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'''近衛府'''(このえふ)は[[令外官]]のひとつ。765年に[[授刀衛]]を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。[[唐名]][[羽林]]。長は'''[[近衛大将]]'''(左近衛大将・右近衛大将<ref>読み方はそれぞれ、さこんえのだいしょう、うこんえのだいしょう。</ref>)である。(左右)[[衛門府]]、(左右)[[兵衛府]]とあわせて「[[六衛府]]」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ
'''近衛府'''(このえふ、こんえふ)は[[令外官]]のひとつ。和訓は「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」。[[唐名]]は「[[羽林]]」


== 変遷 ==
== 概要 ==
近衛府は左右があり、長官は大将、次官は中少将、[[判官]]を将監、[[主典]]を将曹という{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=553}}。その下に、府生・番長・近衛舎人があり、その他、各種の職名があった{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=553}}。
[[天平神護]]元年([[765年]])[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]、[[授刀衛]]という役所が近衛府と改組し、[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])4月22日には、さらに[[中衛府]]と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。ちなみに、[[外衛府]]というものもあったが、[[宝亀]]3年([[772年]])に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。

兵仗を帯して[[禁中]]([[平安京]]では[[内裏]]の内郭、[[宣陽門]]・[[承明門]]・[[陰明門]]・[[玄輝門]]の内側警衛したまた朝儀に列して威容を整え、[[行幸]]の際には前後を警備し、[[皇族]]や高官の警護も職掌とした

[[平安時代#平安中期|平安時代中期]]以降、朝政の儀礼化に伴い幹部は名誉職化、兵士は儀仗兵化した。'''[[六衛府]]'''(ろくえふ。左右の近衛府・[[衛門府]]・[[兵衛府]])の中では最も[[地位]]が高かった。

[[天平宝字]]3年([[759年]])に設置された[[授刀衛]]を[[天平神護]]元年([[765年]])[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]に'''近衛府'''と改称し、さらにこれと[[神亀]]5年([[728年]])設置の[[中衛府]]とを[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])4月22日に改組し、近衛府を'''左近衛府'''(さこんえふ)、中衛府を'''右近衛府'''(うこんえふ)とした。前者は[[大内裏]]の陽明門の北、後者は殷富門の北に置かれた。


== 内部官職 ==
== 内部官職 ==
; [[近衛大将|大将]]
; [[近衛大将|大将]]
: 四等官の長官(カミ)に相当する。[[権官]]はない。左右に各1名('''左近衛大将'''・'''右近衛大将'''<ref>読み方はそれぞれ、さこんえのだいしょう、うこんえのだいしょう。</ref>)。それぞれ「左大将」・「右大将」と略す。[[羽林大将軍]]、親衛大将軍、虎牙大将軍、[[幕府]]、幕下といった[[唐名]]で呼ぶこともある。
: 左右に各1名。[[権官]]はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府設置とともに、[[正三位]]の[[官位相当]][[延暦]]12年([[793年]])[[従四位上]]官位相当降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に[[従三位]]の官位相当に昇叙する。以後、定着する[[従三位]]相当の官職だが、[[大納言]]に勝る重責の職で、古くは[[参議]]以上の兼務であったが、[[平安時代]]中期以後には[[大納言|権大納言]]以上[[左大臣]]以下の兼任が定制となるただし、[[摂関家]]嫡男など[[中納言|権中納言]]で大将を兼任する例よく見られた。また、「[[馬寮|馬寮御監]]を兼任することもある。なお、[[羽林大将軍]]、親衛大将軍、虎牙大将軍といった[[唐名]]で呼ぶこともあり、左近衛大将・右近衛大将をそれぞれ「左大将」・「右大将」と省略した呼び方もある。
: [[天平神護]]元年([[765年]])2月3日設置当初は[[正三位]]の[[官位相当]]だったが、[[延暦]]12年([[793年]])[[従四位|従四位上]]官位相当降格した。[[延暦]]18年([[799]])4月27日に[[従三位]]相当に昇叙定着した。古くは[[参議]]以上の兼務であったが、平安時代中期以後には[[左大臣]]以下[[大納言|権大納言]]以上の兼任が定制となり、[[大納言]]に勝重職と見られるようになった(ただし、[[摂家|摂関家]]嫡男など[[中納言|権中納言]]で大将を兼任する例よく見られた。[[馬寮|馬寮御監]]を兼任することもある。


