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「エドアルド・レヤ」の版間の差分

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'''エドアルド・レヤ'''('''Edoardo Reja''', [[1945年]][[10月10日]] - )は、[[イタリア]]・[[ゴリツィア]]出身の元[[サッカー選手]]、現サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。名前の表記にはレハ、レーヤなどもある。[[スロベニア]]人の両親に生まれ、[[スロベニア語]]、[[イタリア語]]、[[フリウリ語]]を話す。
'''エドアルド・レヤ'''('''Edoardo Reja''', [[1945年]][[10月10日]] - )は、[[イタリア]]・[[ゴリツィア]]出身の元[[サッカー選手]]、現サッカー指導者。[[サッカーアルバニア代表|アルバニア代表]]監督。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]。名前の表記にはレハ、レーヤなどもある。[[スロベニア]]人の両親に生まれ、[[スロベニア語]]、[[イタリア語]]、[[フリウリ語]]を話す。


クラブでの指導歴は30年近くにわたるものの、セリエAでの監督経験は[[ヴィチェンツァ・カルチョ]]、[[SSCナポリ]]、[[SSラツィオ]]、[[アタランタBC]]の時のみである。途中解任を含めなければ、[[1979年]]に監督としてのキャリアをはじめてから、1年も休まずに活動している。また、ナポリ監督としての年数は1980年代末ナポリ全盛期の監督{{仮リンク|オッタヴィオ・ビアンキ|en|Ottavio Bianchi}}に並び最長となっている。
クラブでの指導歴は30年近くにわたるものの、セリエAでの監督経験は[[ヴィチェンツァ・カルチョ]]、[[SSCナポリ]]、[[SSラツィオ]]、[[アタランタBC]]の時のみである。途中解任を含めなければ、[[1979年]]に監督としてのキャリアをはじめてから、1年も休まずに活動している。また、ナポリ監督としての年数は1980年代末ナポリ全盛期の監督[[オッタヴィオ・ビアンキ]]に並び最長となっている。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
選手としては[[SPAL 2013|SPAL1907]]、[[USチッタ・ディ・パレルモ|パレルモ]]、[[USアレッサンドリア・カルチョ1912|USアレッサンドリア・カルチョ]]の3チームに所属。このうちパレルモで[[セリエA (サッカー)|セリエA]]通算124試合に出場した。
選手としては[[S.P.A.L.|SPAL1907]]、[[USチッタ・ディ・パレルモ|パレルモ]]、[[USアレッサンドリア・カルチョ1912|USアレッサンドリア・カルチョ]]の3チームに所属。このうちパレルモで[[セリエA (サッカー)|セリエA]]通算124試合に出場した。


1979年、[[セリエD (サッカー)|セリエD]]に所属する[[モリネッラ・カルチョ1911]]の監督に就任。指導者として歩み始める。翌年には[[レガ・プロ・セコンダ・ディヴィジオーネ|セリエC2]]の[[モンセーリチェ・カルチョ1926]]の監督に就任。その後、1989年には自身初の[[セリエB (サッカー)|セリエB]]経験となる[[デルフィーノ・ペスカーラ1936|ペスカーラ・カルチョ]]の監督に就任する。
1979年、[[セリエD (サッカー)|セリエD]]に所属する[[モリネッラ・カルチョ1911]]の監督に就任。指導者として歩み始める。翌年には[[レガ・プロ・セコンダ・ディヴィジオーネ|セリエC2]]の[[モンセーリチェ・カルチョ1926]]の監督に就任。その後、1989年には自身初の[[セリエB (サッカー)|セリエB]]経験となる[[デルフィーノ・ペスカーラ1936|ペスカーラ・カルチョ]]の監督に就任する。
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2015年3月、[[アタランタBC]]の監督に就任<ref>[http://qoly.jp/2015/03/05/atalanta-signed-new-coach-with-edy-reja アタランタ、コラントゥオーノ監督を解任] -Qoly Football Web Magazine: 2015年3月5日</ref>。クラブは前年を上回るリーグ13位でシーズンを終えたが、2016年6月14日に[[ベルガモ]]を去ることが発表された<ref>{{Cite web |url=http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2016/06/14/24627732/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%82%92%E5%8E%BB%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB |title=ジェノアを去ったガスペリーニ、アタランタの新監督に |publisher=Goal.com |date=2016-06-14 |accessdate=2018-01-04}}</ref>。
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== エピソード ==
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* [[イタリア]]を代表する名将[[ファビオ・カペッロ]]は親友である。[[フェッラーラ]]にある[[SPAL 2013|SPAL1907]]所属時、カペッロとチームメートとなり、ハウスシェアの経験もある。カペッロの妻ラウラの友人リヴィアはレヤと結婚した。
* [[イタリア]]を代表する名将[[ファビオ・カペッロ]]は親友である。[[フェッラーラ]]にある[[S.P.A.L.|SPAL1907]]所属時、カペッロとチームメートとなり、ハウスシェアの経験もある。カペッロの妻ラウラの友人リヴィアはレヤと結婚した。
* {{要出典範囲|CALCiO2002のインタビューにおいて、守備的な戦術家と決め付けられることを嫌がっている。本人は、4-3-3を基本とする攻撃重視であると語っている|date=2017-04}}。
* {{要出典範囲|CALCiO2002のインタビューにおいて、守備的な戦術家と決め付けられることを嫌がっている。本人は、4-3-3を基本とする攻撃重視であると語っている|date=2017-04}}。


