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「福江藩」の版間の差分

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'''福江藩'''(ふくえはん)は、[[江戸時代]]の[[肥前国]]において、[[五島列島]]全域を治めた[[藩]]。'''五島藩'''(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から[[版籍奉還]]まで[[外様大名]]の[[宇久氏|五島]]が藩主を務めた。石高は1万5000石(一時、[[#富江領|富江領]]に3000石を分知し1万2000石となる)で、藩庁は[[石田城]](当初は江川城、のち[[幕末]]までは石田[[陣屋]]。現在の[[長崎県]][[五島市]])で[[城主大名|城主格]]だった。
'''福江藩'''(ふくえはん)は、[[江戸時代]]の[[肥前国]]において、[[五島列島]]全域を治めた[[藩]]。'''五島藩'''(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から[[版籍奉還]]まで[[外様大名]]の[[宇久氏|五島]]が藩主を務めた。石高は1万5000石(一時、[[#富江領(富江藩)|富江領]]に3000石を分知し1万2000石となる)で、藩庁は[[石田城]](当初は江川城。現在の[[長崎県]][[五島市]])で[[城主大名]]だった。


== 略史 ==
== 略史 ==
藩の成立は江戸時代初頭の[[慶長]]8年([[1603年]])に初代[[藩主]]・[[五島玄雅]]が[[徳川家康]]に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。
[[文治]]3年([[1187年]])、[[平家盛]]([[平忠盛]]次男、[[平清盛]]の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。[[観応]]2年([[1351年]])、[[宇久覚 (南北朝時代)|宇久覚]]が宇久より福江島岐宿に移り、[[天正]]15年([[1587年]])、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。藩の成立は江戸時代初頭の[[慶長]]8年([[1603年]])に初代藩主・[[五島玄雅]]([[五島純玄]]の嗣子)が[[徳川家康]]に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。


第2代藩主・[[五島盛利|盛利]]は、玄雅の養子として慶長17年([[1612年]])にそのを継いだ。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、玄雅の実子・角右衛門の養子であった[[大浜主水]]が、後継者の権利主張と盛利の失政を[[徳川幕府|幕府]]に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「[[大浜主水事件]]」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは[[寛永]]11年([[1634年]])に完了している。寛永12年([[1635年]])には領内の[[検地]]を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、[[慶長]]19年([[1614年]])に焼失した[[江川城]]に代わって、寛永14年([[1637年]])、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。[[承応]]元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた[[男女群島]]に「女島奉行」を新たに設置した<ref>[http://www.yokatoko-goto.jp/nazenani/vol1.html よかとこ、五島。【国指定天然記念物 男女群島】]</ref>。
第2代藩主・[[五島盛利|盛利]]は、玄雅の養子として慶長17年([[1612年]])にそのを継いだ。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、玄雅の実子・[[五島角右衛門]]の養子であった[[大浜主水]]が、後継者の権利主張と盛利の失政を[[江戸幕府|幕府]]に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「[[大浜主水事件]]」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。[[兵農分離]]の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは[[寛永]]11年([[1634年]])に完了している。寛永12年([[1635年]])には領内の[[検地]]を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、[[慶長]]19年([[1614年]])に焼失した[[江川城]]に代わって、寛永14年([[1637年]])、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。[[承応]]元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた[[男女群島]]に「女島奉行」を新たに設置した<ref>[http://www.yokatoko-goto.jp/nazenani/vol1.html よかとこ、五島。【国指定天然記念物 男女群島】]</ref>。


第4代藩主・[[五島盛勝|盛勝]]は幼少で藩主となり、[[寛文]]元年([[1661年]])、その後見役で叔父の[[五島盛清|盛清]]に富江領3000石が分知された。この地は[[捕鯨]]が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の[[南松浦郡]][[新上五島町]])と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により[[元禄]]2年([[1689年]])、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。
第4代藩主・[[五島盛勝|盛勝]]は幼少で藩主となり、[[寛文]]元年([[1661年]])、その後見役で叔父の[[五島盛清|盛清]]に富江領3000石が分知された。この地は[[捕鯨]]が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の[[南松浦郡]][[新上五島町]])と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により[[元禄]]2年([[1689年]])、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。


捕鯨で潤っていた藩財政も江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・[[五島盛佳|盛佳]]は領内の労働人口を把握して確保するため、[[享保]]6年([[1721年]])より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。
捕鯨で潤っていた藩財政も江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・[[五島盛佳|盛佳]]は領内の労働人口を把握して確保するため、[[享保]]6年([[1721年]])より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく[[人付帳]]に記載した。


第7代藩主・[[五島盛道|盛道]]は[[宝暦]]11年([[1761年]])、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった。しかしこれは相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、どの領民は奉公に出された。「人付け改め」とにこの制度は幕末まで続いた。
第7代藩主・[[五島盛道|盛道]]は[[宝暦]]11年([[1761年]])、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、ほとんどの領民は奉公に出された。「人付け改め」とともにこの制度は幕末まで続いた。


