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'''緑軍'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Зелёная армия}}'''<ref>{{lang|ru|зеленоарме́йцы}}とも。</ref>)は、[[ロシア革命]]後の[[ロシア内戦]]の時期に旧[[ロシア帝国]]領内外で活動した、[[農家|農民]]や[[コサック]]を中心とした非正規の[[軍隊|軍事組織]]の通称である。'''緑の蜂起軍'''('''{{lang|ru|зелёные повста́нцы}}''')、'''緑の[[パルチザン]]'''('''{{lang|ru|зелёные партиза́ны}}''')、'''緑色運動'''('''{{lang|ru|Зелёное движе́ние}}''')<ref>ロシア語では今日の[[緑の党]]の活動と同じ単語になるが、関係ない。</ref>、'''第三勢力'''('''{{lang|ru|тре́тья си́ла}}''')とも呼ばれる。
'''緑軍'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Зелёная армия}}'''<ref>{{lang|ru|зеленоарме́йцы}}とも。</ref>)は、[[ロシア革命]]後の[[ロシア内戦]]の時期に旧[[ロシア帝国]]領内外で活動した、[[農家|農民]]や[[コサック]]を中心とした非正規の[[軍隊|軍事組織]]の通称である。'''緑の蜂起軍'''('''{{lang|ru|зелёные повста́нцы}}''')、'''緑の[[パルチザン]]'''('''{{lang|ru|зелёные партиза́ны}}''')、'''緑色運動'''('''{{lang|ru|Зелёное движе́ние}}''')<ref>ロシア語では今日の[[緑の党]]の活動と同じ単語になるが、関係ない。</ref>、'''第三勢力'''('''{{lang|ru|тре́тья си́ла}}''')とも呼ばれる。


反[[ボリシェヴィキ]]、反[[白軍]]を基本としたが、その中でも親[[赤軍]]派は'''赤緑'''('''{{lang|ru|красно-зелёные}}''')<ref>[http://web.archive.org/20100503161741/kraj-kuban.by.ru/economy-3.htm ] {{ru icon}}</ref><ref>[http://kavkaz-tour.com/page20.htm] {{ru icon}}</ref>、親白軍派は'''白緑'''('''{{lang|ru|бело-зелёные}}''')<ref>[http://admkrai.kuban.ru/kazachestvo/history/4220.html] {{ru icon}}</ref>と呼ばれた。なお、広義には主要勢力である赤軍と白軍に所属しない第三勢力のことを'''緑'''と呼ぶこともある。
反[[ボリシェヴィキ]]、反[[白軍]]を基本としたが、その中でも親[[赤軍]]派は'''赤緑'''('''{{lang|ru|красно-зелёные}}''')<ref>[https://web.archive.org/web/20100503161741/kraj-kuban.by.ru/economy-3.htm ] {{ru icon}}</ref><ref>[http://kavkaz-tour.com/page20.htm] {{ru icon}}</ref>、親白軍派は'''白緑'''('''{{lang|ru|бело-зелёные}}''')<ref>[http://admkrai.kuban.ru/kazachestvo/history/4220.html] {{ru icon}}</ref>と呼ばれた。なお、広義には主要勢力である赤軍と白軍に所属しない第三勢力のことを'''緑'''と呼ぶこともある。


== 概要 ==
== 概要 ==
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[[File:Grupo_de_Combate_del_Ejército_Negro.JPG|200px|thumb|マフノ派の兵士たち]]
[[File:Grupo_de_Combate_del_Ejército_Negro.JPG|200px|thumb|マフノ派の兵士たち]]
[[ウクライナ]]では、[[ネストル・マフノ]]に指導された農民[[アナキズム|アナキスト]]派の[[ウクライナ革命蜂起軍]]による「マフノ運動」が、[[1918年]]から[[1921年]]にかけて南部を中心に隆盛した。彼らは農村部に大きな影響力を持ち、中央政府である[[ウクライナ人民共和国]]、[[ウクライナ国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、白軍、[[ソビエト]]政府に反対する運動を展開した。
[[ウクライナ]]では、[[ネストル・マフノ]]に指導された農民[[アナキズム|アナキスト]]派の[[ウクライナ革命蜂起軍]](黒軍)による「マフノ運動」が、[[1918年]]から[[1921年]]にかけて南部を中心に隆盛した。彼らは農村部に大きな影響力を持ち、中央政府である[[ウクライナ人民共和国]]、[[ウクライナ国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[白軍]]、[[ソビエト]]政府に反対する運動を展開した。


