「ポール・ワイリー」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
LightgrayShips2015 (会話 | 投稿記録) Cat+1 |
Shinkokyu0914 (会話 | 投稿記録) |
||
(15人の利用者による、間の23版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox フィギュアスケート選手 |
|||
{{MedalTop}} |
|||
<!-- 基本情報 --> |
|||
| 最高メダル = silver |
|||
| 名前 = ポール・ワイリー |
|||
| ラテン文字 = Paul Wylie |
|||
⚫ | |||
| キャプション = ポール・ワイリー |
|||
| 代表国 = {{USA}} |
|||
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1964|10|28|}} |
|||
| 没年月日 = |
|||
| 出生地 = [[テキサス州]][[ダラス]] |
|||
| 身長 = |
|||
| 体重 = |
|||
| 元コーチ = [[ジョン・ニックス]]<br>[[カルロ・ファッシ]] |
|||
| 元振付師 = |
|||
| 引退 = 1992年 |
|||
| show-medals = yes |
|||
| medaltemplates = |
|||
{{MedalSport|[[フィギュアスケート]]}} |
{{MedalSport|[[フィギュアスケート]]}} |
||
{{ |
{{MedalCompetition|[[オリンピックのフィギュアスケート競技|オリンピック]]}} |
||
[[File:Olympic rings with transparent rims.svg|center|80px]] |
|||
{{MedalBottom}} |
|||
{{MedalSilver|[[1992年アルベールビルオリンピックのフィギュアスケート競技|1992 アルベールビル]]|男子シングル}} |
|||
⚫ | |||
{{MedalCompetition|[[世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界ジュニア選手権]]}} |
|||
⚫ | |||
{{MedalGold|[[1981年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|1981 オンタリオ]]|男子シングル}} |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
*1964年10月24日、[[テキサス州]][[ダラス]]に生まれた。3歳からスケートを始めやがて[[カルロ・ファッシ]]に師事した。ジュニア時代は男子シングルとペアの両方を掛け持ちして、ペアのコーチは[[ジョン・ニックス]]であったが男子シングルに専念することになる。 |
*1964年10月24日、[[テキサス州]][[ダラス]]に生まれた。3歳からスケートを始めやがて[[カルロ・ファッシ]]に師事した。ジュニア時代は男子シングルとペアの両方を掛け持ちして、ペアのコーチは[[ジョン・ニックス]]であったが男子シングルに専念することになる。 |
||
*1980-1981年シーズン、[[全米フィギュアスケート選手権]]のジュニアクラスを制し、[[世界ジュニアフィギュアスケート選手権]]も優勝を果たした。 |
*1980-1981年シーズン、[[全米フィギュアスケート選手権]]のジュニアクラスを制し、[[世界ジュニアフィギュアスケート選手権]]も優勝を果たした。 |
||
*世界ジュニア選手権を制し、シニアに転向してからしばらくは特筆する成績を残せなかった。その間の1986年に[[ハーバード大学]]に進学(1991年卒業)<ref>[http://newsblogs.chicagotribune.com/sports_globetrotting/2010/05/nagasu-not-on-par-with-flatt-huh.html Nagasu not on par with Flatt? Huh?][[シカゴ・トリビューン]]、2010年5月10日記事([[レイチェル・フラット]]に関する記事だが「大学生活とスケートの両立の困難さ」についてワイリーが彼の経験をコメントしている)</ref>。カルガリーオリンピックの選考会となった1987-1988年シーズンの全米選手権で2位となり[[カルガリーオリンピック |
*世界ジュニア選手権を制し、シニアに転向してからしばらくは特筆する成績を残せなかった。その間の1986年に[[ハーバード大学]]に進学(1991年卒業)<ref>[http://newsblogs.chicagotribune.com/sports_globetrotting/2010/05/nagasu-not-on-par-with-flatt-huh.html Nagasu not on par with Flatt? Huh?][[シカゴ・トリビューン]]、2010年5月10日記事([[レイチェル・フラット]]に関する記事だが「大学生活とスケートの両立の困難さ」についてワイリーが彼の経験をコメントしている)</ref>。カルガリーオリンピックの選考会となった1987-1988年シーズンの全米選手権で2位となり[[1988年カルガリーオリンピックのフィギュアスケート競技|カルガリーオリンピック]]のアメリカ代表を勝ち取った。カルガリーオリンピックでは[[コンパルソリーフィギュア]]で12位と出遅れ、総合10位に終わった。 |
||
*1991-1992年シーズン、アルベールビルオリンピックの代表選考会となった全米選手権で[[クリストファー・ボウマン]]に次ぐ2位となり、2度目のオリンピック出場を決めた。[[アルベールビルオリンピック |
*1991-1992年シーズン、アルベールビルオリンピックの代表選考会となった全米選手権で[[クリストファー・ボウマン]]に次ぐ2位となり、2度目のオリンピック出場を決めた。[[1992年アルベールビルオリンピックのフィギュアスケート競技|アルベールビルオリンピック]]では[[ショートプログラム|オリジナルプログラム]]と[[フリースケーティング]]ともに会心の演技で銀メダルを獲得した。オリンピック後にアマチュアを引退し、プロに転向。 |
||
*プロスケーターとして活動中、[[ハーバード・ビジネス・スクール]]に進学。1998年に一旦プロを引退([[ディズニー]]に勤務した後、2004年プロに復帰)。 |
*プロスケーターとして活動中、[[ハーバード・ビジネス・スクール]]に進学。1998年に一旦プロを引退([[ディズニー]]に勤務した後、2004年プロに復帰)。 |
||
*1999年に結婚、3人の子供がいる。 |
*1999年に結婚、3人の子供がいる。 |
||
16行目: | 36行目: | ||
*2008年、アメリカ合衆国フィギュアスケート殿堂入り。 |
*2008年、アメリカ合衆国フィギュアスケート殿堂入り。 |
||
{{clear}} |
|||
<br style="clear:both" /> |
|||
== 主な戦績 == |
