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'''加勢した勢力''':<br>
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'''ルワンダ紛争'''(ルワンダふんそう)は、[[アフリカ]]中央部にある[[ルワンダ]]において、[[1990年]]から[[1993年]]にかけ[[フツ]]系の[[国民防衛軍 (ルワンダ)|政府軍]]び[[インテラハムウェ]]と、[[ツチ]]系の[[ルワンダ愛国戦線]] (英語:Rwandan Patriotic Front,RPF、仏語:Front Patriotique Ewandais,FPR)との間で行われた武力衝突・'''ルワンダ内戦'''と、和平協定後も続いたツチとフツ等の対立、虐殺を指す場合もある。
'''ルワンダ紛争'''(ルワンダふんそう)は、[[アフリカ]]中央部にある[[ルワンダ]]において、[[1990年]]から[[1993年]]にかけ[[フツ]]系の[[国民防衛軍 (ルワンダ)|政府軍]]および[[インテラハムウェ]]と、[[ツチ]]系の[[ルワンダ愛国戦線]] (英語:Rwandan Patriotic Front,RPF、仏語:Front Patriotique Rwandais,FPR)との間で行われた[[紛争]]。武力衝突・'''ルワンダ内戦'''と、和平協定後も続いたツチとフツ等の対立、虐殺を指す場合もある。{{要校閲|date=2020年2月}}


== 概要 ==
== 前史 ==
=== 「ツチ対フツ」の形成以前 ===
{{Main|ルワンダ虐殺}}
フツとツチは元々は同じ[[言語]]を使い、[[農耕民族]]であるか[[遊牧民族]]であるかという違いでしかなく、[[貧富の差]]がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった<ref>[http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/50161708.html 連載ルワンダ史第1回〈フツとツチとは何か? 前編〉]</ref>。
ルワンダは[[第一次世界大戦]]までは[[ドイツ]]、第一次世界大戦以降は[[ベルギー]]の[[植民地]]であった。植民地下では、少数派である[[ツチ]]を君主及び首長等の支配層とする間接支配体制が築かれ、多数派の[[フツ]]とごく少数の[[トゥワ]]は差別的な扱いを受けていた。こうしたなかで、[[1962年]]の独立の前にツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特に[[ウガンダ]]に脱出した。


ルワンダは[[第一次世界大戦]]までは[[ドイツ]]の[[植民地]]・[[ドイツ領東アフリカ]]であった。
[[1973年]]に、フツの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]が[[クーデター]]を起こした。彼は当初、ツチに対する和解策をとったが、やがて反ツチの傾向を強めた。かくして、ウガンダに逃れたツチ系難民が[[ルワンダ愛国戦線]] (英:RPF、仏:FPR) を組織して、[[ウガンダ]]を拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。RPFは、1990年[[10月]]には、ルワンダ北部に侵攻し、[[内戦]]が勃発した。


=== ハム仮説の流布 ===
1993年8月に、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、[[アルーシャ]]協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年[[4月6日]]に、フツの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領と[[ブルンジ]]の[[シプリアン・ンタリャミラ]]大統領とを乗せた飛行機が、何者か(「フツの[[過激派]]による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺([[ジェノサイド]])が始まった。
{{main|{{仮リンク|ハム仮説|en|Hamitic#Hamitic hypothesis}}}}


第一次世界大戦以降は[[ベルギー]]の[[植民地]]・[[ルアンダ=ウルンディ]]であった。ベルギー植民地下では、少数派である[[ツチ]]を君主および首長等の支配層とする間接支配体制が築かれた。[[ベルギー]]人をはじめとする[[白人]]による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られ、多数派の[[フツ]]とごく少数の[[トゥワ]]は差別的な扱いを受けていた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「[[野蛮]]」であるという神話・[[人種]]概念を流布し([[ジョン・ハニング・スピーク]]の{{仮リンク|ハム仮説|en|Hamitic#Hamitic hypothesis}})、ツチとフツは大きく対立し始めた<ref>[http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/50174612.html 連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉]</ref>。植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ<ref name="饗場">饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月</ref>、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた<ref>ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』12頁</ref>。
1994年[[7月]]に、ルワンダ愛国戦線がツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、フツの[[パステール・ビジムング]]を大統領、ツチの[[ポール・カガメ]]を副大統領(のち大統領)とする新政権が発足し、紛争は終結した。


