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'''オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン'''(Owney "The Killer" Madden、[[1891年]][[12月18日]] - [[1965年]][[4月24日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アイルランド]]系の[[ギャングスター]]。ガンファイトの武闘派。[[禁酒法]]時代はコットンクラブを経営した。本名'''オーウェン・ヴィクター・マドゥン'''(Owen Victor Madden)。[[イギリス]]の[[リーズ]]出身。
'''オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン'''(Owney "The Killer" Madden、[[1891年]][[12月18日]] - [[1965年]][[4月24日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アイルランド]]系の[[ギャングスター]]。ガンファイトの武闘派。[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]時代はコットンクラブを経営した。本名'''オーウェン・ヴィクター・マドゥン'''(Owen Victor Madden)。[[イギリス]]の[[リーズ]]出身。


==ストリートギャング==
==ストリートギャング==
両親と共に職を求めて[[ウィガン]]、そして[[リバプール]]へ移り住んだ。[[1902年]]、前年に先に行った家族を追って渡米、アイルランド移民が多く住む[[ニューヨーク]]の[[ヘルズ・キッチン]]に定住した<ref name="a">[http://www.lacndb.com/Info.php?name=Owney%20Madden Owney Madden] La Cosa Nostra Database</ref>。若い頃、兄マーティンと共に地元の[[ストリート・ギャング]]のひとつ[[:w:Gopher Gang|ゴファー・ギャング]]の一員となり、地元の店や事業家から用心棒代やゆすりで金巻き上げた。脅しの武器にピストルの他、新聞紙にくるんだ鉛のパイプを多用した<ref name="c">[http://www.mobsters.8m.com/madden.htm Owney "Killer" Madden]</ref>。窃盗や武装強盗で50回以上逮捕された。アジトにガサ入れにやって来た警官を殺し、また恋敵を殺したが、目撃者が行方不明になり、放免された<ref name="c"/>。
両親と共に職を求めて[[ウィガン]]、そして[[リバプール]]へ移り住んだ。[[1902年]]、前年に先に行った家族を追って渡米、アイルランド移民が多く住む[[ニューヨーク]]の[[ヘルズ・キッチン]]に定住した<ref name="a">[http://www.lacndb.com/Info.php?name=Owney%20Madden Owney Madden] La Cosa Nostra Database</ref>。若い頃、兄マーティンと共に地元の[[ストリート・ギャング]]のひとつ[[:w:Gopher Gang|ゴファー・ギャング]]に入り、果物行強請った。脅しの武器にベアナックル、ブラックジャック、ピストルを使いまた新聞紙にくるんだ鉛のパイプを多用した<ref name="c">[http://www.mobsters.8m.com/madden.htm Owney "Killer" Madden]</ref>。窃盗や武装強盗で50回以上逮捕された。アジトにガサ入れにやって来た警官を殺したが、目撃者が行方不明になり、放免された<ref name="c"/>。


