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「エルンスト・ネイズヴェスヌイ」の版間の差分

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'''エルンスト・ネイズヴェスヌイ'''({{lang-ru|Эрнст Иосифович Неизвестный}}、[[1925年]][[4月9日]] - [[2016年]][[8月9日]])は、[[ソビエト連邦|ソ連]]生まれの[[ユダヤ人]]彫刻家。ソビエト芸術界に批判的であったため、[[スイス]]に亡命した。1976年からは[[ニューヨーク]]で活動した。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
祖父は商人、父は白軍兵士の家系に生まれる。[[第二次世界大戦]]中の17歳のときに[[赤軍]]に参加。ネイズヴェスヌイは前線に向かう途中で、自分の彼女を強姦した赤軍兵士を殺害した罪で銃殺刑を宣告された。2ヶ月間銃殺を待ち、その後懲罰大隊への配属に替えられた。終戦直前に戦闘で瀕死の重傷を負い、母親の元に死亡宣告が届いたほどであったが、なんとか戦争を生き延びることに成功する。
祖父は商人、父は[[白軍]]兵士の家系に生まれる。[[第二次世界大戦]]中の17歳のときに[[赤軍]]に参加。ネイズヴェスヌイは前線に向かう途中で、自分の彼女を強姦した赤軍兵士を殺害した罪で銃殺刑を宣告された。2ヶ月間銃殺を待ち、その後懲罰大隊への配属に替えられた。終戦直前に戦闘で瀕死の重傷を負い、母親の元に死亡宣告が届いたほどであったが、なんとか戦争を生き延びることに成功する。


戦後の[[1947年]]に[[リガ]]の芸術アカデミーに入学する。その後、[[モスクワ]]のスリコフ美術学院、続いて[[モスクワ大学]]に学ぶ。ネイズヴェスヌイの彫刻は、多くが人体をモデルとし、力強さをあらわすことを得意とした。[[ブロンズ]]を素材とすることを好んだが、ソ連国内の物質事情など資材の制約もあり、[[コンクリート]]を材料とした作品を多く生み出した。1955年モスクワ芸術連盟(MOSH)彫刻部門のメンバーになる。
戦後の[[1947年]]に[[リガ]]の芸術アカデミーに入学する。その後、[[モスクワ]]の[[スリコフ美術学院]]、続いて[[モスクワ大学]]に学ぶ。ネイズヴェスヌイの彫刻は、多くが人体をモデルとし、力強さをあらわすことを得意とした。[[ブロンズ]]を素材とすることを好んだが、ソ連国内の物質事情など資材の制約もあり、[[コンクリート]]を材料とした作品を多く生み出した。1955年[[モスクワ芸術連盟]](MOSH)彫刻部門のメンバーになる。


1962年、[[マネージ広場]]での展覧会で、その作風を[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ第一書記]]にこっぴどく罵られる。その結果、ネイズヴェスヌイはその後しばらく不遇な時代を送ることになるが、1971年にフルシチョフが亡くなると、フルシチョフの息子[[セルゲイ・フルシチョフ]]は、[[ノヴォデヴィチ修道院]]のフルシチョフの墓に立てる記念碑の制作をネイズヴェスヌイに依頼する。失脚して不遇の晩年を送ったフルシチョフと、フルシチョフが罵倒した彫刻家の組み合わせは、当局から政治的動機を勘ぐられ、記念碑の制作には様々な障害が生じて頓挫した。最終的に、フルシチョフ未亡人が[[アレクセイ・コスイギン|コスイギン首相]]に電話で直訴して政府の許可を得たことで、建立が認められた。しかし、この時ネイズヴェスヌイはソ連芸術界での立場を決定的に悪くしており、記念碑が立てられた後の1976年にスイスに亡命した。
1962年、[[マネージ広場]]での展覧会で、その作風を[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]第一書記にこっぴどく罵られる。その結果、ネイズヴェスヌイはその後しばらく不遇な時代を送ることになるが、1971年にフルシチョフが亡くなると、フルシチョフの息子[[セルゲイ・フルシチョフ]]は、[[ノヴォデヴィチ修道院]]のフルシチョフの墓に立てる記念碑の制作をネイズヴェスヌイに依頼する。失脚して不遇の晩年を送ったフルシチョフと、フルシチョフが罵倒した彫刻家の組み合わせは、当局から政治的動機を勘ぐられ、記念碑の制作には様々な障害が生じて頓挫した。最終的に、フルシチョフ未亡人が[[アレクセイ・コスイギン|コスイギン]]首相に電話で直訴して政府の許可を得たことで、建立が認められた。しかし、この時ネイズヴェスヌイはソ連芸術界での立場を決定的に悪くしており、記念碑が立てられた後の1976年にスイスに亡命した。


