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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期と初期キャリア ===
=== 幼少期と初期キャリア ===
[[ダブリン]]に生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家の[[ウィリアム・マイケル・ルーク]]から指導を受ける<ref>[http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/01865?q=Michael+William+Balfe&search=quick&pos=1&_start=1#firsthit Michael William Balfe], Oxford Music Online, accessed 17 November 2012 (subscription required)</ref>。彼がまだ少年の頃に、一家は{{仮リンク|ウェクスフォード|en|Wexford<!-- [[:ja:ウェクスフォード]] とリンク -->|FIXME=1}}に移り住んだ。[[1814年]]と[[1815年]]の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳で[[ポロネーズ]]を作曲している。
[[ダブリン]]に生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家の[[ウィリアム・マイケル・ルーク]]から指導を受ける<ref>[http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/01865?q=Michael+William+Balfe&search=quick&pos=1&_start=1#firsthit Michael William Balfe], Oxford Music Online, accessed 17 November 2012 (subscription required)</ref>。彼がまだ少年の頃に、一家は[[ウェクスフォード]]に移り住んだ。[[1814年]]と[[1815年]]の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳で[[ポロネーズ]]を作曲している。


[[1817年]]、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年には[[バラード]]を作曲した。この曲は最初「ヤング・ファニー ''Young Fanny''」と呼ばれており、後に{{仮リンク|シア・エリザベス・ヴェストリス|label=ベストリス婦人|en|Lucia Elizabeth Vestris}}によって''Paul Pry''で歌われた際には「恋人達の過ち ''The Lovers' Mistake''」と呼ばれた。[[1823年]]に父が他界すると、まもなく[[ロンドン]]に移り住んで、[[ドルリー・レーン (ロンドン)|ドルリー・レーン]]にある王立劇場<ref group= "注">訳注:1663年開場、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウェスト・エンド]]の劇場。2196席だった。([[:en: Theatre Royal, Drury Lane|Theatre Royal]])</ref>の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の[[指揮者]]に就任している<ref name=Walsh/>。一方で、彼はロンドンにおいて[[チャールズ・エドワード・ホーン]]にヴァイオリンを、[[1824年]]から[[ウィンザー城]]内のセント・ジョージ教会<ref group= "注">訳注:ウィンザー城内、[[エリザベス2世|エリザベス女王]]の居住域に近い場所に位置する[[ゴシック建築]]の教会。([[:en: St George's Chapel, Windsor Castle|St George's Chapel]])</ref>で[[オルガニスト]]となっていた[[チャールズ・フレデリック・ホーン]]に作曲を師事した。
[[1817年]]、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年には[[バラード]]を作曲した。この曲は最初「ヤング・ファニー ''Young Fanny''」と呼ばれており、後に[[ルシア・エリザベス・ヴェストリス|ベストリス婦人]]によって''Paul Pry''で歌われた際には「恋人達の過ち ''The Lovers' Mistake''」と呼ばれた。[[1823年]]に父が他界すると、まもなく[[ロンドン]]に移り住んで、[[ドルリー・レーン (ロンドン)|ドルリー・レーン]]にある王立劇場<ref group= "注">訳注:1663年開場、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウェスト・エンド]]の劇場。2196席だった。([[:en: Theatre Royal, Drury Lane|Theatre Royal]])</ref>の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の[[指揮者]]に就任している<ref name=Walsh/>。一方で、彼はロンドンにおいて[[チャールズ・エドワード・ホーン]]にヴァイオリンを、[[1824年]]から[[ウィンザー城]]内のセント・ジョージ教会<ref group= "注">訳注:ウィンザー城内、[[エリザベス2世|エリザベス女王]]の居住域に近い場所に位置する[[ゴシック建築]]の教会。([[:en: St George's Chapel, Windsor Castle|St George's Chapel]])</ref>で[[オルガニスト]]となっていた[[チャールズ・フレデリック・ホーン]]に作曲を師事した。


ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼は[[ノリッジ]]において[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]の「[[魔弾の射手]]」でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。[[1825年]]、マッザーラ(Mazzara)伯爵が彼を声楽と音楽の修行のために[[ローマ]]へと連れていき、[[ルイージ・ケルビーニ|ケルビーニ]]に紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼は[[イタリア]]において、最初の劇作品である[[バレエ]]「''La Perouse''」を作曲している。彼は[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]に弟子入りし、[[1827年]]の終わりには[[パリ]]のイタリア・オペラに「[[セビリアの理髪師]]」のフィガロ役で登場した。
ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼は[[ノリッジ]]において[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]の「[[魔弾の射手]]」でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。[[1825年]]、マッザーラ(Mazzara)伯爵が彼を声楽と音楽の修行のために[[ローマ]]へと連れていき、[[ルイージ・ケルビーニ|ケルビーニ]]に紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼は[[イタリア]]において、最初の劇作品である[[バレエ]]「''La Perouse''」を作曲している。彼は[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]に弟子入りし、[[1827年]]の終わりには[[パリ]]のイタリア・オペラに「[[セビリアの理髪師]]」のフィガロ役で登場した。
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バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリの[[パリ国立オペラ|オペラ座]]で歌っており、そこで[[マリア・マリブラン]]と出会っている。[[1829年]]の[[ボローニャ]]では、彼は当時18歳だった[[ソプラノ]]歌手の[[ジュリア・グリジ]]のために、初めてとなる[[カンタータ]]を作曲した。彼女は、[[テノール]]のフランチェスコ・ペドラッツィ(Francesco Pedrazzi)と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフは[[パレルモ]]での1829年から[[1830年]]のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「''I rivali di se stessi''」を上演した。
バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリの[[パリ国立オペラ|オペラ座]]で歌っており、そこで[[マリア・マリブラン]]と出会っている。[[1829年]]の[[ボローニャ]]では、彼は当時18歳だった[[ソプラノ]]歌手の[[ジュリア・グリジ]]のために、初めてとなる[[カンタータ]]を作曲した。彼女は、[[テノール]]のフランチェスコ・ペドラッツィ(Francesco Pedrazzi)と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフは[[パレルモ]]での1829年から[[1830年]]のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「''I rivali di se stessi''」を上演した。


[[1831年]]頃、[[オーストリア]]の血筋で[[ハンガリー]]生まれの歌手のリーナ・ローゼル(Lina Roser; [[1806年]]-[[1888年]])と結婚した。2人が出会ったのは[[ベルガモ]]であった<ref name=Irish/>。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード(Edward)は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、[[1915年]]にこの世を去っている。娘はルイーザ(Louisa; [[1832年]]-[[1869年]])とヴィクトワール([[1837年]]-[[1871年]])であった。バルフは[[パヴィーア]]でオペラ「''Un avvertimento ai gelosi''」を、[[ミラノ]]では「''Enrico Quarto''」を作曲した。ミラノでは[[1834年]]にマリブランと共に、[[スカラ座]]でロッシーニの「{{仮リンク|オテロ (ロッシーニ)|label=オテロ|en|Otello (Rossini)}}」を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼は[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]のオペラ「[[エジプトの十字軍]]」に自分の音楽を加えて「改良」しようと試みたが、これによって[[ヴェネツィア]]の[[フェニーチェ劇場]]での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。
[[1831年]]頃、[[オーストリア]]の血筋で[[ハンガリー]]生まれの歌手のリーナ・ローゼル(Lina Roser; [[1806年]]-[[1888年]])と結婚した。2人が出会ったのは[[ベルガモ]]であった<ref name=Irish/>。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード(Edward)は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、[[1915年]]にこの世を去っている。娘はルイーザ(Louisa; [[1832年]]-[[1869年]])とヴィクトワール([[1837年]]-[[1871年]])であった。バルフは[[パヴィーア]]でオペラ「''Un avvertimento ai gelosi''」を、[[ミラノ]]では「''Enrico Quarto''」を作曲した。ミラノでは[[1834年]]にマリブランと共に、[[スカラ座]]でロッシーニの「[[オテロ (ロッシーニ)|オテロ]]」を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼は[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]のオペラ「[[エジプトの十字軍]]」に自分の音楽を加えて「改良」しようと試みたが、これによって[[ヴェネツィア]]の[[フェニーチェ劇場]]での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。


=== 作曲家としての成功 ===
=== 作曲家としての成功 ===
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バルフは[[1835年]]5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年[[10月29日]]のドルリー・レーンでの「''The Siege of Rochelle''」の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は[[1836年]]に「''[[:en: The Maid of Artois|The Maid of Artois]]''」を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。
バルフは[[1835年]]5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年[[10月29日]]のドルリー・レーンでの「''The Siege of Rochelle''」の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は[[1836年]]に「''[[:en: The Maid of Artois|The Maid of Artois]]''」を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。


