]、南に隣接する[[ネパール王国]]の[[ゴルカ朝]]とのあいだで発生した[[ネパー・チベット戦争]](第二次グルカ戦争とも)を戦い、清朝もまた[[アヘン戦争]]の敗北とその後の[[太平天国の乱]]の混乱により、いずれの戦争でもチベットに援軍を差し向ける余裕がなかったため、[[東アジア]]に対して従来行使しててきた影響力を弱めた<ref name=text/><ref name=de185>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.185-187]]</ref>。一方、内政にあっても11世即位時の摂政ツェモンリンに対する広汎な排斥運動がおこるなど、チベットは内憂外患の状態にあった。
[[ファイル:11thDalaiLama.jpg|right|thumb|210px|ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォ]]


=== ドグラ戦争 ===
ダライ・ラマ11世の在位期間は約14年間であったが、そのあいだチベットは南西の[[カシミール地方]]の[[シク教|シク教徒]](ドグラ族)とのあいだに[[ドグラ戦争]]、南に隣接する[[ネパール]]の[[シャー王朝]]とのあいだ[[戦争]]を戦い、清朝もまた[[アヘン戦争]]の敗北とその後の[[太平天国の乱]]の混乱により、いずれの戦争でもチベットに援軍を差し向ける余裕がなかったため、[[東アジア]]に対して従来行使しててきた影響力を弱めた<ref name=text/><ref name=de185>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.185-187]]</ref>。一方、内政にあっても11世即位時の摂政ツェモンリンに対する広汎な排斥運動がおこるなど、チベットは内憂外患の状態にあった。
夭逝したダライ・ラマ10世の治世晩年、シクグラー勢力とのあいだで抗争がおこっている<ref name=text/>。[[1834年]]、ドグラ王の[[グラー・シン]]が[[ラダック]]に侵入してこれを併合、ラダック住民の多くがチベットに亡命した<ref name=de185/>。ダライ・ラマ空位期の[[1841年]]には[[ゾワル・シン]]将軍に指揮されたシク軍(ドーグラー・ラダック軍がチベット西部の[[ガリ地区]]に侵入して、[[グラ戦争]]が勃発した<ref name=text/><ref name=de185/>。[[ガル県|ガル]]と[[ルトク県|ルトク]]の市街は占領され、チベット軍は反撃したがラダックで敗れた。清はアヘン戦争のため援軍を派遣することができなかった<ref name=text/>。たび重なるドグラの侵入に対し、チベット政府は大臣[[スルカン・ツェテンドルジェ]](スルカンパ・ツェテン・ドルジェ)を将軍に選んで応戦し、ゾワル・シンを戦死させて優勢に立ったが、イギリス人との接触で近代化されたシン王軍の強力な兵器に歯が立たず再び敗北した<ref name=text/><ref group="注釈">スルカン将軍の勇戦は長い間チベット西部住民の語り草となった。[[#デエ|デエ(2005)p.186]]</ref>。一進一退のなか、チベット政府は将軍[[シャタ・ワンチュク・ギェル]](シェーダ・ワンチュクゲル)と[[ウー・ツァン|ウー・ツァン地方]]の兵を後詰めとして派遣して反撃を強めた。11世ケードゥプ・ギャツォが即位した1842年、ガリをようやく奪還、同年9月にはラダックの中心都市[[レー (インドの都市)|レー]]において[[調停]]がなされた<ref name=text/><ref name=de185/><ref group="注釈">調停により、双方の友好関係と国境を確認し、[[通商]]の援助などについて合意した。ここにおいてチベットは単独で国際問題を解決したこととなる。[[#デエ|デエ(2005)p.187]]</ref>。

