コンテンツにスキップ

「ルイス・モンティ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
 
(27人の利用者による、間の34版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2022-08}}
{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=ルイス・モンティ
|名前=ルイス・モンティ
|画像=
|画像=Luis Monti 1934.jpg
|本名=ルイス・フェルナンド・モンティ
|画像の説明=1934年のモンティ
|本名=ルイス・フェルナンド・モンティ<br />Luis Fernando Monti
|愛称=ドブレ・アンチョ
|愛称=ドブレ・アンチョ
|カタカナ表記=ルイス・モンティ
|カタカナ表記=
|アルファベット表記=Luis MONTI
|アルファベット表記=Luis MONTI
|原語名=
|原語名=
|原語表記=
|原語表記=
|国={{ARG}}<br/>{{ITA}}
|国={{ARG}}<br />{{ITA}}
|誕生日=[[1901]][[515]]
|誕生日={{生年月日と年齢|1901|5|15|no}}
|出身地=[[ブエノスアイレス]]
|出身地=[[ブエノスアイレス]]
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1901|5|15|1983|9|9}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1901|5|15|1983|9|9}}
|身長=
|身長=
|体重=
|体重=
|血液型=
|所属チーム名=
|所属チーム名=
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
|背番号=
|背番号=
|利き足=
|利き足=
|年1=1919-1921|クラブ1={{Flagicon|ARG}} [[CAウラカン|ウラカン]]|出場1=|得点1=
|CAP数=16(アルゼンチン)<br /> 18(イタリア)
|年2=1921-1927|クラブ2={{Flagicon|ARG}} [[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ|サン・ロレンソ]]|出場2=|得点2=
|代表ゴール数=5(アルゼンチン)<br /> 1(イタリア)
|年3=1927-1931|クラブ3={{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]]|出場3=|得点3=
| medaltemplates =
|年4=1931-1938|クラブ4={{Flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]|出場4=225|得点4=20
{{MedalCompetition|[[オリンピックサッカー競技|オリンピック]]}}
|代表年1=1924-1931|代表1={{ARGf}}|代表出場1=16|代表得点1=5
{{MedalSilver | [[アムステルダムオリンピック|1928 アムステルダム]] | [[アムステルダムオリンピックにおけるサッカー競技|サッカー]]}}
|代表年2=1932-1936|代表2={{ITAf}}|代表出場2=18|代表得点2=1
|監督年1=1939-1940|監督チーム1={{Flagicon|ITA}} [[SSDウニオーネ・トリエスティーナ2012|トリエスティーナ]]
|監督年2=1940-1941|監督チーム2={{Flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|監督年3=1942-1943|監督チーム3={{Flagicon|ITA}} [[ヴァレーゼ・カルチョSSD|ヴァレーゼ]]
|監督年4=1944|監督チーム4={{Flagicon|ITA}} [[ヴァレーゼ・カルチョSSD|ヴァレーゼ]]
|監督年5=1945-1947|監督チーム5={{Flagicon|ITA}} [[アタランタBC|アタランタ]]
|監督年6=1947|監督チーム6={{Flagicon|ITA}} [[ヴィジェーヴァノ・カルチョ|ヴィジェーヴァノ]]
|監督年7=1947-1948|監督チーム7={{Flagicon|ARG}} [[CAウラカン|ウラカン]]
|監督年8=1949-1950|監督チーム8={{Flagicon|ITA}} [[ACピサ1909|ピサ]]
|代表成績更新日=
|show-medals = yes
|medaltemplates=
{{MedalSport|男子 [[サッカー]]}}
{{MedalCompetition|[[オリンピックサッカー競技|オリンピック]]}}
{{MedalSilver|[[1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技|1928 アムステルダム]]|サッカー}}
}}
}}
'''ルイス・フェルナンド・モンティ'''('''Luis Fernando Monti'''[[1901年]][[5月15日]] - [[1983年]][[9月9日]])は、[[アルゼンチン]]出身の[[サッカー選手]]。[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]として[[1930 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ 1930年大会]]に出場したのち、[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]として[[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]に出場して優勝した。
'''ルイス・フェルナンド・モンティ'''('''Luis Fernando Monti''', [[1901年]][[5月15日]] - [[1983年]][[9月9日]])は、[[アルゼンチン]]出身の[[サッカー選手]]、サッカー指導者。[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]として[[1930 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ 1930年大会]]に出場したのち、[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]として[[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]に出場して優勝した。ワールドカップ決勝に異なるチームでそれぞれ出場したことがある史上唯一の人物である<ref>なお現在の規定では禁止されているが異なる二か国でW杯へ出場した選手は[[フェレンツ・プスカシュ]](ハンガリーとスペイン)がいる。</ref>