ゴファーズは当時リーダーのニューバーグ・ギャラガーが収監されて3派閥に再編され、全体のボスはいなかったが、そのタフで強靭な攻撃スタイルで瞬く間に出世してリーダーの1人になった<ref name="a"/><ref name="c"/>。マドンの部下の幹部にエディーイーガン、ビル・タマニー、チック・ハイランドなどがいた<ref name="c"/>。1910年代、ライバルギャングの[[:en: Hudson Dusters|ハドソン・ダスターズ]]派手な抗争に明け暮た<ref name="b">[http://toughjews.blogspot.jp/2006/07/owney-madden-jewish-by-association.html Owney Madden] Murder Incorporated</ref>。1912年11月6日52丁目のダスホールの上階にた時、知らないうちにダスターズの11人に囲ま、8発の銃弾を浴びた。銃声を聞いた下階客が駆け付けるとマドゥンが体中から大量に出血して横たわていた。搬送先の病院はマドゥンの体から銃弾幾つか摘出したが、すべてを取り出すのをあらめた。医者は助かる見込みはないと言ったが、生き延びた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=aEdXAwAAQBAJ&pg=PA87&lpg=PA87&dq=owney+madden+gophers&source=bl&ots=h5vbd2MwGV&sig=KoqhDx82U_J5GCt3H-hoxI8Za4s&hl=ja&sa=X&ved=0CDsQ6AEwBDgKahUKEwiP9M2wr7vHAhXFJpQKHe8ZCeE#v=onepage&q=owney%20madden%20gophers&f=false J. Anne Funderburg(2014), Bootleggers and Beer Barons of the Prohibition Era, p88]</ref>。警察は何もしゃべらず病院を抜け出して復讐で相手方6人を殺した<ref name="b"/>。1914年、ダスタズ幹部パッチー・ドイルと恋敵になりドイルがマドゥンの違法活動警察に密告、ま仲間のトニー・マネを襲ったため、同年11月28日、和解と称しドイル誘い出て銃殺した。だまし討ち利用した女仲間警察証言したため殺人罪で捕まり20年刑で収監された<ref name="a"/>。
1910年、ゴファーズはリーダーのニューバーグ・ギャラガーが収監されて3派閥に再編され、全体のボスはいなかったが、そのタフで強靭なスタイルのおかげすぐリーダーの1人になった<ref name="a"/><ref name="c"/>。マドン・ギャグとも縄張りにしていた場所にちなみ10番街ギャングとも呼ばれ、有能なガマンを雇れた。主な稼ぎは地元商店からの用心棒代で、強盗や金庫破りもやった。選挙時、アイルランド系政治組織[[タニー・ホール]]から武力サービス受けた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=Mg1DCQAAQBAJ&pg=PA77&lpg=PA77 Donald L. Miller(2015), Supreme City: How Jazz Age Manhattan Gave Birth to Modern America] P. 99</ref>。配下の幹部エディー・イーガンビル・タマニー、チック・ハイランドなどがいた<ref name="c"/>。アジトのウィノナ・クラブ{{refnest|group=注釈|バ、サンドバグ、カウチ、ピアノ、銃したーゼト、泥棒器具などがあった。}}では高額の賭け金で賭場を開いた<ref>Donald L. Miller, P. 100</ref>。警官を襲っては奪った制服を着闊歩、女友達に見せびらかした。1911年結婚て娘が生まれたが、翌年家族を捨てた<ref name="#1">Donald L. Miller, P. 99</ref>。

1910年代、ライバルギャングの[[:en: Hudson Dusters|ハドソン・ダスターズ]]と派手な抗争に明け暮れた<ref name="b">[https://toughjews.blogspot.com/2006/07/owney-madden-jewish-by-association.html Owney Madden] Murder Incorporated</ref>。1911年9月、ダスターズのメンバーを殺害し、逮捕されたが証言者が現れず、放免された。この事件以後オウニー・ザ・キラーと呼ばれた。1912年2月、地元の美人を巡って口論となった恋敵を追いかけて銃殺した。死に際の恋敵がマドゥンの名を告げたため逮捕されたが、目撃者の証言拒否により放免された<ref>Donald L. Miller, P.99 - P. 100</ref>。1912年11月6日、52丁目のダンスホールの上階にいた時、知らないうちにダスターズの11人に囲まれ、8発の銃弾を浴びた。銃声を聞いた下階の客が駆け付けるとマドゥンが血まみれ姿で横たわっていた。搬送先の病院はマドゥンの体から銃弾を幾つか摘出したが、すべてを取り出すのをあきらめた。医者は助かる見込みはないと言ったが、生き延びた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=aEdXAwAAQBAJ&pg=PA87&lpg=PA87 J. Anne Funderburg(2014), Bootleggers and Beer Barons of the Prohibition Era, P.88]</ref>。警察には何もしゃべらず、病院を抜け出して復讐で相手方6人を殺した<ref name="b"/>。

1914年、ダスターズ幹部パッチー・ドイルと恋敵になり、ドイルがマドゥンの違法活動を警察に密告し、また仲間のトニー・ロマネッロを襲ったため、同年11月28日、和解と称してドイルを誘い出して銃殺した。だまし討ちに利用した女仲間が警察に証言したため殺人罪で捕まり20年刑で[[シンシン刑務所]]に収監された<ref name="a"/>。刑務所では仲良しになった刑吏のお蔭で葉巻やシルクのシャツが手に入り、ボクシングマッチや野球賭博の幹事になった<ref name="d">[https://books.google.co.jp/books?id=jdlhAQAAQBAJ&pg=PA65&lpg=PA65 Hot Springs: From Capone to Costello, Robert K. Raines P.65-P.68]</ref>。