=== ドグラ戦争 ===
夭逝したダライ・ラマ10世の治世晩年、シク国ドグラとのあいだで抗争がおこっている<ref name=text/>。[[1834年]]、ドグラ王の[[グラー・シン]]が[[ラダック]]に侵入してこれを併合、ラダック住民の多くがチベットに亡命した<ref name=de185/>。ダライ・ラマ空位期の[[1841年]]には[[ゾラワル・シン]]将軍に指揮されたシン王軍・ラダック軍がチベット西部の[[ガリ地区]]に侵入してドグラ戦争が勃発した<ref name=text/><ref name=de185/>。[[ガル県|ガル]]と[[ルトク県|ルトク]]の市街は占領され、チベット軍は反撃したがラダックで敗れた。清はアヘン戦争のため援軍を派遣することができなかった<ref name=text/>。たび重なるドグラの侵入に対し、チベット政府は[[スルカン・ツェテンドルジェ]]を将軍に選んで応戦し、ゾラワル・シンを戦死させて優勢に立ったが、イギリス人との接触で近代化されたシン王軍の強力な兵器に歯が立たず再び敗北した<ref name=text/><ref group="注釈">スルカン将軍の勇戦は長い間チベット西部住民の語り草となった。[[#デエ|デエ(2005)p.186]]</ref>。一進一退のなか、チベット政府は将軍[[シャタ・ワンチュク・ギェル]](シェーダ・ワンチュクゲル)と[[ウー・ツァン|ウー・ツァン地方]]の兵を後詰めとして派遣して反撃を強めた。11世ケードゥプ・ギャツォが即位した1842年、ガリをようやく奪還、同年9月にはラダックの中心都市[[レー (インドの都市)|レー]]において[[調停]]がなされた<ref name=text/><ref name=de185/><ref group="注釈">調停により、双方の友好関係と国境を確認し、[[通商]]の援助などについて合意した。ここにおいてチベットは単独で国際問題を解決したこととなる。[[#デエ|デエ(2005)p.187]]</ref>。


=== チベット政府の危機 ===
=== チベット政府の危機 ===
ダライ・ラマ10世が幼少だった[[1819年]]に摂政となって権力をにぎったツェモンリン・ンガワン・ジャンベル・ツルティムに対し、ラサの住民は大きな不満をいだいていた<ref name=de187>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.187-189]]</ref>。ダライ・ラマや[[パンチェン・ラマ]]のみに許された豪華・荘厳な身なりを誇示し、[[カシャ]]([[内閣]])を無力化して、[[ラサ三大寺]]の[[デプン寺]]と[[ガンデン寺]]を粗略に扱ってみずからの出身寺院である[[セラ寺]]を優遇したからである<ref name=de187/><ref group="注釈">カシャは、[[ダライ・ラマ7世]]が[[1751年]]に発足させた、チベットにおける[[内閣制度]]。大臣がそれぞれの責任範囲内でダライ・ラマを補佐し、大臣の合議で政治的決定をおこなう。この制度は現在でも利用されている。[[#ルヴァ|ルヴァンソン(2009)p.28]]</ref>。10世死去に際しても摂政による暗殺がささやかれた。
ダライ・ラマ10世が幼少だった[[1819年]]に摂政となって権力をにぎったツェモンリン・ンガワン・ジャンベル・ツルティムに対し、ラサの住民は大きな不満をいだいていた<ref name=de187>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.187-189]]</ref>。ダライ・ラマや[[パンチェン・ラマ]]のみに許された豪華・荘厳な身なりを誇示し、[[カシャ]]([[内閣]])を無力化して、[[ラサ三大寺]]の[[デプン寺]]と[[ガンデン寺]]を粗略に扱ってみずからの出身寺院である[[セラ寺]]を優遇したからである<ref name=de187/><ref group="注釈">カシャは、[[ダライ・ラマ7世]]が[[1751年]]に発足させた、チベットにおける[[内閣制度]]。大臣がそれぞれの責任範囲内でダライ・ラマを補佐し、大臣の合議で政治的決定をおこなう。この制度は現在でも利用されている。[[#ルヴァ|ルヴァンソン(2009)p.28]]</ref>。10世死去に際しても摂政による暗殺がささやかれた。