[[1838年]]7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ(Manfredo Maggione)の[[リブレット (音楽)|台本]]によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用に[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の「[[ウィンザーの陽気な女房たち]]」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ ''Falstaff''」を作曲した。初演に際しては友人の{{仮リンク|ルイジ・ラブラーシュ|en|Luigi Lablache}}([[バス (声域)|バス]])が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、{{仮リンク|ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ|en|Giovanni Battista Rubini}}(テノール)、そして{{仮リンク|アントニオ・タンブリーニ|en|Antonio Tamburini}}([[バリトン]])が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラで[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]の「[[清教徒 (オペラ)|清教徒]]」の初演を行ったのと同じ布陣であった<ref name=Irish>Walsh Basil. [http://www.britishandirishworld.com/ "Michael William Balfe"] at the British and Irish World website</ref>。
[[1838年]]7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ(Manfredo Maggione)の[[リブレット (音楽)|台本]]によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用に[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の「[[ウィンザーの陽気な女房たち]]」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ ''Falstaff''」を作曲した。初演に際しては友人の{{仮リンク|ルイジ・ラブラーシュ|en|Luigi Lablache}}([[バス (声域)|バス]])が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、{{仮リンク|ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ|en|Giovanni Battista Rubini}}(テノール)、そして{{仮リンク|アントニオ・タンブリーニ (バリトン)|en|Antonio Tamburini|label=アントニオ・タンブリーニ}}([[バリトン]])が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラで[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]の「[[清教徒 (オペラ)|清教徒]]」の初演を行ったのと同じ布陣であった<ref name=Irish>Walsh Basil. [http://www.britishandirishworld.com/ "Michael William Balfe"] at the British and Irish World website</ref>。


<!--[[File:Balfe38(1846).jpg|right|thumb|Balfe in 1846]]-->
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[[1846年]]から[[1852年]]にかけて、バルフはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めた<ref>Walsh, Basil. [http://www.victorianweb.org/mt/balfe/bio1.html "Michael W. Balfe (1808-70): His Life and Career"] Victoria Web, accessed 7 February 2008</ref>。ここで、彼は[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演している。彼は[[ジェニー・リンド]]がオペラデビューを果たした際の指揮者を務めており、その後も幾度にもわたって彼女と共演している<ref name=Irish/>。
[[1846年]]から[[1852年]]にかけて、バルフはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めた<ref>Walsh, Basil. [http://www.victorianweb.org/mt/balfe/bio1.html "Michael W. Balfe (1808-70): His Life and Career"] Victoria Web, accessed 7 February 2008</ref>。ここで、彼は[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演している。彼は[[ジェニー・リンド]]がオペラデビューを果たした際の指揮者を務めており、その後も幾度にもわたって彼女と共演している<ref name=Irish/>。