==プレースタイル==
モンティは無骨で無慈悲な選手だったが、強力なタックルに優れた技術を持っていた。彼は当時流行のメトドシステム(2-3-5フォーメーションの変化形)において、攻撃的なセンターハーフ(今日の守備的ミッドフィルダーに近い役割)としてプレイした。チームが攻勢の時には[[プレイメーカー]]となり、守勢の時には相手センターフォワードのマークについた。ピッチ上の広い範囲をカバーするプレイスタイルから、ドブレ・アンチョ(''Doble ancho'', 二倍の幅)と愛称をつけられた。


==経歴==
==経歴==
===アルゼンチン===
=== アルゼンチン ===
[[ボカ・ジュニアーズ]]でプレイしていた1924年に初めて代表チームに招集された。1927年[[コパ・アメリカ]]で優勝、1928年[[アムステルダムオリンピックにおけるサッカー競技|アムステルダムオリンピック]]で銀メダルを獲得。[[1930 FIFAワールドカップ|1930年ワールドカップ・ウルグアイ大会]]では4試合すべてに出場した。モンティは準決勝の[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国]]戦で2ゴールを挙げ、アルゼンチンは決勝に進出したが、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]に2-4で敗れた。
[[ボカ・ジュニアーズ]]でプレイしていた1924年に初めて代表チームに招集された。1927年[[コパ・アメリカ|南米選手権]]で優勝、1928年[[1928年アムステルダムオリンピックサッカー競技|アムステルダムオリンピック]]で銀メダルを獲得。[[1930 FIFAワールドカップ|1930年ワールドカップ・ウルグアイ大会]]では4試合すべてに出場した。モンティは準決勝の[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国]]戦で2ゴールを挙げ、アルゼンチンは決勝に進出したが、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]に2-4で敗れた。


===イタリア===
=== イタリア ===
1931年にイタリアのビッグクラブ[[ユヴェントス]]と契約を結んだ。当初、彼は太りすぎて本調子ではなかったが、一ヶ月の個別練習を経て調子を取り戻すと、1932年から1935年まで4シーズン連続のリーグタイトル獲得に貢献した。[[セリエA (サッカー)|セリエA]]では通算225試合に出場して19ゴールを挙げた。
1931年にイタリアのビッグクラブ[[ユヴェントスFC]]と契約を結んだ。当初、彼は太りすぎて本調子ではなかったが、一ヶ月の個別練習を経て調子を取り戻すと、1932年から1935年まで4シーズン連続のリーグタイトル獲得に貢献した。[[セリエA (サッカー)|セリエA]]では通算225試合に出場して19ゴールを挙げた。


1932年にイタリア代表に招集され、ホスト国として迎えた[[1934 FIFAワールドカップ|1934年ワールドカップ・イタリア大会]]で優勝した。モンティは再試合を含む5試合すべてに出場した。
1932年にイタリア代表に招集され、ホスト国として迎えた[[1934 FIFAワールドカップ|1934年ワールドカップ・イタリア大会]]で優勝した。モンティは再試合を含む5試合すべてに出場した。


大荒れに荒れた事によって記憶される1934年11月14日の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]との親善試合「[[:en:Battle_of_Highbury|バトル・オブ・ハイベリー]]」では開始わずか2分で足を折られて退場した。
大荒れに荒れた事によって記憶される1934年11月14日の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]との親善試合{{仮リンク|バトル・オブ・ハイベリー|en|Battle of Highbury}}では開始わずか2分で足を折られて退場した。


==所属クラブ==
== 代表歴 ==
* 1924- 1930 [[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]] (16試合5得点)
* {{flagicon|ARG}} [[CAウラカン]] 1919-1921
** 1927年 - [[コパ・アメリカ|南米選手権]] ('''優勝''')
* {{flagicon|ARG}} [[CAサン・ロレンソ]] 1921-1927
** 1928年 - [[1928年アムステルダムオリンピックサッカー競技|アムステルダムオリンピック]] (準優勝)
* {{flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]] 1927-1931
** 1930年 - [[1930 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・ウルグアイ大会]] (準優勝、4試合2得点)
* {{flagicon|ITA}} [[ユヴェントス]] 1931-1938
* 1932- 1936 [[サッカーイタリア代表|イタリア代表]] (18試合1得点)
** 1934年 - [[1934 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]] ('''優勝'''、5試合0得点)


==代表歴==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
*1924-1930 [[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]](16試合5得点
**1927年 [[コパ・アメリカ]]優勝
**1928年 [[アムステルダムオリンピックにおけるサッカー競技|アムステルダムオリンピック]]準優勝
**1930年 [[1930 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・ウルグアイ大会]]準優勝、4試合2得点
*1932-1936 [[サッカーイタリア代表|イタリア代表]](18試合1得点)1932-1936
**1934年 [[1934 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]]優勝、5試合0得点


{{1930 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}
{{1934 FIFAワールドカップイタリア代表}}
{{1934 FIFAワールドカップイタリア代表}}
{{ユヴェントスFC歴代主将}}