11世が即位して3年目の[[1844年]]、ついに摂政ツェモンリンの排斥運動が反乱と化し、チベットは危機的状況に陥った<ref name=de187/>。チベット政府とチベット国内の大寺院がこの状況を清朝第8代の[[道光帝]]に訴えるや、道光帝は[[アンバン]](駐蔵大臣)として[[綺善]]を派遣した<ref name=de187/>。チベットに赴いた綺善は調査の結果、摂政と大寺院との関係が不和であることなどをつかみ、摂政ツェモンリンの廃位と[[流刑]]、また、カシャの権力の復活を決めた<ref name=de187/>。セラ寺の一学堂の僧侶たちだけはこの決定を不服として反乱を起こしたが、すぐに鎮圧された<ref name=de187/>。いまだ幼少の11世を補佐するため、綺善はパンチェン・ラマ7世テンパイ・ニーパに摂政職就任を依頼した<ref name=de187/>。こうして、1844年9月からの約8か月、チベットはパンチェン・ラマによって統治されることとなった<ref name=de187/>。ただし、この混乱のあいだ実権をにぎったのはドグラ人との戦争で半ば勝利を収めた功績者シャタ・ワンチュク・ギェルであった<ref name=de189>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.189-190]]</ref>。
11世が即位して3年目の[[1844年]]、ついに摂政ツェモンリンの排斥運動が反乱と化し、チベットは危機的状況に陥った<ref name=de187/>。チベット政府とチベット国内の大寺院がこの状況を清朝第8代の[[道光帝]]に訴えるや、道光帝は[[アンバン]](駐蔵大臣)として[[綺善]]を派遣した<ref name=de187/>。チベットに赴いた綺善は調査の結果、摂政と大寺院との関係が不和であることなどをつかみ、摂政ツェモンリンの廃位と[[流刑]]、また、カシャの権力の復活を決めた<ref name=de187/>。セラ寺の一学堂の僧侶たちだけはこの決定を不服として反乱を起こしたが、すぐに鎮圧された<ref name=de187/>。いまだ幼少の11世を補佐するため、綺善はパンチェン・ラマ7世テンパイ・ニーパに摂政職就任を依頼した<ref name=de187/>。こうして、1844年9月からの約8か月、チベットはパンチェン・ラマによって統治されることとなった<ref name=de187/>。ただし、この混乱のあいだ実権をにぎったのはドグラ人との戦争で半ば勝利を収めた功績者シャタ・ワンチュク・ギェルであった<ref name=de189>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.189-190]]</ref>。


=== ダライ・ラマ11世の最期 ===
=== ダライ・ラマ11世の最期 ===
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[[1849年]]、11歳となったダライ・ラマ11世はパンチェン・ラマ7世に僧門の誓いを立てた<ref name=rekidaidalai/>。なお、このあいだパリ外国宣教教会の[[宣教師]]が東チベットに到着している([[1847年]])<ref name=de394>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)p.394]]</ref>。
[[1849年]]、11歳となったダライ・ラマ11世はパンチェン・ラマ7世に僧門の誓いを立てた<ref name=rekidaidalai/>。なお、このあいだパリ外国宣教教会の[[宣教師]]が東チベットに到着している([[1847年]])<ref name=de394>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)p.394]]</ref>。


