コンテンツにスキップ

「オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
TXiKiBoT (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: ro:Prinţesa Augusta de Saxa-Gotha
編集の要約なし
 
(27人の利用者による、間の34版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 皇族・貴族
[[画像:Augusta of Saxe-Gotha, Princess of Wales by Charles Philips.jpg|thumb|オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]
| 人名 = オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ
'''オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ'''(Augusta of Saxe-Gotha, [[1719年]][[11月30日]] - [[1772年]][[2月8日]])は、[[イギリス]]王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の長男[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]王太子の妃([[プリンセス・オブ・ウェールズ]])、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の母。ドイツ名はアウグスタ。父は[[ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク]]公フリードリヒ2世<ref>
| 各国語表記 = {{lang|en|Augusta of Saxe-Gotha}}
ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世は、オーガスタの曾孫[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の[[王配]]、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]出身の[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]公の先祖でもある。ただし母方の先祖であり、オーガスタの兄フリードリヒ3世がアルバートの母[[ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク|ルイーゼ]]の曽祖父という関係である。
| 家名・爵位 = [[プリンセス・オブ・ウェールズ]]
</ref>
| 画像 = AugustaprincessofWales.jpg
アンハルト=ツェルプスト侯カール・ヴィルヘルムの娘マグダレーナ・アウグスタ
| 画像説明 =
| 称号 =
| 全名 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1719|11|30|no}}
| 生地 = {{HRR}}<br />[[File:VlagSGA.svg|border|25px]] [[ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国]]、[[ゴータ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1719|11|30|1772|2|8}}
| 没地 = {{GBR1606}}<br />{{ENG}}、[[ロンドン]]、[[カールトン・ハウス]]
| 埋葬日 = [[1772年]][[2月15日]]
| 埋葬地 = {{GBR1606}}<br />{{ENG}}、[[ロンドン]]、[[ウェストミンスター大聖堂]]
| 配偶者1 = [[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[プリンス・オブ・ウェールズ]])
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 父親 = [[フリードリヒ2世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世]]
| 親 = [[マグダレーナ・アウグスタ・フォン・アンハルト=ツェルプスト|マグダレーナ・アウグスタ]]
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ'''({{lang-en|Augusta of Saxe-Gotha}}, [[1719年]][[11月30日]] - [[1772年]][[2月8日]])は、[[イギリス]]王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の長男[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])の妃([[プリンセス・オブ・ウェールズ]])、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の母。


ドイツ名は'''アウグスタ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク'''({{lang|de|Augusta von Sachsen-Gotha-Altenburg}})。父は[[ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク]]公[[フリードリヒ2世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)|フリードリヒ2世]]<ref>
[[1736年]]4月17日、オーガスタは16歳で[[英語]]もわからぬまま、[[セント・ジェームズ宮殿]]で結婚した。12歳年上のフレデリック・ルイスとの結婚生活は幸せなものだった。夫妻は[[ハンプトン・コート宮殿]]に住んだ(王太子が自分の両親と不仲であったためである)。しかし、長女[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|オーガスタ・シャーロット]]出産の際、陣痛が始まってからオーガスタはセント・ジェームズ宮殿へ移されて出産した。<!--(王位継承者は[[ロンドン]]で生まれなければならなかったためである。)←根拠は?-->夫の影響もあり、ジョージ2世や[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]]王妃とは不仲だった。
ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世は、オーガスタの曾孫[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の[[王配]]、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]出身の[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]公の先祖でもある。ただし母方の先祖であり、オーガスタの兄フリードリヒ3世がアルバートの母[[ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク|ルイーゼ]]の曽祖父という関係である。</ref>、母はアンハルト=ツェルプスト侯カール・ヴィルヘルムの娘[[マグダレーナ・アウグスタ・フォン・アンハルト=ツェルプスト|マグダレーナ・アウグスタ]]


