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[[ファイル:Royal Coat of Arms of Valois France.svg|thumb|ヴァロワ朝の紋章]]
'''ヴァロワ朝'''(ヴァロワちょう、{{lang-fr-short|dynastie des Valois}})は、[[中世]][[フランス王国]]の[[王朝]]。[[1328年]]から[[1589年]]まで続いた。
'''ヴァロワ朝'''(ヴァロワちょう、{{lang-fr|dynastie des Valois}})は、[[中世]][[フランス王国]]の[[王朝]]。[[1328年]]から[[1589年]]まで続いた。


[[1328年]]に[[カペー朝]]が断絶したため、[[カペー家]]の支流で[[ヴァロワ]]を所領とする[[ヴァロワ家]]から[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ]]が即位しヴァロワ朝が始まった。初期には[[1339年]]に勃発した[[百年戦争]]に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。[[1491年]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の代にブルターニュ女アンヌとの結婚によって'''フランスを再統一'''することを果たしたが、直後に直系が断絶し、庶家に引き継がれつつ[[1589年]]までの間で13代の王が続いた。
[[1328年]]に[[カペー朝]]が断絶したため、[[カペー家]]の支流で[[ヴァロワ]]を所領とする[[ヴァロワ家]]から[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が即位しヴァロワ朝が始まった。初期には[[1339年]]に勃発した[[百年戦争]]に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。[[1491年]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の代に[[アンヌ・ド・ブルターニュ|ブルターニュ女アンヌ]]との結婚によって'''フランスを再統一'''することを果たしたが、直後に直系が断絶し、傍系に引き継がれつつ[[1589年]]までの間で13代の王が続いた。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[ファイル:FrancisIFrance.jpg|thumb|left|フランソワ1世]]
=== 成立と百年戦争 ===
=== 成立と百年戦争 ===
[[カペー朝]]第10代[[フランス君主一覧|国王]][[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の子[[シャルル・ド・ヴァロワ|シャルル]]が[[1285年]]に[[ヴァロワ]]伯に封じられ、[[ヴァロワ家]]を創始した。[[1328年]]にカペー朝が断絶し、シャルルの子[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が[[諸侯]]の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。
[[カペー朝]]第10代[[フランス君主一覧|国王]][[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の子[[シャルル (ヴァロワ伯)|シャルル]]が[[1285年]]に[[ヴァロワ]]伯に封じられ、[[ヴァロワ家]]を創始した。[[1328年]]にカペー朝が断絶し、シャルルの子[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が[[諸侯]]の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。


ところが、当時の[[イングランド君主一覧|イングランド]][[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、[[1337年]]から[[百年戦争]]が勃発した。
ところが、当時の[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]も[[女系]]でカペー家の血を引いていたことから、フランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、[[1337年]]から[[百年戦争]]が始まった。


名将[[エドワード黒太子]]率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが[[1380年]]に食中毒が原因で44歳若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂王国存の危機にまで立たされた。
名将[[エドワード黒太子]]率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世(賢明王)]]は優秀で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが[[1380年]]に食中毒のため死去すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、遂にはイングランド国王フランス国王に推戴されるまでなり、王国存の危機にまで立たされた。


そのような中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の時代に現れた[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、[[1453年]]、遂に百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じた。
そのような中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の時代に現れた[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、[[1453年]]に百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じた。


=== イタリア侵略 ===
=== イタリア戦争 ===
[[ファイル:Francis1-1.jpg|thumb|right|フランソワ1世|252x252ピクセル]]
フランスを事実上統一したヴァロワ朝は[[イタリア]]へと領土的野心を向け、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[1494年]]に[[イタリア戦争]]を開始する。[[1498年]]、[[フィリップ4世]]に始まるヴァロワ家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代シャルル5世の子[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]の孫である[[ヴァロワ=オルレアン家]]の[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が即位した。
フランスを事実上統一したヴァロワ朝は[[イタリア]]へと領土的野心を向け、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[1494年]]に[[イタリア戦争]]を開始する。[[1498年]]、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]の孫である[[ヴァロワ=オルレアン家]]の[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が即位した。


[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫である[[ヴァロワ=アングレーム家]]の従兄[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]の子[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]を娘婿とするとともに王位継承者とした。以後、フランソワ1世から[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]まで5代の王が続いた。なお、アンリ3世はフランス王即位前に一時[[ポーランド国王]](ポーランド名:ヘンリク・ヴァレジ)に選出されているが、自ら放棄している。
[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫である[[ヴァロワ=アングレーム家]]の従兄[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]の子[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]王位継承した。以後、フランソワ1世から[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]まで5代の王が続いた。<!-- なお、アンリ3世はフランス王即位前に一時[[ポーランド国王]](ポーランド名:ヘンリク・ヴァレジ)に選出されているが、自ら放棄している。--><!--薮蛇/脱線トリビア-->


その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[ブルボン朝]]に代わった。
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者[[ジャック・クレマン]]によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[ブルボン朝]]に代わった。