[[1852年]]から[[1853年]]にかけて、チベットとネパールのあいだで[[国境紛争]]がおこっている<ref name=de394/>。チベットの富を羨視したグルカ帝国は[[1855年]]、チベット政府に対し最後通告をつきつけ、これに対し、カシャ、摂政、アンバンが南部国境地帯に[[将校]]を派遣、勅命大臣のシャタ・ワンチュク・ギェルボもこれに合流した(第2次グ戦争)<ref name=de189/>。戦闘は敗戦つづきで、[[1856年]]1月以降、シャタ大臣が中心となってネパールとの交渉を進めたが、太平天国の内乱で混乱している清朝は講和会議には単なる立会人の立場でしか参加できなかった<ref name=de189/>。新条約によってチベットは[[領地]]こそ失わなかったもののグルカ帝国の[[宗主権]]下に置かれ、ネパールに対し毎年1万ルピーの[[年貢]]を支払わなくてはならないこととなった<ref name=de189/><ref group="注釈">チベットからネパールへの年貢は[[1953年]]までつづけられた。[[#デエ|デエ(2005)p.190]]</ref>。さらに、チベットはネパール人のチベット内での[[治外法権]]を約束させられた<ref name=komatsubara>[[#小松原|小松原(2005)p.202]]</ref>。
[[1852年]]から[[1853年]]にかけて、チベットとネパールのあいだで[[国境紛争]]がおこっている<ref name=de394/>。チベットの富を羨視したグルカ帝国は[[1855年]]、チベット政府に対し最後通告をつきつけ、これに対し、カシャ、摂政、アンバンが南部国境地帯に[[将校]]を派遣、勅命大臣のシャタ・ワンチュク・ギェルボもこれに合流した([[ネパー・チベット戦争]])<ref name=de189/>。戦闘は敗戦つづきで、[[1856年]]1月以降、シャタ大臣が中心となってネパールとの交渉を進めたが、太平天国の内乱で混乱している清朝は講和会議には単なる立会人の立場でしか参加できなかった<ref name=de189/>。新条約[[タパタリ条約]]によってチベットは[[領地]]こそ失わなかったもののグルカ帝国の従属下に置かれ、ネパールに対し毎年1万ルピーの[[年貢]]を支払わなくてはならないこととなった<ref name=de189/><ref group="注釈">チベットからネパールへの年貢は[[1953年]]までつづけられた。[[#デエ|デエ(2005)p.190]]</ref>。さらに、チベットはネパール人のチベット内での[[治外法権]]を約束させられた<ref name=komatsubara>[[#小松原|小松原(2005)p.202]]</ref>。


1855年、摂政ラデン・トゥルクはダライ・ラマ11世に権力を譲渡した<ref name=de191>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.191-194]]</ref>。しかし、これもわずか11か月の間にすぎなかった<ref name=de191/>。ダライ・ラマ11世は、若年にもかかわらず、チベット国民の支持もあって、短い治世のあいだチベットの祭政の長としての役割を果たしたといわれる<ref name=rekidaidalai/>。彼はまた、『猿と鳥の物語』なる著作をなしているが、これは[[18世紀]]におけるチベットとネパールのあいだの[[戦争]](第1次グルカ戦争)を寓意していた<ref name=st>[[#Stein|Stein(1972)p.269]]</ref>。
1855年、摂政ラデン・トゥルクはダライ・ラマ11世に権力を譲渡した<ref name=de191>[[#デエ|デエ, 今枝訳(2005)pp.191-194]]</ref>。しかし、これもわずか11か月の間にすぎなかった<ref name=de191/>。ダライ・ラマ11世は、若年にもかかわらず、チベット国民の支持もあって、短い治世のあいだチベットの祭政の長としての役割を果たしたといわれる<ref name=rekidaidalai/>。彼はまた、『猿と鳥の物語』なる著作をなしているが、これは[[18世紀]]におけるチベットとネパールのあいだの[[戦争]]([[清・ネパール戦争]]、第1次グルカ戦争とも)を寓意していた<ref name=st>[[#Stein|Stein(1972)p.269]]</ref>。


1856年1月31日、かれはラサの[[ポタラ宮]]において17歳の若さで急死した。その死は謎に包まれている<ref name=de191/>。
1856年1月31日、かれはラサの[[ポタラ宮]]において17歳の若さで急死した。その死は謎に包まれている<ref name=de191/>。
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author=[[石濱裕美子]] |editor=[[小松久男]]編 |year=2000 |month=10 |chapter=チベット仏教世界の形成と展開 |title=中央ユーラシア史 |publisher=[[山川出版社]]|series=新版世界各国史 |isbn=4-634-41340-X |ref=石濱}}
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* {{Cite book|和書|author=[[木村肥佐生]] |editor= |year=1982 |month=7 |chapter= |title=チベット潜行10年 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公文庫]] |isbn=978-4122009431 |ref=木村}}
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[[Category:19世紀の僧]]
[[Category:ダライ・ラマ]]
[[Category:1838年生]]
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[[Category:1856年没]]
[[Category:1856年没]]