最後の第11代藩主・[[五島盛徳|盛徳]][[文久]]3年([[1863年]])、第10代藩主・[[五島盛|盛]]の[[嘉永]]2年([[1849年]])り着工石田城が財政難の中で完成した。
[[嘉永]]2年([[1849年]])、幕府より築城許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、10代藩主・[[五島盛]]が着工した。[[文久]]3年([[1863年]])、第11五島藩主・[[五島盛|盛]]って、日本で最も新い城として[[石田城]]竣工した。


[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は[[華族]]に列し、明治17年(1884年)に[[子爵]]となった。盛徳の跡を継いだ[[五島盛主|盛主]]には男子がなかったが、旧[[新発田藩]]主家の[[溝口直溥]]の十六男[[五島盛光|盛光]]を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった[[五島盛輝|盛輝]]は[[昭和]]20年([[1945年]])[[8月9日]]に[[長崎市]]で[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]に被爆したことが原因で[[9月2日]]に卒去した。盛輝と夫人の間には子供がいなかったため、当主が長い間不在であったが[[1986年]]に夫人の甥(夫人の妹の子)である[[五島典昭|典昭]]が養子に入り、当主を引き継いでいる<ref>{{Cite news|title=[解藩知県]令和の殿<4>旧福江藩五島家 五島典昭さん 66|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/feature/CO051552/20210814-OYTAT50008/|newspaper=読売新聞|date=2021-08-14|accessdate=2021-09-15}}</ref>。
[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治17年([[1884年]])、旧藩主・五島家は[[子爵]]となり[[華族]]に列した。
盛徳の後を継いだ[[五島盛主|盛主]]には男子が無かったが、旧新発田藩主家の[[溝口直溥]]の十六男[[五島盛光|盛光]]を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった[[五島盛輝|盛輝]]は[[昭和]]20年([[1945年]])[[8月9日]]に[[長崎市]]で[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]に被爆したことが原因で[[9月2日]]に死去するという不幸に見舞われた。この際に男子の後継者が不在となったため9月2日付けで子爵の位を返上している。


== 歴代藩主 ==
== 歴代藩主 ==
;五島(ごとう)
'''五島家'''
外様 1万5000石→1万2000石→1万5000石
外様 1万5000石→1万2000石→1万5000
#[[五島玄雅|玄雅]](はるまさ)〔従五位下・淡路守〕
#[[五島玄雅|玄雅]]
#[[五島盛利|盛利]](もりとし)〔従五位下・淡路守〕
#[[五島盛利|盛利]]
#[[五島盛次|盛次]](もりつぐ)〔病弱のため官位官職無し〕
#[[五島盛次|盛次]]
#[[五島盛勝|盛勝]](もりかつ)〔従五位下・淡路守〕分知により1万2千石
#[[五島盛勝|盛勝]] 分知により1万2千石
#[[五島盛暢|盛暢]](もりのぶ)〔従五位下・佐渡守〕
#[[五島盛暢|盛暢]]
#[[五島盛佳|盛佳]](もりよし)〔従五位下・大和守〕
#[[五島盛佳|盛佳]]
#[[五島盛道|盛道]](もりみち)〔従五位下・淡路守〕
#[[五島盛道|盛道]]
#[[五島盛運|盛運]](もりゆき)〔従五位下・大和守〕
#[[五島盛運|盛運]]
#[[五島盛繁|盛繁]](もりしげ)〔従五位下・大和守〕
#[[五島盛繁|盛繁]]
#[[五島盛成|盛成]](もりあきら)〔従五位下・大和守〕
#[[五島盛成|盛成]]
#[[五島盛徳|盛徳]](もりのり)〔従五位下・飛騨守〕合併により1万5千石
#[[五島盛徳|盛徳]] 合併により1万5千石


== 富江領(富江藩) ==
== 富江領(富江藩) ==
五島氏第23代当主(福江藩の第3代藩主)・[[五島盛次]]の弟・[[五島盛清|盛清]]が盛次の死後、寛文元年(1661年)、宗家より分知された福江藩の分家の[[富江陣屋]]が築かれた。石高は3000石で、[[交代寄合]]([[大名]])として扱われた。第6代当主・[[五島運龍|運龍]]は、将軍・[[徳川吉宗]]の[[側衆]]、京都二条城[[大番頭]]、[[大坂城番]]を歴任した。第7代当主・[[五島盛貫|盛貫]]の時代には、実高1万600余石となった。[[慶応]]4年([[1868年]])、第8代当主・[[五島盛明|盛明]]の代に再び福江藩に吸収されたが、この際、富江領民が[[一揆]]を起こし激しく抵抗した。
五島氏第23代当主(福江藩の第3代藩主)・[[五島盛次]]の弟・[[五島盛清]](富江五島家初代当主)が、寛文元年(1661年)、宗家・福江藩より分知して富江藩が成立し、政庁として[[富江陣屋]]が築かれた。石高は3000石で、[[高家 (江戸時代)|高家]]・[[交代寄合]]([[大名]])として扱われた。


