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'''バスマチ蜂起'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Восстание басмачей}})、または'''バスマチ運動'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Басмаческие движение}}、[[ウズベク語]]:{{lang|uz|Bosmachilar harakati}})は、1920年代初頭を中心に[[中央アジア]]で起きた反ソビエト武力運動の総称である。
'''バスマチ蜂起'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Восстание басмачей}})、または'''バスマチ運動'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Басмаческие движение}}、[[ウズベク語]]:{{lang|uz|Bosmachilar harakati}})は、1920年代初頭を中心に[[中央アジア]]で起きた反ソビエト武力運動の総称である。反乱には在地有力者を中心に、中央アジアの[[ムスリム]]住民の広範な層が参加し、[[ボリシェヴィキ|ソビエト政権]]および[[ロシア人]]による中央アジア支配に抵抗した。[[ロシア内戦]]期の[[1918年]]から[[1924年]]にかけて最盛期を迎えたが、1920年代半ばまでにソヴィエト政権によりほぼ鎮圧された


== 概要 ==
反乱には在地有力者を中心に、中央アジアの[[ムスリム]]住民の広範な層が参加し、[[ボリシェヴィキ|ソビエト政権]]および[[ロシア人]]による中央アジア支配に抵抗した。[[ロシア内戦]]期の[[1918年]]から[[1924年]]にかけて最盛期を迎えたが、1920年代半ばまでにソビエト政権によりほぼ鎮圧された。
=== バスマチ運動の展開 ===

== バスマチ運動の展開 ==
「バスマチ」と呼ばれた中央アジアにおけるムスリムの反乱は、[[第一次世界大戦]]中のムスリムの戦時徴用に反対して起きた[[1916年]]の反乱に始まる。反乱は、'''[[フェルガナ]]盆地'''、'''[[ブハラ]]'''、'''東ブハラ'''(現在の[[タジキスタン]])、'''[[ホラズム]]'''の4地域でそれぞれ異なる展開を見せ、[[ロシア内戦]]中の[[1918年]]から[[1924年]]に最盛期を迎えた後、農業集団化政策への反発から1920年代後半に再燃した。地域によっては、反乱は1930年代半ばまで散発的に続いた。
「バスマチ」と呼ばれた中央アジアにおけるムスリムの反乱は、[[第一次世界大戦]]中のムスリムの戦時徴用に反対して起きた[[1916年]]の反乱に始まる。反乱は、'''[[フェルガナ]]盆地'''、'''[[ブハラ]]'''、'''東ブハラ'''(現在の[[タジキスタン]])、'''[[ホラズム]]'''の4地域でそれぞれ異なる展開を見せ、[[ロシア内戦]]中の[[1918年]]から[[1924年]]に最盛期を迎えた後、農業集団化政策への反発から1920年代後半に再燃した。地域によっては、反乱は1930年代半ばまで散発的に続いた。


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また、バスマチ運動には、[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]の最後の[[アミール]]である[[アーリム・ハーン|サイイド・アリム・ハン]]や、[[オスマン帝国]]の元陸相[[エンヴェル・パシャ]]、[[バシキール人]]民族主義者の[[ゼキ・ヴェリディ・トガン|アフメト・ゼキ・ヴェリディ]]などの著名人も参加した。そのため、しばしば[[汎テュルク主義]]や[[汎イスラーム主義]]的な性格をもつ運動として位置付けられることがある。
また、バスマチ運動には、[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]の最後の[[アミール]]である[[アーリム・ハーン|サイイド・アリム・ハン]]や、[[オスマン帝国]]の元陸相[[エンヴェル・パシャ]]、[[バシキール人]]民族主義者の[[ゼキ・ヴェリディ・トガン|アフメト・ゼキ・ヴェリディ]]などの著名人も参加した。そのため、しばしば[[汎テュルク主義]]や[[汎イスラーム主義]]的な性格をもつ運動として位置付けられることがある。


