「曽禰好忠」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
→経歴: 勅撰集入集数 |
m →逸話 |
||
(17人の利用者による、間の19版が非表示) | |||
1行目:
{{表記揺れ案内|text=|表記1=曽禰好忠|表記2=曾禰好忠}}
{{文学}}▼
[[File:Hyakuninisshu 046.jpg|thumb|曽禰好忠]]
'''
== 経歴 ==
当時としては[[和歌]]の新しい形式である「[[百首歌]]」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった[[源順]]・[[大中臣能宣]]・[[源重之]]らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『[[万葉集]]』の古語を用いて斬新な和歌を読み、[[平安時代]]後期の革新歌人から再評価された。
『[[拾遺和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に
46番(及び『[[新古今和歌集]]』恋一1071)より。
:[[由良川|由良の門
== 逸話 ==
[[寛和]]元年
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
▲{{Portal|文学}}
{{wikiquote}}
{{百人一首}}
{{Normdaten}}
{{Writer-stub}}▼
{{DEFAULTSORT:そね の よしたた}}
[[Category:平安時代の歌人]]
[[Category:曽禰氏|よしたた]]
[[Category:小倉百人一首の歌人]]
[[Category:丹後国の人物]]
[[Category:生没年不詳]]
▲{{Writer-stub}}
|
2023年7月29日 (土) 01:29時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Hyakuninisshu_046.jpg/220px-Hyakuninisshu_046.jpg)
曽禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳[1]。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾[2]。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。
経歴
[編集]当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。
『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に94首入集[2]。家集に『曾丹集』がある。小倉百人一首 46番(及び『新古今和歌集』恋一1071)より。
逸話
[編集]寛和元年2月13日(985年3月7日)、円融上皇の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠や中原重節たちが強引に歌人の座に着席したところ、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出された。しかし、源時通によれば、「好忠は已に召人の内に在った」らしい[3]。また、上皇御前から遠ざけられた後、腹を立てた殿上人たちから、多くの見物人たちの前で暴行を加えられた[4]。