2022年6月25日 (土) 10:53時点における最新版

ケードゥプ・ギャツォ
ダライ・ラマ11世
在位 1842–1856
前任 ツルティム・ギャツォ
後任 ティンレー・ギャツォ
チベット語 མཁས་གྲུབ་རྒྱ་མཚོ་
ワイリー mkhas grub rgya mtsho
発音 チベット語発音: [kʰɛtʂup catsʰɔ]
転写
(PRC)
Kaichub Gyaco
THDL Khedrup Gyatso
漢字 凱珠嘉措
ツェタン・ドンドゥップ
ユンドゥン・ブーティ
生誕 (1838-11-01) 1838年11月1日
チベットカム地方、ガルタル(現四川省カンゼ・チベット族自治州
死没 1856年1月31日(1856-01-31)(17歳没)
チベット、ラサ
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ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォチベット文字ལཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་1838年11月1日 - 1856年1月31日)は、チベット仏教ゲルク派の有力な転生系譜で観音菩薩化身とされる勝者王(ダライ・ラマ)の11代目[注釈 1]。ケードゥプ・ギャムツォ、ケードゥブ・ギャムツォ、ケードゥプ・ギャンツォとも表記される。東部チベットのガルタル(ガサール、現在は中華人民共和国四川省カンゼ・チベット族自治州道孚県)の生まれ[1]。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティ[1]1842年から死去する1856年までのあいだ、ガンデンポタンを行政府とするダライ・ラマ政権の首長の座にあった[注釈 2]。22歳に達する前に亡くなった4人のダライ・ラマ(9世12世)のうちの1人である。

出生と即位

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1837年、政務を拒否していたダライ・ラマ10世ツルティム・ギャツォが満21歳の若さで遷化した[1]。公式には体調すぐれず病死したとされる[1][2]。しかし、かれは必ずしも摂政ツェモンリン・ンガワン・ジャンベル・ツルティムの内政に同意をあたえてはいなかったため、内々には摂政によって暗殺されたのではないかとささやかれた[2]

のちにダライ・ラマ11世となる子が生まれたのは1838年11月、チベット東部カム地方の北ガルタルにおいてであった[1]。父はツェタン・ドンドゥップ、母はユンドゥン・ブーティである[1]

10世ツルティム死去後、転生者の捜索がおこなわれ、1841年、まだ2歳であったこの子が認定された。ときのパンチェン・ラマであったテンパイ・ニーパ(テンペー・ニマ、ロサンテンペーニーパ、パンチェン・ラマ7世英語版)はこの子に対し剃髪の儀を執り行い、「ケードゥプ・ギャツォ」の僧名を授けた[1][3][注釈 3]

11世の生まれたカム地方のガルタルは、かつてダライ・ラマ7世(ケルサン・ギャツォ)が流亡生活を送った地であり、ラサをはじめとする中央チベットと東部辺境地域とのつながりはいっそう深められたこととなる[2]

ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォは1842年5月25日、3歳でラサポタラ宮「黄金の座」に推戴されて戴冠した[1][3]

短い治世

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ダライ・ラマ11世の在位期間は約14年間であったが、そのあいだチベットはシク王国に臣従する南西のカシミール地方ドーグラー勢力とのあいだにドーグラー戦争、南に隣接するネパール王国ゴルカ朝とのあいだで発生したネパール・チベット戦争(第二次グルカ戦争とも)を戦い、清朝もまたアヘン戦争の敗北とその後の太平天国の乱の混乱により、いずれの戦争でもチベットに援軍を差し向ける余裕がなかったため、東アジアに対して従来行使しててきた影響力を弱めた[3][4]。一方、内政にあっても11世即位時の摂政ツェモンリンに対する広汎な排斥運動がおこるなど、チベットは内憂外患の状態にあった。

