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[[画像:Koichiro Asakai (01).jpg|thumb|1963年3月11日、[[ホワイトハウス]]にて]]
'''朝海 浩一郎'''(あさかい こういちろう、[[1906年]][[3月15日]] - [[1995年]][[9月9日]])は、日本の[[外交官]]。連絡調整中央事務局長官、外務[[審議官]]を経て、[[岸信介]]内閣における[[日米安全保障条約]]改定の時期を含め、駐[[アメリカ合衆国]][[特命全権大使]]を異例の6年間務めた。1976年[[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]。
[[画像:President John F. Kennedy Meets with Former Prime Minister Shigeru Yoshida of Japan.jpg|thumb|駐米大使時の朝海(左)。[[吉田茂]]元首相(中央)、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領(右)と。]]
'''朝海 浩一郎'''(あさかい こういちろう、[[1906年]][[3月15日]] - [[1995年]][[9月9日]])は、日本の[[外交官]]。[[連絡調整中央事務局]]長官等を経て、[[岸信介]]内閣における[[日米安全保障条約]]改定の時期を含め、駐[[アメリカ合衆国]][[特命全権大使]]を異例の6年間務めた。退任後1963年から1982年まで外務省顧問。1976年[[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]。1995年[[正三位]]。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[栃木県]][[足利市]]生まれ<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/140726/tcg14072603580004-n1.htm 外交官・朝海氏遺品を遺族が故郷・足利市に寄贈 栃木」]MSN産経ニュース2014.7.26</ref>。[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]卒、1929年[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]([[一橋大学]]の前身)卒。学生時代は[[ボート]]部所属。後にボート部OB会である四神会会長も務めた。
[[栃木県]][[足利郡]][[北郷村 (栃木県)|北郷村]](現:[[足利市]])田島出身<ref>{{Cite news |title=外交官・朝海氏遺品を遺族が故郷・足利市に寄贈 栃木 |newspaper=産経ニュース |date=2014-07-26 |author= |url=https://www.sankei.com/article/20140726-ZTRQQLEV25JWBCIXBQJMEW4VF4/ |accessdate=2015-02-04}}</ref>。[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]卒、1929年[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]([[一橋大学]]の前身)卒<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 22頁。</ref>。学生時代は[[ボート]]部所属。後にボート部OB会である四神会会長も務めた。1928年[[高等文官試験|外交官及領事官試験]]合格、1929年[[外務省]]入省。同期に[[山田久就]](元駐[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ]]大使)、[[大野勝巳]](元駐英大使)など


1928年[[公務員試験|外交官試験]]合格、1929年[[外務省]]入省。[[イギリス]][[エディンバラ大学]]留学等を経て、南京副領事、戦時経済局課長、調査部課長、亜細亜局事務官、第二次大戦後には、1946年[[終戦連絡中央事務局]]総務部長、1948年外務省総務局長、[[連絡調整中央事務局]]長官、1956年外務[[審議官]]、再開初代駐[[フィリピン]]特命全権大使、1957年駐アメリカ合衆国特命全権大使、1963年外務省顧問、1964年第1回[[国際連合貿易開発会議]]代表、[[国際原子力機関]]第9回総会代表、1969年[[ジュネーヴ軍縮委員会]]日本政府代表等を歴任
[[イギリス]][[エディンバラ大学]]留学等を経て、[[南京市|南京]]副領事、戦時経済局課長、調査部課長、亜細亜局事務官。1942年[[日泰攻守同盟条約]]慶祝答礼のため[[広田弘毅]]元首相、[[矢田部保吉]]特命全権大使、[[水野伊太郎]][[特命全権公使]]、[[東光武三]][[書記官]]らと[[タイ王国]]に派遣される<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100207001|title=泰へ同盟慶祝答礼使節 : 特派大使、広田弘毅氏 : 補佐に矢田部全権大使 : 近く出発|oldmeta=00501949}} 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」] 大阪毎日新聞 1942年6月21日付。[[神戸大学経済経営研究所]]「新聞記事文庫」収録</ref>。第二次大戦後には、1945年[[経済安定本部]]部員、1946年[[終戦連絡中央事務局]]総務部長、1948年外務省[[総務局]]長、[[連絡調整中央事務局]]長官、叙一級、1949[[外務省研修所]]指導官、1951年[[ロンドン]]日本政府在外事務所長、1952年[[在連合王国日本国大使館]][[特命全権公使]]、1954年[[経済局 (外務省)|経済局]]長事務取扱、1955年大臣官房審議室長、1956年大臣官房[[外務審議官]]、再開初代駐[[フィリピン]]特命全権大使、1957年駐アメリカ合衆国特命全権大使、[[大蔵省]]顧問、1963年外務省顧問、1964年第1回[[国際連合貿易開発会議]]代表、[[国際原子力機関]]第9回総会代表、国際連合アジア極東経済委員会総会日本政府代表、[[運輸省]]海運造船合理化審議会委員、1966年[[フェルディナンド・マルコス]]フィリピン共和国大統領就任式典特派大使、1967年10月の吉田茂[[国葬]]儀委員、航空審議会委員、1969年ジュネーヴ軍縮委員会(現:[[ジュネーブ軍縮会議]]日本[[政府代表]]、1971年経済審議会委員