== 生涯 ==
[[1751年]]に夫が亡くなると、王位継承者の母であるオーガスタの発言権が強まり、政治に関わろうとする姿勢が露わになった。彼女はジョージ王子の専属教官であった[[ビュート伯ジョン・スュアート|ビュート伯]]と意見を同じにするようになり、2人は恋仲なのではないかという噂まで出た。さらに、ジョージ王子もいないのにビュート伯が王太子妃と会っていたと中傷された。[[1760年]]のジョージ3世即位後も、オーガスタの増長は国民の非難の的だった。
[[1736年]]4月17日、オーガスタは16歳で[[英語]]もわからぬまま、[[セント・ジェームズ宮殿]]で結婚した。12歳年上のフレデリック・ルイスとの結婚生活は幸せなものだった。夫妻は[[ハンプトン・コート宮殿]]に住んだ(が自分の両親と不仲であったためである)。しかし、長女[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|オーガスタ・シャーロット]]出産の際、陣痛が始まってからオーガスタはセント・ジェームズ宮殿へ移されて出産した。夫の影響もあり、ジョージ2世や[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]]王妃とは不仲だった。

[[1751年]]に夫が亡くなると、王位継承者の母であるオーガスタの発言権が強まり、政治に関わろうとする姿勢が露わになった。彼女はジョージ王子の専属教官であった[[ジョン・スュアート (第3代ビュート伯)|ビュート伯]](のちの[[イギリスの首相|首相]])と意見を同じにするようになり、2人は恋仲なのではないかという噂まで出た。さらに、ジョージ王子もいないのにビュート伯がオーガスタ妃と会っていたと中傷された。[[1760年]]のジョージ3世即位後も、オーガスタの増長は国民の非難の的だった。


[[1772年]]、52歳で喉頭癌により死去したが、葬儀に野次馬が大勢集まり、棺が墓地に運ばれる際にもオーガスタを侮辱する声が叫ばれたという。
[[1772年]]、52歳で喉頭癌により死去したが、葬儀に野次馬が大勢集まり、棺が墓地に運ばれる際にもオーガスタを侮辱する声が叫ばれたという。


== 子女 ==
夫フレデリック・ルイスとの間に5男4女をもうけた。
夫フレデリック・ルイスとの間に5男4女をもうけた。
*[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|オーガスタ・シャーロット]](1737年 - 1813年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルムと結婚。[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]妃[[キャロライン・オブ・ブランズウィック|キャロライン]]の母。
*[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|オーガスタ・シャーロット]](1737年 - 1813年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール・ヴィルヘルム・フェルディナント]]と結婚。[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]妃[[キャロライン・オブ・ブランズウィック|キャロライン]]の母。
*[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](1738年 - 1820年)
*[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](1738年 - 1820年)
*エドワード(1739年 - 1767年) - [[ヨーク公]]
*[[エドワード・オーガスタス (ヨーク・オールバニ公)|エドワード]](1739年 - 1767年) - [[ヨーク公]]
*エリザベス・キャロライン(1740年 - 1759年)
*エリザベス・キャロライン(1740年 - 1759年)
*[[ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)|ウィリアム]](1743年 - 1805年) - [[グロスター公]]
*[[ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)|ウィリアム]](1743年 - 1805年) - [[グロスター公]]
*ヘンリー(1745年 - 1790年) - [[カンバーランド公]]
*[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー]](1745年 - 1790年) - [[カンバーランド公]]
*ルイーザ・アン(1749年 - 1768年)
*ルイーザ・アン(1749年 - 1768年)
*フレデリック・ウィリアム(1750年 - 1765年)
*フレデリック・ウィリアム(1750年 - 1765年)
*[[リーネ・マティル|キャロライン・マティルダ]](1751年 - 1775年) - [[デンマーク]]王[[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]と結婚。
*[[キャライン・マティルダ・オブ・ウェールズ|キャロライン・マティルダ]](1751年 - 1775年) - [[デンマーク]]王[[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]と結婚。


== 注 ==
== 注 ==
{{Reflist}}
<references />


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Princess Augusta of Saxe-Gotha}}
*[[オーガスタ (ジョージア州)]]
*[[オーガスタ (ジョージア州)]]