{{DEFAULTSORT:もんてい るいす}}
{{DEFAULTSORT:もんてい るいす}}
[[Category:アルゼンチンのサッカー選手]]
[[Category:アルゼンチンのサッカー選手]]
[[Category:サッカーアルゼンチン代表選手]]
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:イタリアのサッカー選手]]
[[Category:サッカーイタリア代表選手]]
[[Category:CAウラカンの選手]]
[[Category:CAウラカンの選手]]
[[Category:サン・ロレンソの選手]]
[[Category:CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロの選手]]
[[Category:ボカ・ジュニアーズの選手]]
[[Category:ボカ・ジュニアーズの選手]]
[[Category:ユヴェントスFCの選手]]
[[Category:ユヴェントスFCの選手]]
[[Category:1930 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:1930 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFAワールドカップイタリア代表選手]]
[[Category:1934 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:1934 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFAワールドカップ優勝選手]]
[[Category:複数の代表チームに出場したサッカー選手]]
[[Category:オリンピックサッカーアルゼンチン代表選手]]
[[Category:オリンピックサッカーアルゼンチン代表選手]]
[[Category:サッカーのオリンピックメダリスト]]
[[Category:アルゼンチンのオリンピック銀メダリスト]]
[[Category:アルゼンチンのオリンピック銀メダリスト]]
[[Category:アルゼンチンのサッカー指導者]]
[[Category:イタリアのサッカー指導者]]
[[Category:ブエノスアイレス出身の人物]]
[[Category:イタリア系アルゼンチン人]]
[[Category:1901年生]]
[[Category:1901年生]]
[[Category:1983年没]]
[[Category:1983年没]]
[[Category:ブエノスアイレスの人物]]
[[Category:イタリア系アルゼンチン]]

[[ar:لويس مونتي]]
[[ca:Luis Felipe Monti]]
[[de:Luis Monti]]
[[en:Luis Monti]]
[[es:Luis Monti]]
[[fi:Luis Monti]]
[[fr:Luis Monti]]
[[he:לואיס מונטי]]
[[id:Luisito Monti]]
[[it:Luis Monti]]
[[no:Luis Monti]]
[[pl:Luis Monti]]
[[pt:Luis Monti]]
[[ru:Монти, Луис]]
[[sv:Luis Monti]]
[[tr:Luis Monti]]

2023年8月26日 (土) 05:45時点における最新版

ルイス・モンティ
1934年のモンティ
名前
本名 ルイス・フェルナンド・モンティ
Luis Fernando Monti
愛称 ドブレ・アンチョ
ラテン文字 Luis MONTI
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1901-05-15) 1901年5月15日
出身地 ブエノスアイレス
没年月日 (1983-09-09) 1983年9月9日(82歳没)
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1919-1921 アルゼンチンの旗 ウラカン
1921-1927 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ
1927-1931 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
1931-1938 イタリアの旗 ユヴェントス 225 (20)
代表歴
1924-1931 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 16 (5)
1932-1936 イタリアの旗 イタリア 18 (1)
監督歴
1939-1940 イタリアの旗 トリエスティーナ
1940-1941 イタリアの旗 ユヴェントス
1942-1943 イタリアの旗 ヴァレーゼ
1944 イタリアの旗 ヴァレーゼ
1945-1947 イタリアの旗 アタランタ
1947 イタリアの旗 ヴィジェーヴァノ
1947-1948 アルゼンチンの旗 ウラカン
1949-1950 イタリアの旗 ピサ
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1928 アムステルダム サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルイス・フェルナンド・モンティLuis Fernando Monti, 1901年5月15日 - 1983年9月9日)は、アルゼンチン出身のサッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表としてFIFAワールドカップ 1930年大会に出場したのち、イタリア代表として1934年大会に出場して優勝した。ワールドカップ決勝に異なるチームでそれぞれ出場したことがある史上唯一の人物である[1]

経歴

[編集]

アルゼンチン

[編集]

ボカ・ジュニアーズでプレイしていた1924年に初めて代表チームに招集された。1927年南米選手権で優勝、1928年アムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得。1930年ワールドカップ・ウルグアイ大会では4試合すべてに出場した。モンティは準決勝のアメリカ合衆国戦で2ゴールを挙げ、アルゼンチンは決勝に進出したが、ウルグアイに2-4で敗れた。

イタリア

[編集]

1931年にイタリアのビッグクラブユヴェントスFCと契約を結んだ。当初、彼は太りすぎて本調子ではなかったが、一ヶ月の個別練習を経て調子を取り戻すと、1932年から1935年まで4シーズン連続のリーグタイトル獲得に貢献した。セリエAでは通算225試合に出場して19ゴールを挙げた。

1932年にイタリア代表に招集され、ホスト国として迎えた1934年ワールドカップ・イタリア大会で優勝した。モンティは再試合を含む5試合すべてに出場した。

大荒れに荒れた事によって記憶される、1934年11月14日のイングランドとの親善試合バトル・オブ・ハイベリー英語版では、開始わずか2分で足を折られて退場した。

代表歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ なお現在の規定では禁止されているが異なる二か国でW杯へ出場した選手はフェレンツ・プスカシュ(ハンガリーとスペイン)がいる。