ウクライナで特徴的なのは[[ウクライナ・コサック]]の伝統からの影響で、多くの非正規軍の指導者がコサックの長官である「[[アタマン|オタマーン / アタマーン]]」の称号を名乗った。彼らを、'''蜂起オタマーン'''([[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|повстанський отаман}}''')と呼ぶ。その代表格は「オタマーン・フルィホールイェウ / アタマーン・グリゴリエフ」の名で知られる[[マトヴィー・フルィホールイェ|ヌィチーピル・セルヴェートヌィク]]と「オタマーン・ゼレーヌィイ(緑)」の名で知られる[[ダヌィーロ・テルプィーロ]]である。彼らは元は[[ウクライナ人民共和国軍]]の指揮官であったが、その後反共和国の蜂起オタマーンとなり、赤軍に対する蜂起を指導し、最後は[[アントーン・デニーキン|デニーキン]]軍やマフノ軍に敗れて落命した。
ウクライナで特徴的なのは[[ウクライナ・コサック]]の伝統からの影響で、多くの非正規軍の指導者がコサックの長官である「[[アタマン|オタマーン / アタマーン]]」の称号を名乗った。彼らを、'''蜂起オタマーン'''([[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|повстанський отаман}}''')と呼ぶ。その代表格は「オタマーン・フルィホールイェウ / アタマーン・グリゴリエフ」の名で知られてい{{仮リンク|ヌィクィーフォル・フルィホールイェ|en|Nikifor Grigoriev}}。「オタマーン・ゼレーヌィイ(緑)」こと、{{仮リンク|ダヌィーロ・テルプィーロ|en|Danylo Ilkovych Terpylo}}など、彼らは元は[[ウクライナ人民共和国軍]]の指揮官であったが、その後反共和国の蜂起オタマーンとなり、赤軍に対する蜂起を指導し、最後は[[アントーン・デニーキン|デニーキン]]軍やマフノ軍に敗れて落命した。


緑軍の活動は、コサックや農民が人口の大多数を占めた[[黒海]]沿岸の[[カフカース]]や[[クバーニ]]、[[クリミア半島]]でも展開された。
緑軍の活動は、コサックや農民が人口の大多数を占めた[[黒海]]沿岸の[[カフカース]]や[[クバーニ]]、[[クリミア半島]]でも展開された。


[[ロシア]]における最大の緑色蜂起は、1918年から1921年に隆盛した[[タンボフ蜂起]]である。[[ロシア帝国軍]]の[[将校]]であった[[ピョートル・トクマコーフ]]や[[社会革命党]]員の[[アレクサンドル・アントーノフ]]に指導された農民蜂起は、[[タンボフ]]の町を占拠し、白軍司令官[[コンスタンチン・マーモントフ]]将軍からの支援を受けつつ、[[民主制]]を政治形態に採用し、[[全ロシア創立議会|創立議会]]の召集を支持して1920年まで影響力を保持した。しかし、白軍がクリミアから国外へ[[亡命]]すると急速に力を失い、赤軍に撃破され指導者は戦死または処刑された。
[[ロシア]]における最大の緑色蜂起は、1918年から1921年に隆盛した{{仮リンク|タンボフ蜂起|en|Tambov Rebellion}}である。[[ロシア帝国軍]]の[[将校]]であった[[:ru:Токмаков,_Пётр_Михайлович|ピョートル・トクマコーフ]]や[[社会革命党]]員の[[アレクサンドル・アントーノフ]]に指導された農民蜂起は、[[タンボフ]]の町を占拠し、白軍司令官{{仮リンク|コンスタンチン・マーモントフ|en|Konstantin Mamontov}}将軍からの支援を受けつつ、[[民主制]]を政治形態に採用し、[[全ロシア創立議会|創立議会]]の召集を支持して1920年まで影響力を保持した。しかし、白軍がクリミアから国外へ[[亡命]]すると急速に力を失い、赤軍に撃破され指導者は戦死または処刑された。


