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==生涯==
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チェザーレ・バルボは[[1789年]][[11月12日]]、[[トリノ]]の高貴な家に生まれた<ref name="cb">[https://www.treccani.it/enciclopedia/cesare-balbo_(Enciclopedia-Italiana)/ BALBO, Cesare]イタリア人名辞典 {{it icon}}</ref>。父のプロスペロ・バルボ({{lang-it|Prospero Balbo}})は、チェザーレ・バルボの出生時には[[サルデーニャ王国]]の[[首都]][[トリノ]]の[[市長]]を務めていた。母のエンリケ・タパレッリ・ダゼグリオ({{lang-it|Enrichetta Taparelli d'Azeglio}})は、バルボが3歳の時に死亡している<ref name="cb"/>。
チェザーレ・バルボは[[1789年]][[11月12日]]、[[トリノ]]の高貴な家に生まれた<ref name="cb">[https://www.treccani.it/enciclopedia/cesare-balbo_(Enciclopedia-Italiana)/ BALBO, Cesare]イタリア人名辞典 {{it icon}}</ref>。父のプロスペロ・バルボ{{lang-it|Prospero Balbo}})は、チェザーレ・バルボの出生時には[[サルデーニャ王国]]の[[首都]][[トリノ]]の[[市長]]を務めていた。母のエンリケ・タパレッリ・ダゼグリオ{{lang-it|Enrichetta Taparelli d'Azeglio}})は、バルボが3歳の時に死亡している<ref name="cb"/>。


[[1798年]]、母親が死亡して以降曾祖母に養われていた[[バルボ]]は、[[イタリア]]を出て[[パリ]]にいた父プロスペロの下で暮らし始め、[[1808年]]から[[1814年]]にかけては[[ナポレオン・ボナパルト]]に仕えていた父に同行し[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]、[[パリ]]、[[イリュリア]]など各地を転々とした<ref name="cb"/>。またバルボ自身も[[トスカーナ大公国]]では要職に任命された<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 56ページ</ref>。その間、バルボは[[自由主義]]や[[啓蒙主義]]などの考えに触れ、また[[ブルジョワ]]や[[貴族]]などとの交流を経て経済的な結びつきを手に入れると、次第に[[イタリア統一]]の思想に傾倒していき、[[連邦制]]による緩やかな[[イタリア統一]]を標榜するようになる<ref name="cb"/>。
[[1798年]]、母親が死亡して以降曾祖母に養われていた[[バルボ]]は、[[イタリア]]を出て[[パリ]]にいた父プロスペロの下で暮らし始め、[[1808年]]から[[1814年]]にかけては[[ナポレオン・ボナパルト]]に仕えていた父に同行し[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]、[[パリ]]、[[イリュリア]]など各地を転々とした<ref name="cb"/>。またバルボ自身も[[トスカーナ大公国]]では要職に任命された<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 56ページ</ref>。その間、バルボは[[自由主義]]や[[啓蒙主義]]などの考えに触れ、また[[ブルジョワ]]や[[貴族]]などとの交流を経て経済的な結びつきを手に入れると、次第に[[イタリア統一]]の思想に傾倒していき、[[連邦制]]による緩やかな[[イタリア統一]]を標榜するようになる<ref name="cb"/>。