==禁酒法時代==
==禁酒法時代==
===密輸稼業とコットン・クラブ===
===密輸稼業とコットン・クラブ===
1923年特赦を得て出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ([[ローレンス・フェイ]])のタクシー会社の用心棒となり、スト破りやカナダ産ラム酒の密輸の護衛に武装ギャグ団提供した<ref name="c"/>。1924年、自前の非合法醸造所を立ち上げ、そこで造った酒を[[スピークイージー]](闇酒場)やナイトクラブに持ち込んで儲けた<ref name="c"/>。その後[[ビル・ドワイヤー]]の密輸オペレーションに加わり、[[フランク・コステロ]]と知り合った
1923年特赦出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ([[ローレンス・フェイ]])のタクシー会社の用心棒となり、タクシー組合のスト破りやカナダ産ラム酒の密輸のガードマンを引き受けた<ref name="c"/>。


1923年12月2日、仲間のジョージ・ディーン・ディマンジ{{refnest|group=注釈|元ハドソン・ダスターズで、かつてのライバルだったが、禁酒法時代マドゥンと合流し、その側近になった<ref>[http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,789037,00.html Milestones, Oct. 2, 1939, TIME Magazine]</ref>。}}ら3人でリカーショップに強盗に押し入りウイスキーを強奪したが、使ったキャデラックが特定され捕まった(証拠不在で放免){{refnest|group=注釈|捕まった時の肩書はフェイのタクシー会社マネージャー。}}<ref>[https://bklyn.newspapers.com/image/57547497 3 Captured After Armed Men Steal $16,000in Whisky, Brooklyn Daily Eagle, P. 10, 1923.12.3]</ref>。
[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」を[[ジャック・ジョンソン (ボクサー)]]から買取り、[[コットン・クラブ]]として再オープンした<ref name="a"/>。人気音楽家の[[デューク・エリントン]]を友人の[[ブー・ブー・ホフ]]に頼み[[フィラデルフィア]]からニューヨークに呼び寄せて契約を結ばせた他、多くの人気ジャズメンや歌手を引き抜き、客にヤミ酒を提供して繁盛した。コットン・クラブは1920年代のニューヨークのナイトライフのメッカとなった<ref name="c"/>。ドアマンのチーフは、ジョージ・ディーン・ディマンジが務め<ref>ディマンジは元ハドソン・ダスターズで、かつてのライバルだったが、禁酒法時代にマドゥンの密輸組織に加わり、以来マドゥンの側近になった。[http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,789037,00.html Milestones, Oct. 2, 1939, TIME Magazine]</ref>、店の用心棒に[[ダッチ・シュルツ]]や[[レッグス・ダイアモンド]]、[[ヴィンセント・コール|"マッド・ドッグ"・コール]]など若手ギャングを雇った<ref name="c"/>。のち[[ダッチ・シュルツ]]が自前の密輸組織を率いてハーレムに進出するとこれに組し、[[ワキシー・ゴードン]]や[[レッグス・ダイアモンド]]ら同業ライバルとガンファイト繰り広げた<ref name="a"/>。


1924年、ディマンジと共にフェニックス醸造所を買収し、自らの名前を冠したマドンズ No.1というブランドの酒を生産、[[スピークイージー]](闇酒場)やナイトクラブに持ち込んで儲けた<ref name="c"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=qUwQAAAAQBAJ&pg=PA58&lpg=PA58 Prohibition Gangsters: The Rise and Fall of a Bad Generation, Marc Mappen, 2013, P. 58]</ref>。その後[[ビル・ドワイヤー]]の密輸オペレーションに加わり、[[フランク・コステロ]]と知り合った。
じ頃[[ラッキー・ルチアーノ]]や仲間知り合った。闇酒場の経営は、アイルランド系政治組織[[タマニーホール]]のジミーハインズの後ろ盾を得て警察の摘発から免れた<ref name="a"/>。マドゥンと知り合いなら[[ニューヨーク市長|市長]]と知り合いなのと同じぐらいだと言われたほど大物ぶりを発揮した。酒場や密輸の他、ンドリ石炭配送業など多彩なビジネスを手がけ、実業家った<ref name="a"/>。1929年5月、全米ギャングの大集会、アトランティック会議に参加した<ref>[https://americanunderworld.wordpress.com/2012/01/11/owney-madden-and-new-yorks-west-side-irish-mob/ Owney Madden and New York’s West Side Irish Mob]</ref>。