[[File:Savinkov.jpg|150px|thumb|ボリス・サヴィンコフ]]
[[File:Savinkov.jpg|150px|thumb|[[ボリス・サヴィンコフ]]]]
自発的でない、戦局のために企図された緑軍蜂起もあった。[[ポーランド・ソビエト戦争]]において[[スタニスラウ・ブラーク=バラホーヴィチ]]将軍と社会革命党員[[ボリス・サヴィンコフ]]が指導した[[ベラルーシ]]における農民蜂起である。1920年[[10月15日]]、[[ポーランド]][[ポーランド共和国下院|下院議会]]は赤軍との戦闘に加わっていたポーランド内の同盟軍をすべて[[11月2日]]までに武装解除することを決定したが、そのため[[ポーランド軍]]の支援を受けていた有力な白軍の司令官ブラーク=バラホーヴィチは早急に事態を打開する必要に迫られた。ブラーク=バラホーヴィチと彼を輔佐していたサヴィンコフは赤軍に占拠されていたベラルーシにて農民蜂起を起こし、赤軍を放逐する計画を立てた。バラホーヴィチ軍は11月上旬に各地で赤軍を撃破し[[マズィール]]などを占拠したが、[[ベラルーシ人民共和国]]の独立が真剣に考えられていなかったことから支持が得られず、[[11月18日]]には赤軍の攻撃でマズィールを放棄、最終的にポーランド国内へ撤退したところで抑留され、武装解除された。バラホーヴィチは[[ベラルーシ人|ベラルーシ系]][[ポーランド人]]の[[シュラフタ]]出身であったが、[[第一次世界大戦]]中にアタマーン・[[レオニート・プーニン|プーニン]]の部隊に所属していたことから、自身もアタマーンを名乗っていた。
自発的でない、戦局のために企図された緑軍蜂起もあった。[[ポーランド・ソビエト戦争]]において{{仮リンク|スタニスラウ・ブラーク=バラホーヴィチ|en|Stanisław Bułak-Bałachowicz}}将軍と社会革命党員[[ボリス・サヴィンコフ]]が指導した[[ベラルーシ]]における農民蜂起である。1920年[[10月15日]]、[[ポーランド]][[ポーランド共和国下院|下院議会]]は赤軍との戦闘に加わっていたポーランド内の同盟軍をすべて[[11月2日]]までに武装解除することを決定したが、そのため[[ポーランド軍]]の支援を受けていた有力な白軍の司令官ブラーク=バラホーヴィチは早急に事態を打開する必要に迫られた。ブラーク=バラホーヴィチと彼を輔佐していたサヴィンコフは赤軍に占拠されていたベラルーシにて農民蜂起を起こし、赤軍を放逐する計画を立てた。バラホーヴィチ軍は11月上旬に各地で赤軍を撃破し[[マズィール]]などを占拠したが、[[ベラルーシ人民共和国]]の独立が真剣に考えられていなかったことから支持が得られず、[[11月18日]]には赤軍の攻撃でマズィールを放棄、最終的にポーランド国内へ撤退したところで抑留され、武装解除された。バラホーヴィチは[[ベラルーシ人|ベラルーシ系]][[ポーランド人]]の[[シュラフタ]]出身であったが、[[第一次世界大戦]]中にアタマーン・{{仮リンク|レオニート・プーニン|label=プーニン|en|Leonid Punin}}の部隊に所属していたことから、自身もアタマーンを名乗っていた。