[[1851年]]、[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万博]]への期待が高まる中、バルフは革新的なカンタータ「''Inno Delle Nazioni''」を作曲した。この曲では9人の女性歌手が歌うが、それぞれが国を表している。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。「''When other hearts''」、「''[[:en: I Dreamt I Dwelt in Marble Halls|I Dreamt I Dwelt in Marble Halls]]''」(「ボヘミアの少女」より)、「''[[:en: Come into the Garden, Maud|Come into the Garden, Maud]]''」、「''Excelsior''」([[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー|ロングフェロー]]詩)などである<ref>[http://www.excelsiortrust.co.uk/modules/news/article.php?storyid=93 "What's in a name?"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111005022048/http://www.excelsiortrust.co.uk/modules/news/article.php?storyid=93 |date=2011年10月5日 }} at the Excelsior Trust website. Accessed 17 August 2010.</ref>。バルフは合計38のオペラを作曲した。また、数曲のカンタータ([[1862年]]の「マゼッパ ''Mazeppa''」など)、少なくとも1曲の交響曲を作曲している。彼の最後のオペラは、彼がこの世を去った時にほぼ完成されていた「''The Knight of the Leopard''」であり、[[イタリア語]]版では「''Il Talismano''」として大きな成功を収めた<ref name=Irish/><ref>Trutt, David. [http://www.haddon-hall.com/Libretti/TalismanoLibretto.html Introduction and link to English-language libretto of ''Il Talismano''], Haddon Hall website, accessed 2 October 2010</ref>。バルフの大規模な楽曲で、今日でも演奏されることがあるのは「ボヘミアの少女」のみである。
[[1851年]]、[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万博]]への期待が高まる中、バルフは革新的なカンタータ「''Inno Delle Nazioni''」を作曲した。この曲では9人の女性歌手が歌うが、それぞれが国を表している。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。「''When other hearts''」、「''[[:en: I Dreamt I Dwelt in Marble Halls|I Dreamt I Dwelt in Marble Halls]]''」(「ボヘミアの少女」より)、「''[[:en: Come into the Garden, Maud|Come into the Garden, Maud]]''」、「''Excelsior''」([[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー|ロングフェロー]]詩)などである<ref>[http://www.excelsiortrust.co.uk/modules/news/article.php?storyid=93 "What's in a name?"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111005022048/http://www.excelsiortrust.co.uk/modules/news/article.php?storyid=93 |date=2011年10月5日 }} at the Excelsior Trust website. Accessed 17 August 2010.</ref>。バルフは合計38のオペラを作曲した。また、数曲のカンタータ([[1862年]]の「マゼッパ ''Mazeppa''」など)、少なくとも1曲の交響曲を作曲している。彼の最後のオペラは、彼がこの世を去った時にほぼ完成されていた「''The Knight of the Leopard''」であり、[[イタリア語]]版では「''Il Talismano''」として大きな成功を収めた<ref name=Irish/><ref>Trutt, David. [http://www.haddon-hall.com/Libretti/TalismanoLibretto.html Introduction and link to English-language libretto of ''Il Talismano''], Haddon Hall website, accessed 2 October 2010</ref>。バルフの大規模な楽曲で、今日でも演奏されることがあるのは「ボヘミアの少女」のみである。


[[1864年]]に引退した後、[[ハートフォードシャー]]で田舎の屋敷を借りた。彼は1870年、62歳の時に自宅で没し、{{仮リンク|ケンザル・グリーン|en|Kensal Green}}に埋葬された。[[1882年]]には、[[ウェストミンスター寺院]]で彼の肖像のメダル飾りが除幕された。ロンドン州議会<ref group= "注">訳注:[[1889年]]-[[1965年]]に存在したロンドンの地方自治体。今日の[[インナー・ロンドン]]にあたる地域をカバーしていた。([[:en: London County Council|London County Council]])</ref>のバルフを記念する飾り板は、[[1912年]]に{{仮リンク|マリバン|en|Marylebone<!-- [[:ja:メリルボーン]] とリンク -->|FIXME=1}}、セイモア通り(Seymour Street)12に掲げられた<ref name='EngHet'>{{cite web| url=http://www.english-heritage.org.uk/discover/blue-plaques/search/balfe-michael-william-1808-1870|title=Balfe, Michael William (1808-1870)|publisher=English Heritage| accessdate=2012-10-19}}</ref>。
[[1864年]]に引退した後、[[ハートフォードシャー]]で田舎の屋敷を借りた。彼は1870年、62歳の時に自宅で没し、{{仮リンク|ケンザル・グリーン|en|Kensal Green}}に埋葬された。[[1882年]]には、[[ウェストミンスター寺院]]で彼の肖像のメダル飾りが除幕された。ロンドン州議会<ref group= "注">訳注:[[1889年]]-[[1965年]]に存在したロンドンの地方自治体。今日の[[インナー・ロンドン]]にあたる地域をカバーしていた。([[:en: London County Council|London County Council]])</ref>のバルフを記念する飾り板は、[[1912年]]に[[メリルボーン|マリバン]]、セイモア通り(Seymour Street)12に掲げられた<ref name='EngHet'>{{cite web| url=http://www.english-heritage.org.uk/discover/blue-plaques/search/balfe-michael-william-1808-1870|title=Balfe, Michael William (1808-1870)|publisher=English Heritage| accessdate=2012-10-19}}</ref>。