'''近衛大将の辞令(宣旨)の例'''  「日光東照宮文書」<br />
* '''近衛大将の辞令(宣旨)の例'''「日光東照宮文書」
從二位行權大納言源朝臣家康<br />
*: [[従二位|從二位]][[大納言|權大納言]][[清和氏|源]][[朝臣]]家康
從二位行權大納言源朝臣敦通宣<br />
*: 從二位行權大納言源朝臣敦通宣
奉 勅件人宜令兼任左近衞大將者<br />
*: 奉 勅件人宜令兼任左近衞大將者
天正十五年十二月廿八日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉奉<br />
*: 天正十五年十二月廿八日 [[掃部寮|掃部頭]][[外記|大外記]]造酒正[[中原氏|中原]]朝臣師廉奉
*(訓読文)

*: 従二位行権大納言源朝臣家康
(訓読文)<br />
従二位行権大納言源朝臣家康<br />
*: 従二位行権大納言源朝臣敦通、宣る
*: 勅を奉るに、件の人、宜しく左近衛大将を兼任せしむべし者
従二位行権大納言源朝臣敦通、宣る<br />
*: [[天正]]15年(1587年)12月28日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉、奉る
勅を奉るに、件の人、宜しく左近衛大将を兼任せしむべし者<br />
天正15年(1587年)12月28日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉、奉<br />
*: [[※]] 従二位行権大納言源朝臣家康とは[[徳川家康]]、従二位行権大納言源朝臣敦通とは[[久我敦通]]、掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉とは[[押小路師廉]]のことであ
※従二位行権大納言源朝臣家康とは徳川家康、従二位行権大納言源朝臣敦通とは[[久我敦通]]、掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉とは[[押小路師廉]]のことである。


; 中将
; 中将
: 左右に各1~4名。四等官の次官(スケ)に相当する。少将も「スケ」であるので「おお(大)いスケ」と呼ばれた。天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに、[[従四位下]]の官位相当。以後、定着する。当初は1名だったが[[天長]]年間には[[権官]]が1名置かれるようになり、世紀末までには正官2名・権官1名の計3人となり、十一世紀後半には左右各4名とされた。十二世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各6~7名在籍する例も見られるようになる<ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。後には正員は置かれず、[[権官]]のみとなる。近衛中将が[[蔵人頭]]に補されると「[[頭中将]]」と呼ばれ、近衛中将を兼任する[[参議]]は「宰相中将」と呼ばれる。[[中納言]]や[[中納言|権中納言]]が近衛中将を兼任している場合は「中納言中将」という。[[非参議]]四位の近衛中将が三位に叙され「中将如元」とされた者は「三位中将」と呼ばれ、三位中将が非参議のまま二位に叙された場合には「二位中将」と呼ばれる。摂関家の嫡男などが五位のまま中将になる例もあり、「五位中将」と呼ばれた。親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍といった唐名のほか、次の少将とあわせて「三笠山」「次将」という別名がある。左近衛中将・右近衛中将はそれぞれ省略して「左中将」・「右中将」とも呼ばれる
: 四等官の次官(スケ)に相当する。少将も「スケ」であるので「おお(大)いスケ」と呼ばれた。左右に各1 ~ 4名。それぞれ「左中将」・「右中将」と略す。親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍といった唐名のほか、次の少将とあわせて「三笠山」・「次将」という別名がある。
: 天平神護元年([[765年]])2月3日の設置以来、[[従四位|従四位下]]の[[官位]]相当。当初は1名だったが[[天長]]年間には[[権官]]が1名置かれるようになり、[[10世紀]]末までには正官2名・権官1名の計3人となり、[[11世紀]]後半には左右各4名とされた。[[12世紀]]後半になるとさらに人数が増加するようになり、[[後白河天皇|後白河]][[院政]]期には各6 ~ 7名在籍する例も見られるようになる<ref name="#1">『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。後には正員は置かれず、[[権官]]のみとなる。中将が[[蔵人頭]]に補されると「[[頭中将]]」と呼ばれ、近衛中将を兼任する[[参議]]は「宰相中将」と呼ばれる。[[中納言]]や[[中納言|権中納言]]が中将を兼任している場合は「中納言中将」という。[[非参議]]四位の中将が三位に叙され「中将如元」とされた者は「三位中将」と呼ばれ、三位中将が非参議のまま二位に叙された場合には「二位中将」と呼ばれる。摂関家の嫡男などが五位のまま中将になる例もあり、「五位中将」と呼ばれた。