=== フツ・パワーの形成 ===
[[フランス]]政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた(フランス軍の展開、武器援助等)など、[[冷戦]]時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑が、事態を悪化させたという面もある(その一方で、アメリカは早くからルワンダ愛国戦線に接近しており、内戦が本格化する以前から、カガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にフランスがカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由に同国と国交断絶したが、2010年に[[ニコラ・サルコジ]]大統領がルワンダを訪問し、(ハビャリマナ政権に対して)外交的・軍事的な後押しをしたことについて「大きな判断の誤りがあった」と、虐殺に関する責任の一端があることを認めている<ref>『[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010022702000077.html 大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問]』 - [[東京新聞]]2010年2月27日</ref>。
{{main|フツ・パワー}}


[[1959年]]に始まった{{仮リンク|ルワンダ革命|en|Rwandan Revolution}}([[1959年]] - [[1961年]])でツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した([[フツ・パワー]])。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局と[[カトリック教会]]は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の[[神父]]・[[修道者]]に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特に[[ウガンダ]]に脱出した。[[1962年]]に独立。
== 「ツチ対フツ」の形成 ==
フツとツチは元々は同じ[[言語]]を使い、[[農耕民族]]であるか[[遊牧民族]]であるかという違いでしかなく、[[貧富の差]]がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった<ref>[http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/50161708.html 連載ルワンダ史第1回〈フツとツチとは何か? 前編〉]</ref>。しかし、[[ベルギー]]人をはじめとする[[白人]]による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「[[野蛮]]」であるという神話・[[人種]]概念を流布([[ハム仮説]])し、ツチとフツは大きく対立し始めた<ref>[http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/50174612.html 連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉]</ref>。1948年に188万7千人だった人口が1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり<ref name="饗場">饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月</ref>、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。


=== ルワンダ愛国戦線(FPR)の形成 ===
植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ<ref name="饗場" />、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた<ref>ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』12頁</ref>。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局と[[カトリック教会]]は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の[[神父]]・[[修道者]]に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。
{{main|ルワンダ愛国戦線}}


[[1973年]]に[[クーデター]]({{仮リンク|ルワンダ・クーデター (1973年)|en|1973 Rwandan coup d'état|label=ルワンダ・クーデター}})により政権に就いた、フツの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]は、ツチに対する種族融和政策を採った。そこでは、ツチは少数派として周縁化されていたが、政治活動に関与しない限りは弾圧されず、むしろ経済活動は推奨され、政府と良好な関係を持つツチの有力ビジネスマンも出現した。フツ・ツチ間の通婚も進み、両者は共存していた<ref name="饗場" /><ref name="crisis_45_note_8">G.Prunier, ''Rwanda Crisis(second edition)'', C.Hurst and Co.Ltd., 2002, ISBN 1-85065-372-0,note 8, p.76.</ref>。
== 映画化 ==
2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだった[[ポール・ルセサバギナ]]の体験を下に、映画『[[ホテル・ルワンダ]]』が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。また、『[[ルワンダの涙]]』という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化された。2006年には、[[カナダ]]の[[ロバート・ファヴロー]]監督が『[[愛の叫び ~運命の100日~]]』という映画を撮影した。


しかし、ウガンダでは、1959年のルワンダ革命やその後の騒乱、クーデターなどで国外脱出をしたルワンダ人ツチ系難民の子弟が、長期にわたり、難民キャンプでの生活を余儀なくされていた。彼らは、ウガンダでもバニャルワンダと呼ばれ差別されていた。
== 人口統計 ==
かくして、彼らツチ系難民の多くの者が、{{仮リンク|ウガンダ・ブッシュ戦争|en|Ugandan Bush War|label=ウガンダ内戦}}([[1981年]] - [[1986年]])において反政府軍側について戦い、その勝利に貢献した。ツチ系難民の指導者、{{仮リンク|フレッド・ルウィゲマ|en|Fred Rwigyema}}、[[ポール・カガメ]]らは、ウガンダにおいて重要な地位を占めるようになった。

ウガンダ内戦が終結すると、彼らは[[ルワンダ愛国戦線]] (英:RPF、仏:FPR) を組織して、[[ウガンダ]]を拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。

== 戦闘の推移 ==
{{節スタブ}}

[[1990年]][[10月1日]]、RPFがルワンダ北部に侵攻し、[[内戦]]が勃発した。

[[1993年]][[8月4日]]、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、[[アルーシャ]]で[[アルーシャ協定]]が結ばれ、和平合意に至った。[[10月5日]]、[[国際連合ルワンダ支援団]]が設立される。

