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'''汴州'''(べんしゅう)は、[[中国]]にかつて存在した[[]]。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]から[[五代十国時代]]にかけて、現在の[[河南省]][[開封市]]一帯設置された
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'''汴州'''(べんしゅう)は中国にかつて存在した州。現在の[[中華人民共和国]][[河南省]][[開封市]]に相当する


== 概要 ==
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[東魏]]により設置された'''梁州'''を前身とする。その後[[北周]]により'''汴州'''と改称された。
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[[北周]]のとき、梁州は「汴州」と改称された。
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[[隋]]初には、汴州は[[陳留郡]]とその属県の[[祥符区|浚儀]]・[[開封県|開封]]の1郡2県を管轄した。
==下部行政区画==
*[[陳留郡]]
**[[浚儀県]]
**[[開封]]


[[583年]]([[開皇]]3年)、陳留郡が廃止され、汴州が2県を直轄した。
==関連項目==
*[[鄭州]]
*[[東京開封府]]
*[[開封市]]


[[605年]]([[大業]]元年)、汴州が廃止され、[[鄭州]]に併合された。
==注==

[[607年]](大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、鄭州は[[滎陽郡]]と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。

[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[王世充]]を平定すると、滎陽郡浚儀県に「汴州」が置かれた。

[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、汴州は陳留郡と改称された。

[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、陳留郡は汴州の称にもどされた。汴州は[[河南道]]に属し、浚儀・開封・[[尉氏県|尉氏]]・[[祥符区|陳留]]・[[封丘県|封丘]]・[[杞県|雍丘]]の6県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志一</ref>。

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== 関連項目 ==

* [[開封]]
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2022年8月23日 (火) 00:32時点における最新版

汴州(べんしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から五代十国時代にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。

概要[編集]

東魏天平初年に設置された梁州を前身とする。梁州は陽夏郡開封郡陳留郡の3郡10県を管轄した[1]

北周のとき、梁州は「汴州」と改称された。

初には、汴州は陳留郡とその属県の浚儀開封の1郡2県を管轄した。

583年開皇3年)、陳留郡が廃止され、汴州が2県を直轄した。

605年大業元年)、汴州が廃止され、鄭州に併合された。

607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、鄭州は滎陽郡と改称された[2]

621年武徳4年)、王世充を平定すると、滎陽郡浚儀県に「汴州」が置かれた。

742年天宝元年)、汴州は陳留郡と改称された。

758年乾元元年)、陳留郡は汴州の称にもどされた。汴州は河南道に属し、浚儀・開封・尉氏陳留封丘雍丘の6県を管轄した[3]

781年建中2年)、汴州に宣武軍節度使が置かれた[4]。この宣武軍は後の朱全忠の台頭の基盤となった。

907年開平元年)、五代の後梁により汴州は開封府に昇格し、東都とされた[5]

923年同光元年)、後唐が後梁を滅ぼすと、汴州は宣武軍節度使の管轄にもどされた[6]

938年天福3年)、後晋により汴州は東京に昇格し、開封府が置かれた[7]

北宋のときに開封府は東京とされ、においては南京が置かれた。

脚注[編集]

  1. ^ 魏書』地形志二中
  2. ^ 隋書』地理志中
  3. ^ 旧唐書』地理志一
  4. ^ 『旧唐書』徳宗紀上
  5. ^ 旧五代史』梁書太祖紀三
  6. ^ 『旧五代史』唐書荘宗紀四
  7. ^ 『旧五代史』晋書高祖紀

関連項目[編集]