その後、アメリカに移り住み、[[ニューヨーク]]を中心に世界中で活動してきた。1996年6月12日には、[[ロシア]]の[[マガダン州]][[マガダン]]に[[強制収容所]]で亡くなった人たちをいたむ慰霊碑「[[悲しみのマスク]]」を公開し、これは高さが15メートル、容積が56立方メートルの巨大な彫刻である<ref>[https://jp.rbth.com/travel/2014/05/16/48311 マガダンの重い過去(Russian Beyond)]</ref>
その後、アメリカに移り住み、[[ニューヨーク]]を中心に世界中で活動してきた。1996年6月12日には、[[ロシア]]の[[マガダン州]][[マガダン]]に[[強制収容所]]で亡くなった人たちをいたむ慰霊碑「[[悲しみのマスク]]」を公開し、これは高さが15メートル、容積が56立方メートルの巨大な彫刻である<ref>[https://jp.rbth.com/travel/2014/05/16/48311 マガダンの重い過去(Russian Beyond)]</ref>


現在のロシア政府とは、2000年に[[ウラジール・プーチン|プーチン大統領]]から直接表彰を受けるなど、良好な関係を維持した。
[[ソ連崩壊]]後[[ロシア政府]]とは、2000年に[[ウラジール・プーチン|プーチン]]大統領から直接表彰を受けるなど、良好な関係を維持した。


==脚注==
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2000年10月

エルンスト・ネイズヴェスヌイロシア語: Эрнст Иосифович Неизвестный1925年4月9日 - 2016年8月9日)は、ソ連生まれのユダヤ人彫刻家。ソビエト芸術界に批判的であったため、スイスに亡命した。1976年からはニューヨークで活動した。

経歴[編集]

祖父は商人、父は白軍兵士の家系に生まれる。第二次世界大戦中の17歳のときに赤軍に参加。ネイズヴェスヌイは前線に向かう途中で、自分の彼女を強姦した赤軍兵士を殺害した罪で銃殺刑を宣告された。2ヶ月間銃殺を待ち、その後懲罰大隊への配属に替えられた。終戦直前に戦闘で瀕死の重傷を負い、母親の元に死亡宣告が届いたほどであったが、なんとか戦争を生き延びることに成功する。

戦後の1947年リガの芸術アカデミーに入学する。その後、モスクワスリコフ美術学院、続いてモスクワ大学に学ぶ。ネイズヴェスヌイの彫刻は、多くが人体をモデルとし、力強さをあらわすことを得意とした。ブロンズを素材とすることを好んだが、ソ連国内の物質事情など資材の制約もあり、コンクリートを材料とした作品を多く生み出した。1955年モスクワ芸術連盟(MOSH)彫刻部門のメンバーになる。

1962年、マネージ広場での展覧会で、その作風をフルシチョフ第一書記にこっぴどく罵られる。その結果、ネイズヴェスヌイはその後しばらく不遇な時代を送ることになるが、1971年にフルシチョフが亡くなると、フルシチョフの息子セルゲイ・フルシチョフは、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの墓に立てる記念碑の制作をネイズヴェスヌイに依頼する。失脚して不遇の晩年を送ったフルシチョフと、フルシチョフが罵倒した彫刻家の組み合わせは、当局から政治的動機を勘ぐられ、記念碑の制作には様々な障害が生じて頓挫した。最終的に、フルシチョフ未亡人がコスイギン首相に電話で直訴して政府の許可を得たことで、建立が認められた。しかし、この時ネイズヴェスヌイはソ連芸術界での立場を決定的に悪くしており、記念碑が立てられた後の1976年にスイスに亡命した。

その後、アメリカに移り住み、ニューヨークを中心に世界中で活動してきた。1996年6月12日には、ロシアマガダン州マガダン強制収容所で亡くなった人たちをいたむ慰霊碑「悲しみのマスク」を公開し、これは高さが15メートル、容積が56立方メートルの巨大な彫刻である[1]

ソ連崩壊後のロシア政府とは、2000年にプーチン大統領から直接表彰を受けるなど、良好な関係を維持した。

脚注[編集]

外部リンク[編集]