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'''前田 浩継'''(まえだ ひろつぐ、[[1976年]][[1月3日]] - )は、[[福岡県]][[宗像市]]出身の元[[プロ野球]]選手([[投手]])。
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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
===プロ入り前===
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[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高]]3年の時に[[第75回全国高等学校野球選手権大会]]に出場(1回戦敗退
[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高]]3年の時に[[第75回全国高等学校野球選手権大会]]に出場、初戦(2回戦敗退。


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[[九州共立大学]]に進学後、[[福岡六大学野球連盟|福岡六大学リーグ]]で最優秀選手を3回、6季連続ベストナインを獲得する活躍をみせ<ref>{{Cite web|url=http://fukuokabig6.web.fc2.com/fukuroku.kojinkiroku.html|title=福岡6大学野球連盟  歴代表彰選手一覧|accessdate=2011-10-08}}</ref>、3年時の大学選手権では準優勝。[[1997年度新人選手選択会議_(日本プロ野球)|1997年度ドラフト会議]]にて[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]から3位指名を受け入団。登録名は当時監督だった[[仰木彬]]の発案により「'''ヒロ'''」となった。


===プロ入り後===
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{{by|1999年}}シーズンはプロ入り初登板を果たしたがこの1試合だけに終わり、わずか2年で[[戦力外通告]]を受けた。


結局オリックス時代は、病気などもあって即戦力としての期待に応えられなかった。その後テスト入団で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ移籍。
結局オリックス時代は、病気などもあり、即戦力としての期待に応えられなかった。その後テスト入団で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ移籍。


===ヤクルト時代===
===ヤクルト時代===
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===ロッテ時代===
===ロッテ時代===
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{{by|2005年}}も先発陣、リリーフ陣に層が厚く一軍での登板はこの年もなかった。チーム2位からの31年ぶりのリーグ優勝と日本一には貢献できず、この年限りで現役を引退。
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=== 引退後 ===
=== 引退後 ===
現在は、古巣[[東京ヤクルトスワローズ|東京ヤクルト]]を経て[[横浜DeNAベイスターズ]][[打撃投手]]を務めている。北京五輪予選([[第24回アジア野球選手権大会|アジア地区]]及び[[北京オリンピック野球世界最終予選|最終予選]])、[[北京オリンピックにおける野球競技|北京五輪本大会]]、[[2009_ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]でも日本代表の打撃投手を務めた。WBCでは日本は世界一連覇を果たしており、陰ながら日本を支えた。
引退後は、古巣東京ヤクルトの[[打撃投手]]や[[横浜DeNAベイーズ]]の打撃投手を経て、2015年から[[中畑清]]監督の専属広報という形で横浜DeNAベイスターズ一軍サブマネジャーに就く。中畑の退任後も引き続き一軍サブマネジャーを務め、左腕ということ、時に打撃投手を務めることもある。北京五輪予選([[第24回アジア野球選手権大会|アジア地区]]及び[[2008年北京オリンピック野球競技・世界最終予選|最終予選]])、[[2008年北京オリンピック野球競技|北京五輪本大会]]、[[2009_ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]でも日本代表の打撃投手を務めており、WBC連覇を果たした日本代表チームを陰ながら支えた。


==詳細情報==
==詳細情報==
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=== 登録名 ===
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2023年2月20日 (月) 10:43時点における版

前田 浩継
横浜DeNAベイスターズ球団スタッフ時代の前田浩継
(2022年9月2日、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県宗像市
生年月日 (1976-01-03) 1976年1月3日(48歳)
身長
体重
174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト3位
初出場 1999年9月12日
最終出場 2004年4月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

前田 浩継(まえだ ひろつぐ、1976年1月3日 - )は、福岡県宗像市出身の元プロ野球選手(投手)。

現在は、横浜DeNAベイスターズの一軍マネジャー。

来歴・人物

プロ入り前

東福岡高3年の時に第75回全国高等学校野球選手権大会に出場、初戦(2回戦)敗退。

九州共立大学に進学後、福岡六大学リーグで最優秀選手を3回、6季連続ベストナインを獲得する活躍をみせ[1]、3年時の大学選手権では準優勝。1997年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから3位指名を受け、入団。登録名は当時監督だった仰木彬の発案により「ヒロ」となった。