== 影響 ==
=== ブルンジ内戦 ===
[[1993年]][[10月21日]]、隣国[[ブルンジ]]の[[フツ]]系の[[メルシオル・ンダダイエ|ンダダイエ]]大統領が暗殺されると、[[フツ]]による{{仮リンク|ブルンジ虐殺|en|Burundian Genocide}}が発生し、{{仮リンク|ブルンジ内戦|en|Burundian Civil War}}([[1993年]] - [[2008年]])と呼ばれる報復合戦に突入した。

=== ルワンダ虐殺 ===
{{main|ルワンダ虐殺}}

[[1994年]][[4月6日]]に、フツの[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領と[[ブルンジ]]の[[シプリアン・ンタリャミラ]]大統領とを乗せた飛行機が、何者か(「フツの[[過激派]]による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツ([[インテラハムウェ]]、[[インプザムガンビ]])によるツチの大量虐殺([[ジェノサイド]])が始まった([[ルワンダ虐殺]]、[[:en:List of massacres in Rwanda]])。[[4月7日]]、[[アガート・ウィリンジイマナ]]首相と国連ルワンダ支援団の[[ベルギー人]]とガーナ人の兵士が大統領警護隊により暗殺される。[[4月9日]]、{{仮リンク|ギコンド虐殺|en|Gikondo massacre}}。[[4月15日]]、[[ニャルブイェ大虐殺]]。

=== 大湖地域の難民危機 ===
{{main|{{仮リンク|大湖地域の難民危機|en|Great Lakes refugee crisis}}|バニャムレンゲ}}

[[7月]]に、ルワンダ愛国戦線がツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、大量のフツ系難民が発生した({{仮リンク|大湖地域の難民危機|en|Great Lakes refugee crisis}})。[[7月19日]]、フツの[[パストゥール・ビジムング]]を大統領、ツチの[[ポール・カガメ]]を副大統領(のち大統領)とする新政権が発足。1994年末、国連ルワンダ支援団の[[ロメオ・ダレール]]司令官が辞任。[[1995年]][[4月22日]]、{{仮リンク|キベホ虐殺|en|Kibeho Massacre}}。

同時期に、[[国連]]の[[ブトロス・ブトロス=ガーリ|ガーリ]][[国際連合事務総長|事務総長]]は、[[ソマリア内戦]]への介入失敗([[モガディシュの戦闘]]、[[1993年]][[10月3日]] - [[10月4日]])によりアメリカと対立し、さらに1995年初頭より国際支援が落ち込んで、[[キヴ州]]の[[ゴマ (コンゴ)|ゴマ]]([[北キヴ州]])などの難民キャンプに住む大量のフツ系難民が困窮する等で実務面の弱さを露呈したことから、[[1996年]]の事務総長選出ではアメリカの[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]発動によって再選を拒否された。[[1996年]][[3月8日]]、[[国際連合ルワンダ支援団]]が活動を打ち切り。

=== 第一次コンゴ戦争 ===
このような国際的な混乱期にあった[[1996年]]11月に、フツ系難民流入以前からのツチ系難民内部の[[バニャムレンゲ]]は[[ルワンダ]]軍のカモフラージュ役を行なって[[第一次コンゴ戦争]]が始まった。[[1997年]]、[[アンゴラ]]がザイール(現[[コンゴ民主共和国]])に出兵して[[キンシャサ]]を制圧し、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]政権が崩壊した。

=== 第二次コンゴ戦争 ===
[[1998年]][[8月20日]]、[[第二次コンゴ戦争]]。[[ウガンダ]]が参戦した{{仮リンク|イトゥリ紛争|en|Ituri conflict}}、[[ルワンダ]]が参戦した[[キヴ紛争]]が始まる。

=== フランス政府の対応 ===
[[フランス]]政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた([[フランス軍]]の展開、武器援助等)など、[[冷戦]]時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑が、事態を悪化させたという面もある(その一方で[[アメリカ合衆国連邦政府]]は、早くからルワンダ愛国戦線に接近しており、内戦が本格化する以前から、カガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にフランスがカガメを[[戦争犯罪]]者として告発したことなどを理由に、フランスと国交断絶したが、2010年に[[フランス共和国大統領]][[ニコラ・サルコジ]]がルワンダを訪問し、(ハビャリマナ政権に対して)外交的・軍事的な後押しをしたことについて「大きな判断の誤りがあった」と、虐殺に関する責任の一端があることを認めている<ref>『[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010022702000077.html 大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問]』 - [[東京新聞]]2010年2月27日</ref>。