朝海の活躍は、第二次大戦直後に「最大の問題」として立ち現れた[[賠償]]問題に、[[終戦連絡中央事務局]]総務部長として関与したことから本格的に開始される。しかし、占領軍の外交顧問としてやってきた[[ジョージ・アチソン|アチソン]]など占領軍関係者との人脈等は、南京副領事時代やイギリスで作られた。{{仮リンク|ポーレー|en|Edwin W. Pauley}}賠償使節団が1946年11月にトルーマン大統領の特別使節として来日した際には、日光に赴くポーレーに特別列車単独接触し、連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことをいち早く突き止めた。
朝海の活躍は、第二次大戦直後に「最大の問題」として立ち現れた[[賠償]]問題に、[[終戦連絡中央事務局]]総務部長として関与したことから本格的に開始される。しかし、占領軍の外交顧問としてやってきた[[ジョージ・アチソン|アチソン]]など占領軍関係者との人脈等は、南京副領事時代やイギリスで作られた。{{仮リンク|ポーレー|en|Edwin W. Pauley}}賠償使節団が1946年11月に[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン大統領]]の特別使節として来日した際には、日光に赴く団長のポーレーに特別列車で単独接触連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことをいち早く突き止めた。


また、経済専門家の[[大来佐武郎]]をともなって、ポーレー使の側近であるマクスウェルや[[オーウェン・ラティモア]]と、本土から撤去されるべき化成ソーダや業用爆薬、製鉄産業設備の撤去をめぐる実務交渉を展開、アメリカ側の賠償計画に側面から影響を与えたと考えられる。[[終戦連絡調整事務局]]長官時代には、来日した国務長官ダレスとも接触、第二次大戦中の[[阿波丸事件]]や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、[[南部仏印進駐]]時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還は、連合国との講和条約において否定された。
また、経済専門家の[[大来佐武郎]]を伴い、ポーレー使の側近であるマクスウェルや[[オーウェン・ラティモア]]と、本土から撤去されるべき[[苛性ソーダ]]業用爆薬、製鉄産業設備の撤去をる実務交渉を展開、アメリカ側の賠償計画に側面から影響を与えたと考えられる。[[連絡調整中央事務局]]長官時代には、来日した[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス国務長官]]とも接触、第二次大戦中の[[阿波丸事件]]や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、[[南部仏印進駐]]時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還は、[[日本国との平和条約|連合国との講和条約]]において否定された。


朝海のその後は、様々な局面で占領期と変わらず米国の圧力に押されつづける日本の姿勢を晩年まで批判し続けたとされる。また、駐米大使時代、「日本にとって最大の外交的悪夢は何か」と質問され、「日本があずかり知らぬ間に、頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ」と答えたとされる。この発言が「朝海の悪夢」という名で外務省内部で話題を呼び、かつ朝海退任後のニクソン政権において[[ニクソン大統領の中国訪問|現実となった]]ことから、米中接近を予期した「朝海の悪夢」の発案者としても知られることとなった(朝海が実際に見た夢だった、とする説もある)。
外交官退任後の朝海は、晩年まで様々な局面で占領期と変わらず米国の圧力に押されける日本政府の姿勢を批判し続けたとされる。また、駐米大使時代、「日本にとって最大の外交的悪夢は何か」と質問され、「日本があずかり知らぬ間に、頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ」と答えたとされる。この発言が「朝海の悪夢」という名で外務省内部で話題を呼び、かつ朝海退任後の[[リチャード・ニクソン|ニクソン政権]]において[[ニクソン大統領の中国訪問|現実となった]]ことから、米中接近を予期した「朝海の悪夢」の発案者としても知られることとなった(朝海が実際に見た夢だった、とする説もある)。