== フェルガナ盆地での展開 ==
== 戦闘の経過 ==
=== フェルガナ盆地での展開 ===
ロシア内戦の激化を受けて、[[1917年]]に[[フェルガナ盆地]]の[[コーカンド]]にて、在地ムスリム有力者らによる[[トルキスタン自治政府]]が設立された。自治政府は、イスラーム指導者やムスリム商人、[[ムスタファ・チョカエフ]]ら[[ジャディード運動|ジャディード]]知識人で構成され、トルキスタンの自治を宣言した。
ロシア内戦の激化を受けて、[[1917年]]に[[フェルガナ盆地]]の[[コーカンド]]にて、在地ムスリム有力者らによる[[トルキスタン自治政府]]が設立された。自治政府は、イスラーム指導者やムスリム商人、{{仮リンク|ムスタファ・チョカイ|en|Mustafa Shokay}}({{lang|ru|Мустафа́ Шока́й}})<!--[[ムスタファ・チョカエフ]]-->ら[[ジャディード運動|ジャディード]]知識人で構成され、トルキスタンの自治を宣言した。


これに対し、[[タシケント]]市のロシア人労働者を中心とした[[赤軍]]は、[[1918年]]にコーカンドを攻撃し自治政府を解体した。これにより、旧自治政府の残党によるソビエト政権に対する武装闘争が始まった。
これに対し、[[タシケント]]市のロシア人労働者を中心とした[[赤軍]]は、[[1918年]]にコーカンドを攻撃し自治政府を解体した。これにより、旧自治政府の残党によるソビエト政権に対する武装闘争が始まった。


反乱勢力は、'''クルバシュ'''と呼ばれた司令官に率いられた。フェルガナで最初のクルバシュとなったのは、コーカンドの元警察署長であった小エルガシュ({{lang|ru|Маленький Эргаш}})であり、その死後はコーカンドの[[ウラマー]]であった大エルガシュ({{lang|ru|Большой Эргаш}})が反乱勢力を率いた。
反乱勢力は、'''{{仮リンク|クルバシュ|ru|Курбаши|lt|Kurbašis}}'''と呼ばれた司令官に率いられた。フェルガナで最初のクルバシュとなったのは、コーカンドの元警察署長であった小エルガシュ({{lang|ru|Маленький Эргаш}}、{{lang|ru|Кичик Эргаш}})であり、その死後はコーカンドの[[ウラマー]]であった大エルガシュ({{lang|ru|Большой Эргаш}}、{{lang|ru|Катта Эргаш}})が反乱勢力を率いた。


一方で、エルガシュの勢力とは別に、[[マダミン=ベク]]({{lang|ru|Мадамин-бек}})の勢力は独自に[[アンディジャン]]の鉄道網を攻撃し、ロシア人居留民の自警団と結んで、フェルガナ臨時政府を樹立した。[[1919年]]には、ムスリムの反乱はフェルガナ盆地全土を制圧することとなり、マダミン=ベクは赤軍と協定を結んで、赤軍の傘下に加わった。しかし、同年3月にハル・ホジャ({{lang|ru|Хал-ходжа}})によりマダミン=ベクは殺害された。
一方で、エルガシュの勢力とは別に、{{仮リンク|マダミン=ベク|ru|Мадамин-бек}}({{lang|ru|Мадамин-бек}})の勢力は独自に[[アンディジャン]]の鉄道網を攻撃し、ロシア人居留民の自警団と結んで、フェルガナ臨時政府を樹立した。[[1919年]]には、ムスリムの反乱はフェルガナ盆地全土を制圧することとなり、マダミン=ベクは赤軍と協定を結んで、赤軍の傘下に加わった。しかし、同年3月にクルバシュのハル・ホジャ({{lang|ru|Хал-ходжа}})によりマダミン=ベクは殺害された。


マダミン=ベクの没後、フェルガナの反乱勢力はシェル・ムハンマド・ベク({{lang|ru|Шер Мухаммад-бек}})により率いられたが、赤軍は[[ミハイル・フルンゼ|フルンゼ]]が率いる軍隊を投入し、徐々に反乱勢力を制圧していった。
マダミン=ベクの没後、フェルガナの反乱勢力はシェル・ムハンマド・ベク({{lang|ru|Шер Мухаммад-бек}})により率いられたが、赤軍は[[ミハイル・フルンゼ|フルンゼ]]が率いる軍隊を投入し、徐々に反乱勢力を制圧していった。
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ソビエト政権は、バスマチに対する軍事的制圧を進める一方で、ムスリム・エリートの政権への取り込みや、反乱参加者への恩赦など、ムスリム住民に対する懐柔策を実施し、反乱勢力の拡大を防ぐよう努めた。
ソビエト政権は、バスマチに対する軍事的制圧を進める一方で、ムスリム・エリートの政権への取り込みや、反乱参加者への恩赦など、ムスリム住民に対する懐柔策を実施し、反乱勢力の拡大を防ぐよう努めた。