; 少将
; 少将
: 左右に各2~4名。四等官の次官(スケ)に相当、中将「スケ」であるので「すな(少)いスケ」と呼ばれた。天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに、[[正五位下]]の官位相当。以後、定着する。当初は1名だったが後に増員され、天応元年([[781年]])6月1日に員外近衛少将が廃止された際に定員2名となる。その後、世紀半ばには[[権官]]が設置されて正官2名・権官1名の計3人となり、十一世紀初めには左右各4人在籍する例が見られるようになった。十二世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各7~8名在籍する例も見られるようになる<ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。後には正員は置かれず、[[権官]]のみとなる。中将とほぼ同じ職掌。[[五位蔵人]]を務める近衛少将は「蔵人少将」と呼ばれた。五位少将が四位に叙された際に少将を止めず「少将如元」とされた場合など、四位の位階でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位に叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した(平安時代では[[藤原道長]]、[[藤原頼通]]、[[藤原忠家]]、[[藤原基実]]の名が三位少将を経験している)。二位の位階でこの官に就く場合もあったとされるが、平安時代においてはその例は皆無であり<ref>『公卿補任』</ref><ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>、鎌倉時代に入り[[正三位]]右少将[[九条教実|藤原教実]]が承久日に[[従二位]]に叙されたのが初例である<ref>『公卿補任』</ref>。羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将、亜将、虎賁中郎将といった唐名がある。左近衛少将・右近衛少将はそれぞれ省略して「左少将」・「右少将」とも呼ばれる
: 四等官の次官(スケ)に相当するが、中将おお(大)いスケ」に対し「すな(少)いスケ」と呼ばれた。左右に各2 ~ 4名。それぞれ「左少将」・「右少将」と略す。羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将、亜将、虎賁中郎将といった唐名がある。
: 天平神護元年([[765年]])2月3日の設置以来、[[正五位|正五位下]]の官位相当。当初は1名だったが後に増員され、天応元年([[781年]])6月1日に員外近衛少将が廃止された際に定員2名となる。その後、[[9世紀]]半ばには[[権官]]が設置されて正官2名・権官1名の計3人となり、11世紀初めには左右各4人在籍する例が見られるようになった。12世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各7 ~ 8名在籍する例も見られるようになる<ref name="#1"/>。後には正員は置かれず、[[権官]]のみとなる。中将とほぼ同じ職掌。[[五位蔵人]]を務める少将は「蔵人少将」と呼ばれた。五位少将が四位に叙された際に少将を止めず「少将如元」とされた場合など、四位の[[位階]]でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位に叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した([[平安時代]]では[[藤原道長]]、[[藤原頼通]]、[[藤原忠家]]、[[藤原基実]]の4名が三位少将を経験している)。二位の位階でこの官に就く場合もあったとされるが、平安時代においてはその例は皆無であり<ref>『[[公卿補任]]』</ref><ref name="#1"/>、[[鎌倉時代]]に[[正三位]]右少将[[九条教実|藤原教実]]が承久3([[1221年]])15日に[[従二位]]に叙されたのが初例である<ref>『公卿補任』</ref>。
:
: 近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、'''近衛次将'''(このえのじしょう)とも称した。近衛次将は[[天皇]][[親衛隊]]幹部であり、[[公卿]]への[[昇進|昇進コース]]([[侍従]] [[兵衛府|兵衛佐]] '''近衛少将''' '''近衛中将'''[[弁官|少弁]][[弁官|中弁]]の場合も) → [[参議]] の昇進が典型的)位置したため、上流貴族子弟の[[殿上人]]が多く任じられた。9世紀半ばまでは[[叙爵]]を受けて五位となった'''近衛将監'''が少将に昇進する事例もあったが、以降は次将以上と将監以下に明確な[[身分]]差が確立し、将監叙爵を受けた後に[[受領]]に転じるようにな<ref>{{Citation|和書|author=佐々木恵介|authorlink=佐々木恵介|chapter=『小右記』にみる摂関期近衛府の政務運営|editor=[[笹山晴生]]先生還暦記念会|title=日本律令制論集|volume=下|publisher=[[吉川弘文館]]|year=1993}}/所収:{{Cite book|和書|author=佐々木恵介|title=日本古代の官司と政務|publisher=吉川弘文館|year=2018|isbn=978-4-642-04652-7|pages=193 - 194・221}}</ref>。[[10世紀]]末から11世紀には[[藤原氏]]忠平流・[[宇多源氏]]・[[醍醐源氏]]・[[村上源氏]]など「[[公達]]」とされる[[家格]]の上流[[貴族]]の子弟でほぼ占められた。[[鳥羽天皇|鳥羽]]院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲([[信西]])流・[[伊勢平氏|桓武平氏忠盛流]]など本来は「[[諸大夫]]」の家格である[[院近臣]]家出身者からも近衛次将に任じられる者が現れるようになった。[[承徳]]2年([[1098年]])に左右近衛次将の定員は合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数が増大し、[[安元]]元年([[1175]])には次将の合計が左右合わせて28人の例が出現する<ref name="#1"/>。[[堂上家]]出身者で[[公卿]]となる者は侍従・兵衛佐・近衛次将を歴任する例が多く、[[摂家]]・[[清華家]]・[[大臣家]]・[[羽林家]]の家格の者が近衛次将を経て[[公卿]]に昇った。