[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」を[[ジャック・ジョンソン (ボクサー)]]から買取り、[[コットン・クラブ]]として再オープンした<ref name="a"/>。人気音楽家の[[デューク・エリントン]]を友人の[[ブー・ブー・ホフ]]に頼み[[フィラデルフィア]]からニューヨークに呼び寄せて契約を結ばせた他、多くの人気ジャズメンや歌手を引き抜き、客にヤミ酒を提供して繁盛した。コットン・クラブは1920年代のニューヨークのナイトライフのメッカとなった<ref name="c"/>。ドアマンのチーフはディマンジが務め、店の用心棒に[[ダッチ・シュルツ]]や[[レッグス・ダイアモンド]]、[[ヴィンセント・コール|"マッド・ドッグ"・コール]]など若手ギャングを雇った<ref name="c"/>。のちシュルツが自前の密輸組織を率いてハーレムに進出するとこれに組し、[[ワキシー・ゴードン]]やレッグス・ダイアモンドら同業ライバルとハーレムの覇権争った<ref name="a"/>。

酒場経営で成功すると事業を多角化し、ランドリー業や石炭配送業などを立ち上げた<ref name="a"/>。また、[[ブロードウェイ]]で劇場の共オーナーになった<ref>Donald L. Miller, P. 94</ref>。当時ダンサーだった[[ジョラフト]]や駆け出し女優[[メイ・ウエスト]]の面倒を見た(ウエストは一説に愛人関係にあった)<ref name="d"/>。闇酒場の経営は、[[タマニーホール]]のジミーハインズの後ろ盾を得て警察の摘発から免れた<ref name="a"/>。マドゥンと知り合いなら[[ニューヨーク市長|市長]]と知り合いなのと同じぐらいだと言われるまでになった。同じ頃[[ッキ・ルチアーノ]]その仲間知り合った。1929年5月、全米ギャングの大集会、アトランティック会議に参加した<ref>[https://americanunderworld.wordpress.com/2012/01/11/owney-madden-and-new-yorks-west-side-irish-mob/ Owney Madden and New York’s West Side Irish Mob]</ref>{{refnest|group=注釈|多くのギャングが参加したと伝えられるが、裏付ける資料がなく、その存在が疑問視されている。}}


===1930年代===
===1930年代===
1931年、密輸ビジネスをやめ、ボクシング興行に進出した。ビル・ダフィやディマンジらプロモーターと提携し、プロモーターとして[[プリモ・カルネラ]]や[[マックス・ベア (ボクサー)]]などを手掛け八百長試合を仕組んだ<ref name="a"/>。ホットスプリングスに移ってからもボクシング興行に関わり、[[ロッキー・マルシアノ]]もプロモートしたと言われる。
1931年、密輸ビジネスをやめ、ボクシング興行に進出した。ビル・ダフィやディマンジらプロモーターと提携し、プロモーターとして[[プリモ・カルネラ]]や[[マックス・ベア (ボクサー)]]などを手掛け八百長試合を仕組んだ<ref name="a"/>。ホットスプリングスに移ってからもボクシング興行に関わり、[[ロッキー・マルシアノ]]もプロモートしたと言われる。


1931年、イタリア系マフィアを[[5大ファミリー]]に再編した[[ラッキー・ルチアーノ]]に、アイルランド系ギャングの代表として[[ヘルズ・キッチン]]の縄張りを追認された。1931年7月、[[ダッチ・シュルツ]]の元部下でシュルツと抗争していた[[ヴィンセント・コール]]に仲間のディマンジを誘拐され、身代金に35000ドルを払った<ref name="c"/>。1932年、コール抹殺をシュルツと共謀し、公衆電話から脅迫電話をかけてきたコールをマドゥンは引き止め、その間にコールはシュルツの刺客により[[マシンガン]]で殺害された<ref name="c"/>たまたまコールを尾行していた警察が逃げるシュルツ一味の車を追いかけ、派手なカーチェイスを演じた。同年、保釈の条件を破ったとして再び収監されたが、翌年に出所した。コール殺害関与を疑う警察から圧力をかけられたため、[[1935年]]にニューヨークを去った<ref name="a"/>
1931年、イタリア系マフィアを[[5大ファミリー]]に再編した[[ラッキー・ルチアーノ]]に、アイルランド系ギャングの代表として[[ヘルズ・キッチン]]の縄張りを追認された。
1931年7月、[[ダッチ・シュルツ]]の元部下でシュルツと抗争していた[[ヴィンセント・コール]]に仲間のディマンジを誘拐され、身代金に35000ドルを払った<ref name="c"/>。1932年2月、コール抹殺をシュルツと共謀し、公衆電話から脅迫電話をかけてきたコールをマドゥンは引き止め、その間にコールはシュルツの刺客により[[マシンガン]]で殺害された<ref name="c"/>{{refnest|group=注釈|たまたまコールを尾行していた警察が逃げるシュルツ一味の車を追いかけ、派手なカーチェイスを演じた。}}