第6代当主・[[五島運龍]](瑞鳳公)は、将軍・[[徳川家斉]]の[[側衆]]、[[大番頭役]]、京都二条城在番、[[大坂城番]]、諸国巡見使を歴任した。第7代当主・[[五島盛貫]](将軍・[[徳川家茂]]の[[側衆]])の時代には、実高1万600余石となった。
=== 歴代主 ===

;五島(ごとう)家
[[慶応]]4年([[1868年]])、福江本藩藩主の五島盛徳が政府に申し出たことにより、第8代当主[[五島盛明]]の代に領地を没収し福江藩に併合され、代わりに蔵米三千石を渡すことになったが、これは福江藩が海防などによる出費が増えるため、収入増を目指したものであった。富江領民は反発し、[[武装蜂起]]して激しく抵抗した(富江騒動)。明治2年に新政府により沙汰が出され、旧領内の1千石のみが認められた。ただしこの1千石の認可は実体の無いものであり、同年中に同じく新政府により代替地として[[寿都町|北海道寿都町]]の地を与えられたが、これも移住などの行動は行っていない。
[[表高家]] 3000石

#[[五島盛清|盛清]](もりきよ) 異国船在役
=== 歴代富江領主 ===
#[[五島盛朗|盛朗]](もりあき) 異国船在役
'''五島家'''
#[[五島盛尚|盛尚]](もりひさ) 異国船在役
[[表高家]][[交代寄合]] 3000石
#[[五島盛峯|盛峯]](もりみね) 異国船在役
#[[五島盛|盛]](もりやす) 異国船在役
#[[五島盛|盛]]
#[[五島盛朗|盛朗]] - 室は[[筒井正勝]]娘。元禄元年(1688年)に[[藩校]]成章館を開設した。
#[[五島運龍|運龍]](ゆきたつ)〔従五位下・筑前守〕
#[[五島盛|盛]](もりつら)〔従五位下・讃岐守〕
#[[五島盛|盛]]
#[[五島盛|盛]](もりる)〔従五位下〕
#[[五島盛|盛]] - 室[[小笠原貞通]]娘
#[[五島盛恭|盛恭]] - [[五島盛道]]の四男。室は[[奥田高甫]]娘。
#[[五島基民|基民]](もとたみ)
#[[五島運龍|運龍]] - 室は[[京極高文]]娘。後室に[[林忠英]]娘
#[[五島聰千代|聰千代]](きくちよ) 初代富江町長
#[[五島盛貫|盛貫]] - 婿養子<ref group="※">実父は松平維賢?</ref>。[[徳川家茂]]侍役。福江本藩の[[福江城]]の築城許可を取りつける。異国船方在役。
#[[五島盛明|盛明]] - 実父は[[溝口養正]]
#[[五島基民|基民]] - 実父は[[五条為定]]
#[[五島聰千代|聰千代]] - 初代富江町長


== 幕末の領地 ==
== 幕末の領地 ==
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この他、[[明治維新]]後に富江領の第8代当主・五島盛明が[[後志国]][[磯谷郡]]の南部を領地としている。
この他、[[明治維新]]後に富江領の第8代当主・五島盛明が[[後志国]][[磯谷郡]]の南部を領地としている。


== 関連項目 ==
== 注釈 ==
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* [[藩の一覧]]

== 出典 ==
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[尾崎朝二]]『拓かれた五島史』 [[長崎新聞]]社 [[2012年]]
* [[富江町]]郷土誌編纂委員会編『富江町郷土誌』 [[富江町]]教育委員会 [[2004年]]
* [[児玉幸多]]・[[北島正元]]監修『藩史総覧』 [[新人物往来社]] 1977年
* [[児玉幸多]]・[[北島正元]]監修『藩史総覧』 [[新人物往来社]] 1977年
* 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
* 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
* 中嶋繁雄『大名の日本地図』 [[文春新書]] [[2003年]]
* [[中嶋繁雄]]『大名の日本地図』 [[文春新書]] [[2003年]] ISBN 978-4166603527
* [[八幡和郎]]『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[光文社新書]] [[2004年]]
* [[八幡和郎]]『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[光文社新書]] [[2004年]] ISBN 978-4334032715
* 中山良昭『江戸300藩 殿様のその後』 [[朝日新書]] [[2007年]]
* [[中山良昭]]『江戸300藩 殿様のその後』 [[朝日新書]] [[2007年]] ISBN 978-4022731609