=== 人口統計 ===
前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、[[2000年]]には約200万人増加した。これは、ザイール([[コンゴ民主共和国]])、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』(下)78,79頁</ref>。
前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、[[2000年]]には約200万人増加した。これは、ザイール([[コンゴ民主共和国]])、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている<ref>フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』(下)78,79頁</ref>。


== 関連項目 ==
== 映画化 ==
2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだった[[ポール・ルセサバギナ]]の体験を下に、映画『[[ホテル・ルワンダ]]』が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。また、『[[ルワンダの涙]]』という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化された。2006年には、[[カナダ]]の[[ロバート・ファヴロー]]監督が『[[愛の叫び 〜運命の100日〜]]』という映画を撮影した。
* [[ルワンダ国際戦犯法廷]]
* [[人道的介入]]
* [[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]]
* [[インテラハムウェ]]
* [[4400 未知からの生還者]] - シーズン2の9話でルワンダ紛争の戦犯が登場する。
* [[ホテル・ルワンダ]]


== 脚 ==
== 脚 ==
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== 出典・参考文献 ==
== 参考文献 ==
* フィリップ・ゴーレイヴィッチ 『ジェノサイドの丘』(上下) [[柳下毅一郎]]訳、[[WAVE出版]]、2003年。
* フィリップ・ゴーレイヴィッチ 『ジェノサイドの丘』(上下) [[柳下毅一郎]]訳、[[WAVE出版]]、2003年。
* [[ポール・ルセサバギナ]] 『ホテル・ルワンダの男』  [[堀川志野舞]]訳、[[ヴィレッジブックス]]、[[2009年]]。
* [[ポール・ルセサバギナ]] 『ホテル・ルワンダの男』  [[堀川志野舞]]訳、[[ヴィレッジブックス]]、[[2009年]]。
* レヴェリアン・ルラングァ 『ルワンダ大虐殺 ~世界で一番悲しい光景を見た青年の手記~』 [[山田美明]]訳、[[晋遊舎]]、2006年。
* レヴェリアン・ルラングァ 『ルワンダ大虐殺 ~世界で一番悲しい光景を見た青年の手記~』 [[山田美明]]訳、[[晋遊舎]]、2006年。
* イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 『生かされて。』 [[堤江実]]訳、PHP研究所、2006年。
* イマキュレー・イリバギザ スティーヴ・アーウィン 『生かされて。』 [[堤江実]]訳、PHP研究所、2006年。
* アニック・カイテジ 『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』 [[浅田仁子]]訳、[[アスコム]]、2007年。
* アニック・カイテジ 『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』 [[浅田仁子]]訳、[[アスコム (出版社)|アスコム]]、2007年。
* [[ロメオ・ダレール]] ''Shake Hands with the Devil'' (未訳)[[2003年]]
* [[ロメオ・ダレール]] ''Shake Hands with the Devil'' (未訳)[[2003年]]
* [http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/cat_10013977.html ルワンダの歴史]『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会(現:応援する会)2006年01月10日。
* [http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/cat_10013977.html ルワンダの歴史]『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会(現:応援する会)2006年01月10日。
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* [http://www.documen.tv/asset/Rwanda_film.html Documentary 52': Rwanda, How History can lead to genocide]
* [http://www.documen.tv/asset/Rwanda_film.html Documentary 52': Rwanda, How History can lead to genocide]


== 関連項目 ==
{{DEFAULTSORT:るわんたふんそう}}
[[Category:ルワンダの歴史]]
* [[ルワンダ国際戦犯法廷]]
* [[人道的介入]]
[[Category:内戦]]
* [[自衛隊ルワンダ難民救援派遣]]
* [[インテラハムウェ]]
* [[4400 未知からの生還者]] - シーズン2の9話でルワンダ紛争の戦犯が登場する。
* [[ホテル・ルワンダ]]


== 外部リンク ==
[[ar:الحرب الأهلية الرواندية]]
* {{Kotobank}}
[[cs:Občanská válka ve Rwandě]]
* {{Kotobank|ルワンダ内戦}}
[[en:Rwandan Civil War]]