ただ、断絶したのはヴァロワ家の嫡流、庶流絶えていない。オルレアン公ルイの[[庶子]]である[[ジャン・ド・デュノワ|ジャン]]を祖とする[[ロングウィル公|ヴァロワ=ロングィル家]]は17世紀末まで存続し、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の庶子である[[シャルル・ド・ヴァロワ (アングレーム公)|アングレーム公シャルル]]を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の庶子である[[アンリ・ド・サン=レミ]]を祖とする家系は19世紀末まで存続し、[[首飾り事件]]で有名な[[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア|ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ]] はこの家系の出身と言われている。
こうヴァロワ家の嫡流は途絶えたが王位継承権のない庶流はその後も続。オルレアン公ルイの[[庶子]]である[[ジャン・ド・デュノワ|ジャン]]を祖とし、[[ロングウィル公]]となった[[オルレアン=ロングィル家]]は17世紀末まで存続し、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の庶子である[[シャルル・ド・ヴァロワ (アングレーム公)|アングレーム公シャルル]]を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。また、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の庶子である[[アンリ・ド・サン=レミ]]を祖とする家系は19世紀末まで存続し、[[首飾り事件]]で有名な[[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア|ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ]] はこの家系の出身と言われている。


== 歴代国王 ==
== 歴代国王 ==
=== ヴァロワ家 ===
# [[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]([[1328]] - [[1350]]
# [[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]((le Bon) [[1350年]] - [[1364]]
* [[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]](幸運le Fortuné 1328年–1350年)
# [[ルル5世 (フランス王)|ルル5世]](賢明(le Sage) [[1364年]] - [[1380]]
* [[ン2世 (フランス王)|ン2世]](善良le Bon 1350年–1364年)
# [[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]](親愛、狂気王(le Fol) [[1380年]] - [[1422]]
* [[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](賢明le Sage 1364年–1380年)
# [[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]](勝利(le Victorieux) [[1422年]] - [[1461]]
* [[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]](狂気le Fou 1380年–1422年)
# [[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]](商人 [[1461年]] - [[1483]]
* [[シャル7世 (フランス王)|シャル7世]](勝利le Victorieux 1422年–1461年)
# [[シャル8世 (フランス王)|シャル8世]]([[1483年]] - [[1498]]
* [[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]](慎重王 le Prudent 1461年–1483年)
# [[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]([[1498年]] - [[1515]] [[ヴァロワ=オルレアン家]]
* [[シャル8世 (フランス王)|シャル8世]](温厚王 l'Affable 1483年–1498年)

# [[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]([[1515]] - [[1547]] 以下5代[[ヴァロワ=アングレーム家]]
=== ヴァロワ=オルレアン家 ===
# [[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]([[1547]] - [[1559]]
# [[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]([[1559年]] - [[1560]]
* [[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]](民の父王 le Père du Peuple 1498年–1515年)

# [[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]([[1560]] - [[1574]]
=== ヴァロワ=アングレーム家 ===
# [[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]([[1574]] - [[1589]] [[ポーランド国王|ポーランド王]][[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]([[1573]] - [[1575]]
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=== 系図 ===
{{フランス王室ヴァロワ朝}}

== 脚注 ==
{{reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ヴァロワ家]]
* [[ヴァロワ家]]
* [[フランスの歴史]]
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2023年2月17日 (金) 20:03時点における最新版

フランスの歴史
フランス国章
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年表

フランス ポータル
ヴァロワ朝の紋章

ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、フランス語: dynastie des Valois)は、中世フランス王国王朝1328年から1589年まで続いた。

1328年カペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年シャルル8世の代にブルターニュ女公アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、傍系に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。

歴史[編集]

成立と百年戦争[編集]

カペー朝第10代国王フィリップ3世の子のシャルル1285年ヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。

ところが、当時のイングランド国王エドワード3世女系でカペー家の血を引いていたことから、フランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が始まった。

名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒のため死去すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、遂にはイングランド国王がフランス国王に推戴されるまでになり、王国存亡の危機にまで立たされた。

そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年に百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じた。

イタリア戦争[編集]

フランソワ1世

フランスを事実上統一したヴァロワ朝は、イタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世1494年イタリア戦争を開始する。1498年、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子のオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家ルイ12世が即位した。

1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの子フランソワ1世が王位を継承した。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。

その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者ジャック・クレマンによって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。

こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とし、ロングウィル公となったオルレアン=ロングヴィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。また、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。

歴代国王[編集]

ヴァロワ家[編集]

ヴァロワ=オルレアン家[編集]

  • ルイ12世(民の父王 le Père du Peuple 1498年–1515年)

ヴァロワ=アングレーム家[編集]

系図[編集]




フィリップ6世(幸運王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン2世(善良王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5世(賢明王)
 
 
 
ブルゴーニュ公
フィリップ2世(豪胆公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6世(狂気王)オルレアン公
ルイ
ヴァロワ=ブルゴーニュ家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7世(勝利王)シャルルアングレーム伯
ジャン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ11世(慎重王)ルイ12世シャルル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル8世(温厚王)
 
 
 
フランソワ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マルグリット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンリ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランソワ2世シャルル9世アンリ3世マルグリット
 
ブルボン朝
アンリ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


脚注[編集]

  1. ^ ポーランド王リトアニア大公(1573年–1575年)を兼ねる

関連項目[編集]