== ブハラでの展開 ==
=== ブハラでの展開 ===
ロシア帝国の保護国であった[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]では、[[ジャディード運動|ジャディード]]知識人を中心とした[[青年ブハラ人]]勢力が、[[1920年]]に赤軍の支援を受けて、アミール政権を打倒した。青年ブハラ人勢力は、ジャディードの[[ファイズッラ・ホジャエフ]]を首班として、[[ブハラ人民ソビエト共和国]]を設立した。政権を追われたアミール・サイイド・アリム・ハンは、旧政権の勢力を糾合して反ソ活動を行うこととなった。アミールは、ロカイ族の首長[[イブラヒム=ベク]]に率いられた[[トルクメン人]]部隊を使い、赤軍に頑強に抵抗したが敗北し、[[1921年]]には[[アフガニスタン]]への逃亡を余儀なくされた。
ロシア帝国の保護国であった[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]では、[[ジャディード運動|ジャディード]]知識人を中心とした{{仮リンク|青年ブハラ人|en|Young Bukharians}}勢力が、[[1920年]]に赤軍の支援を受けて、アミール政権を打倒した。青年ブハラ人勢力は、ジャディードの[[ファイズッラ・ホジャエフ]]を首班として、[[ブハラ人民ソビエト共和国]]を設立した。政権を追われたアミール・[[アーリム・ハーン|サイイド・アリム・ハン]]は、旧政権の勢力を糾合して反ソ活動を行うこととなった。アミールは、ロカイ族の首長{{仮リンク|イブラヒム=ベク|en|Ibrahim Bek}}に率いられた[[トルクメン人]]部隊を使い、赤軍に頑強に抵抗したが敗北し、[[1921年]]には[[アフガニスタン]]への逃亡を余儀なくされた。


一方、ソビエト当局は、オスマン帝国の元陸相でモスクワに亡命していた[[エンヴェル・パシャ]]をブハラに派遣し、バスマチ勢力の切り崩しを図った。しかし、アミールらと接触したエンヴェルは、バスマチ勢力側に寝返り、バスマチ諸勢力の糾合を目指し、[[ドゥシャンベ]]市を占領するなど各地を転戦した。しかし、[[1922年]][[8月4日]]に、東ブハラのバルジャン(現在のタジキスタン)にてエンヴェルは赤軍の攻撃を受け戦死した。その後、バスマチ勢力は山岳地帯でのゲリラ戦に移行し、住民からの支持を失い次第に勢力を失っていった。
一方、ソビエト当局は、オスマン帝国の元陸相でモスクワに亡命していた[[エンヴェル・パシャ]]をブハラに派遣し、バスマチ勢力の切り崩しを図った。しかし、アミールらと接触したエンヴェルは、バスマチ勢力側に寝返り、バスマチ諸勢力の糾合を目指し、[[ドゥシャンベ]]市を占領するなど各地を転戦した。しかし、[[1922年]][[8月4日]]に、東ブハラのバルジャン(現在のタジキスタン)にてエンヴェルは赤軍の攻撃を受け戦死した。その後、バスマチ勢力は山岳地帯でのゲリラ戦に移行し、住民からの支持を失い次第に勢力を失っていった。エンヴェル・パシャの裏切りによって、[[1923年]]に[[汎テュルク主義]]の[[ミールサイト・スルタンガリエフ|スルタンガリエフ]]らも反ソ運動を行ったという罪状で逮捕され、[[1940年]]に処刑された。