== 録音 ==
== 録音 ==
バルフの作品は、数こそ多くないものの一定のペースで録音がなされている。
バルフの作品は、数こそ多くないものの一定のペースで録音がなされている。
* LP時代には「''The Siege of Rochelle''」、「 ''The Daughter of St. Mark''」、「''[[:en: The Rose of Castille|The Rose of Castille]]''」、「''Satanella''」の録音があった。
* LP時代には「''The Siege of Rochelle''」、「 ''The Daughter of St. Mark''」、「''[[:en: The Rose of Castille|The Rose of Castille]]''」、「''Satanella''」の録音があった。
* [[リチャード・ボニング]]指揮による「ボヘミアの少女」は[[1991年]]にArgoレーベルから出されていたが、後に[[デッカ]]から再発売されている、Decca 473 077-2
* [[リチャード・ボニング]]指揮による「ボヘミアの少女」は[[1991年]]にArgoレーベルから出されていたが、後に[[デッカ・レコード|デッカ]]から再発売されている、Decca 473 077-2
* デボラ・リーデルとリチャード・ボニングによるアリアの録音のCDは、[http://www.melbarecordings.com.au/component/page,shop.product_details/flypage,shop.flypage/product_id,6/category_id,1/manufacturer_id,0/option,com_virtuemart/Itemid,64/ ''The Power of Love'']という題でMelba Z-MR301082の品番で出されており、バルフ作品が数曲含まれる。
* デボラ・リーデルとリチャード・ボニングによるアリアの録音のCDは、[http://www.melbarecordings.com.au/component/page,shop.product_details/flypage,shop.flypage/product_id,6/category_id,1/manufacturer_id,0/option,com_virtuemart/Itemid,64/ ''The Power of Love'']という題でMelba Z-MR301082の品番で出されており、バルフ作品が数曲含まれる。
* 「''The Maid of Artois''」が2005年に[http://www.victorianoperanorthwest.org/Recordings/MaidofArtoisrecording.htm Victorian Opera Northwest]によって録音され、Cameo 2042-3の品番で入手可能である。
* 「''The Maid of Artois''」が2005年に[http://www.victorianoperanorthwest.org/Recordings/MaidofArtoisrecording.htm Victorian Opera Northwest]によって録音され、Cameo 2042-3の品番で入手可能である。

2022年7月3日 (日) 14:00時点における最新版

マイケル・ウィリアム・バルフ
Michael William Balfe
基本情報
生誕 1808年5月15日
イギリスの旗 イギリス
アイルランドの旗 アイルランドダブリン
死没 (1870-10-20) 1870年10月20日(62歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドハートフォードシャー
ジャンル クラシック
職業 作曲家バリトン歌手、ヴァイオリニスト

マイケル・ウィリアム・バルフ(Michael William Balfe, 1808年5月15日 - 1870年10月20日)は、アイルランド作曲家オペラボヘミアの少女英語版」で最も知られる。

ヴァイオリニストとしての短いキャリアの後、オペラ歌唱の道に進み、同時に作曲を開始した。40年以上に及ぶキャリアの中で、38のオペラと約250曲の歌曲、その他の作品を作曲した。また、指揮者としても有名で、ハー・マジェスティーズ・シアターでの7年間のイタリア・オペラの指揮をはじめ、他の指揮者職にも就いていた。

生涯

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幼少期と初期キャリア

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ダブリンに生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家のウィリアム・マイケル・ルークから指導を受ける[1]。彼がまだ少年の頃に、一家はウェクスフォードに移り住んだ。1814年1815年の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳でポロネーズを作曲している。

1817年、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年にはバラードを作曲した。この曲は最初「ヤング・ファニー Young Fanny」と呼ばれており、後にベストリス婦人によってPaul Pryで歌われた際には「恋人達の過ち The Lovers' Mistake」と呼ばれた。1823年に父が他界すると、まもなくロンドンに移り住んで、ドルリー・レーンにある王立劇場[注 1]の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の指揮者に就任している[2]。一方で、彼はロンドンにおいてチャールズ・エドワード・ホーンにヴァイオリンを、1824年からウィンザー城内のセント・ジョージ教会[注 2]オルガニストとなっていたチャールズ・フレデリック・ホーンに作曲を師事した。

ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼はノリッジにおいてウェーバーの「魔弾の射手」でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。1825年、マッザーラ(Mazzara)伯爵が彼を声楽と音楽の修行のためにローマへと連れていき、ケルビーニに紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼はイタリアにおいて、最初の劇作品であるバレエLa Perouse」を作曲している。彼はロッシーニに弟子入りし、1827年の終わりにはパリのイタリア・オペラに「セビリアの理髪師」のフィガロ役で登場した。

バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリのオペラ座で歌っており、そこでマリア・マリブランと出会っている。1829年ボローニャでは、彼は当時18歳だったソプラノ歌手のジュリア・グリジのために、初めてとなるカンタータを作曲した。彼女は、テノールのフランチェスコ・ペドラッツィ(Francesco Pedrazzi)と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフはパレルモでの1829年から1830年のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「I rivali di se stessi」を上演した。

1831年頃、オーストリアの血筋でハンガリー生まれの歌手のリーナ・ローゼル(Lina Roser; 1806年-1888年)と結婚した。2人が出会ったのはベルガモであった[3]。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード(Edward)は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、1915年にこの世を去っている。娘はルイーザ(Louisa; 1832年-1869年)とヴィクトワール(1837年-1871年)であった。バルフはパヴィーアでオペラ「Un avvertimento ai gelosi」を、ミラノでは「Enrico Quarto」を作曲した。ミラノでは1834年にマリブランと共に、スカラ座でロッシーニの「オテロ」を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼はマイアベーアのオペラ「エジプトの十字軍」に自分の音楽を加えて「改良」しようと試みたが、これによってヴェネツィアフェニーチェ劇場での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。

作曲家としての成功

[編集]
バルフ 1860年

バルフは1835年5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年10月29日のドルリー・レーンでの「The Siege of Rochelle」の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は1836年に「The Maid of Artois」を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。

1838年7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ(Manfredo Maggione)の台本によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用にシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ Falstaff」を作曲した。初演に際しては友人のルイジ・ラブラーシュ英語版バス)が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ英語版(テノール)、そしてアントニオ・タンブリーニ英語版バリトン)が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラでベッリーニの「清教徒」の初演を行ったのと同じ布陣であった[3]

1841年、バルフはロンドンのライシーアム劇場英語版にナショナル・オペラを設立したが、この事業は失敗に終わった。同年に、彼はオペラ「Keolanthe」を初演している。その後、彼はパリへと移って1843年の初頭には「Le puits d'amour」を上演、1844年にはオペラ=コミック座のための「エーモンの4人の息子英語版[注 3]」に基づく自作オペラ、1845年にはオペラ座のための「L'étoile de Seville」が続いた。これらの作品の台本を書いたのは、ウジェーヌ・スクリーブや他である[4]

一方、1843年にバルフはロンドンに戻り、1843年11月27日にドルリー・レーンの王立劇場で、彼の一番の成功作である「ボヘミアの少女英語版」を初演した。この作品の公演は100夜以上を数え、まもなくニューヨーク、ダブリン、フィラデルフィアウィーンシドニーなど、ヨーロッパ中やその他の各地域で上演された。1854年には、「La Zingara」と題されたイタリア語版がトリエステで上演されて大成功となり、これもイタリアやドイツの両国で国境を越えて披露された。さらに1862年には4幕形式のフランス語版「La Bohemienne」がフランスで上演され、これもまた成功を収めた[3]

晩年

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1846年から1852年にかけて、バルフはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めた[5]。ここで、彼はヴェルディのオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演している。彼はジェニー・リンドがオペラデビューを果たした際の指揮者を務めており、その後も幾度にもわたって彼女と共演している[3]

1851年ロンドン万博への期待が高まる中、バルフは革新的なカンタータ「Inno Delle Nazioni」を作曲した。この曲では9人の女性歌手が歌うが、それぞれが国を表している。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。「When other hearts」、「I Dreamt I Dwelt in Marble Halls」(「ボヘミアの少女」より)、「Come into the Garden, Maud」、「Excelsior」(ロングフェロー詩)などである[6]。バルフは合計38のオペラを作曲した。また、数曲のカンタータ(1862年の「マゼッパ Mazeppa」など)、少なくとも1曲の交響曲を作曲している。彼の最後のオペラは、彼がこの世を去った時にほぼ完成されていた「The Knight of the Leopard」であり、イタリア語版では「Il Talismano」として大きな成功を収めた[3][7]。バルフの大規模な楽曲で、今日でも演奏されることがあるのは「ボヘミアの少女」のみである。

1864年に引退した後、ハートフォードシャーで田舎の屋敷を借りた。彼は1870年、62歳の時に自宅で没し、ケンザル・グリーン英語版に埋葬された。1882年には、ウェストミンスター寺院で彼の肖像のメダル飾りが除幕された。ロンドン州議会[注 4]のバルフを記念する飾り板は、1912年マリバン、セイモア通り(Seymour Street)12に掲げられた[8]