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/242/ (五島)(五島近江守盛運)] - 武鑑全集(人文学オープンデータ共同利用センター)
*[http://fukuesiro.hp.infoseek.co.jp/ 福江島の城館跡]


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2022年12月25日 (日) 05:52時点における最新版

福江藩(ふくえはん)は、江戸時代肥前国において、五島列島全域を治めた五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名五島家が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し、1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。

略史[編集]

文治3年(1187年)、平家盛平忠盛次男、平清盛の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。観応2年(1351年)、宇久覚が宇久より福江島岐宿に移り、天正15年(1587年)、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に、初代藩主・五島玄雅五島純玄の嗣子)が徳川家康に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。

第2代藩主・盛利は、玄雅の養子として慶長17年(1612年)にその跡を継いだ。元和5年(1619年)、玄雅の実子・五島角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め、主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「大浜主水事件」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは寛永11年(1634年)に完了している。寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。承応元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた男女群島に「女島奉行」を新たに設置した[1]

第4代藩主・盛勝は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)、その後見役で叔父の盛清に富江領3000石が分知された。この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で、流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により元禄2年(1689年)、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。

捕鯨で潤っていた藩財政も、江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・盛佳は領内の労働人口を把握して確保するため、享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。

第7代藩主・盛道宝暦11年(1761年)、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあったが、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、ほとんどの領民は奉公に出された。「人付け改め」とともにこの制度は幕末まで続いた。

嘉永2年(1849年)、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・五島盛成が着工した。文久3年(1863年)、第11代五島藩主・盛徳によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工した。

明治4年(1871年)、廃藩置県により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。盛徳の跡を継いだ盛主には男子がなかったが、旧新発田藩主家の溝口直溥の十六男盛光を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった盛輝昭和20年(1945年8月9日長崎市原子爆弾に被爆したことが原因で9月2日に卒去した。盛輝と夫人の間には子供がいなかったため、当主が長い間不在であったが1986年に夫人の甥(夫人の妹の子)である典昭が養子に入り、当主を引き継いでいる[2]

歴代藩主[編集]

五島家 外様 1万5000余石→1万2000余石→1万5000余石

  1. 玄雅
  2. 盛利
  3. 盛次
  4. 盛勝 分知により1万2千石
  5. 盛暢
  6. 盛佳
  7. 盛道
  8. 盛運
  9. 盛繁
  10. 盛成
  11. 盛徳 合併により1万5余千石

富江領(富江藩)[編集]

五島氏第23代当主(福江藩の第3代藩主)・五島盛次の弟・五島盛清(富江五島家初代当主)が、寛文元年(1661年)、宗家・福江藩より分知して富江藩が成立し、政庁として富江陣屋が築かれた。石高は3000石で、高家交代寄合大名格)として扱われた。

第6代当主・五島運龍(瑞鳳公)は、将軍・徳川家斉側衆大番頭役、京都二条城在番、大坂城番、諸国巡見使を歴任した。第7代当主・五島盛貫(将軍・徳川家茂側衆)の時代には、実高1万600余石となった。

慶応4年(1868年)、福江本藩藩主の五島盛徳が政府に申し出たことにより、第8代当主五島盛明の代に領地を没収し福江藩に併合され、代わりに蔵米三千石を渡すことになったが、これは福江藩が海防などによる出費が増えるため、収入増を目指したものであった。富江領民は反発し、武装蜂起して激しく抵抗した(富江騒動)。明治2年に新政府により沙汰が出され、旧領内の1千石のみが認められた。ただしこの1千石の認可は実体の無いものであり、同年中に同じく新政府により代替地として北海道寿都町の地を与えられたが、これも移住などの行動は行っていない。

歴代富江領主[編集]

五島家 表高家交代寄合 3000石

  1. 盛清
  2. 盛朗 - 室は筒井正勝娘。元禄元年(1688年)に藩校成章館を開設した。
  3. 盛尚
  4. 盛峯 - 室は小笠原貞通
  5. 盛恭 - 五島盛道の四男。室は奥田高甫娘。
  6. 運龍 - 室は京極高文娘。後室に林忠英
  7. 盛貫 - 婿養子[※ 1]徳川家茂侍役。福江本藩の福江城の築城許可を取りつける。異国船方在役。
  8. 盛明 - 実父は溝口養正
  9. 基民 - 実父は五条為定
  10. 聰千代 - 初代富江町長。

幕末の領地[編集]

この他、明治維新後に富江領の第8代当主・五島盛明が後志国磯谷郡の南部を領地としている。

注釈[編集]

  1. ^ 実父は松平維賢?

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代
肥前国
行政区の変遷
1603年 - 1871年 (福江藩→福江県)
次代
長崎県