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'''平部 嶠南'''(ひらべ きょうなん、[[文化 (元号)|文化]]12[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[1815年]][[1030]]) - [[明治]]23年([[1890年]])[[10月26日]])は、[[江戸]]・明治期の[[政治家]]。[[飫肥藩]][[家老]]などを務めた。現在の[[宮崎県]][[宮崎市]]出身。[[諱]]は俊良、[[字]]は温郷、嶠南。妻は長倉喜太郎の妹・あさ。子は平部潜蔵
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'''平部 嶠南'''(ひらべ きょうなん、[[文化]]12年([[1815年]])928日 - [[明治]]23年([[1890年]])[[10月26日]])は、[[江戸]]・明治期の[[政治家]]。[[飫肥藩]][[家老]]を務めた。現[[宮崎県]][[清武町]]出身。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
小田源五右衛門の娘と和田重寛(石高65石)の子として誕生し、[[天保]]4年([[1833年]])に平部俊寧の中継ぎ養子となる。妻のあさは長倉喜太郎の妹で[[長倉訒]]、[[小倉処平]]、[[長倉雄平]]兄弟の[[叔母]]にあたる。
少年期は[[安井滄州]]・[[安井息軒]]父子に儒学を学ぶ。その後[[江戸]]に留学し[[古賀侗庵]]に師事する。帰国後の天保5年(1834年)、飫肥藩の藩校である[[振徳堂]]の句読師となる。天保6年には同校教授に出世。


少年期は[[安井滄州]]・[[安井息軒]]父子に儒学を学ぶ。その後[[江戸]]に留学し[[古賀侗庵]]に師事する。帰国後の天保5年([[1834]])、飫肥藩の藩校である[[振徳堂]]の句読師となる。天保6年(1835年)には同校教授に出世。
弘化元年(1844年)には江戸留守居副役となる。慶応3年(1867年)に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。


[[弘化]]元年([[1844年]])には江戸[[留守居]]副役となる。その後、相談中や川除奉行、山林奉行、[[大坂]][[留守居]]となる。[[安政]]元年([[1854年]])に[[隠居]]するも、[[文久]]3年([[1863年]])には再び召しだされて[[伊東祐帰]]の授読や[[用人]]、[[番頭]]、中老を経て[[慶応]]3年([[1867年]])に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。
[[廃藩置県]]後は[[明治政府]]に出仕明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。明治17年(1884年)地誌が完成。翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『[[日向地誌]]』である

[[廃藩置県]]後は[[明治政府]]に出仕し、明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。

明治10年([[1877年]])の[[西南戦争]]では孫の平部俊彦や義理の甥である長倉訒、小倉処平が党薩諸隊の飫肥隊に参加しており、平部俊彦は熊本県で[[戦死]]、小倉処平は[[可愛岳]]近くの高畑山で[[屠腹]]自害している。

明治17年(1884年)に地誌が完成し、翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『[[日向地誌]]』である。


明治23年(1890年)、死去(享年76)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『[[六鄰荘日誌]]』と呼ばれ現存している。
明治23年(1890年)、死去(享年76)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『[[六鄰荘日誌]]』と呼ばれ現存している。
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== 著作 ==
== 著作 ==
* 『日向地誌』 ([[青潮社]]、1978年)
* 『日向地誌』 ([[青潮社]]、1978年)
* 『嶠南日誌』全3巻 ([[宮崎県立図書館]]、1990~1993年)
* 『嶠南日誌』全3巻 ([[宮崎県立図書館]]、1990年 - 1993年)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年) ISBN 4860611586
* [[末永和孝]]『宿志の人平部嶠南』 ([[鉱脈社]]、2006年) ISBN 4860611586
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]]) ISBN 4540961535
* [[大石慎三郎]]他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』([[農山漁村文化協会]]) ISBN 4540961535
*「三百藩家臣人名事典 7」([[新人物往来社]])
*「[[飫肥城歴史資料館]]紀要・読み物編第2集 飫肥西郷と呼ばれた男 小倉処平」([[平成]]29年([[2017年]])、飫肥城下保存会)



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平部 嶠南(ひらべ きょうなん、文化12年9月28日1815年10月30日) - 明治23年(1890年10月26日)は、江戸・明治期の政治家飫肥藩家老などを務めた。現在の宮崎県宮崎市出身。は俊良、は温郷、嶠南。妻は長倉喜太郎の妹・あさ。子は平部潜蔵。

生涯

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小田源五右衛門の娘と和田重寛(石高65石)の子として誕生し、天保4年(1833年)に平部俊寧の中継ぎ養子となる。妻のあさは長倉喜太郎の妹で長倉訒小倉処平長倉雄平兄弟の叔母にあたる。

少年期は安井滄州安井息軒父子に儒学を学ぶ。その後江戸に留学し古賀侗庵に師事する。帰国後の天保5年(1834年)、飫肥藩の藩校である振徳堂の句読師となる。天保6年(1835年)には同校教授に出世。

弘化元年(1844年)には江戸留守居副役となる。その後、相談中や川除奉行、山林奉行、大坂留守居となる。安政元年(1854年)に隠居するも、文久3年(1863年)には再び召しだされて伊東祐帰の授読や用人番頭、中老を経て慶応3年(1867年)に家老、明治2年(1869年)に飫肥藩大参事となる。

廃藩置県後は明治政府に出仕し、明治8年(1875年)には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。

明治10年(1877年)の西南戦争では孫の平部俊彦や義理の甥である長倉訒、小倉処平が党薩諸隊の飫肥隊に参加しており、平部俊彦は熊本県で戦死、小倉処平は可愛岳近くの高畑山で屠腹自害している。

明治17年(1884年)に地誌が完成し、翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が『日向地誌』である。

明治23年(1890年)、死去(享年76)。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が『六鄰荘日誌』と呼ばれ現存している。

著作

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参考文献

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