録音

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バルフの作品は、数こそ多くないものの一定のペースで録音がなされている。

  • LP時代には「The Siege of Rochelle」、「 The Daughter of St. Mark」、「The Rose of Castille」、「Satanella」の録音があった。
  • リチャード・ボニング指揮による「ボヘミアの少女」は1991年にArgoレーベルから出されていたが、後にデッカから再発売されている、Decca 473 077-2
  • デボラ・リーデルとリチャード・ボニングによるアリアの録音のCDは、The Power of Loveという題でMelba Z-MR301082の品番で出されており、バルフ作品が数曲含まれる。
  • The Maid of Artois」が2005年にVictorian Opera Northwestによって録音され、Cameo 2042-3の品番で入手可能である。
  • またVictorian Opera Northwestはバルフの歌曲とアリア をWRW 204-2で出している。
  • Opera Raraからは2枚のCDが出された。ORR 239には「Cantata Sempre pensoso e torbido」が収録され、ORR 277には歌曲の「The blighted flower」が収録されている。
  • 2008年のオペラ・アイルランドによるバルフの「ファルスタッフ」の演奏会形式での公演は、RTÉ Lyric FMで放送されたものがRTÉ LyricFM LYRICCD119の品番で発売されており、ナクソスから入手できる[2]
  • バルフの序曲1曲と歌曲集(サリヴァンの楽曲もある)はヴィクトリア朝の忘れられた劇場音楽で見つけることが出来る。
  • 彼の器楽曲の一例である「チェロソナタ」が、Dutton CDLX 7225に収録されている。

脚注

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注釈

  1. ^ 訳注:1663年開場、シティ・オブ・ウェストミンスターウェスト・エンドの劇場。2196席だった。(Theatre Royal
  2. ^ 訳注:ウィンザー城内、エリザベス女王の居住域に近い場所に位置するゴシック建築の教会。(St George's Chapel
  3. ^ ドイツ語圏では長年「ハイモンの4人の子ども Die Vier Haimonskinder」という名前で親しまれている。
  4. ^ 訳注:1889年-1965年に存在したロンドンの地方自治体。今日のインナー・ロンドンにあたる地域をカバーしていた。(London County Council

出典

  1. ^ Michael William Balfe, Oxford Music Online, accessed 17 November 2012 (subscription required)
  2. ^ a b Falstaff recording, RTÉ LyricFM LYRICCD119, CD notes by Basil Walsh (2008)
  3. ^ a b c d e Walsh Basil. "Michael William Balfe" at the British and Irish World website
  4. ^ Sadie, Stanley (ed) (1992). the New Grove Dictionary of Opera. Oxford: Oxford University Press. vol.1, p288. ISBN 978-0-19-522186-2 
  5. ^ Walsh, Basil. "Michael W. Balfe (1808-70): His Life and Career" Victoria Web, accessed 7 February 2008
  6. ^ "What's in a name?" Archived 2011年10月5日, at the Wayback Machine. at the Excelsior Trust website. Accessed 17 August 2010.
  7. ^ Trutt, David. Introduction and link to English-language libretto of Il Talismano, Haddon Hall website, accessed 2 October 2010
  8. ^ Balfe, Michael William (1808-1870)”. English Heritage. 2012年10月19日閲覧。

参考文献

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  • Webb, Alfred (1878). " Balfe, Michael William". A Compendium of Irish Biography. Dublin: M. H. Gill & son. Wikisource
  • Barrett, W. A. Balfe, His Life & Work (London - 1882)
  • Biddlecombe, George. English Opera 1834-64 and the works of Michael W. Balfe (New York - 1994)
  • Kenny, C. L. A Memoir of Michael W. Balfe (London - 1875)
  • Phelan, Robert. William Vincent Wallace, Celtic Publications (1994)
  • Tyldesley, William. Michael W. Balfe: His Life and His English Operas, Aldershot, Hants, England; Burlington, VT: Ashgate (2003) ISBN 0-7546-0558-2
  • Walsh, Basil. A Unique Victorian Composer (2007)
  • Walsh, Basil. Extensive website on the life and work of Michael W. Balfe
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Balfe, Michael William" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.

外部リンク

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