[[fi:Ruandan sisällissota (1990–1994)]]
{{ポスト冷戦時代のアフリカの紛争|state=collapsed}}
[[id:Perang Saudara Rwanda]]

[[is:Borgarastríðið í Rúanda]]
{{Normdaten}}
[[it:Guerra civile ruandese]]
{{DEFAULTSORT:るわんたふんそう}}
[[ko:르완다 내전]]
[[Category:ルワンダの戦争]]
[[mn:Руандагийн иргэний дайн]]
[[Category:フランスの戦争]]
[[no:Borgerkrigen i Rwanda]]
[[Category:ウガンダの戦争]]
[[pl:Wojna domowa w Rwandzie]]
[[Category:ザイールの戦争]]
[[pt:Guerra Civil de Ruanda]]
[[Category:アフリカの内戦]]
[[Category:民族紛争]]
[[Category:20世紀の戦争]]
[[Category:1990年代]]
[[Category:ジュベナール・ハビャリマナ]]
[[Category:ポール・カガメ]]

2023年2月16日 (木) 20:57時点における最新版

ルワンダ紛争

戦争:ルワンダ内戦
年月日1990年10月1日 - 1993年8月4日アルーシャ協定(すぐに和平は崩れた)
場所ルワンダ
結果ルワンダ愛国戦線の勝利。その最中、ルワンダ虐殺が発生
交戦勢力
ルワンダ愛国戦線 ルワンダ愛国戦線
ウガンダの旗 ウガンダ
ルワンダ ルワンダ政府軍
フランスの旗 フランス陸軍
ザイールの旗 ザイール 大統領特殊師団
(1990-1991)
指導者・指揮官
ルワンダ愛国戦線 フレッド・ルウィゲマ英語版 
ルワンダ愛国戦線 ピーター・バインガナ 
ルワンダ愛国戦線 ポール・カガメ
ルワンダ ジュベナール・ハビャリマナ 
ルワンダ テオネスト・バゴソラ
ルワンダ オギュスタン・ビジムング
戦力
20,000 RPF[1] 35,000 FAR[1]

ルワンダ紛争(ルワンダふんそう)は、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1993年にかけてフツ系の政府軍およびインテラハムウェと、ツチ系のルワンダ愛国戦線 (英語:Rwandan Patriotic Front,RPF、仏語:Front Patriotique Rwandais,FPR)との間で行われた紛争。武力衝突・ルワンダ内戦と、和平協定後も続いたツチとフツ等の対立、虐殺を指す場合もある。[要校閲]

前史[編集]

「ツチ対フツ」の形成以前[編集]

フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった[2]

ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ植民地ドイツ領東アフリカであった。

ハム仮説の流布[編集]

第一次世界大戦以降はベルギー植民地ルアンダ=ウルンディであった。ベルギー植民地下では、少数派であるツチを君主および首長等の支配層とする間接支配体制が築かれた。ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られ、多数派のフツとごく少数のトゥワは差別的な扱いを受けていた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布し(ジョン・ハニング・スピークハム仮説英語版)、ツチとフツは大きく対立し始めた[3]。植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ[4]、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた[5]

フツ・パワーの形成[編集]

1959年に始まったルワンダ革命英語版1959年 - 1961年)でツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した(フツ・パワー)。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局とカトリック教会は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の神父修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出した。1962年に独立。

ルワンダ愛国戦線(FPR)の形成[編集]

1973年クーデタールワンダ・クーデター英語版)により政権に就いた、フツのジュベナール・ハビャリマナは、ツチに対する種族融和政策を採った。そこでは、ツチは少数派として周縁化されていたが、政治活動に関与しない限りは弾圧されず、むしろ経済活動は推奨され、政府と良好な関係を持つツチの有力ビジネスマンも出現した。フツ・ツチ間の通婚も進み、両者は共存していた[4][6]

しかし、ウガンダでは、1959年のルワンダ革命やその後の騒乱、クーデターなどで国外脱出をしたルワンダ人ツチ系難民の子弟が、長期にわたり、難民キャンプでの生活を余儀なくされていた。彼らは、ウガンダでもバニャルワンダと呼ばれ差別されていた。 かくして、彼らツチ系難民の多くの者が、ウガンダ内戦英語版1981年 - 1986年)において反政府軍側について戦い、その勝利に貢献した。ツチ系難民の指導者、フレッド・ルウィゲマ英語版ポール・カガメらは、ウガンダにおいて重要な地位を占めるようになった。