== 家族 ==
妻洋子は[[外務省|外務]][[次官]]や駐アメリカ大使を歴任した[[出淵勝次]]の娘。二男の[[朝海和夫]]も外交官で、欧州連合日本政府代表部部大使を務めた。
[[画像:Jap. Amb. Katsuji, Debuchi, & daughter Takako, 3-29-29 LCCN2016843531.tif|thumb|義父[[出淵勝次]](右)と出淵の長女で朝海の妻・隆子(左)]]
妻隆子は[[外務省|外務]][[次官]]や駐アメリカ大使を歴任した[[出淵勝次]]の娘で、[[菊池武夫 (法律家)]]の外孫。次男の[[朝海和夫]]も外交官で、[[欧州連合]]日本[[政府代表部]]大使を務めた。和夫の岳父に[[岡谷鋼機]]会長・[[岡谷康治]]<ref name="jinji">『人事興信録』38版、1995年、朝海浩一郎</ref>。外務省顧問や衆議院議員を務めた[[白鳥敏夫]]は叔父。長男[[朝海俊夫]]([[プリンストン大学]]卒、[[東銀]]監査役)の妻は[[鈴木治雄]]長女直子<ref name="jinji"/>。長女の明子は[[新日鉄]]会長・[[永野重雄]]の三男・鉄三に嫁いだ<ref name="jinji"/>。


== 著書 ==
== 著書 ==
*『外交の黎明――ジュネーヴ会議に使して』(読売新聞社、1950年)
*『外交の黎明――ジュネーヴ会議に使して』([[読売新聞社]]、1950年)
*『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書(上・下)』(外務省編、毎日新聞社、1978-1979年)
*『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書』(外務省編、[[毎日新聞社]](上・下)、1978- 1979年)
*『司町閑話 : 一外交官の回想』(大林組、1987年)。同社関係者での回想談(私家版)
*『花みづきの庭にて : ある外交官の回想』(大林組、1988年)。同社関係者での回想談(私家版)
*『朝海浩一郎日記 付・吉田茂書翰』([[千倉書房]]、2019年)。[[河野康子 (政治学者)|河野康子]]・村上友章・[[井上正也]] 編


== 脚注 ==
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{{先代次代|終戦連絡中央事務局総務部長|1946年 - 1948年|[[井口貞夫]]|廃止}}
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{{先代次代|連絡調整中央事務局長官|1948年 - 1949年|[[曽祢益]]|廃止}}
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[[Category:1906年生]]
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2023年6月18日 (日) 19:28時点における最新版

1963年3月11日、ホワイトハウスにて
駐米大使時の朝海(左)。吉田茂元首相(中央)、ジョン・F・ケネディ大統領(右)と。

朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官連絡調整中央事務局長官等を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。退任後1963年から1982年まで外務省顧問。1976年勲一等瑞宝章。1995年正三位

来歴・人物

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栃木県足利郡北郷村(現:足利市)田島出身[1]開成中学校卒、1929年東京商科大学一橋大学の前身)卒[2]。学生時代はボート部所属。後にボート部OB会である四神会会長も務めた。1928年外交官及領事官試験合格、1929年外務省入省。同期に山田久就(元駐大使)、大野勝巳(元駐英大使)など。

イギリスエディンバラ大学留学等を経て、南京副領事、戦時経済局課長、調査部課長、亜細亜局事務官。1942年、日泰攻守同盟条約慶祝答礼のため広田弘毅元首相、矢田部保吉特命全権大使、水野伊太郎特命全権公使東光武三書記官らとタイ王国に派遣される[3]。第二次大戦後には、1945年経済安定本部部員、1946年終戦連絡中央事務局総務部長、1948年外務省総務局長、連絡調整中央事務局長官、叙一級、1949年外務省研修所指導官、1951年ロンドン日本政府在外事務所長、1952年在連合王国日本国大使館特命全権公使、1954年経済局長事務取扱、1955年大臣官房審議室長、1956年大臣官房外務審議官、再開初代駐フィリピン特命全権大使、1957年駐アメリカ合衆国特命全権大使、大蔵省顧問、1963年外務省顧問、1964年第1回国際連合貿易開発会議代表、国際原子力機関第9回総会代表、国際連合アジア極東経済委員会総会日本政府代表、運輸省海運造船合理化審議会委員、1966年フェルディナンド・マルコスフィリピン共和国大統領就任式典特派大使、1967年10月の吉田茂国葬儀委員、航空審議会委員、1969年ジュネーヴ軍縮委員会(現:ジュネーブ軍縮会議)日本政府代表、1971年経済審議会委員。