1932年、保釈の条件を破ったとして再び収監されたが、1933年6月6日に出所した。コール殺害関与を疑う警察に執拗にマークされたため、[[1935年]]にニューヨークを去った<ref name="a"/>。ニューヨークを離れる際、フェニックス醸造所、コットンクラブやストーククラブなど大方の資産を売却処分した<ref name="d"/>。コステロやルチアーノとの交友関係はその後も続き、ルチアーノ仲間の[[マイヤー・ランスキー]]とマイアミの競馬場の利権をシェアした<ref name="d"/>。


==ホットスプリングス==
==ホットスプリングス==
[[アーカンソー州]][[ホットスプリングス (アーカンソー州)|ホットスプリングス]]に居を構え、地元の郵便族の娘と再婚した。同地で[[温泉]]と[[カジノ]]を備えた『ホテル・アーカンソー』を開き、全国の引退した[[ギャング]]の世話をした<ref name="a"/>。[[1936年]]、[[トーマス・デューイ]]に追われた[[ラッキー・ルチアーノ]]を一時匿い、[[弁護士]]まで用意した。ホットスプリングス市長レオ・パトリック・マクラフリンに賄賂を贈り、八百長競馬など賭博・売春組織を運営した。慈善事業も行い、1943にはアメリカ市民権を得て、1940年代は地元の名士として名が通った<ref name="a"/>。生涯を通じて豪奢な生活を好み、高価なスーツを身にまとい、複数の女性を引き連れた。若い頃に受けた体中の銃創で生涯苦しんだ。1930年代より当局にマークされており、1960年代前半マクレラン組織犯罪委員会の追及を受けたが、1965年肺気腫で死去した。300万ドルの資産を残した<ref name="a"/>。
[[アーカンソー州]][[ホットスプリングス (アーカンソー州)|ホットスプリングス]]に居を構え、地元の郵便族の娘アグネス・デンビーと再婚した。同地で[[温泉]]と[[カジノ]]を備えた『ホテル・アーカンソー』を開き、全国の引退した[[ギャング]]の世話をした<ref name="a"/>。[[1936年]]、[[トーマス・デューイ]]に追われたルチアーノを一時匿い、[[弁護士]]まで用意した。ホットスプリングス市長レオ・パトリック・マクラフリンに賄賂を贈り、八百長競馬など賭博・売春組織を運営した。慈善事業も行い、上院議員ジョン・マクレランをバックアップした。1942アメリカ市民権を得て、1940年代は地元の名士として名が通った<ref name="a"/>。毎週金曜アーリントンホテルの理髪屋で髪を整え、温泉に入るのが日課となった<ref name="d"/>。
生涯を通じて豪奢な生活を好み、高価なスーツを身にまとい、複数の女性を引き連れた。若い頃に受けた体中の銃創で生涯苦しんだ。1930年代より当局にマークされており、1960年代前半マクレラン組織犯罪委員会の追及を受けたが、1965年肺気腫で死去した。300万ドルの資産を残した<ref name="a"/>。ホットスプリングスのグリーンウッド墓地に、[[2001年]]に100歳で死去した妻アグネスと共に埋葬されている


==エピソード==
==エピソード==
*リーズ時代、飼っていた数匹の鳩を、警官が崖の上から偶然転ばせた石のせいで殺された。以来、極度の警官嫌いになった<ref name="d"/>。
*仲間との連絡にアパートの屋上から伝書鳩を飛ばした<ref>[http://www.tgmoa.com/TheMaddenGallery.html Owen Madden 1891-1965] The Madden Gallery</ref>。


