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強硬な[[尊皇攘夷]]派として知られる[[肥後勤王党]]の中心人物の1人で、[[宮部鼎蔵]]、[[永鳥三平]]らは同志。[[河上彦斎]]などは教え子。[[文久]]2年([[1862年]])、熊本藩親兵選抜となり藩主[[細川護久]]の護衛で上洛すると、京都での政治活動を活発に行った。 |
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[[明治維新]]の後、照幡烈之助と改名。明治2年(1869年)、この名前で弾正大忠(権弁事)となって[[公議所]]に務めたが、開国派に転じた[[明治政府]]とは意見が合わずに、官職を辞して帰郷して後に没した。享年56。 |
[[明治維新]]の後、照幡烈之助と改名。明治2年(1869年)、この名前で弾正大忠(権弁事)となって[[公議所]]に務めたが、開国派に転じた[[明治政府]]とは意見が合わずに、官職を辞して帰郷して後に没した。享年56。 |
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==参考文献== |
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* {{Citation |和書| last =子安| first=信成 |editor=|year =1880| title =高名像伝 : 近世遺勲. 天|publisher =片山武兵衛|url={{NDLDC|816425/33}} 国立国会図書館デジタルコレクション}} |
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[[Category:幕末熊本藩の人物]] |
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[[Category:江戸時代の儒学者]] |
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2023年8月24日 (木) 23:29時点における最新版
『高名像伝 : 近世遺勲. 天』 | |
時代 | 江戸時代後期、明治時代 |
生誕 | 文化15年1月25日(1818年3月1日) |
死没 | 明治6年(1873年)5月4日 |
改名 | 照幡烈之助 |
別名 | 寛胤(ひろたね) |
官位 | 弾正大忠 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 細川護久 |
藩 | 熊本藩 |
父母 | 轟彦太郎 |
轟 武兵衛(とどろき ぶへえ)は、熊本藩士。儒学者。国学者林桜園の門下生。照幡烈之助とも言う。
略歴
[編集]強硬な尊皇攘夷派として知られる肥後勤王党の中心人物の1人で、宮部鼎蔵、永鳥三平らは同志。河上彦斎などは教え子。文久2年(1862年)、熊本藩親兵選抜となり藩主細川護久の護衛で上洛すると、京都での政治活動を活発に行った。
久留米藩士真木保臣らと謀り、福岡藩士平野国臣らと共に薩摩に赴き島津久光(和泉州)に上洛を建議したが、これは逆に尊皇志士の弾圧事件となる寺田屋騒動を生み、直接は攘夷には繋がらなかった。文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変により、尊皇攘夷派が追放され、武兵衛にも帰藩が命じられたが、脱藩。長州に下ったが、捕らえられて3年幽閉された。しかし情勢が変化して尊皇派が主流になると、帰参を許された。
明治維新の後、照幡烈之助と改名。明治2年(1869年)、この名前で弾正大忠(権弁事)となって公議所に務めたが、開国派に転じた明治政府とは意見が合わずに、官職を辞して帰郷して後に没した。享年56。
参考文献
[編集]- 子安信成『国立国会図書館デジタルコレクション 高名像伝 : 近世遺勲. 天』片山武兵衛、1880年 。
- "轟武兵衛". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2022年10月22日閲覧。