<!--ここまでが幹部職員で、これ以下を近衛舎人(このえのとねり)と呼ぶ{{要出典|date=2023年1月}}-->
近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、'''近衛次将'''(このえのじしょう)とも称した。近衛次将は天皇側近官職であり、[[公卿]]への昇進コース(典型的なコースは、[[侍従]]→[[兵衛府|兵衛佐]]→'''近衛少将'''→'''近衛中将'''→[[参議]]。少将から[[弁官|少弁]][[弁官|中弁]]に転じ、弁官で昇進して[[参議]]に至るコースもあった)とても重要であったため、上流貴族子弟の[[殿上人]]が多く任じられた。9世紀半ばまでは[[叙爵]]を受けて五位となった将監が少将に昇進する事例もあったが、それ以降は次将以上と将監以下に明確な身分差が確立し、将監叙爵を受けて官位相当から外れると[[受領]]に転じるようになった<ref>佐々木恵介『小右記』にみる摂関期近衛府の政務運営」『日本古代の官司と政務』(吉川弘文館2018年) ISBN 978-4-642-04652-7 P193-194・221.(原論文1993年)</ref>。10世紀末から11世紀には[[藤原氏]]忠平流・[[宇多源氏]]・[[醍醐源氏]]・[[村上源氏]]など「[[公達]]」とされる家格の上流貴族の子弟でほぼるようになった。鳥羽院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲([[信西]])流・[[伊勢平氏|桓武平氏忠盛流]]など本来は「[[諸大夫]]」の家格である[[院近臣]]家出身者からも近衛次将に任じられる者が現れるようになった。[[承徳]]2年([[1098年]])に左右近衛次将の定員は合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数が増大し、[[安元]]元年(1175年)には次将の合計が左右合わせて28人の例が出現する<ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。[[堂上家]]出身者で[[公卿]]となる者は侍従・兵衛佐・近衛次将を歴任する例が多く、[[摂家]]・[[清華家]]・[[大臣家]]・[[羽林家]]の家格の者が近衛次将を経て公卿に昇った。