*度重なる被弾で歪んでしまった腸を整えるため特注のコルセットを付けていた<ref name="d"/>。
*俳優の[[ジョージ・ラフト]]は1920年代、ナイトクラブでダンサーをやる傍ら、マドゥンの密輸組織で働いていた<ref>[http://www.saturdayeveningpost.com/wp-content/uploads/satevepost/out-of-my-past.pdf OUT OF MY PAST, The Saturday Evening Post]</ref>。

*仲間との連絡にアパートの屋上から伝書鳩を飛ばした<ref>[http://www.tgmoa.com/TheMaddenGallery.html Owen Madden 1891-1965] The Madden Gallery</ref>。コットンクラブなど所有クラブの上階に鳩小屋を作って孤独の慰みにした<ref name="#1"/>。無類の鳩好きで、ホットスプリングスに移った後も、自宅の裏庭に鳩小屋を作った<ref name="d"/>。

*英国訛りの発音のためアイルランド人というより英国人に近く、ゴファーズではアウトサイダーだった。死ぬまでヨークシャー新聞のスポーツ記事の切り抜きを大事に保管していた<ref>Donald L. Miller, P. 98</ref>。

*俳優ジョージ・ラフトは1920年代、ナイトクラブでダンサーをやる傍ら、マドゥンの密輸組織で働いていた<ref>[http://www.saturdayeveningpost.com/wp-content/uploads/satevepost/out-of-my-past.pdf OUT OF MY PAST, The Saturday Evening Post]</ref>。


==題材にした作品等==
==題材にした作品等==
*[[フランシス・フォード・コッポラ]]の映画「[[コットンクラブ]]」で[[ダッチ・シュルツ]]らと共に実名で描かれた。
*[[フランシス・フォード・コッポラ]]の映画「[[コットンクラブ (映画)|コットンクラブ]]」で[[ダッチ・シュルツ]]らと共に実名で描かれた(1984年)

*作家マイケル・ウォオルシュがマドゥンの半生を描いた伝記小説「And All The Saints」を執筆した(2003年)。

*[[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]シリーズ4作目にマドゥン役フレドリック・レーンで登場する(2013年)。


==脚注==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references />
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=== 出典 ===
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==外部リンク==
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2022年12月17日 (土) 19:10時点における最新版

オウニー・マドゥン

オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン(Owney "The Killer" Madden、1891年12月18日 - 1965年4月24日)は、アメリカアイルランド系のギャングスター。ガンファイトの武闘派。禁酒法時代はコットンクラブを経営した。本名オーウェン・ヴィクター・マドゥン(Owen Victor Madden)。イギリスリーズ出身。

ストリートギャング

[ソースを編集]

両親と共に職を求めてウィガン、そしてリバプールへ移り住んだ。1902年、前年に先に行った家族を追って渡米、アイルランド移民が多く住むニューヨークヘルズ・キッチンに定住した[1]。若い頃、兄マーティンと共に地元のストリート・ギャングのひとつゴファー・ギャングに入り、果物行商人を強請った。脅しの武器にベアナックル、ブラックジャック、ピストルを使い、また新聞紙にくるんだ鉛のパイプを多用した[2]。窃盗や武装強盗で50回以上逮捕された。アジトにガサ入れにやって来た警官を殺したが、目撃者が行方不明になり、放免された[2]

1910年、ゴファーズはリーダーのニューバーグ・ギャラガーが収監されて3派閥に再編され、全体のボスはいなかったが、そのタフで強靭なスタイルのおかげですぐリーダーの1人になった[1][2]。マドゥン・ギャングとも、縄張りにしていた場所にちなみ10番街ギャングとも呼ばれ、有能なガンマンを雇い入れた。主な稼ぎは地元の商店からの用心棒代で、強盗や金庫破りもやった。選挙時は、アイルランド系政治組織タマニー・ホールから武力サービスを引き受けた[3]。配下の幹部にエディー・イーガン、ビル・タマニー、チック・ハイランドなどがいた[2]。アジトのウィノナ・クラブ[注釈 1]では高額の賭け金で賭場を開いた[4]。警官を襲っては奪った制服を着て街を闊歩し、女友達に見せびらかした。1911年に結婚して娘が生まれたが、翌年に家族を捨てた[5]