朝海の活躍は、第二次大戦直後に「最大の問題」として立ち現れた賠償問題に、終戦連絡中央事務局総務部長として関与したことから本格的に開始される。しかし、占領軍の外交顧問としてやってきたアチソンなど占領軍関係者との人脈等は、南京副領事時代やイギリスで作られた。ポーレー英語版賠償使節団が1946年11月にトルーマン大統領の特別使節団として来日した際には、日光に赴く団長のポーレーに特別列車内で単独接触。連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことをいち早く突き止めた。

また、経済専門家の大来佐武郎を伴い、ポーレー特使の側近であるマクスウェルやオーウェン・ラティモアと、本土から撤去されるべき苛性ソーダや工業用爆薬、製鉄産業設備の撤去を巡る実務交渉を展開、アメリカ側の賠償計画に側面から影響を与えたと考えられる。連絡調整中央事務局長官時代には、来日したダレス国務長官とも接触、第二次大戦中の阿波丸事件や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、南部仏印進駐時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還は、連合国との講和条約において否定された。

外交官退任後の朝海は、晩年まで様々な局面で、占領期と変わらず米国の圧力に押され続ける日本政府の姿勢を批判し続けたとされる。また、駐米大使時代、「日本にとって最大の外交的悪夢は何か」と質問され、「日本があずかり知らぬ間に、頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ」と答えたとされる。この発言が「朝海の悪夢」という名で外務省内部で話題を呼び、かつ朝海退任後のニクソン政権において現実となったことから、米中接近を予期した「朝海の悪夢」の発案者としても知られることとなった(朝海が実際に見た夢だった、とする説もある)。

家族

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義父出淵勝次(右)と出淵の長女で朝海の妻・隆子(左)

妻隆子は外務次官や駐アメリカ大使を歴任した出淵勝次の娘で、菊池武夫 (法律家)の外孫。次男の朝海和夫も外交官で、欧州連合日本政府代表部大使を務めた。和夫の岳父に岡谷鋼機会長・岡谷康治[4]。外務省顧問や衆議院議員を務めた白鳥敏夫は叔父。長男朝海俊夫プリンストン大学卒、東銀監査役)の妻は鈴木治雄長女直子[4]。長女の明子は新日鉄会長・永野重雄の三男・鉄三に嫁いだ[4]

著書

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  • 『外交の黎明――ジュネーヴ会議に使して』(読売新聞社、1950年)
  • 『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書』(外務省編、毎日新聞社(上・下)、1978年 - 1979年)
  • 『司町閑話 : 一外交官の回想』(大林組、1987年)。同社関係者での回想談(私家版)
  • 『花みづきの庭にて : ある外交官の回想』(大林組、1988年)。同社関係者での回想談(私家版)
  • 『朝海浩一郎日記 付・吉田茂書翰』(千倉書房、2019年)。河野康子・村上友章・井上正也

脚注

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  1. ^ “外交官・朝海氏遺品を遺族が故郷・足利市に寄贈 栃木”. 産経ニュース. (2014年7月26日). https://www.sankei.com/article/20140726-ZTRQQLEV25JWBCIXBQJMEW4VF4/ 2015年2月4日閲覧。 
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 22頁。
  3. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」 大阪毎日新聞 1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
  4. ^ a b c 『人事興信録』38版、1995年、朝海浩一郎
先代
井口貞夫
終戦連絡中央事務局総務部長
1946年 - 1948年
次代
廃止
先代
太田一郎
外務省総務局長
1948年
次代
大野勝巳
先代
曽祢益
連絡調整中央事務局長官
1948年 - 1949年
次代
廃止
先代
黄田多喜夫
外務省経済局長(事務取扱)
1954年 - 1955年
次代
湯川盛夫