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「全久院 (豊橋市)」の版間の差分

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'''全久院'''(ぜんきゅういん)は[[愛知県]][[豊橋市]]にある[[曹洞宗]]の[[寺院]]である。山号は仙壽山(仙寿山)。[[戸田宗光|戸田全久入道(宗光)]]や[[松平康長|戸田(松平)康長]]の正室[[松姫 (曖昧さ回避)|松姫(徳川家康の異父妹)]](共に[[信州]][[松本神社]]の祭神)の[[菩提寺]]でもある。[[本尊]]は[[釈迦如来]]坐像。
'''全久院'''(ぜんきゅういん)は、[[愛知県]][[豊橋市]]にある[[曹洞宗]]の[[寺院]]である。

== 概要 ==
山号は仙壽山(仙寿山)。[[戸田宗光|戸田全久入道(宗光)]]や[[松平康長|戸田(松平)康長]]の正室松姫([[徳川家康]]の異父妹)(共に[[信濃国|信州]][[松本神社]]の祭神)の[[菩提寺]]でもある。[[本尊]]は[[釈迦如来]]坐像。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[室町時代]]の僧・[[克補契嶷]](こくほかいぎょく)によって大洞山[[泉龍院 (新城市)|泉龍院]]の末寺として開創された。
[[室町時代]]の僧・[[克補契嶷]]<small>(こくほかいぎょく)</small>によって大洞山[[泉龍院 (新城市)|泉龍院]]の末寺として開創された。


元来、[[戸田氏]]中興の祖と呼ばれる戸田全久入道(宗光)を供養して居る寺院であった。
元来、[[戸田氏]]中興の祖と呼ばれる戸田全久入道(宗光)を供養して居る寺院であった。
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[[寛正]]6年([[1465年]])、「額田郡牢人一揆」に悩まされていた[[三河国]]の[[守護大名]]・[[細川成之]]からの請願を容れた[[室町幕府]]第8代[[征夷大将軍]][[足利義政]]の命により[[政所#室町時代の政所|政所]][[執事#室町幕府の執事|執事]]・[[伊勢貞親]]の被官であった戸田宗光(後の全久入道)や宗光の義父・[[松平信光]]が鎮定に動いた。


額田郡での乱を収束させた後、戸田全久入道は[[西三河]]から尾張国[[知多郡]]にかけて勢力を持ち始めると、[[応仁の乱]]{[[応仁]]元年([[1467年]])-[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])}の末期には[[東三河]]へ進出。文明7年([[1475年]])、[[三河湾]]を渡って[[渥美郡]]大津村(現在の愛知県豊橋市老津町字西高縄)の[[大津城 (三河国)|大津城(高縄城)]]へ入城。渥美[[郡代]]・[[一色政照]]の養子分とって、渥美郡支配の大義名分を得ると[[田原城 (三河国)|田原城]](同県[[田原市]]田原町巴江)や[[二連木城]](同県豊橋市仁連木町)を次々と築城し、三河国渥美郡([[朝倉川]]南岸から[[渥美半島]])の統一を果たしている。この宗光と敵対したのは[[吉田城 (三河国)|今橋城]](同県同市今橋町)を築いた[[牧野古白]]入道の[[三河牧野氏|牧野氏]]であった。
額田郡での乱を収束させた後、戸田全久入道は[[西三河]]から尾張国[[知多郡]]にかけて勢力を持ち始めると、[[応仁の乱]]{[[応仁]]元年([[1467年]])-[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])}の末期には[[東三河]]へ進出。文明7年([[1475年]])、[[三河湾]]を渡って[[渥美郡]]大津村(現在の愛知県豊橋市老津町字西高縄)の[[大津城 (三河国)|大津城(高縄城)]]へ入城。渥美[[郡代]]・[[一色政照]]の養子分とって、渥美郡支配の大義名分を得ると[[田原城 (三河国)|田原城]](同県[[田原市]]田原町巴江)や[[二連木城]](同県豊橋市仁連木町)を次々と築城し、三河国渥美郡([[朝倉川]]南岸から[[渥美半島]])の統一を果たしている。この宗光と敵対したのは[[吉田城 (三河国)|今橋城]](同県同市今橋町)を築いた[[牧野古白]]入道の[[三河牧野氏|牧野氏]]であった。


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[[永正]]5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1508年]][[7月16日]])に鬼籍に入った戸田全久の為に、同11年([[1514年]])には嫡男[[戸田憲光]]が菩提寺を建立。当時、東三河では高僧として知られた'''克補契嶷'''(こくほけいぎ。こくほかいぎょく とも)禅師へ開山を拝請し、二連木城の西側に建てられたのが、この全久院である。
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[[明治]]4年([[1871年]])戸田宗家の[[松平光則|戸田(松平)光則]]が[[神道]]を重んじて[[全久院 (松本市)|松本城下の全久院]]を破却したため、什宝や古文書が豊橋の全久院へ引き継がれた。