オリックス時代

1998年シーズンは一軍登板なしに終わった。

1999年シーズンはプロ入り初登板を果たしたがこの1試合だけに終わり、わずか2年で戦力外通告を受けた。

結局オリックス時代は、病気などもあり、即戦力としての期待に応えられなかった。その後、テスト入団でヤクルトスワローズへ移籍。

ヤクルト時代

2000年シーズンは初先発を含み、11試合に登板し、2勝2敗、防御率3.48の活躍を見せた。

2001年シーズンは先発投手として登板数を大きく増やし、28試合に登板し、7勝を挙げ、規定投球回にも初めて到達する活躍見せ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献。大阪近鉄バファローズとの日本シリーズでは第4戦に先発登板し、勝ち負けは付かなかったが6回1失点といてまえ打線を封じ込める活躍を見せた。

2002年シーズンは前年のシーズンの活躍から一転し、先発での登板数は3試合に留まり、中継ぎでの登板が多くなった。安定感を欠き、3勝しか挙げられなかった。

2003年シーズンはサイドスローへ転向したが先発での登板は1試合だけとなり、中継ぎ要員となった。15試合の登板に終わった。

2004年シーズンは2試合に登板しただけで一軍登録を抹消され、シーズン途中に田中充投手・丸山泰嗣内野手との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。

ロッテ時代

2004年シーズンは一軍登板なしに終わった。

2005年シーズンも先発陣、リリーフ陣ともに層が厚く、一軍での登板はこの年のシーズンもなかった。チーム2位からの31年ぶりのリーグ優勝と日本一には貢献できず、同年のシーズン限りで現役を引退。

引退後

引退後は、古巣・東京ヤクルトの打撃投手横浜DeNAベイスターズの打撃投手を経て、2015年から中畑清監督の専属広報という形で横浜DeNAベイスターズ一軍サブマネジャーに就く。中畑の退任後も引き続き一軍サブマネジャーを務め、左腕ということで、時に打撃投手を務めることもある。北京五輪予選(アジア地区及び最終予選)、北京五輪本大会第2回WBCでも日本代表の打撃投手を務めており、WBC連覇を果たした日本代表チームを陰ながら支えた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 オリックス 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 6 0.2 4 0 0 0 0 1 0 0 2 2 27.00 6.00
2000 ヤクルト 11 6 0 0 0 2 2 0 -- .500 153 33.2 37 5 16 1 2 15 0 0 13 13 3.48 1.57
2001 28 23 2 1 0 7 10 0 -- .412 630 146.2 162 23 44 4 2 85 8 0 73 64 3.93 1.40
2002 16 3 0 0 0 3 1 0 -- .750 139 32.1 38 5 8 0 0 27 3 0 16 15 4.18 1.42
2003 15 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 81 19.2 22 7 4 0 0 11 1 0 10 10 4.58 1.32
2004 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 9 1.2 5 0 0 0 0 2 0 0 3 3 16.20 3.00
通算:6年 73 33 2 1 0 12 14 0 -- .462 1018 234.2 268 40 72 5 4 141 12 0 117 107 4.10 1.45

記録

背番号

  • 24 (1998年 - 1999年)
  • 60 (2000年)
  • 47 (2001年 - 2004年途中)
  • 37 (2004年途中 - 2005年)
  • 95 (2006年 - 2009年)
  • 109 (2010年 - 2011年)
  • 94 (2012年 - 2014年)
  • 119 (2015年 - 2022年)

登録名

  • ヒロ (ひろ、1998年 - 1999年)
  • 前田 浩継 (まえだ ひろつぐ、2000年 - 2005年)

脚注

関連項目

外部リンク