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'''池田 七三郎'''(いけだ しちさぶろう、[[嘉永]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]([[1849年]][[12月27日]]) - [[昭和]]13年([[1938年]])[[1月16日]])は、[[新選組]]隊士。本名'''稗田利八'''。
'''池田 七三郎'''(いけだ しちさぶろう、[[嘉永]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]([[1849年]][[12月27日]]) - [[昭和]]13年([[1938年]])[[1月16日]])は、[[新選組]]隊士。本名'''稗田 利八'''(ひえだ りはち)


== 生涯 ==
[[上総国]][[山辺郡 (上総国)|山辺郡]]田間村(現・[[千葉県]][[東金市]])の商人の三男として生まれる。[[元治]]元年([[1865年]])に[[江戸]]に出て、[[天野精一郎]]の道場で剣術を学び、[[旗本]]の家臣となる。
[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]田間村(現・[[千葉県]][[東金市]])の商人の三男として生まれる。[[元治]]元年([[1865年]])に武士になりたいとの願いから[[江戸]]に出て、[[天野精一郎]]の道場で剣術を学び、[[旗本]]の家臣となる。


[[慶応]]2年([[1867年]])に新選組に入隊し、[[1868年]]の[[鳥羽・伏見の戦い]]や[[甲陽鎮撫隊]]に参加。その後[[会津]]へ出陣し、8月の[[母成峠の戦い]]で敗れると[[斎藤一]]らと会津に残留。10月に[[高崎藩]]兵士に降伏。東京護送後、1年の謹慎を経て放免とな
[[慶応]]2年([[1867年]])に新選組に入隊し、[[明治]]元年([[1868年]]の[[鳥羽・伏見の戦い]]や[[甲陽鎮撫隊]]に参加。 [[甲州勝沼の戦い]]では重傷を負うが農民に助けられ一命を取り留める。その後[[会津戦争]]へ出陣し、8月の[[母成峠の戦い]]で敗れると[[斎藤一]]らと会津に残留。10月に[[高崎藩]]兵士に降伏。東京護送後、1年の謹慎を経て放免となり、 日本橋材木町にあった出店に戻り、それからは商人として生きた


昭和4年([[1929年]])、[[子母沢寛]]の取材を受け、回顧録「新選組聞書([[新選組始末記|稗田利八翁思出話]])を口述した。
昭和4年([[1929年]])、[[子母沢寛]]の取材を受け、回顧録「新選組聞書([[新選組始末記|稗田利八翁思出話]])を口述した。


昭和13年(1938年)1月16日、90歳で死去。の死をもって、新選組隊士は全員がた。墓は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]の真浄寺。
昭和13年(1938年)1月16日、死去。享年90(満88歳没)。七三郎の死により、新選組隊士は全員がこの世をた。墓は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]の真浄寺。

== 関連項目 ==
* [[日本最後の一覧]] - [[日本最後の一覧#政治や軍事|政治や軍事]]欄の「新選組」に池田の名前がある。


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2023年2月9日 (木) 22:19時点における最新版

池田 七三郎(いけだ しちさぶろう、嘉永2年11月13日1849年12月27日) - 昭和13年(1938年1月16日)は、新選組隊士。本名稗田 利八(ひえだ りはち)。

生涯

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上総国山辺郡田間村(現・千葉県東金市)の商人の三男として生まれる。元治元年(1865年)に武士になりたいとの願いから江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学び、旗本の家臣となる。

慶応2年(1867年)に新選組に入隊し、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い甲陽鎮撫隊に参加。 甲州勝沼の戦いでは重傷を負うが農民に助けられ一命を取り留める。その後会津戦争へ出陣し、8月の母成峠の戦いで敗れると斎藤一らと会津に残留。10月に高崎藩兵士に降伏。東京護送後、1年の謹慎を経て放免となり、 日本橋材木町にあった出店に戻り、それからは商人として生きた。

昭和4年(1929年)、子母沢寛の取材を受け、回顧録「新選組聞書(稗田利八翁思出話)」を口述した。

昭和13年(1938年)1月16日、死去。享年90(満88歳没)。七三郎の死により、新選組隊士は全員がこの世を去った。墓は東京都港区麻布台の真浄寺。

関連項目

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