== ホラズムでの展開 ==
=== ホラズムでの展開 ===
ブハラと同じく、ロシア帝国の保護国であった[[ヒヴァ・ハン国]]では、トルクメン人有力者のジュネイト・ハンが政権を掌握していた。これに対し、ジャディード知識人を中心とした[[青年ヒヴァ人]]勢力は、赤軍の支援の下、ジュネイト・ハンを追放し、[[ホラズム人民ソビエト共和国]]を設立した。ジュネイト・ハンは、赤軍への抵抗を続けたが、アフガニスタンへ亡命を余儀なくされた。
ブハラと同じく、ロシア帝国の保護国であった[[ヒヴァ・ハン国]]では、トルクメン人有力者の[[ジュネイト・ハン]]が政権を掌握していた。これに対し、ジャディード知識人を中心とした[[青年ヒヴァ人]]({{lang|ru|младохивинский}})勢力は、赤軍の支援の下、ジュネイト・ハンを追放し、[[ホラズム人民ソビエト共和国]]を設立した。ジュネイト・ハンは、赤軍への抵抗を続けたが、アフガニスタンへ亡命を余儀なくされた。


== 日本との関係 ==
=== 日本との関係 ===
[[チェコ軍団]]の救出を名目にした1918年の[[シベリア出兵]]と共に、日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第二部は、タタールとバシキールのムスリムと関係を確立しようと試みた。当初は、[[チタ]]のムスリム活動家との接触にのみ制限されていたが、1918年夏、ドゥトフ首長の協力の下、バシキール運動の指導者の1人、[[ゼキ・ヴェリディ・トガン|アフメト・ゼキ・ヴェリディ]]と接触することができた。
[[チェコ軍団]]の救出を名目にした1918年の[[シベリア出兵]]と共に、日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第二部(情報部)は、タタールとバシキールのムスリムと関係を確立しようと試みた。当初は、[[チタ]]のムスリム活動家との接触にのみ制限されていたが、1918年夏、ドゥトフ首長の協力の下、バシキール運動の指導者の1人、[[ゼキ・ヴェリディ・トガン|アフメト・ゼキ・ヴェリディ]]と接触することができた。


1919年春、第二部は、ロシア最大のイスラム政党「ムスリム同盟」(イッチファク=アル=ムスリミン)の活動家と連絡ルートを確立しようと試みた。特に、[[ボリシェヴィキ]]の迫害から逃亡せざるを得なかった内ロシア・シベリア・ムスリム人民自治区の指導者に特別な注意が払われた。また、[[シベリア]]及び[[ウラル]]のスーフィー教団の宗教指導者も重視された。彼らとの連絡は、「ムスリム同盟」代表を通して実施された。
1919年春、第二部は、ロシア最大のイスラム政党「ムスリム同盟」(イッチファク=アル=ムスリミン)の活動家と連絡ルートを確立しようと試みた。特に、[[ボリシェヴィキ]]の迫害から逃亡せざるを得なかった内ロシア・シベリア・ムスリム人民自治区の指導者に特別な注意が払われた。また、[[シベリア]]及び{{仮リンク|ウラル (地域)|en|Ural (region)|label=ウラル}}のスーフィー教団の宗教指導者も重視された。彼らとの連絡は、「ムスリム同盟」代表を通して実施された。


タタール回教党中央委員会委員ガリムジャン・バルジは、ナクシュバンディア・ハリディアの有力なタリカートの最高指導者の1人であり、ムスリム自治の熱情的な支持者として知られていた。1919年春、第二部の要請により、[[チェリャビンスク]]の名家出身であるムスリム活動家クルバンガリエフは、[[ウファ]]でガリムジャン・バルジと会見を行った。後に彼は日本に亡命し、ソ連におけるイスラム・ファクターに関する諜報の専門家となった。
タタール回教党中央委員会委員[[ガリムジャン・バルジ]]は、ナクシュバンディア・ハリディアの有力なタリカートの最高指導者の1人であり、ムスリム自治の熱情的な支持者として知られていた。1919年春、第二部の要請により、[[チェリャビンスク]]の名家出身である[[バシキール人]]のムスリム活動家[[ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー|クルバンガリエフ]](クルバンガリー)は、[[ウファ]]でガリムジャン・バルジと会見を行った。後に彼は日本に亡命し、ソ連におけるイスラム・ファクターに関する諜報の専門家となった。