1910年代、ライバルギャングのハドソン・ダスターズと派手な抗争に明け暮れた[6]。1911年9月、ダスターズのメンバーを殺害し、逮捕されたが証言者が現れず、放免された。この事件以後オウニー・ザ・キラーと呼ばれた。1912年2月、地元の美人を巡って口論となった恋敵を追いかけて銃殺した。死に際の恋敵がマドゥンの名を告げたため逮捕されたが、目撃者の証言拒否により放免された[7]。1912年11月6日、52丁目のダンスホールの上階にいた時、知らないうちにダスターズの11人に囲まれ、8発の銃弾を浴びた。銃声を聞いた下階の客が駆け付けるとマドゥンが血まみれ姿で横たわっていた。搬送先の病院はマドゥンの体から銃弾を幾つか摘出したが、すべてを取り出すのをあきらめた。医者は助かる見込みはないと言ったが、生き延びた[8]。警察には何もしゃべらず、病院を抜け出して復讐で相手方6人を殺した[6]

1914年、ダスターズ幹部パッチー・ドイルと恋敵になり、ドイルがマドゥンの違法活動を警察に密告し、また仲間のトニー・ロマネッロを襲ったため、同年11月28日、和解と称してドイルを誘い出して銃殺した。だまし討ちに利用した女仲間が警察に証言したため殺人罪で捕まり20年刑でシンシン刑務所に収監された[1]。刑務所では仲良しになった刑吏のお蔭で葉巻やシルクのシャツが手に入り、ボクシングマッチや野球賭博の幹事になった[9]

禁酒法時代

[ソースを編集]

密輸稼業とコットン・クラブ

[ソースを編集]

1923年特赦で出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ(ローレンス・フェイ)のタクシー会社の用心棒となり、タクシー組合のスト破りやカナダ産ラム酒の密輸のガードマンを引き受けた[2]

1923年12月2日、仲間のジョージ・ディーン・ディマンジ[注釈 2]ら3人でリカーショップに強盗に押し入りウイスキーを強奪したが、使ったキャデラックが特定され捕まった(証拠不在で放免)[注釈 3][11]

1924年、ディマンジと共にフェニックス醸造所を買収し、自らの名前を冠したマドンズ No.1というブランドの酒を生産、スピークイージー(闇酒場)やナイトクラブに持ち込んで儲けた[2][12]。その後ビル・ドワイヤーの密輸オペレーションに加わり、フランク・コステロと知り合った。

ハーレム142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」をジャック・ジョンソン (ボクサー)から買取り、コットン・クラブとして再オープンした[1]。人気音楽家のデューク・エリントンを友人のブー・ブー・ホフに頼みフィラデルフィアからニューヨークに呼び寄せて契約を結ばせた他、多くの人気ジャズメンや歌手を引き抜き、客にヤミ酒を提供して繁盛した。コットン・クラブは1920年代のニューヨークのナイトライフのメッカとなった[2]。ドアマンのチーフはディマンジが務め、店の用心棒にダッチ・シュルツレッグス・ダイアモンド"マッド・ドッグ"・コールなど若手ギャングを雇った[2]。のちシュルツが自前の密輸組織を率いてハーレムに進出するとこれに組し、ワキシー・ゴードンやレッグス・ダイアモンドら同業ライバルとハーレムの覇権を争った[1]

酒場経営で成功すると事業を多角化し、ランドリー業や石炭配送業などを立ち上げた[1]。また、ブロードウェイで劇場の共同オーナーになった[13]。当時ダンサーだったジョージ・ラフトや駆け出し女優のメイ・ウエストの面倒を見た(ウエストとは一説に愛人関係にあった)[9]。闇酒場の経営は、タマニーホールのジミー・ハインズの後ろ盾を得て警察の摘発から免れた[1]。マドゥンと知り合いなら市長と知り合いなのと同じぐらいだと言われるまでになった。同じ頃ラッキー・ルチアーノやその仲間と知り合った。1929年5月、全米ギャングの大集会、アトランティック会議に参加した[14][注釈 4]