== 主な戦績 == |
||
35行目: | 55行目: | ||
! 91-92 |
! 91-92 |
||
|- |
|- |
||
| style="text-align:left" | [[オリンピックフィギュアスケート競技 |
| style="text-align:left" | [[オリンピックのフィギュアスケート競技|オリンピック]] |
||
| |
| |
||
| |
| |
||
105行目: | 125行目: | ||
| |
| |
||
|} |
|} |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{ |
{{Reflist}} |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
* {{Olympedia}} |
|||
{{フィギュアスケート 世界ジュニアチャンピオン - 男子シングル}} |
{{フィギュアスケート 世界ジュニアチャンピオン - 男子シングル}} |
||
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯 チャンピオン - 男子シングル}} |
|||
{{DEFAULTSORT:わいり ほ |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:わいりい ほおる}} |
|||
[[Category:アメリカ合衆国の |
[[Category:アメリカ合衆国の男子シングルスケーティング選手]] |
||
[[Category:オリンピックフィギュアスケートアメリカ合衆国代表選手]] |
[[Category:オリンピックフィギュアスケートアメリカ合衆国代表選手]] |
||
[[Category:アメリカ合衆国のオリンピック銀メダリスト]] |
[[Category:アメリカ合衆国のオリンピック銀メダリスト]] |
||
[[Category:フィギュアスケートのオリンピックメダリスト]] |
|||
[[Category:世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表選手]] |
|||
[[Category:世界ジュニアフィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表選手]] |
|||
[[Category:ユニバーシアードフィギュアスケートアメリカ合衆国代表選手]] |
|||
[[Category:アメリカ合衆国のユニバーシアード銅メダリスト]] |
|||
[[Category:ユニバーシアードフィギュアスケート競技メダリスト]] |
|||
[[Category:ダラス出身の人物]] |
[[Category:ダラス出身の人物]] |
||
[[Category:1964年生]] |
[[Category:1964年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
||
[[de:Paul Wylie]] |
|||
[[en:Paul Wylie]] |
|||
[[no:Paul Wylie]] |
|||
[[pt:Paul Wylie]] |
|||
[[ru:Уайли, Пол]] |
2023年3月11日 (土) 11:40時点における最新版
| ||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ポール・ワイリー | ||||||||||||||||||
生誕 |
1964年10月28日(59歳) テキサス州ダラス | |||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||
代表国 | アメリカ合衆国 | |||||||||||||||||
引退 | 1992年 | |||||||||||||||||
|
ポール・ワイリー(Paul Stanton Wylie、1964年10月28日[1] - )は、アメリカ出身の男性フィギュアスケート選手。1992年アルベールビルオリンピック男子シングル銀メダリスト。1981年世界ジュニアフィギュアスケート選手権男子シングル優勝。
経歴
[編集]- 1964年10月24日、テキサス州ダラスに生まれた。3歳からスケートを始めやがてカルロ・ファッシに師事した。ジュニア時代は男子シングルとペアの両方を掛け持ちして、ペアのコーチはジョン・ニックスであったが男子シングルに専念することになる。
- 1980-1981年シーズン、全米フィギュアスケート選手権のジュニアクラスを制し、世界ジュニアフィギュアスケート選手権も優勝を果たした。
- 世界ジュニア選手権を制し、シニアに転向してからしばらくは特筆する成績を残せなかった。その間の1986年にハーバード大学に進学(1991年卒業)[2]。カルガリーオリンピックの選考会となった1987-1988年シーズンの全米選手権で2位となりカルガリーオリンピックのアメリカ代表を勝ち取った。カルガリーオリンピックではコンパルソリーフィギュアで12位と出遅れ、総合10位に終わった。
- 1991-1992年シーズン、アルベールビルオリンピックの代表選考会となった全米選手権でクリストファー・ボウマンに次ぐ2位となり、2度目のオリンピック出場を決めた。アルベールビルオリンピックではオリジナルプログラムとフリースケーティングともに会心の演技で銀メダルを獲得した。オリンピック後にアマチュアを引退し、プロに転向。
- プロスケーターとして活動中、ハーバード・ビジネス・スクールに進学。1998年に一旦プロを引退(ディズニーに勤務した後、2004年プロに復帰)。
- 1999年に結婚、3人の子供がいる。
- ビリー・グラハム福音伝道協会のディレクターをノースキャロライナ州で務める。現在は同州で旅行会社を運営する傍ら、プロスケーター、ESPNで解説者、コーチ業を行っている。
- 2008年、アメリカ合衆国フィギュアスケート殿堂入り。
主な戦績
[編集]大会/年 | 80-81 | 81-82 | 82-83 | 83-84 | 84-85 | 85-86 | 86-87 | 87-88 | 88-89 | 89-90 | 90-91 | 91-92 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
オリンピック | 11 | 2 | ||||||||||
世界選手権 | 9 | 10 | 11 | |||||||||
全米選手権 | 11 | 5 | 4 | 5 | 5 | 5 | 2 | 3 | 2 | 3 | 2 | |
ユニバーシアード | 3 | |||||||||||
世界Jr.選手権 | 1 |
脚注
[編集]- ^ https://www.olympic.org/paul-wylie
- ^ Nagasu not on par with Flatt? Huh?シカゴ・トリビューン、2010年5月10日記事(レイチェル・フラットに関する記事だが「大学生活とスケートの両立の困難さ」についてワイリーが彼の経験をコメントしている)
外部リンク
[編集]- Kid's Questions with Paul Wylie
- ポール・ワイリー - Olympedia