これらの活動と同時に、中国領トルスタンを経由して、[[アフガニスタン]]領土でも活発な活動が展開された。アフガニスタンからは、中央アジアのバスマチとの関係が確立された。第二部の特別の関心を引いたのは、汎イスラム政党「ウエム・ジャミヤチ」(ウラマー会議)の活動家、並びに1918年2月にボリシェヴィキにより廃止されたコーカンド自治州の指導者達だった。[[1921年]]に[[ウラジオストク]]に住み着いた元自治政府副議長シャー=イスラム・シャギアフメトフと最も密接な関係が確立された。
これらの活動と同時に、中国領トルスタンを経由して、[[アフガニスタン]]領土でも活発な活動が展開された。アフガニスタンからは、中央アジアのバスマチとの関係が確立された。第二部の特別の関心を引いたのは、汎イスラム政党「ウエム・ジャミヤチ」(ウラマー会議)の活動家、並びに1918年2月にボリシェヴィキにより廃止されたコーカンド自治州の指導者達だった。[[1921年]]に[[ウラジオストク]]に住み着いた元自治政府副議長[[シャー=イスラム・シャギアフメトフ]]と最も密接な関係が確立された。


[[1922年]]秋のシベリアからの撤兵後も活動は継続し、第二部は、タジキスタン及びウズベキスタンのバスマチの支援に着手した。[[1920年代]]末から[[1930年代]]初め、第二部は、ウズベク人バスマチ指導者[[イブラヒム=ベク]]と密接な関係を確立した。当時、イブラヒム=ベクは、アフガニスタン北部で顕著な軍事・政治的影響力を有し、タジキスタンに非常に多数の、ウズベキスタンにある程度の支持者を有していた。第二部は、彼の側近ウタン=ベクを通して彼と接触した。しかしながら、[[1931年]]夏にイブラヒム=ベクの部隊が撃破されてからは、日本の活動はアフガニスタン領内へと縮小した。
[[1922年]]秋のシベリアからの撤兵後も活動は継続し、第二部は、タジキスタン及びウズベキスタンのバスマチの支援に着手した。[[1920年代]]末から[[1930年代]]初め、第二部は、ウズベク人バスマチ指導者{{仮リンク|イブラヒム=ベク|en|Ibrahim Bek}}と密接な関係を確立した。当時、イブラヒム=ベクは、アフガニスタン北部で顕著な軍事・政治的影響力を有し、タジキスタンに非常に多数の、ウズベキスタンにある程度の支持者を有していた。第二部は、彼の側近[[ウタン=ベク]]を通して彼と接触した。しかしながら、[[1931年]]夏にイブラヒム=ベクの部隊が撃破されてからは、日本の活動はアフガニスタン領内へと縮小した。


== バスマチ運動に対する評価 ==
== バスマチ運動に対する評価 ==
ソ連史学においては、バスマチは反動的な反革命運動として一様に否定的に評価されてきた。ソ連崩壊後、新たに独立した中央アジア諸国では、民族独立運動の潮流の1つとしてバスマチ運動を位置付けようとする動向も見られる。
ソ連史学においては、バスマチは反動的な反革命運動として一様に否定的に評価されてきた。ソ連崩壊後、新たに独立した中央アジア諸国では、民族独立運動の潮流の1つとしてバスマチ運動を位置付けようとする動向も見られる。


また、バスマチは「異郷の地での反革命運動」として、しばしば[[オリエンタリズム]]的な好奇の視線の対象となり、ソ連邦の[[西部劇]]の題材として好んで取り上げられた。バスマチを扱った主な作品として『砂漠の白い太陽({{lang|ru|Белое Солнце Пустыни}})、『7つ目の弾丸({{lang|ru|Седьмая Пуля}})、『護衛({{lang|ru|Телохранитель}})といった映画が挙げられる。
また、バスマチは「異郷の地での反革命運動」として、しばしば[[オリエンタリズム]]的な好奇の視線の対象となり、ソ連[[西部劇]]である[[東部劇]]の題材として好んで取り上げられた。バスマチを扱った主な作品として『{{仮リンク|砂漠の白い太陽|ru|Белое солнце пустыни|en|White Sun of the Desert}}』({{lang|ru|Белое Солнце Пустыни}}、[[1970年]])、『{{仮リンク|7つ目の弾丸|ru|Седьмая пуля|en|The Seventh Bullet (1972 film)}}』({{lang|ru|Седьмая Пуля}}、[[1972年]])、『{{仮リンク|ボディガード (1979年)|ru|Телохранитель (фильм, 1979)|en|The Bodyguard (1979 film)|label=護衛}}』({{lang|ru|Телохранитель}}、[[1979年]])といった映画が挙げられる。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* [http://www.agentura.ru/dossier/izrail/people/falkov/japan/ {{lang|ru|Самураи на южных рубежах России}}](『ロシア南部国境のサムライ』、ロシア語)
* [http://www.agentura.ru/dossier/izrail/people/falkov/japan/ {{lang|ru|Самураи на южных рубежах России}}](『ロシア南部国境のサムライ』、ロシア語)