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* [http://www.transfermarkt.co.uk/edoardo-reja/profil/trainer/3158 Edoardo Reja - manager profile] Transfermarkt
* [http://www.transfermarkt.co.uk/edoardo-reja/profil/trainer/3158 Edoardo Reja - manager profile] Transfermarkt


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2023年4月27日 (木) 16:36時点における最新版

エドアルド・レヤ
ラツィオ監督時代(2014年)
名前
愛称 Edy
ラテン文字 Edoardo Reja
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1945-10-10) 1945年10月10日(78歳)
出身地 ゴリツィア
身長 175cm
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1963-1968 イタリアの旗 SPAL 70 (2)
1968-1973 イタリアの旗 パレルモ 124 (1)
1973-1975 イタリアの旗 アレッサンドリア 76 (1)
1963-1975 通算 270 (4)
監督歴
1979-1980 イタリアの旗 モリネッラ英語版
1980-1981 イタリアの旗 モンセーリチェ英語版
1981-1982 イタリアの旗 ポルデノーネ
1982-1983 イタリアの旗 モンセーリチェ
1983-1984 イタリアの旗 プロ・ゴリツィア英語版
1984-1985 イタリアの旗 トレヴィーゾ
1985-1986 イタリアの旗 メストレ英語版
1986-1987 イタリアの旗 ヴァレーゼ
1987-1989 イタリアの旗 ペスカーラ (Primavera)
1989-1990 イタリアの旗 ペスカーラ
1990-1992 イタリアの旗 コゼンツァ
1992-1993 イタリアの旗 ヴェローナ
1993-1994 イタリアの旗 ボローニャ
1994-1995 イタリアの旗 レッチェ
1996-1997 イタリアの旗 ブレシア
1997-1998 イタリアの旗 トリノ
1998-2001 イタリアの旗 ヴィチェンツァ
2001-2002 イタリアの旗 ジェノア
2003 イタリアの旗 カターニア
2003-2004 イタリアの旗 カリアリ
2005-2009 イタリアの旗 ナポリ
2009-2010 クロアチアの旗 ハイドゥク・スプリト
2010-2012 イタリアの旗 ラツィオ
2014 イタリアの旗 ラツィオ
2015-2016 イタリアの旗 アタランタ
2019-2022 アルバニアの旗 アルバニア
1. 国内リーグ戦に限る。2023年4月28日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エドアルド・レヤEdoardo Reja, 1945年10月10日 - )は、イタリアゴリツィア出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。アルバニア代表監督。現役時代のポジションはMF。名前の表記にはレハ、レーヤなどもある。スロベニア人の両親に生まれ、スロベニア語イタリア語フリウリ語を話す。

クラブでの指導歴は30年近くにわたるものの、セリエAでの監督経験はヴィチェンツァ・カルチョSSCナポリSSラツィオアタランタBCの時のみである。途中解任を含めなければ、1979年に監督としてのキャリアをはじめてから、1年も休まずに活動している。また、ナポリ監督としての年数は1980年代末ナポリ全盛期の監督オッタヴィオ・ビアンキに並び最長となっている。