== 目的とスローガン ==
== 目的とスローガン ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 回想録編集 ===
{{reflist}}
* {{仮リンク|ニコライ・ヴォロノーヴィチ|label=N・V・ヴォロノーヴィチ|ru|Воронович, Николай Владимирович}}『黒海沿岸の緑の蜂起者たち Зелёные повстанцы на Черноморском побережье』
* N・V・ヴォロノーヴィチ『ふたつの炎の剣 Меж двух огней』
* N・V・ヴォロノーヴィチ『白軍陣営にて В стане белых』
=== 社会政治評論 ===
*{{仮リンク|メチスラフ・ドブラニーツキイ|label=M・M・ドブラニーツキイ|ru|Добраницкий, Мечислав Михайлович}}『緑のパルチザン (1918年-1920年) ''{{lang|ru|Зелёные партизаны (1918—1920)}}''』
*[[ヴラジーミル・ファヴィーツキイ|V・V・ファヴィーツキイ]]『黒海地方の緑軍 ''{{lang|ru|Зелёная армия в Черноморье}}''』
* {{仮リンク|セルゲイ・メリグノーフ|label=S・P・メリグノーフ|en|Sergei Melgunov}}『1918年-1923年ロシアにおける『赤色テロル』 ''{{lang|ru|«Красный террор» в Россіи 1918—1923}}''』
=== 文学作品 ===
*[[ボリス・サヴィンコフ|B・V・サヴィンコフ]]『漆黒の馬 ''{{lang|ru|Конь Вороной}}''』
*{{仮リンク|アルカーイ・ガイダール|label=A・P・ガイダール|en|Arkady Gaidar}}『革命軍事委員会 ''{{lang|ru|Реввоенсовет}}''』


== 関連項目 ==
{{ロシア革命後の国家}}


* [[ボリス・サヴィンコフ]]
=== 回想録 ===
* {{仮リンク|ヌィクィフォール・フルィホールイェウ|en|Nikifor Grigoriev}}
*[[ニコライ・ヴォロノーヴィチ|N・V・ヴォロノーヴィチ]]『黒海沿岸の緑の蜂起者たち ''{{lang|ru|Зелёные повстанцы на Черноморском побережье}}''
* {{仮リンク|ダヌィーロ・テルプィーロ|en|Danylo Ilkovych Terpylo}}
*N・V・ヴォロノーヴィチ『ふたつの炎の剣 ''{{lang|ru|Меж двух огней}}''
* [[アレクサンドル・アントーノフ]]
*N・V・ヴォロノーヴィチ『白軍陣営にて ''{{lang|ru|В стане белых}}''
* {{仮リンク|ドミトリー・アントーノフ|ru|Антонов, Дмитрий Степанович}}
* {{仮リンク|ピョートル・トクマコーフ|ru|Токмаков, Пётр Михайлович}}
* {{仮リンク|イワン・コレースニコフ|ru|Колесников, Иван Сергеевич (командир)}}
* {{仮リンク|ヴァシーリイ・ジェルトーフスキイ|ru|Желтовский, Василий Максимович}}
* {{仮リンク|アレクセイ・ドリーニン|ru|Долинин, Алексей Васильевич}}
* [[ネストル・マフノ]]
* {{仮リンク|ニコライ・ヴォロノーヴィチ|ru|Воронович, Николай Владимирович}}
* {{仮リンク|ボリス・イヴァシンツォフ|ru|Ивашинцов, Борис Александрович}}
* {{仮リンク|アレクサンドル・サポシコフ|ru|Сапожков, Александр Васильевич}}
* {{仮リンク|ニコライ・オルロフ|ru|Орлов, Николай Иванович (офицер ВСЮР)}}
* {{仮リンク|イェウヘーン・アーンヘル|ru|Ангел, Евгений Петрович}}
* {{仮リンク|フェオドシー・ボハティレンコ|uk|Богатиренко Феодосій Іванович}}
* {{仮リンク|イワン・ハヨヴィイ=フルィシュク|uk|Гайовий-Грисюк Іван Андрійович}}
* [[ステパン・ペトリチェンコ]]
* {{仮リンク|アレクサンドル・コズローフスキイ|ru|Козловский, Александр Николаевич (генерал)}}
* {{仮リンク|パーヴェル・ヴィリケン|ru|Вилькен, Павел Викторович}}
* {{仮リンク|ヴァスィーリ・チュチュパーク|en|Vasyl Chuchupak}}
* {{仮リンク|ペトロー・チュチュパーク|uk|Чучупак Петро Степанович}}
* {{仮リンク|オレクサ・チュチュパーク|uk|Чучупак Олекса Степанович}}
* {{仮リンク|セメーン・チュチュパーク|uk|Чучупак Семен Юхимович}}
* {{仮リンク|ムィコーラ・キベツィ=ボンダレンコ|uk|Кібець-Бондаренко Микола Степанович}}
* {{仮リンク|イワン・コンパニイェツィ|uk|Компанієць Іван Маркурович}}
* {{仮リンク|アンドリー・レーウチェンコ|uk|Левченко Андрій Іванович}}
* {{仮リンク|フェーヂル・ウワーロウ|ru|Уваров, Фёдор (повстанец)}}
* {{仮リンク|イリコー・ストルーク|ru|Струк, Илья Тимофеевич}}
* {{仮リンク|パーヴァル・ジャウルィード|en|Paval Zhauryd}}