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2023年4月8日 (土) 16:16時点における最新版

バスマチ蜂起ロシア語Восстание басмачей)、またはバスマチ運動ロシア語Басмаческие движениеウズベク語Bosmachilar harakati)は、1920年代初頭を中心に中央アジアで起きた反ソビエト武力運動の総称である。反乱には在地有力者を中心に、中央アジアのムスリム住民の広範な層が参加し、ソビエト政権およびロシア人による中央アジア支配に抵抗した。ロシア内戦期の1918年から1924年にかけて最盛期を迎えたが、1920年代半ばまでにソヴィエト政権によりほぼ鎮圧された。

概要[編集]

バスマチ運動の展開[編集]

「バスマチ」と呼ばれた中央アジアにおけるムスリムの反乱は、第一次世界大戦中のムスリムの戦時徴用に反対して起きた1916年の反乱に始まる。反乱は、フェルガナ盆地ブハラ東ブハラ(現在のタジキスタン)、ホラズムの4地域でそれぞれ異なる展開を見せ、ロシア内戦中の1918年から1924年に最盛期を迎えた後、農業集団化政策への反発から1920年代後半に再燃した。地域によっては、反乱は1930年代半ばまで散発的に続いた。

「バスマチ」という呼称は、テュルク系言語で「襲撃者」を意味する「バスキンジ(baskinji)」に由来するとされる。「バスマチ」は、ロシア帝国の行政官の間で、ロシア当局に対する反乱勢力や匪賊集団を指す用語として使われ始め、ソビエト当局もその呼称を引き継いだ。

バスマチ勢力は、遊牧民の部族長や、地方共同体の有力者(アクサカル)、神秘主義教団の長(イシャーン)、匪賊、ジャディード運動の活動家といった指導者に率いられた、様々な勢力から構成されており、ソビエト政権側はこれらの勢力を一括して「バスマチ」と呼称した。

また、バスマチ運動には、ブハラ・アミール国の最後のアミールであるサイイド・アリム・ハンや、オスマン帝国の元陸相エンヴェル・パシャバシキール人民族主義者のアフメト・ゼキ・ヴェリディなどの著名人も参加した。そのため、しばしば汎テュルク主義汎イスラーム主義的な性格をもつ運動として位置付けられることがある。

戦闘の経過[編集]

フェルガナ盆地での展開[編集]

ロシア内戦の激化を受けて、1917年フェルガナ盆地コーカンドにて、在地ムスリム有力者らによるトルキスタン自治政府が設立された。自治政府は、イスラーム指導者やムスリム商人、ムスタファ・チョカイ英語版Мустафа́ Шока́й)らジャディード知識人で構成され、トルキスタンの自治を宣言した。

これに対し、タシケント市のロシア人労働者を中心とした赤軍は、1918年にコーカンドを攻撃し自治政府を解体した。これにより、旧自治政府の残党によるソビエト政権に対する武装闘争が始まった。

反乱勢力は、クルバシュロシア語版リトアニア語版と呼ばれた司令官に率いられた。フェルガナで最初のクルバシュとなったのは、コーカンドの元警察署長であった小エルガシュ(Маленький ЭргашКичик Эргаш)であり、その死後はコーカンドのウラマーであった大エルガシュ(Большой ЭргашКатта Эргаш)が反乱勢力を率いた。

一方で、エルガシュの勢力とは別に、マダミン=ベクロシア語版Мадамин-бек)の勢力は独自にアンディジャンの鉄道網を攻撃し、ロシア人居留民の自警団と結んで、フェルガナ臨時政府を樹立した。1919年には、ムスリムの反乱はフェルガナ盆地全土を制圧することとなり、マダミン=ベクは赤軍と協定を結んで、赤軍の傘下に加わった。しかし、同年3月にクルバシュのハル・ホジャ(Хал-ходжа)によりマダミン=ベクは殺害された。