経歴

[編集]

選手としてはSPAL1907パレルモUSアレッサンドリア・カルチョの3チームに所属。このうちパレルモでセリエA通算124試合に出場した。

1979年、セリエDに所属するモリネッラ・カルチョ1911の監督に就任。指導者として歩み始める。翌年にはセリエC2モンセーリチェ・カルチョ1926の監督に就任。その後、1989年には自身初のセリエB経験となるペスカーラ・カルチョの監督に就任する。

ヴィチェンツァ・カルチョカリアリ・カルチョセリエA昇格に導き、昇格のエキスパートとしての評価を高めた。ヴィチェンツァでは初のトップリーグ挑戦となったが、クラブは降格となる。カリアリでは、3トップとジャンフランコ・ゾラを中心として圧倒的強さを誇るチームを構築し、セリエB優勝を果たす。

2005年1月にジャンピエロ・ヴェントゥーラの後任としてSSCナポリの監督に就任。2005-06シーズンにはセリエC1に低迷していたナポリをセリエBへ、2006-07シーズンにはセリエBでユヴェントスFCに次ぐ2位に導き、クラブを6シーズンぶりにセリエAへ昇格させた。

2007-08シーズンには、マレク・ハムシークワルテル・ガルガーノエセキエル・ラベッシマルセロ・サラジェタなど新戦力を上手くチームに融合させ、昇格1年目にしてリーグ8位へと躍進させた。ホームゲームでの勝負強さが際立っており、インテル・ミラノACミラン、ユヴェントスなどの強豪相手に勝利した。

2008-09シーズン、ナポリを率いてUEFAインタートトカップを勝ち抜き、UEFAカップ出場を果たすが、SLベンフィカと戦い1回戦敗退。セリエAでは開幕当初よりラベッシ、ハムシクを中心にチームは好調で、ユヴェントスを撃破するなどの成果を挙げた。しかし2009年に入るとチームは失速し、不調の責任を問われ3月に解任された。後任には前イタリア代表監督ロベルト・ドナドーニが就任。

2009年8月、クロアチアの強豪ハイデュク・スプリトの監督に就任した。同クラブは開幕から2節経過後にアンテ・ミシェ英語版を解任し、後任にイヴィツァ・カリニッチ英語版を招聘したものの初采配直後に心臓病に倒れて指揮が執れなくなっていた。自身初の海外での指揮となる。シーズン途中の2010年2月、不振に陥っていたイタリアSSラツィオより監督就任要請を受け、ハイデュクとの契約を解除しラツィオ監督に就任[1]

2014年1月、再びラツィオの監督に就任する。

2015年3月、アタランタBCの監督に就任[2]。クラブは前年を上回るリーグ13位でシーズンを終えたが、2016年6月14日にベルガモを去ることが発表された[3]

2019年4月17日、アルバニア代表の監督に就任したことが発表された[4]

エピソード

[編集]
  • イタリアを代表する名将ファビオ・カペッロは親友である。フェッラーラにあるSPAL1907所属時、カペッロとチームメートとなり、ハウスシェアの経験もある。カペッロの妻ラウラの友人リヴィアはレヤと結婚した。
  • CALCiO2002のインタビューにおいて、守備的な戦術家と決め付けられることを嫌がっている。本人は、4-3-3を基本とする攻撃重視であると語っている[要出典]

タイトル

[編集]

選手時代

[編集]
SPAL
アレッサンドリア

指導者時代

[編集]
ブレシア
ヴィチェンツァ
  • セリエB : 1999-00
ナポリ
  • セリエC1 : 2005-06

脚注

[編集]
  1. ^ 降格の危機からスクデット獲りへ!ラツィオを変えた老将レーヤの兵法。 -NumberWeb: 2010年11月12日
  2. ^ アタランタ、コラントゥオーノ監督を解任 -Qoly Football Web Magazine: 2015年3月5日
  3. ^ ジェノアを去ったガスペリーニ、アタランタの新監督に”. Goal.com (2016年6月14日). 2018年1月4日閲覧。
  4. ^ パヌッチ解任のアルバニア代表、イタリア屈指の老将レヤ氏を招へい”. 超ワールドサッカー (2019年4月18日). 2019年4月18日閲覧。

外部リンク

[編集]