[[昭和]]の[[太平洋戦争]]では、[[豊橋空襲]]によって[[山門]]など失。また、昭和時代には''双葉保育園''(創立時は幼稚園)を有していた。
[[昭和]]の[[太平洋戦争]]では、[[豊橋空襲]]によって[[山門]]などが焼した。また、昭和時代には''双葉保育園''(創立時は幼稚園)を有していた。


現在は、一般人の[[檀家]]を有する寺院である。
現在は、一般人の[[檀家]]を有する寺院である。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
===[[重要文化財]]===
; [[重要文化財]]
*[[正法眼蔵]](しょうぼうげんぞう)山水経第二十九、十方第四十五 - 宗祖[[道元]]筆の「山水経」と二祖[[懐奘]]筆の「十方」(共に正法眼蔵の一部)が残る。
* [[正法眼蔵]] 山水経第二十九、十方第四十五 - 宗祖[[道元]]筆の「山水経」と二祖[[懐奘]]筆の「十方」(共に正法眼蔵の一部)が残る。
*慶記(ほうきょうき) - 曹洞宗第二祖懐奘の真筆本。いわゆる全久院本である。[[宝慶]]とは中国[[南宋]]の[[元号]]である。
* [[寶慶記]]<small>(ほうきょうき)</small> - 曹洞宗第二祖懐奘の真筆本。いわゆる全久院本である。書名の由来は中国[[南宋]]の[[元号]][[宝慶]]である。
*羅漢供養式稿本残巻(らかんくようしきこうほんざんかん) - 道元筆
* 羅漢供養式稿本残巻<small>(らかんくようしきこうほんざんかん)</small> - 道元筆


== 展覧会 ==
== 展覧会 ==
*佐藤司没後二十年展 — 彫刻家の[[佐藤司]]([[1948年]][[1988年]])の作品を展示。2008年9月5日から9月15日まで。時間は10時から17時
* 佐藤司没後二十年展 - 彫刻家の[[佐藤司]]([[1948年]] - [[1988年]])の作品を展示。2008年9月5日から9月15日まで。


== アクセス ==
== アクセス ==
[[豊橋鉄道東田本線]](市内線)[[東田]]([[安全地帯 (交通)|安全地帯]]がないので注意)あるいは[[東田坂上]]
* [[豊橋鉄道]][[豊橋鉄道東田本線|東田本線]](市内線)[[東田停留場]]([[安全地帯 (交通)|安全地帯]]がないので注意)あるいは[[東田坂上停留場]]下車。


== 所在地 ==
== 所在地 ==
愛知県豊橋市東郷町117番地 (東田町字東郷とも)
* 愛知県豊橋市東郷町117番地(東田町字東郷とも)


== 関連施設 ==
== 関連施設 ==
*[[全久院]] - 全国に同名の寺院が在る。[[長野県]][[松本市]]の[[信州]]全久院([[開智学校]]に使われた)は戸田全久の末裔の戸田松平家の菩提寺である。
* [[全久院]] - 全国に同名の寺院が在る。[[長野県]][[松本市]]の[[信濃国|信州]]全久院([[旧開智学校|開智学校]]に使われた)は戸田全久の末裔の戸田松平家の菩提寺である。
*[[豊橋市立東田小学校]] - [[徳川時代]]に全久院の寺子屋であったものが[[明治5年]](1872年)に開校。
* [[豊橋市立東田小学校]] - [[江戸時代]]に全久院の[[寺子屋]]であったものが[[明治5年]](1872年)に開校。
*[[龍拈寺]] - 好敵手の牧野家(同県豊川市牧野町から発する)の菩提寺。山号は吉田山。吉田(豊橋)三ヶ寺のつ。宗旨は同じ曹洞宗。
* [[長興寺 (田原市)]] - 同じく戸田氏の菩提寺。山号は雲龍山。宗旨は曹洞宗。
* [[龍拈寺]] - 好敵手の牧野家(同県豊川市牧野町から発する)の菩提寺。山号は吉田山。吉田(豊橋)三ヶ寺のつ。宗旨は同じ曹洞宗。
* [[泉龍院 (新城市)]] - 当院寺。山号は大洞山。宗旨は曹洞宗。

*[[泉龍院 (新城市)]] - 当院寺。山号は大洞山。宗旨は曹洞宗。
* [[医王寺 (新城市)]] - 同じく克補契嶷による開山の寺。山号は長篠山。宗旨は同じ曹洞宗。
* [[東海四十九薬師霊場]]
*[[医王寺 (新城市)]] - 同じく克補契嶷による開山の寺。山号は長篠山。宗旨は同じ曹洞宗。
*[[東海四十九薬師霊場]]


==外部リンク==
== 外部リンク ==
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*[http://www.tokai49yakusi.com/ 東海四十九薬師霊場会HP]
* [http://www.tokai49yakusi.com/ 東海四十九薬師霊場会HP]
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2022年6月25日 (土) 23:48時点における最新版