マダミン=ベクの没後、フェルガナの反乱勢力はシェル・ムハンマド・ベク(Шер Мухаммад-бек)により率いられたが、赤軍はフルンゼが率いる軍隊を投入し、徐々に反乱勢力を制圧していった。

ソビエト政権は、バスマチに対する軍事的制圧を進める一方で、ムスリム・エリートの政権への取り込みや、反乱参加者への恩赦など、ムスリム住民に対する懐柔策を実施し、反乱勢力の拡大を防ぐよう努めた。

ブハラでの展開[編集]

ロシア帝国の保護国であったブハラ・アミール国では、ジャディード知識人を中心とした青年ブハラ人英語版勢力が、1920年に赤軍の支援を受けて、アミール政権を打倒した。青年ブハラ人勢力は、ジャディードのファイズッラ・ホジャエフを首班として、ブハラ人民ソビエト共和国を設立した。政権を追われたアミール・サイイド・アリム・ハンは、旧政権の勢力を糾合して反ソ活動を行うこととなった。アミールは、ロカイ族の首長イブラヒム=ベク英語版に率いられたトルクメン人部隊を使い、赤軍に頑強に抵抗したが敗北し、1921年にはアフガニスタンへの逃亡を余儀なくされた。

一方、ソビエト当局は、オスマン帝国の元陸相でモスクワに亡命していたエンヴェル・パシャをブハラに派遣し、バスマチ勢力の切り崩しを図った。しかし、アミールらと接触したエンヴェルは、バスマチ勢力側に寝返り、バスマチ諸勢力の糾合を目指し、ドゥシャンベ市を占領するなど各地を転戦した。しかし、1922年8月4日に、東ブハラのバルジャン(現在のタジキスタン)にてエンヴェルは赤軍の攻撃を受け戦死した。その後、バスマチ勢力は山岳地帯でのゲリラ戦に移行し、住民からの支持を失い次第に勢力を失っていった。エンヴェル・パシャの裏切りによって、1923年汎テュルク主義スルタンガリエフらも反ソ運動を行ったという罪状で逮捕され、1940年に処刑された。

ホラズムでの展開[編集]

ブハラと同じく、ロシア帝国の保護国であったヒヴァ・ハン国では、トルクメン人有力者のジュネイト・ハンが政権を掌握していた。これに対し、ジャディード知識人を中心とした青年ヒヴァ人младохивинский)勢力は、赤軍の支援の下、ジュネイト・ハンを追放し、ホラズム人民ソビエト共和国を設立した。ジュネイト・ハンは、赤軍への抵抗を続けたが、アフガニスタンへ亡命を余儀なくされた。

日本との関係[編集]

チェコ軍団の救出を名目にした1918年のシベリア出兵と共に、日本陸軍参謀本部第二部(情報部)は、タタールとバシキールのムスリムと関係を確立しようと試みた。当初は、チタのムスリム活動家との接触にのみ制限されていたが、1918年夏、ドゥトフ首長の協力の下、バシキール運動の指導者の1人、アフメト・ゼキ・ヴェリディと接触することができた。

1919年春、第二部は、ロシア最大のイスラム政党「ムスリム同盟」(イッチファク=アル=ムスリミン)の活動家と連絡ルートを確立しようと試みた。特に、ボリシェヴィキの迫害から逃亡せざるを得なかった内ロシア・シベリア・ムスリム人民自治区の指導者に特別な注意が払われた。また、シベリア及びウラル英語版のスーフィー教団の宗教指導者も重視された。彼らとの連絡は、「ムスリム同盟」代表を通して実施された。

タタール回教党中央委員会委員ガリムジャン・バルジは、ナクシュバンディア・ハリディアの有力なタリカートの最高指導者の1人であり、ムスリム自治の熱情的な支持者として知られていた。1919年春、第二部の要請により、チェリャビンスクの名家出身であるバシキール人のムスリム活動家クルバンガリエフ(クルバンガリー)は、ウファでガリムジャン・バルジと会見を行った。後に彼は日本に亡命し、ソ連におけるイスラム・ファクターに関する諜報の専門家となった。