[[ウィーン体制]]成立後、バルボは高貴な生まれであったことから[[政界]]に入るが、[[イタリア統一]]を標榜しつつも[[王政]]や[[立憲君主制]]ではなく[[連邦制]]を支持したことから、[[サルデーニャ国王]]の[[カルロ・アルベルト]]と対立。また[[教皇庁]]が[[イタリア統一]]において最大の障壁となると論じたことから、[[教皇]]による統一と支配を望む[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]とも意見を異にし、その結果[[1821年]]から[[1847年]]にかけては[[カルボナリ]]との関係も指摘されて[[政界]]から追放され一時的に亡命したのち<ref name="bri">[https://www.britannica.com/biography/Cesare-Count-Balbo Cesare, Count Balbo][[ブリタニカ国際大百科事典]] {{en icon}}</ref>、[[作家]]・[[歴史家]]として活躍していた<ref name="cb"/>。[[1844年]]に出版された『[[イタリアの希望]]』(『''Le speranze d'Italia''』)は、[[イタリア]]が統一されず[[大国]]によって支配されている限り[[イタリア]]の道徳的優位性<ref group=注釈>[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]が主張した、イタリア半島はカトリックの総本山や教皇を有しているため道徳的に優位にあるとする思想</ref>は主張できないと論じたもので、[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]の意見を批判するものであった<ref>藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 214ページ</ref><ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 105‐107ページ</ref>。[[1846年]]には[[イタリア半島]]を一つの地域として捉え歴史を叙述した『イタリアの起源から現在までの歴史』(『Storia d'Italia dalle origini fino ai nostri giorni』)を出版し、[[イタリア]]という共通の地域的アイデンティティを主張した。これら二つの著書は、[[イタリア統一]]に大きな影響を齎した。また[[1847年]]には、[[カミッロ・カヴール]]とともに日刊政治新聞『{{仮リンク|イル=リソルジメント|it|Il Risorgimento (Torino)}}』を創刊し<ref>森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 143ページ</ref>、また[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ|ヴィンチェンツォ・ ジョベルティ]]などとともにイタリア諸邦による[[関税同盟]]などを訴えた<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 110ページ</ref>。
[[ウィーン体制]]成立後、バルボは高貴な生まれであったことから[[政界]]に入るが、[[イタリア統一]]を標榜しつつも[[王政]]や[[立憲君主制]]ではなく[[連邦制]]を支持したことから、[[サルデーニャ国王]]の[[カルロ・アルベルト]]と対立。また[[教皇庁]]が[[イタリア統一]]において最大の障壁となると論じたことから、[[教皇]]による統一と支配を望む[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]とも意見を異にし、その結果[[1821年]]から[[1847年]]にかけては[[カルボナリ]]との関係も指摘されて[[政界]]から追放され一時的に亡命したのち<ref name="bri">[https://www.britannica.com/biography/Cesare-Count-Balbo Cesare, Count Balbo][[ブリタニカ国際大百科事典]] {{en icon}}</ref>、[[作家]]・[[歴史家]]として活躍していた<ref name="cb"/>。[[1844年]]に出版された『[[イタリアの希望]]』(『''Le speranze d'Italia''』)は、[[イタリア]]が統一されず[[大国]]によって支配されている限り[[イタリア]]の道徳的優位性<ref group=注釈>[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]が主張した、イタリア半島はカトリックの総本山や教皇を有しているため道徳的に優位にあるとする思想</ref>は主張できないと論じたもので、[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]の意見を批判するものであった<ref>藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 214ページ</ref><ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 105‐107ページ</ref>。[[1846年]]には[[イタリア半島]]を一つの地域として捉え歴史を叙述した『[[イタリアの起源から現在までの歴史]]』(『Storia d'Italia dalle origini fino ai nostri giorni』)を出版し、[[イタリア]]という共通の地域的アイデンティティを主張した。これら二つの著書は、[[イタリア統一]]に大きな影響を齎した。また[[1847年]]には、[[カミッロ・カヴール]]とともに日刊政治新聞『[[イル=リソルジメント]]』を創刊し<ref>森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 143ページ</ref>、また[[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ|ヴィンチェンツォ・ ジョベルティ]]などとともにイタリア諸邦による[[関税同盟]]などを訴えた<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 110ページ</ref>。