ここまでが幹部職員で、これ以下を近衛舎人と呼ぶ。


; 将監(しょうげん)
; 将監(しょうげん)
: 各1名~10 四等官の判官(ジョウ)に相当、天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに[[従六位#従六位|従六位上]]の官位相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる。近衛将監は[[六位蔵人]]・[[式部省|式部丞]]・[[民部省|民部丞]]・[[外記]]・[[史 (律令制)|史]]・[[衛門府|衛門尉]]などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された([[巡爵]])。五位でこの官職に就くと'''左近大夫'''(さこんたいふ)'''将監'''あるいは'''右近大夫'''(うこんたいふ)'''将監'''。将監を略して左近大夫あるいは右近大夫と称された。参軍、親衛軍長吏、親衛校尉、録事といった唐名がある
: 左右各1名 ~ 10四等官の判官(ジョウ)に相当する。参軍親衛軍長吏、親衛校尉、録事といった唐名がある。
:天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに[[従六位|従六位上]]の官位相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる。近衛将監は[[六位蔵人]]・[[式部省|式部丞]]・[[民部省|民部丞]]・[[外記]]・[[史 (律令制)|史]]・[[衛門府|衛門尉]]などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ[[従五位|従五位下]]に叙された([[巡爵]])。五位でこの[[官職]]に就くと'''左近大夫'''(さこんたいふ)'''将監'''」・「'''右近大夫'''(うこんたいふ)'''将監'''」、略して左近大夫」・「右近大夫と称された。
:
; 将曹
; 将曹(しょうそう)
: 各4名~20名 四等官の主典(サカン)に相当し、天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに、[[従六位#従七位|従七位下]]の官位相当。現場指揮官で将監の指揮のもと、配下の人数を直接指揮する。
: 左右各4名 ~ 20名。四等官の主典(サカン)に相当する。
; 府生
:天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに、[[従七位|従七位下]]の官位相当。現場指揮官で将監の指揮のもと、配下の人数を直接指揮する。
:
; 府生(ふしょう)
:左右各6名。


; 番長(ばんちょう:つがいのおさ)
; 番長(ばんちょう:つがいのおさ)
: 各6名 [[行幸]]や高官の外出時の警護の際、騎乗を許可され、前駆する。
: 左右各6名[[行幸]]や高官の外出時の警護の際、騎乗を許可され、前駆する。
:
; 近衛
; 近衛[[舎人]]
: 各300名。
: 各300名。


その他にも役職有り。
その他にも役職有り。
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=== 任官者一覧 ===
=== 任官者一覧 ===
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==== 右近衛中将 ====
==== 右近衛中将 ====
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| [[源直]]
| [[源直]]
| [[貞観 (日本)|貞観]]16年12月29日([[875]][[2月8日]]) - 貞観17年8月15日([[875]][[9月18日]]
| [[貞観 (日本)|貞観]]16年12月29日(貞観17年(875)2月8日) - 貞観17年8月15日(875)9月18日)
| 右近衛権中将<br/>[[従四位下]]
| 右近衛権中将<br/>[[従四位|従四位下]]
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| [[源直]]
| [[源直]]
| 貞観17年8月15日(875年9月18日) - [[仁和]]4年([[888年]])
| 貞観17年8月15日(875年9月18日) - [[仁和]]4年([[888年]])
| [[従四位下]]→[[従四位上]]→[[正四位下]]→[[参議]]
| [[従四位|従四位下]] [[従四位|従四位上]] [[正四位|正四位下]] [[参議]]
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|}
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==== 左近衛中将 ====
==== 左近衛中将 ====
*[[新田義貞]]
* [[新田義貞]]
*[[北畠顕信]]
* [[北畠顕信]]
*[[北畠満雅]]
* [[北畠満雅]]
*[[北畠晴具]]
* [[北畠晴具]]
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== 脚注 ==
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== 所管範囲 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=栃木県史|volume=通史編2・古代二|publisher=[[栃木県]]|editor=栃木県史編さん委員会|date=1980-3-31|id={{NDLJP|9641938}}|ref={{SfnRef|栃木県史 通史編2|1980}}}}{{要登録}}
[[内裏]]のうち、[[宣陽門]]・[[承明門]]・[[陰明門]]・[[玄輝門]]の内側を担当。[[行幸]]などの際には護衛とて随員。また、[[皇族]]や高官の警護も担当


== 脚注 ==
<references/>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[日本の官制]]
* [[日本の官制]]
* [[授刀衛]]
* [[左近桜]]
* [[左近桜]]
* [[右近橘]]
* [[右近橘]]


