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'''曽禰 好忠'''(そね の よしただ、生没年不詳)は、[[平安時代]]中期の[[歌人]]。出自については未詳<ref>古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は[[物部氏]]の一族とされ、『新撰姓氏録』でも[[物部氏#石上氏|石上]]同祖(左京神別)、[[ニギハヤヒ|饒速日命]]の六世孫[[伊香色雄命]]の後裔(右京神別)、あるいは采女臣同祖(和泉神別)との記述がある。但し、好忠が物部氏族の曾禰連に連なるのかどうかははっきりしない。</ref>。[[中古三十六歌仙]]の一人。[[官位]]は六位・[[丹後国|丹後]][[掾]]<ref name="a">『[[勅撰作者部類]]』</ref>。長く丹後掾を務めたことから'''曾丹後'''(そたんご)とも'''曾丹'''(そたん)とも称された。 |
'''曽禰 好忠'''(そね の よしただ、[[生没年不詳]])は、[[平安時代]]中期の[[歌人]]。出自については未詳<ref>古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は[[物部氏]]の一族とされ、『新撰姓氏録』でも[[物部氏#石上氏|石上]]同祖(左京神別)、[[ニギハヤヒ|饒速日命]]の六世孫[[伊香色雄命]]の後裔(右京神別)、あるいは[[采女氏|采女臣]]同祖(和泉神別)との記述がある。但し、好忠が物部氏族の曾禰連に連なるのかどうかははっきりしない。</ref>。[[中古三十六歌仙]]の一人。[[官位]]は六位・[[丹後国|丹後]][[掾]]<ref name="a">『[[勅撰作者部類]]』</ref>。長く丹後掾を務めたことから'''曾丹後'''(そたんご)とも'''曾丹'''(そたん)とも称された。 |
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== 経歴 == |
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当時としては[[和歌]]の新しい形式である「[[百首歌]]」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった[[源順]]・[[大中臣能宣]]・[[源重之]]らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『[[万葉集]]』の古語を用いて斬新な和歌を読み、[[平安時代]]後期の革新歌人から再評価された。 |
当時としては[[和歌]]の新しい形式である「[[百首歌]]」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった[[源順]]・[[大中臣能宣]]・[[源重之]]らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『[[万葉集]]』の古語を用いて斬新な和歌を読み、[[平安時代]]後期の革新歌人から再評価された。 |
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『[[拾遺和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に |
『[[拾遺和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に94首入集<ref name="a" />。家集に『[[曾丹集]]』がある。[[小倉百人一首]] |
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46番(及び『[[新古今和歌集]]』恋一1071)より。 |
46番(及び『[[新古今和歌集]]』恋一1071)より。 |
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:由良の門 |
:[[由良川|由良の門]]を 渡る舟人 [[艪|梶]]を絶え 行方も知らぬ 恋の通かな |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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寛和元年 |
[[寛和]]元年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[985年]][[3月7日]])、[[円融天皇|円融上皇]]の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠や中原重節たちが強引に歌人の座に着席したところ、[[藤原実資]]・[[藤原朝光]]の指図により追い出された。しかし、[[源時通]]によれば、「好忠は已に[[召人]]の内に在った」らしい<ref>『[[小右記]]』、『[[大鏡]]』第6巻25段、『[[今昔物語]]』28巻3話</ref>。また、上皇御前から遠ざけられた後、腹を立てた殿上人たちから、多くの見物人たちの前で暴行を加えられた<ref>『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』、2005年9月発行、[[繁田信一]]、柏書房、24-25頁</ref>。 |
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== 脚注 == |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Hyakuninisshu_046.jpg/220px-Hyakuninisshu_046.jpg)
曽禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳[1]。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾[2]。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。
経歴[編集]
当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。
『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に94首入集[2]。家集に『曾丹集』がある。小倉百人一首 46番(及び『新古今和歌集』恋一1071)より。
逸話[編集]
寛和元年2月13日(985年3月7日)、円融上皇の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠や中原重節たちが強引に歌人の座に着席したところ、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出された。しかし、源時通によれば、「好忠は已に召人の内に在った」らしい[3]。また、上皇御前から遠ざけられた後、腹を立てた殿上人たちから、多くの見物人たちの前で暴行を加えられた[4]。