これらの活動と同時に、中国領トルキスタンを経由して、アフガニスタン領土でも活発な活動が展開された。アフガニスタンからは、中央アジアのバスマチとの関係が確立された。第二部の特別の関心を引いたのは、汎イスラム政党「ウエム・ジャミヤチ」(ウラマー会議)の活動家、並びに1918年2月にボリシェヴィキにより廃止されたコーカンド自治州の指導者達だった。1921年ウラジオストクに住み着いた元自治政府副議長シャー=イスラム・シャギアフメトフと最も密接な関係が確立された。

1922年秋のシベリアからの撤兵後も活動は継続し、第二部は、タジキスタン及びウズベキスタンのバスマチの支援に着手した。1920年代末から1930年代初め、第二部は、ウズベク人バスマチ指導者イブラヒム=ベク英語版と密接な関係を確立した。当時、イブラヒム=ベクは、アフガニスタン北部で顕著な軍事・政治的影響力を有し、タジキスタンに非常に多数の、ウズベキスタンにある程度の支持者を有していた。第二部は、彼の側近ウタン=ベクを通して彼と接触した。しかしながら、1931年夏にイブラヒム=ベクの部隊が撃破されてからは、日本の活動はアフガニスタン領内へと縮小した。

バスマチ運動に対する評価[編集]

ソ連史学においては、バスマチは反動的な反革命運動として一様に否定的に評価されてきた。ソ連崩壊後、新たに独立した中央アジア諸国では、民族独立運動の潮流の1つとしてバスマチ運動を位置付けようとする動向も見られる。

また、バスマチは「異郷の地での反革命運動」として、しばしばオリエンタリズム的な好奇の視線の対象となり、ソ連版西部劇である東部劇の題材として好んで取り上げられた。バスマチを扱った主な作品として『砂漠の白い太陽ロシア語版英語版』(Белое Солнце Пустыни1970年)、『7つ目の弾丸ロシア語版英語版』(Седьмая Пуля1972年)、『護衛ロシア語版英語版』(Телохранитель1979年)といった映画が挙げられる。

参考文献[編集]

  • 帯谷知可 「バスマチ運動」 『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社 2005年 pp.428-429.
  • 小松久男 『革命の中央アジア』 東京大学出版会 1996年
  • ハサン・パクソイ 「バスマチ:トルキスタン民族解放運動 1916年-1930年代」 [1]
  • ハサン・パクソイ 「内部から見たバスマチ運動:ゼキ・ヴェリディ・トガンの回想録」 [2]
  • Х. Турсунов: Восстание 1916 Года в Средней Азии и Казахстане. Таshkent (1962)
  • Б.В. Лунин: Басмачество Tashkent (1984)
  • Яков Нальский: В горах Восточной Бухары. (Повесть по воспоминаниям сотрудников КГБ) Dushanbe (1984)
  • Alexander Marshall: "Turkfront: Frunze and the Development of Soviet Counter-insurgency in Central Asia" in Tom Everett-Heath (Ed.) "Central Asia. Aspects of Transition", RoutledgeCurzon, London, 2003; ISBN 0-7007-0956-8 (cloth) ISBN 0-7007-0957-6 (pbk.)
  • Fazal-ur-Rahim Khan Marwat: The Basmachi movement in Soviet Central Asia: A study in political development., Peshawar, Emjay Books International (1985)
  • Marco Buttino: "Ethnicité et politique dans la guerre civile: à propos du 'basmačestvo' au Fergana", Cahiers du monde russe et sovietique, Vol. 38, No. 1-2, (1997)
  • Marie Broxup: The Basmachi. Central Asian Survey, Vol. 2 (1983), No. 1, pp. 57-81.
  • Sir Olaf Caroe: Soviet Empire: The Turks of Central Asia and Stalinism 2nd ed., London, Macmillan (1967) ISBN 0-312-74795-0
  • Glenda Fraser: "Basmachi (parts I and II)", Central Asian Survey, Vol. 6 (1987), No. 1, pp. 1-73, and No.2, pp. 7-42.
  • Baymirza Hayit: Basmatschi. Nationaler Kampf Turkestans in den Jahren 1917 bis 1934. Köln, Dreisam-Verlag (1993)
  • Mustafa Chokay: "The Basmachi Movement in Turkestan", The Asiatic Review Vol.XXIV (1928)

外部リンク[編集]