{{ロシア革命後の国家}}
=== 社会政治評論 ===
*[[メチスラフ・ドブラニーツキイ|M・M・ドブラニーツキイ]]『緑のパルチザン (1918年-1920年) ''{{lang|ru|Зелёные партизаны (1918—1920)}}''』
*[[ヴラジーミル・ファヴィーツキイ|V・V・ファヴィーツキイ]]『黒海地方の緑軍 ''{{lang|ru|Зелёная армия в Черноморье}}''』
* [[セルゲイ・メリグノーフ|S・P・メリグノーフ]]『1918年-1923年ロシアにおける『赤色テロル』 ''{{lang|ru|«Красный террор» в Россіи 1918—1923}}''』

=== 文学作品 ===
*[[ボリス・サヴィンコフ|B・V・サヴィンコフ]]『の馬 ''{{lang|ru|Конь Вороной}}''』
*[[アルカーイ・ガイダール|A・P・ガイダール]]『革命軍事委員会 ''{{lang|ru|Реввоенсовет}}''』


== 映画 ==
== 映画 ==

2023年5月19日 (金) 16:45時点における最新版

緑と黒、また両色の組み合わせは緑軍の軍旗としてしばしば用いられた。

緑軍ロシア語:Зелёная армия[1])は、ロシア革命後のロシア内戦の時期に旧ロシア帝国領内外で活動した、農民コサックを中心とした非正規の軍事組織の通称である。緑の蜂起軍зелёные повста́нцы)、緑のパルチザンзелёные партиза́ны)、緑色運動Зелёное движе́ние[2]第三勢力тре́тья си́ла)とも呼ばれる。

ボリシェヴィキ、反白軍を基本としたが、その中でも親赤軍派は赤緑красно-зелёные[3][4]、親白軍派は白緑бело-зелёные[5]と呼ばれた。なお、広義には主要勢力である赤軍と白軍に所属しない第三勢力のことをと呼ぶこともある。

概要

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名称の由来は、緑軍の多くが農村やその周辺の森林地帯を活動拠点としていたためと言われる。旧ロシア帝国領各地では、その土地の文化と強く結びついた緑軍の活動が十月革命以降活発に見られるようになった。

マフノ派の兵士たち

ウクライナでは、ネストル・マフノに指導された農民アナキスト派のウクライナ革命蜂起軍(黒軍)による「マフノ運動」が、1918年から1921年にかけて南部を中心に隆盛した。彼らは農村部に大きな影響力を持ち、中央政府であるウクライナ人民共和国ウクライナ国オーストリア=ハンガリー帝国白軍ソビエト政府に反対する運動を展開した。

ウクライナで特徴的なのはウクライナ・コサックの伝統からの影響で、多くの非正規軍の指導者がコサックの長官である「オタマーン / アタマーン」の称号を名乗った。彼らを、蜂起オタマーンウクライナ語:повстанський отаман)と呼ぶ。その代表格は「オタマーン・フルィホールイェウ / アタマーン・グリゴリエフ」の名で知れられているヌィクィーフォル・フルィホールイェウ英語版。「オタマーン・ゼレーヌィイ(緑)」こと、ダヌィーロ・テルプィーロ英語版など、彼らは元はウクライナ人民共和国軍の指揮官であったが、その後反共和国の蜂起オタマーンとなり、赤軍に対する蜂起を指導し、最後はデニーキン軍やマフノ軍に敗れて落命した。