ウガンダ内戦が終結すると、彼らはルワンダ愛国戦線 (英:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。

戦闘の推移[編集]

1990年10月1日、RPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発した。

1993年8月4日、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャアルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至った。10月5日国際連合ルワンダ支援団が設立される。

影響[編集]

ブルンジ内戦[編集]

1993年10月21日、隣国ブルンジフツ系のンダダイエ大統領が暗殺されると、フツによるブルンジ虐殺英語版が発生し、ブルンジ内戦英語版1993年 - 2008年)と呼ばれる報復合戦に突入した。

ルワンダ虐殺[編集]

1994年4月6日に、フツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジシプリアン・ンタリャミラ大統領とを乗せた飛行機が、何者か(「フツの過激派による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツ(インテラハムウェインプザムガンビ)によるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった(ルワンダ虐殺en:List of massacres in Rwanda)。4月7日アガート・ウィリンジイマナ首相と国連ルワンダ支援団のベルギー人とガーナ人の兵士が大統領警護隊により暗殺される。4月9日ギコンド虐殺英語版4月15日ニャルブイェ大虐殺

大湖地域の難民危機[編集]

7月に、ルワンダ愛国戦線がツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、大量のフツ系難民が発生した(大湖地域の難民危機英語版)。7月19日、フツのパストゥール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(のち大統領)とする新政権が発足。1994年末、国連ルワンダ支援団のロメオ・ダレール司令官が辞任。1995年4月22日キベホ虐殺英語版

同時期に、国連ガーリ事務総長は、ソマリア内戦への介入失敗(モガディシュの戦闘1993年10月3日 - 10月4日)によりアメリカと対立し、さらに1995年初頭より国際支援が落ち込んで、キヴ州ゴマ北キヴ州)などの難民キャンプに住む大量のフツ系難民が困窮する等で実務面の弱さを露呈したことから、1996年の事務総長選出ではアメリカの拒否権発動によって再選を拒否された。1996年3月8日国際連合ルワンダ支援団が活動を打ち切り。

第一次コンゴ戦争[編集]

このような国際的な混乱期にあった1996年11月に、フツ系難民流入以前からのツチ系難民内部のバニャムレンゲルワンダ軍のカモフラージュ役を行なって第一次コンゴ戦争が始まった。1997年アンゴラがザイール(現コンゴ民主共和国)に出兵してキンシャサを制圧し、モブツ政権が崩壊した。

第二次コンゴ戦争[編集]

1998年8月20日第二次コンゴ戦争ウガンダが参戦したイトゥリ紛争英語版ルワンダが参戦したキヴ紛争が始まる。

フランス政府の対応[編集]

フランス政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた(フランス軍の展開、武器援助等)など、冷戦時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑が、事態を悪化させたという面もある(その一方でアメリカ合衆国連邦政府は、早くからルワンダ愛国戦線に接近しており、内戦が本格化する以前から、カガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にフランスがカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由に、フランスと国交断絶したが、2010年にフランス共和国大統領ニコラ・サルコジがルワンダを訪問し、(ハビャリマナ政権に対して)外交的・軍事的な後押しをしたことについて「大きな判断の誤りがあった」と、虐殺に関する責任の一端があることを認めている[7]

人口統計[編集]

前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、2000年には約200万人増加した。これは、ザイール(コンゴ民主共和国)、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている[8]

映画化[編集]

2004年、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバギナの体験を下に、映画『ホテル・ルワンダ』が公開され話題になった。日本での公開は当初、興行的に採算が合わないということで配給会社の買い手がつかなかったが、「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(現『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会)による活動により配給元が決まり、日本でも公開されることとなった。公開は2006年1月。また、『ルワンダの涙』という映画も公開され、日本でも2007年にDVD化された。2006年には、カナダロバート・ファヴロー監督が『愛の叫び 〜運命の100日〜』という映画を撮影した。

脚注[編集]

  1. ^ a b IPEP 2000.
  2. ^ 連載ルワンダ史第1回〈フツとツチとは何か? 前編〉
  3. ^ 連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉
  4. ^ a b 饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月
  5. ^ ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』12頁
  6. ^ G.Prunier, Rwanda Crisis(second edition), C.Hurst and Co.Ltd., 2002, ISBN 1-85065-372-0,note 8, p.76.
  7. ^ 大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問』 - 東京新聞2010年2月27日
  8. ^ フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』(下)78,79頁

参考文献[編集]

映像資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]