バルボは革命ではなく改革を目指す「穏健派」の一人であり<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 102ページ</ref>、{{仮リンク|アルベルト憲法|en|Statuto Albertino}}の起草など着実に[[サルデーニャ王国]]では改革が進んでいくと、『イタリアの希望』などいくつかの著作が評価されていたため穏健派の中心人物となった<ref>藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 210ページ</ref>。そして[[サルデーニャ王国]]の初代[[サルデーニャ王国首相の一覧|首相]]に選出され、[[1848年]][[3月18日]]に就任する<ref name="bri"/>。しかし[[ミラノの5日間]]によって成立したロンバルディア臨時政府の首班[[ガブリオ・カザーティ]]は、[[ロンバルディア]]の[[サルデーニャ王国]]併合を取りまとめるなどの手腕を発揮し{{仮リンク|第一次イタリア独立戦争|it|Prima guerra di indipendenza italiana|fr|Première guerre d'indépendance italienne|en|First Italian War of Independence}}で中心的な人物となっていく。また、[[国力]]が乏しいうちから対[[オーストリア帝国]]戦争に踏み切った国王の[[カルロ・アルベルト]]とは対立を深めた。そのことからバルボは初代首相になってからわずか131日後の[[7月27日]]に退陣し、[[ガブリオ・カザーティ]]にその席を譲った<ref name="cb"/>。
バルボは革命ではなく改革を目指す「穏健派」の一人であり<ref>藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 102ページ</ref>、{{仮リンク|アルベルト憲法|en|Statuto Albertino}}の起草など着実に[[サルデーニャ王国]]では改革が進んでいくと、『イタリアの希望』などいくつかの著作が評価されていたため穏健派の中心人物となった<ref>藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 210ページ</ref>。そして[[サルデーニャ王国]]の初代[[サルデーニャ王国首相の一覧|首相]]に選出され、[[1848年]][[3月18日]]に就任する<ref name="bri"/>。しかし[[ミラノの5日間]]によって成立したロンバルディア臨時政府の首班[[ガブリオ・カザーティ]]は、[[ロンバルディア]]の[[サルデーニャ王国]]併合を取りまとめるなどの手腕を発揮し{{仮リンク|第一次イタリア独立戦争|it|Prima guerra di indipendenza italiana|fr|Première guerre d'indépendance italienne|en|First Italian War of Independence|redirect=1}}で中心的な人物となっていく。また、[[国力]]が乏しいうちから対[[オーストリア帝国]]戦争に踏み切った国王の[[カルロ・アルベルト]]とは対立を深めた。そのことからバルボは初代首相になってからわずか131日後の[[7月27日]]に退陣し、[[ガブリオ・カザーティ]]にその席を譲った<ref name="cb"/>。


その後は[[政界]]に留まるも目立った活躍は無く、一方で[[作家]]や[[歴史家]]としては晩年まで精力的に活動を続けた。しかし[[イタリア統一]]を見る事はなく[[1853年]][[6月3日]]に[[トリノ]]で死亡した<ref name="cb"/>。
その後は[[政界]]に留まるも目立った活躍は無く、一方で[[作家]]や[[歴史家]]としては晩年まで精力的に活動を続けた。しかし[[イタリア統一]]を見る事はなく[[1853年]][[6月3日]]に[[トリノ]]で死亡した<ref name="cb"/>。
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* [[ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]
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* [[サルデーニャ王国首相の一覧]]
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* {{仮リンク|イル=リソルジメント|it|Il Risorgimento (Torino)}}
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* [[ガブリオ・カザーティ]]
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* [[トリノ]]
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チェザーレ・バルボ
Cesare Balbo
生年月日 (1789-11-12) 1789年11月12日
出生地 サルデーニャの旗 サルデーニャ王国トリノ
没年月日 (1853-06-03) 1853年6月3日(63歳没)
死没地 サルデーニャの旗 サルデーニャ王国トリノ
所属政党 歴史的右翼

サルデーニャ王国初代首相
内閣 バルボ内閣
在任期間 1848年3月18日 - 1848年7月27日
国王 カルロ・アルベルト
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チェザーレ・バルボイタリア語: Cesare Balbo, 1789年11月12日 - 1853年6月3日)は、イタリアイタリア統一運動時代の政治家作家歴史家愛国者である。サルデーニャ王国首相を務めた。革命よりも改革を目指す穏健派の人物で、オーストリア帝国からのイタリアの独立を最優先課題とした[1]

生涯[編集]