緑軍の活動は、コサックや農民が人口の大多数を占めた黒海沿岸のカフカースクバーニクリミア半島でも展開された。

ロシアにおける最大の緑色蜂起は、1918年から1921年に隆盛したタンボフ蜂起英語版である。ロシア帝国軍将校であったピョートル・トクマコーフ社会革命党員のアレクサンドル・アントーノフに指導された農民蜂起は、タンボフの町を占拠し、白軍司令官コンスタンチン・マーモントフ英語版将軍からの支援を受けつつ、民主制を政治形態に採用し、創立議会の召集を支持して1920年まで影響力を保持した。しかし、白軍がクリミアから国外へ亡命すると急速に力を失い、赤軍に撃破され指導者は戦死または処刑された。

ボリス・サヴィンコフ

自発的でない、戦局のために企図された緑軍蜂起もあった。ポーランド・ソビエト戦争においてスタニスラーウ・ブラーク=バラホーヴィチ英語版将軍と社会革命党員ボリス・サヴィンコフが指導したベラルーシにおける農民蜂起である。1920年10月15日ポーランド下院議会は赤軍との戦闘に加わっていたポーランド内の同盟軍をすべて11月2日までに武装解除することを決定したが、そのためポーランド軍の支援を受けていた有力な白軍の司令官ブラーク=バラホーヴィチは早急に事態を打開する必要に迫られた。ブラーク=バラホーヴィチと彼を輔佐していたサヴィンコフは赤軍に占拠されていたベラルーシにて農民蜂起を起こし、赤軍を放逐する計画を立てた。バラホーヴィチ軍は11月上旬に各地で赤軍を撃破しマズィールなどを占拠したが、ベラルーシ人民共和国の独立が真剣に考えられていなかったことから支持が得られず、11月18日には赤軍の攻撃でマズィールを放棄、最終的にポーランド国内へ撤退したところで抑留され、武装解除された。バラホーヴィチはベラルーシ系ポーランド人シュラフタ出身であったが、第一次世界大戦中にアタマーン・プーニン英語版の部隊に所属していたことから、自身もアタマーンを名乗っていた。

目的とスローガン

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アタマーン・グリゴーリエフを追い払うボリシェヴィキのプロパガンダポスター。1919年。

スローガン「白くなるまで赤を打て、赤くなるまで白を打て!」

"Бей красных пока не побелеют, бей белых пока не покраснеют!"

スローガン「ボリシェヴィキ抜きの共産主義を!」

"Даёшь коммунизм без большевиков!"

スローガン「ボリシェヴィキ抜きのソビエトのために!」[6]

"За Советы без большевиков!"

スローガン「全権力を創立議会へ!」[7]

"Вся власть Учредительному Собранию!"

脚注

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  1. ^ зеленоарме́йцыとも。
  2. ^ ロシア語では今日の緑の党の活動と同じ単語になるが、関係ない。
  3. ^ [1] (ロシア語)
  4. ^ [2] (ロシア語)
  5. ^ [3] (ロシア語)
  6. ^ ボリシェヴィキのスローガン「ソビエトのために!」のパロディ
  7. ^ ボリシェヴィキのスローガン「全権力をソビエトへ!」のパロディ。

参考文献

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回想録編集

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  • N・V・ヴォロノーヴィチロシア語版『黒海沿岸の緑の蜂起者たち Зелёные повстанцы на Черноморском побережье』
  • N・V・ヴォロノーヴィチ『ふたつの炎の剣 Меж двух огней』
  • N・V・ヴォロノーヴィチ『白軍陣営にて В стане белых』

社会政治評論

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文学作品

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関連項目

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映画

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黒海沿岸の「赤緑」パルチザンとデニーキン軍の戦いを題材にした冒険映画。

外部リンク

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