{{プリンセス・オブ・ウェールズ|1736-1751}}
{{結婚によりイギリスのプリンセスとなった人物}}

{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おかすた}}
{{DEFAULTSORT:おかすた}}
[[Category:プリンセス・オブ・ウェールズ]]
[[Category:プリンセス・オブ・ウェールズ]]
[[Category:ヴェッン家]]
[[Category:ザクセン=ゴータ=アルテンブルク家]]
[[Category:グレートブリテン王国の人物]]
[[Category:ウェストミンスター寺院に埋葬された人物]]
[[Category:喉頭癌で亡くなった人物]]
[[Category:1719年生]]
[[Category:1719年生]]
[[Category:1772年没]]
[[Category:1772年没]]

[[ca:Augusta de Saxònia-Gotha]]
[[cy:Augusta o Saxe-Gotha]]
[[da:Augusta af Sachsen-Gotha]]
[[de:Augusta von Sachsen-Gotha-Altenburg]]
[[en:Princess Augusta of Saxe-Gotha]]
[[es:Augusta de Sajonia-Gotha]]
[[et:Augusta (Saksi-Gotha printsess)]]
[[it:Augusta di Sassonia-Gotha-Altenburg]]
[[nl:Augusta van Saksen-Gotha]]
[[no:Augusta av Sachsen-Coburg-Gotha]]
[[pl:Augusta Sachsen-Gotha]]
[[pt:Augusta de Saxe-Gota]]
[[ro:Prinţesa Augusta de Saxa-Gotha]]
[[simple:Princess Augusta of Saxe-Gotha]]
[[sv:Augusta av Sachsen-Gotha]]

2023年6月13日 (火) 10:25時点における最新版

オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ
Augusta of Saxe-Gotha
プリンセス・オブ・ウェールズ

出生 (1719-11-30) 1719年11月30日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国ゴータ
死去 (1772-02-08) 1772年2月8日(52歳没)
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランドロンドンカールトン・ハウス
埋葬 1772年2月15日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランドロンドンウェストミンスター大聖堂
配偶者 フレデリック・ルイスプリンス・オブ・ウェールズ
子女 一覧参照
父親 ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世
母親 マグダレーナ・アウグスタ
テンプレートを表示

オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ英語: Augusta of Saxe-Gotha, 1719年11月30日 - 1772年2月8日)は、イギリスジョージ2世の長男フレデリック・ルイス王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)の妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)、ジョージ3世の母。

ドイツ名はアウグスタ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルクAugusta von Sachsen-Gotha-Altenburg)。父はザクセン=ゴータ=アルテンブルクフリードリヒ2世[1]、母はアンハルト=ツェルプスト侯カール・ヴィルヘルムの娘マグダレーナ・アウグスタ

生涯

[編集]

1736年4月17日、オーガスタは16歳で英語もわからぬまま、セント・ジェームズ宮殿で結婚した。12歳年上のフレデリック・ルイスとの結婚生活は幸せなものだった。夫妻はハンプトン・コート宮殿に住んだ(夫が自分の両親と不仲であったためである)。しかし、長女オーガスタ・シャーロット出産の際、陣痛が始まってからオーガスタはセント・ジェームズ宮殿へ移されて出産した。夫の影響もあり、ジョージ2世やキャロライン王妃とは不仲だった。

1751年に夫が亡くなると、王位継承者の母であるオーガスタの発言権が強まり、政治に関わろうとする姿勢が露わになった。彼女はジョージ王子の専属教官であったビュート伯(のちの首相)と意見を同じにするようになり、2人は恋仲なのではないかという噂まで出た。さらに、ジョージ王子もいないのにビュート伯がオーガスタ妃と会っていたと中傷された。1760年のジョージ3世即位後も、オーガスタの増長は国民の非難の的だった。

1772年、52歳で喉頭癌により死去したが、葬儀に野次馬が大勢集まり、棺が墓地に運ばれる際にもオーガスタを侮辱する声が叫ばれたという。

子女

[編集]

夫フレデリック・ルイスとの間に5男4女をもうけた。

脚注

[編集]
  1. ^ ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世は、オーガスタの曾孫ヴィクトリア女王の王配ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のアルバート公の先祖でもある。ただし母方の先祖であり、オーガスタの兄フリードリヒ3世がアルバートの母ルイーゼの曽祖父という関係である。

関連項目

[編集]