全久院

全久院
所在地 愛知県豊橋市東郷町177番地
位置 北緯34度46分2.5秒 東経137度24分44.0秒 / 北緯34.767361度 東経137.412222度 / 34.767361; 137.412222座標: 北緯34度46分2.5秒 東経137度24分44.0秒 / 北緯34.767361度 東経137.412222度 / 34.767361; 137.412222
山号 仙壽山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 永正11年(1514年
開基 戸田憲光
開山は克補契嶷
正式名 仙壽山全久禪院
札所等 東海四十九薬師霊場 43番札所
文化財 正法眼蔵(一部分)、宝慶記、
羅漢供養式稿本残巻(重要文化財)
法人番号 2180305002853 ウィキデータを編集
全久院 (豊橋市)の位置(愛知県内)
全久院 (豊橋市)
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全久院(ぜんきゅういん)は、愛知県豊橋市にある曹洞宗寺院である。

概要

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山号は仙壽山(仙寿山)。戸田全久入道(宗光)戸田(松平)康長の正室松姫(徳川家康の異父妹)(共に信州松本神社の祭神)の菩提寺でもある。本尊釈迦如来坐像。

歴史

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室町時代の僧・克補契嶷(こくほかいぎょく)によって大洞山泉龍院の末寺として開創された。

元来、戸田氏中興の祖と呼ばれる戸田全久入道(宗光)を供養して居る寺院であった。

戸田氏(二連木系嫡流は戸田松平家)とは、尾張国海部郡戸田荘(現在の同県名古屋市中川区戸田)を本拠とした清和源氏の系統とされる。ただし、戸田全久の父は、伝承によると正親町三条家からの養子と言われる戸田綱光である。

寛正6年(1465年)、「額田郡牢人一揆」に悩まされていた三河国守護大名細川成之からの請願を容れた室町幕府第8代征夷大将軍足利義政の命により政所執事伊勢貞親の被官であった戸田宗光(後の全久入道)や宗光の義父・松平信光が鎮定に動いた。

額田郡での乱を収束させた後、戸田全久入道は西三河から尾張国知多郡にかけて勢力を持ち始めると、応仁の乱応仁元年(1467年)-文明9年(1477年)}の末期には東三河へ進出。文明7年(1475年)、三河湾を渡って渥美郡大津村(現在の愛知県豊橋市老津町字西高縄)の大津城(高縄城)へ入城。渥美郡代一色政照の養子分となって、渥美郡支配の大義名分を得ると田原城(同県田原市田原町巴江)や二連木城(同県豊橋市仁連木町)を次々と築城し、三河国渥美郡(朝倉川南岸から渥美半島)の統一を果たしている。この宗光と敵対したのは今橋城(同県同市今橋町)を築いた牧野古白入道の牧野氏であった。

永正5年6月19日1508年7月16日)に鬼籍に入った戸田全久の為に、同11年(1514年)には嫡男戸田憲光が菩提寺を建立。当時、東三河では高僧として知られた克補契嶷(こくほけいぎ。こくほかいぎょく とも)禅師へ開山を拝請し、二連木城の西側に建てられたのが、この全久院である。

憲光の孫戸田康光牛久保城(豊川市牛久保町)へ移り、光国舜玉禅師(克補契嶷の法嗣)による開山で天文15年(1546年)牛久保へも全久院を建立、こちらを墳墓地とした。

また、最後の二連木城主で後に信濃国松本藩長野県松本市)主となった戸田(松平)康長の正室松姫(徳川家康生母於大の方の再嫁先(久松氏)の娘)もこの全久院で埋葬されたと伝わる。

天正18年(1590年)、神君関八州移封と時に、三河を去る戸田家は荒廃していた牛久保全久院を現在地(豊橋市東郷町)に移転した。

明治4年(1871年)戸田宗家の戸田(松平)光則神道を重んじて松本城下の全久院を破却したため、什宝や古文書が豊橋の全久院へ引き継がれた。

昭和太平洋戦争では、豊橋空襲によって山門などが焼失した。また、昭和時代には双葉保育園(創立時は幼稚園)を有していた。

現在は、一般人の檀家を有する寺院である。

文化財

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重要文化財
  • 正法眼蔵 山水経第二十九、十方第四十五 - 宗祖道元筆の「山水経」と二祖懐奘筆の「十方」(共に正法眼蔵の一部)が残る。
  • 寶慶記(ほうきょうき) - 曹洞宗第二祖懐奘の真筆本。いわゆる全久院本である。書名の由来は中国南宋元号宝慶である。
  • 羅漢供養式稿本残巻(らかんくようしきこうほんざんかん) - 道元筆

展覧会

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  • 佐藤司没後二十年展 - 彫刻家の佐藤司1948年 - 1988年)の作品を展示。2008年9月5日から9月15日まで。

アクセス

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所在地

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  • 愛知県豊橋市東郷町117番地(東田町字東郷とも)

関連施設

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外部リンク

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