== 外部リンク ==
[[Category:令外官|このえふ]]
* {{Kotobank}}

{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:このえふ}}
[[Category:令外官]]
[[Category:日本史上の軍事組織]]

2023年6月3日 (土) 10:07時点における最新版

近衛府(このえふ、こんえふ)は、令外官のひとつ。和訓は「おおきちかきまもり」・「ちかきまもりのつかさ」。唐名は「羽林」。

概要

[編集]

近衛府は左右があり、長官は大将、次官は中少将、判官を将監、主典を将曹という[1]。その下に、府生・番長・近衛舎人があり、その他、各種の職名があった[1]

兵仗を帯して禁中平安京では内裏の内郭、宣陽門承明門陰明門玄輝門の内側)を警衛した。また朝儀に列して威容を整え、行幸の際には前後を警備し、皇族や高官の警護も職掌とした。

平安時代中期以降、朝政の儀礼化に伴い幹部は名誉職化、兵士は儀仗兵化した。六衛府(ろくえふ。左右の近衛府・衛門府兵衛府)の中では最も地位が高かった。

天平宝字3年(759年)に設置された授刀衛天平神護元年(765年2月3日近衛府と改称し、さらにこれと神亀5年(728年)設置の中衛府とを大同2年(807年)4月22日に改組し、近衛府を左近衛府(さこんえふ)、中衛府を右近衛府(うこんえふ)とした。前者は大内裏の陽明門の北、後者は殷富門の北に置かれた。

内部官職

[編集]
大将
四等官の長官(カミ)に相当する。権官はない。左右に各1名(左近衛大将右近衛大将[2])。それぞれ「左大将」・「右大将」と略す。羽林大将軍、親衛大将軍、虎牙大将軍、幕府、幕下といった唐名で呼ぶこともある。
天平神護元年(765年)2月3日の設置当初は正三位官位相当だったが、延暦12年(793年)に従四位上の官位相当に降格した。延暦18年(799年)4月27日に従三位相当に昇叙し定着した。古くは参議以上の兼務であったが、平安時代中期以後には左大臣以下権大納言以上の兼任が定制となり、大納言に勝る重職と見られるようになった(ただし、摂関家嫡男などが権中納言で大将を兼任する例もよく見られた)。馬寮御監を兼任することもある。
  • 近衛大将の辞令(宣旨)の例:「日光東照宮文書」
    從二位權大納言朝臣家康
    從二位行權大納言源朝臣敦通宣
    奉 勅件人宜令兼任左近衞大將者
    天正十五年十二月廿八日 掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉奉
  • (訓読文)
    従二位行権大納言源朝臣家康
    従二位行権大納言源朝臣敦通、宣る
    勅を奉るに、件の人、宜しく左近衛大将を兼任せしむべし者
    天正15年(1587年)12月28日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉、奉る
    従二位行権大納言源朝臣家康とは徳川家康、従二位行権大納言源朝臣敦通とは久我敦通、掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉とは押小路師廉のことである。
中将
四等官の次官(スケ)に相当する。少将も「スケ」であるので「おお(大)いスケ」と呼ばれた。左右に各1 ~ 4名。それぞれ「左中将」・「右中将」と略す。親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍といった唐名のほか、次の少将とあわせて「三笠山」・「次将」という別名がある。
天平神護元年(765年)2月3日の設置以来、従四位下官位相当。当初は1名だったが、天長年間には権官が1名置かれるようになり、10世紀末までには正官2名・権官1名の計3人となり、11世紀後半には左右各4名とされた。12世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各6 ~ 7名在籍する例も見られるようになる[3]。後には正員は置かれず、権官のみとなる。中将が蔵人頭に補されると「頭中将」と呼ばれ、近衛中将を兼任する参議は「宰相中将」と呼ばれる。中納言権中納言が中将を兼任している場合は「中納言中将」という。非参議四位の中将が三位に叙され「中将如元」とされた者は「三位中将」と呼ばれ、三位中将が非参議のまま二位に叙された場合には「二位中将」と呼ばれる。摂関家の嫡男などが五位のまま中将になる例もあり、「五位中将」と呼ばれた。
少将
四等官の次官(スケ)に相当するが、中将の「おお(大)いスケ」に対し「すな(少)いスケ」と呼ばれた。左右に各2 ~ 4名。それぞれ「左少将」・「右少将」と略す。羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将、亜将、虎賁中郎将といった唐名がある。
天平神護元年(765年)2月3日の設置以来、正五位下の官位相当。当初は1名だったが後に増員され、天応元年(781年)6月1日に員外近衛少将が廃止された際に定員2名となる。その後、9世紀半ばには権官が設置されて正官2名・権官1名の計3人となり、11世紀初めには左右各4人在籍する例が見られるようになった。12世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各7 ~ 8名在籍する例も見られるようになる[3]。後には正員は置かれず、権官のみとなる。中将とほぼ同じ職掌。五位蔵人を務める少将は「蔵人少将」と呼ばれた。五位少将が四位に叙された際に少将を止めず「少将如元」とされた場合など、四位の位階でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位に叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した(平安時代では藤原道長藤原頼通藤原忠家藤原基実の4名が三位少将を経験している)。二位の位階でこの官に就く場合もあったとされるが、平安時代においてはその例は皆無であり[4][3]鎌倉時代正三位右少将藤原教実が承久3年(1221年)1月5日に従二位に叙されたのが初例である[5]
近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、近衛次将(このえのじしょう)とも称した。近衛次将は天皇親衛隊幹部であり、公卿への昇進コース侍従兵衛佐近衛少将近衛中将少弁中弁の場合も) → 参議 の昇進が典型的)に位置したため、上流貴族子弟の殿上人が多く任じられた。9世紀半ばまでは叙爵を受けて五位となった近衛将監が少将に昇進する事例もあったが、以降は次将以上と将監以下に明確な身分差が確立し、将監は叙爵を受けた後に受領に転じるようになる[6]10世紀末から11世紀には藤原氏忠平流・宇多源氏醍醐源氏村上源氏など「公達」とされる家格の上流貴族の子弟でほぼ占められた。鳥羽院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲(信西)流・桓武平氏忠盛流など本来は「諸大夫」の家格である院近臣家出身者からも近衛次将に任じられる者が現れるようになった。承徳2年(1098年)に左右近衛次将の定員は合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数が増大し、安元元年(1175年)には次将の合計が左右合わせて28人の例が出現する[3]堂上家出身者で公卿となる者は侍従・兵衛佐・近衛次将を歴任する例が多く、摂家清華家大臣家羽林家の家格の者が近衛次将を経て公卿に昇った。