ドーグラー戦争

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夭逝したダライ・ラマ10世の治世晩年、シク王国のドーグラー勢力とのあいだで抗争がおこっている[3]1834年、ドーグラー王のグラーブ・シングラダックに侵入してこれを併合、ラダック住民の多くがチベットに亡命した[4]。ダライ・ラマ空位期の1841年にはゾーラーワル・シング将軍に指揮されたシク軍(ドーグラー軍)・ラダック軍がチベット西部のガリ地区に侵入して、ドーグラー戦争が勃発した[3][4]ガルルトクの市街は占領され、チベット軍は反撃したがラダックで敗れた。清はアヘン戦争のため援軍を派遣することができなかった[3]。たび重なるドーグラーの侵入に対し、チベット政府は大臣スルカン・ツェテン・ドルジェ(スルカンパ・ツェテン・ドルジェ)を将軍に選んで応戦し、ゾーラーワル・シングを戦死させて優勢に立ったが、イギリス人との接触で近代化されたシン王軍の強力な兵器に歯が立たず再び敗北した[3][注釈 4]。一進一退のなか、チベット政府は将軍シャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)とウー・ツァン地方の兵を後詰めとして派遣して反撃を強めた。11世ケードゥプ・ギャツォが即位した1842年、ガリをようやく奪還、同年9月にはラダックの中心都市レーにおいて調停がなされた[3][4][注釈 5]

チベット政府の危機

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ダライ・ラマ10世が幼少だった1819年に摂政となって権力をにぎったツェモンリン・ンガワン・ジャンベル・ツルティムに対し、ラサの住民は大きな不満をいだいていた[5]。ダライ・ラマやパンチェン・ラマのみに許された豪華・荘厳な身なりを誇示し、カシャ内閣)を無力化して、ラサ三大寺デプン寺ガンデン寺を粗略に扱ってみずからの出身寺院であるセラ寺を優遇したからである[5][注釈 6]。10世死去に際しても摂政による暗殺がささやかれた。

11世が即位して3年目の1844年、ついに摂政ツェモンリンの排斥運動が反乱と化し、チベットは危機的状況に陥った[5]。チベット政府とチベット国内の大寺院がこの状況を清朝第8代の道光帝に訴えるや、道光帝はアンバン(駐蔵大臣)として綺善を派遣した[5]。チベットに赴いた綺善は調査の結果、摂政と大寺院との関係が不和であることなどをつかみ、摂政ツェモンリンの廃位と流刑、また、カシャの権力の復活を決めた[5]。セラ寺の一学堂の僧侶たちだけはこの決定を不服として反乱を起こしたが、すぐに鎮圧された[5]。いまだ幼少の11世を補佐するため、綺善はパンチェン・ラマ7世テンパイ・ニーパに摂政職就任を依頼した[5]。こうして、1844年9月からの約8か月、チベットはパンチェン・ラマによって統治されることとなった[5]。ただし、この混乱のあいだ実権をにぎったのはドーグラー人との戦争で半ば勝利を収めた功績者シャタ・ワンチュク・ギェルポであった[6]

ダライ・ラマ11世の最期

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現在のポタラ宮

1845年5月、摂政職はラデン・トゥルク(ンガワン・エシェ・ツルティム・ギェルツェン)へとうつされた[5]

1849年、11歳となったダライ・ラマ11世はパンチェン・ラマ7世に僧門の誓いを立てた[1]。なお、このあいだパリ外国宣教教会の宣教師が東チベットに到着している(1847年[7]

1852年から1853年にかけて、チベットとネパールのあいだで国境紛争がおこっている[7]。チベットの富を羨視したグルカ帝国は1855年、チベット政府に対し最後通告をつきつけ、これに対し、カシャ、摂政、アンバンが南部国境地帯に将校を派遣、勅命大臣のシャタ・ワンチュク・ギェルボもこれに合流した(ネパール・チベット戦争[6]。戦闘は敗戦つづきで、1856年1月以降、シャタ大臣が中心となってネパールとの交渉を進めたが、太平天国の内乱で混乱している清朝は講和会議には単なる立会人の立場でしか参加できなかった[6]。新条約タパタリ条約によってチベットは領地こそ失わなかったものの、グルカ帝国の従属下に置かれ、ネパールに対し毎年1万ルピーの年貢を支払わなくてはならないこととなった[6][注釈 7]。さらに、チベットはネパール人のチベット内での治外法権を約束させられた[8]

