「コンスタンチン・スメタニン」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Chivalry33 (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
m 外部リンクの修正 (www2.nhk.or.jp) (Botによる編集) |
||
(10人の利用者による、間の12版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
'''コンスタンチン・アレクサンドロヴィ |
'''コンスタンチン・アレクサンドロヴィチ・スメタニン'''({{lang-ru|'''Константин Александрович Сметанин'''}}、ラテン文字転写例: '''Konstantin Alexandrovich Smetanin'''、[[1898年]] - [[1969年]])は、[[ソビエト連邦]]の[[外交官]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[1937年]]に駐日ソ連大使館の顧問となる。 |
[[1937年]]に駐日ソ連大使館の顧問となる。 |
||
[[1939年]][[9月21日]]にソビエト連邦の駐日全権代表に就任([[1941年]][[5月10日]]から[[特命全権大使]])。 |
[[1939年]][[9月21日]]にソビエト連邦の[[駐日ロシア大使|駐日全権代表]]に就任([[1941年]][[5月10日]]から[[特命全権大使]])。 |
||
[[1941年]]5月には、前月に[[モスクワ]]で調印された[[日ソ中立条約]]の批准書交換を[[松岡洋右]]外相と行う<ref>[ |
[[1941年]]5月には、前月に[[モスクワ]]で調印された[[日ソ中立条約]]の批准書交換を[[松岡洋右]]外相と行う<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300436_00000&chapter=005 日ソ中立条約 批准書交換式] 日本ニュース 第51号</ref>。翌6月に[[独ソ戦]]が勃発すると、松岡に対して日ソ中立条約の厳守を要求したが、「[[日独伊三国軍事同盟|三国同盟]]を優先する」との返答を受け、顔面蒼白になっていたという<ref>『加瀬俊一回想録(上)』(山手書房 1986年 179頁)</ref>。 |
||
同年8月、[[第3次近衛内閣]]の[[豊田貞次郎]]外相は松岡の見解を否定し、スメタニンに条約遵守を約束した<ref>[ |
同年8月、[[第3次近衛内閣]]の[[豊田貞次郎]]外相は松岡の見解を否定し、スメタニンに条約遵守を約束した<ref>[https://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410814d.html 昭和16年(1941年)8月14日 第46回大本営政府連絡会議(議題:対英外交)]</ref>。日ソ中立条約の[[太平洋戦争]]勃発直前には、[[東郷茂徳]]外相と数度に渡って会談を行い、ソ連が中立条約を侵犯しないことを言明した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/senzen_04.html 外務省: 外交史料 Q&A 昭和戦前期]</ref>。 |
||
第46回大本営政府連絡会議(議題:対英外交) ]</ref>。日ソ中立条約の[[太平洋戦争]]勃発直前には、[[東郷茂徳]]外相と数度に渡って会談を行い、ソ連が中立条約を侵犯しないことを言明した<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/senzen_04.html 外務省: 外交史料 Q&A 昭和戦前期]</ref>。 |
|||
[[1942年]][[5月28日]]をもって駐日大使の座を離れる。後任大使には[[ヤコフ・マリク]]が就任した。 |
[[1942年]][[5月28日]]をもって駐日大使の座を離れる。後任大使には[[ヤコフ・マリク]]が就任した。 |
||
22行目: | 21行目: | ||
{{s-dip}} |
{{s-dip}} |
||
{{Succession box |
{{Succession box |
||
| title = {{flagicon|SSR1923}} [[ |
| title = {{flagicon|SSR1923}} [[駐日ロシア大使|駐日ソビエト連邦大使]] {{flagicon|JPN}} |
||
| years = 第6代:1939 - 1942 |
| years = 第6代:1939 - 1942 |
||
| before = {{仮リンク|ミハイル・スラヴツキー|ru|Славуцкий, Михаил Михайлович}} |
| before = {{仮リンク|ミハイル・スラヴツキー|ru|Славуцкий, Михаил Михайлович}} |
||
| after = |
| after = [[ヤコフ・マリク]] |
||
}} |
}} |
||
{{end box}} |
{{end box}} |
||
{{ |
{{diplomat-stub}} |
||
{{DEFAULTSORT:すめたにん |
{{DEFAULTSORT:すめたにん こんすたんちん}} |
||
[[Category:ソビエト連邦 |
[[Category:駐日ソビエト連邦大使]] |
||
[[Category:駐日大使]] |
|||
[[Category:1898年生]] |
[[Category:1898年生]] |
||
[[Category:1969年没]] |
[[Category:1969年没]] |
||
[[ru:Сметанин, Константин Александрович]] |
2023年8月19日 (土) 12:33時点における最新版
コンスタンチン・アレクサンドロヴィチ・スメタニン(ロシア語: Константин Александрович Сметанин、ラテン文字転写例: Konstantin Alexandrovich Smetanin、1898年 - 1969年)は、ソビエト連邦の外交官。
経歴
[編集]1937年に駐日ソ連大使館の顧問となる。
1939年9月21日にソビエト連邦の駐日全権代表に就任(1941年5月10日から特命全権大使)。
1941年5月には、前月にモスクワで調印された日ソ中立条約の批准書交換を松岡洋右外相と行う[1]。翌6月に独ソ戦が勃発すると、松岡に対して日ソ中立条約の厳守を要求したが、「三国同盟を優先する」との返答を受け、顔面蒼白になっていたという[2]。
同年8月、第3次近衛内閣の豊田貞次郎外相は松岡の見解を否定し、スメタニンに条約遵守を約束した[3]。日ソ中立条約の太平洋戦争勃発直前には、東郷茂徳外相と数度に渡って会談を行い、ソ連が中立条約を侵犯しないことを言明した[4]。
1942年5月28日をもって駐日大使の座を離れる。後任大使にはヤコフ・マリクが就任した。
脚注
[編集]- ^ 日ソ中立条約 批准書交換式 日本ニュース 第51号
- ^ 『加瀬俊一回想録(上)』(山手書房 1986年 179頁)
- ^ 昭和16年(1941年)8月14日 第46回大本営政府連絡会議(議題:対英外交)
- ^ 外務省: 外交史料 Q&A 昭和戦前期
関連項目
[編集]外交職 | ||
---|---|---|
先代 ミハイル・スラヴツキー |
駐日ソビエト連邦大使 第6代:1939 - 1942 |
次代 ヤコフ・マリク |