将監(しょうげん)
左右各1名 ~ 10名。四等官の判官(ジョウ)に相当する。参軍、親衛軍長吏、親衛校尉、録事といった唐名がある。
天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに従六位上の官位相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる。近衛将監は六位蔵人式部丞民部丞外記衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと「左近大夫(さこんのたいふ)将監」・「右近大夫(うこんのたいふ)将監」、略して「左近大夫」・「右近大夫」と称された。
将曹(しょうそう)
左右各4名 ~ 20名。四等官の主典(サカン)に相当する。
天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに、従七位下の官位相当。現場指揮官で将監の指揮のもと、配下の人数を直接指揮する。
府生(ふしょう)
左右各6名。
番長(ばんちょう:つがいのおさ)
左右各6名。行幸や高官の外出時の警護の際、騎乗を許可され、前駆する。
近衛舎人
各300名。

その他にも役職有り。

脚注

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  1. ^ a b 栃木県史 通史編2 1980, p. 553.
  2. ^ 読み方はそれぞれ、さこんえのだいしょう、うこんえのだいしょう。
  3. ^ a b c d 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
  4. ^ 公卿補任
  5. ^ 『公卿補任』
  6. ^ 佐々木恵介 著「『小右記』にみる摂関期近衛府の政務運営」、笹山晴生先生還暦記念会 編『日本律令制論集』 下、吉川弘文館、1993年。 /所収:佐々木恵介『日本古代の官司と政務』吉川弘文館、2018年、193 - 194・221頁。ISBN 978-4-642-04652-7 

参考文献

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  • 栃木県史編さん委員会 編『栃木県史』 通史編2・古代二、栃木県、1980年3月31日。NDLJP:9641938 (要登録)

関連項目

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外部リンク

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