1855年、摂政ラデン・トゥルクはダライ・ラマ11世に権力を譲渡した[9]。しかし、これもわずか11か月の間にすぎなかった[9]。ダライ・ラマ11世は、若年にもかかわらず、チベット国民の支持もあって、短い治世のあいだチベットの祭政の長としての役割を果たしたといわれる[1]。彼はまた、『猿と鳥の物語』なる著作をなしているが、これは18世紀におけるチベットとネパールのあいだの戦争清・ネパール戦争、第1次グルカ戦争とも)を寓意していた[10]

1856年1月31日、かれはラサのポタラ宮において17歳の若さで急死した。その死は謎に包まれている[9]

11世の死により、ラデン摂政が2期目(1856年-1862年)を務めることとなり、さっそく12世探しが始まった[9]。こののち、ラデン摂政とシャタ勅命大臣が権力をめぐって抗争し、チベットは再び政治危機をむかえることとなった[9]

なお、上述したように9世から12世までの4人のダライ・ラマはいずれも早世しており、木村肥佐生は、その著書『チベット潜行10年』(1958年版)の中で、成人前後に急逝した10世・11世・12世の3人は毒殺による死であると推定している[11][注釈 8]

脚注

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注釈

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  1. ^ ダライ・ラマ(ཏཱ་ལའི་བླ་མ་) は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマ名跡である。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ Далай,ཱ་ལའི」と、上人)を意味するチベット語の「ラマ བླ་མ་」とを合わせたものである。デエ(2005)p.127
  2. ^ ガンデンポタンとは、1642年にダライ・ラマを国主としてチベットに成立したダライ・ラマ政権の行政機関のことである。
  3. ^ 「ギャツォ རྒྱ་མཚོ་」とはチベット語で「海」をあらわす語で、モンゴル語の「ダライ Далай」に相当する。
  4. ^ スルカン将軍の勇戦は長い間チベット西部住民の語り草となった。デエ(2005)p.186
  5. ^ 調停により、双方の友好関係と国境を確認し、通商の援助などについて合意した。ここにおいてチベットは単独で国際問題を解決したこととなる。デエ(2005)p.187
  6. ^ カシャは、ダライ・ラマ7世1751年に発足させた、チベットにおける内閣制度。大臣がそれぞれの責任範囲内でダライ・ラマを補佐し、大臣の合議で政治的決定をおこなう。この制度は現在でも利用されている。ルヴァンソン(2009)p.28
  7. ^ チベットからネパールへの年貢は1953年までつづけられた。デエ(2005)p.190
  8. ^ 木村同書(1982年版)では58年版より婉曲的な表現が用いられ、有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が高いとしている。木村(1982)

出典

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参考文献

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  • 石濱裕美子 著「チベット仏教世界の形成と展開」、小松久男 編『中央ユーラシア史』山川出版社〈新版世界各国史〉、2000年10月。ISBN 4-634-41340-X 
  • 木村肥佐生『チベット潜行10年』中央公論新社中公文庫〉、1982年7月。ISBN 978-4122009431 
  • 小松原弘『日本人の目から見たチベットの通史』東京図書出版会、2005年12月。ISBN 4-901880-63-2 
  • チベット中央政権文部省 著、石濱裕美子・福田洋一 訳「第1部 王統史誌」『チベットの歴史と宗教(チベット中学校歴史宗教教科書)』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2012年4月。ISBN 978-4-7503-3568-1 
  • 山口瑞鳳 著「ダライ・ラマ」、平凡社 編『世界大百科事典 第17版』平凡社、1988年3月。ISBN 4-58-202700-8 
  • クロード・B・ルヴァンソン 著、井川浩 訳『チベット-危機に瀕する民族の歴史と争点』白水社文庫クセジュ〉、2009年8月。ISBN 978-4-560-50938-8 
  • ロラン・デエ 著、今枝由郎 訳『チベット史』春秋社、2005年4月。ISBN 4-393-11803-0 
  • Stein, R. A. (1972). Tibetan Civilization. Stanford University Press. ISBN 0-8047-0806-1 

関連項目

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外部リンク

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先代
10世(ツルティム・ギャツォ)
ダライ・ラマの転生
11世:1842年 - 1856年
次代
12世(ティンレー・ギャツォ)