イタリアの起源から現在までの歴史』イタリア語版 1913年出版
イル=リソルジメント創刊号の表紙
トリノのチェザーレ・バルボ像

チェザーレ・バルボは1789年11月12日トリノの高貴な家に生まれた[2]。父のプロスペロ・バルボ(イタリア語: Prospero Balbo)は、チェザーレ・バルボの出生時にはサルデーニャ王国首都トリノ市長を務めていた。母のエンリケ・タパレッリ・ダゼグリオ(イタリア語: Enrichetta Taparelli d'Azeglio)は、バルボが3歳の時に死亡している[2]

1798年、母親が死亡して以降曾祖母に養われていたバルボは、イタリアを出てパリにいた父プロスペロの下で暮らし始め、1808年から1814年にかけてはナポレオン・ボナパルトに仕えていた父に同行しフィレンツェローマパリイリュリアなど各地を転々とした[2]。またバルボ自身もトスカーナ大公国では要職に任命された[3]。その間、バルボは自由主義啓蒙主義などの考えに触れ、またブルジョワ貴族などとの交流を経て経済的な結びつきを手に入れると、次第にイタリア統一の思想に傾倒していき、連邦制による緩やかなイタリア統一を標榜するようになる[2]

ウィーン体制成立後、バルボは高貴な生まれであったことから政界に入るが、イタリア統一を標榜しつつも王政立憲君主制ではなく連邦制を支持したことから、サルデーニャ国王カルロ・アルベルトと対立。また教皇庁イタリア統一において最大の障壁となると論じたことから、教皇による統一と支配を望むヴィンチェンツォ・ジョベルティとも意見を異にし、その結果1821年から1847年にかけてはカルボナリとの関係も指摘されて政界から追放され一時的に亡命したのち[4]作家歴史家として活躍していた[2]1844年に出版された『イタリアの希望』(『Le speranze d'Italia』)は、イタリアが統一されず大国によって支配されている限りイタリアの道徳的優位性[注釈 1]は主張できないと論じたもので、ヴィンチェンツォ・ジョベルティの意見を批判するものであった[5][6]1846年にはイタリア半島を一つの地域として捉え歴史を叙述した『イタリアの起源から現在までの歴史』(『Storia d'Italia dalle origini fino ai nostri giorni』)を出版し、イタリアという共通の地域的アイデンティティを主張した。これら二つの著書は、イタリア統一に大きな影響を齎した。また1847年には、カミッロ・カヴールとともに日刊政治新聞『イル=リソルジメント』を創刊し[7]、またヴィンチェンツォ・ ジョベルティなどとともにイタリア諸邦による関税同盟などを訴えた[8]

バルボは革命ではなく改革を目指す「穏健派」の一人であり[9]アルベルト憲法英語版の起草など着実にサルデーニャ王国では改革が進んでいくと、『イタリアの希望』などいくつかの著作が評価されていたため穏健派の中心人物となった[10]。そしてサルデーニャ王国の初代首相に選出され、1848年3月18日に就任する[4]。しかしミラノの5日間によって成立したロンバルディア臨時政府の首班ガブリオ・カザーティは、ロンバルディアサルデーニャ王国併合を取りまとめるなどの手腕を発揮し第一次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版で中心的な人物となっていく。また、国力が乏しいうちから対オーストリア帝国戦争に踏み切った国王のカルロ・アルベルトとは対立を深めた。そのことからバルボは初代首相になってからわずか131日後の7月27日に退陣し、ガブリオ・カザーティにその席を譲った[2]

その後は政界に留まるも目立った活躍は無く、一方で作家歴史家としては晩年まで精力的に活動を続けた。しかしイタリア統一を見る事はなく1853年6月3日トリノで死亡した[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ヴィンチェンツォ・ジョベルティが主張した、イタリア半島はカトリックの総本山や教皇を有しているため道徳的に優位にあるとする思想

脚注[編集]

  1. ^ 藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 216ページ
  2. ^ a b c d e f g BALBO, Cesareイタリア人名辞典 (イタリア語)
  3. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 56ページ
  4. ^ a b Cesare, Count Balboブリタニカ国際大百科事典 (英語)
  5. ^ 藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 214ページ
  6. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 105‐107ページ
  7. ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 143ページ
  8. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 110ページ
  9. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 102ページ
  10. ^ 藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 210ページ

関連項目[編集]