1930年代

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1931年、密輸ビジネスをやめ、ボクシング興行に進出した。ビル・ダフィやディマンジらプロモーターと提携し、プロモーターとしてプリモ・カルネラマックス・ベア (ボクサー)などを手掛け八百長試合を仕組んだ[1]。ホットスプリングスに移ってからもボクシング興行に関わり、ロッキー・マルシアノもプロモートしたと言われる。

1931年、イタリア系マフィアを5大ファミリーに再編したラッキー・ルチアーノに、アイルランド系ギャングの代表としてヘルズ・キッチンの縄張りを追認された。

1931年7月、ダッチ・シュルツの元部下でシュルツと抗争していたヴィンセント・コールに仲間のディマンジを誘拐され、身代金に35000ドルを払った[2]。1932年2月、コール抹殺をシュルツと共謀し、公衆電話から脅迫電話をかけてきたコールをマドゥンは引き止め、その間にコールはシュルツの刺客によりマシンガンで殺害された[2][注釈 5]

1932年、保釈の条件を破ったとして再び収監されたが、1933年6月6日に出所した。コール殺害関与を疑う警察に執拗にマークされたため、1935年にニューヨークを去った[1]。ニューヨークを離れる際、フェニックス醸造所、コットンクラブやストーククラブなど大方の資産を売却処分した[9]。コステロやルチアーノとの交友関係はその後も続き、ルチアーノ仲間のマイヤー・ランスキーとマイアミの競馬場の利権をシェアした[9]

ホットスプリングス

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アーカンソー州ホットスプリングスに居を構え、地元の郵便族の娘アグネス・デンビーと再婚した。同地で温泉カジノを備えた『ホテル・アーカンソー』を開き、全国の引退したギャングの世話をした[1]1936年トーマス・デューイに追われたルチアーノを一時匿い、弁護士まで用意した。ホットスプリングス市長レオ・パトリック・マクラフリンに賄賂を贈り、八百長競馬など賭博・売春組織を運営した。慈善事業も行い、上院議員ジョン・マクレランをバックアップした。1942年、アメリカ市民権を得て、1940年代は地元の名士として名が通った[1]。毎週金曜アーリントンホテルの理髪屋で髪を整え、温泉に入るのが日課となった[9]

生涯を通じて豪奢な生活を好み、高価なスーツを身にまとい、複数の女性を引き連れた。若い頃に受けた体中の銃創で生涯苦しんだ。1930年代より当局にマークされており、1960年代前半マクレラン組織犯罪委員会の追及を受けたが、1965年肺気腫で死去した。300万ドルの資産を残した[1]。ホットスプリングスのグリーンウッド墓地に、2001年に100歳で死去した妻アグネスと共に埋葬されている。

エピソード

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  • リーズ時代、飼っていた数匹の鳩を、警官が崖の上から偶然転ばせた石のせいで殺された。以来、極度の警官嫌いになった[9]
  • 度重なる被弾で歪んでしまった腸を整えるため特注のコルセットを付けていた[9]
  • 仲間との連絡にアパートの屋上から伝書鳩を飛ばした[15]。コットンクラブなど所有クラブの上階に鳩小屋を作って孤独の慰みにした[5]。無類の鳩好きで、ホットスプリングスに移った後も、自宅の裏庭に鳩小屋を作った[9]
  • 英国訛りの発音のためアイルランド人というより英国人に近く、ゴファーズではアウトサイダーだった。死ぬまでヨークシャー新聞のスポーツ記事の切り抜きを大事に保管していた[16]
  • 俳優ジョージ・ラフトは1920年代、ナイトクラブでダンサーをやる傍ら、マドゥンの密輸組織で働いていた[17]

題材にした作品等

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  • 作家マイケル・ウォオルシュがマドゥンの半生を描いた伝記小説「And All The Saints」を執筆した(2003年)。
  1. ^ バー、サンドバッグ、カウチ、ピアノ、銃を隠したクローゼット、泥棒器具などがあった。
  2. ^ 元ハドソン・ダスターズで、かつてのライバルだったが、禁酒法時代マドゥンと合流し、その側近になった[10]
  3. ^ 捕まった時の肩書はフェイのタクシー会社マネージャー。
  4. ^ 多くのギャングが参加したと伝えられるが、裏付ける資料がなく、その存在が疑問視されている。
  5. ^ たまたまコールを尾行していた警察が逃げるシュルツ一味の車を追いかけ、派手なカーチェイスを演じた。

外部リンク

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