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'''橘 秋子'''(たちばな あきこ、[[1907年]][[6月17日]] - [[1971年]][[5月14日]])は、日本の[[バレエダンサー]]、振付家、[[バレエ]]指導者、学校経営者である。

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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[[栃木師範学校]](現・[[宇都宮大学]])第1部師範校卒業は尋常小学校に教員として勤務音楽や体育教えていた


[[1929年]]、[[白系ロシア人]]の[[エリアナ・パヴロワ]]の踊りに感銘を受け、自身もバレリーナになることを志し、教職を辞して上京。[[小林宗作]]のもとでリトミックを学ぶ。
彼女はバレエの[[振付家]]としても活動し、『飛鳥物語』『戦国時代』などの作品を残している。

[[1930年]]、エリアナ・パヴロワに師事。内弟子となる。[[1932年]]もエリアナのもとから独立。杉並区高円寺に転居。同時期に牧幹夫と同居、新生活を始める<ref>双方の家の宗教の違いから結婚を反対されたため、正式な結婚(入籍)はしていないという。(「日本バレエ史」(新書館)P.138-140)</ref>。

[[1933年]]4月9日、杉並区宮前に「橘秋子舞踊研究所」を設立した。

1933年5月12日、第1子となる女児(牧阿佐美)を出産。しかし、バレエダンサーに転向したばかりであり、また、当時はバレエダンサーが結婚・出産することは舞踏家としての活動が不利になるため、生後18日目に知人の知人<!--中村マツ-->に養育を委ねる<ref>牧阿佐美著「バレエに育てられて」P.56-59)</ref>。出生届をすぐに提出せず翌年まで持ち越していたため、実母が橘の従姉妹の子として手続きをしたため、阿佐美の戸籍には「昭和9年生まれ」「福田サクの養女」と記されている<ref>「バレエに育てられて」(新書館、牧阿佐美著)P.56-59</ref>。

阿佐美には4歳の頃からバレエ教育を施すため、自身のバレエ教室にレッスンに通わせた。1945年12月、阿佐美が小学5年生の時に手元に呼び戻す。

1948年、阿佐美が15歳の時に「福田阿佐美ベビーバレエ団」を結成させ、自身のバレエ団の公演に参加させた。

1950年3月、[[港区_(東京都)|港区]][[芝]]に日本初の「公認 橘バレヱ学園」を創設した(1971年に[[渋谷区]][[富ヶ谷]]に校舎を移転)。

1953年、[[アレクサンドラ・ダニロワ]]を「橘バレヱ学校」の指導者として迎え、正統古典バレエのダンサーを育成する場を確立した。

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[[1971年]]死去。死後、[[勲四等]][[宝冠章]]が授与された。
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== 脚注 ==
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==外部リンク==
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* [http://www.ambt.jp/zaidan/ 財団法人秋子記念財団]
* [http://tb-school.jp/about.htmlバレエ学校]


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2023年9月22日 (金) 13:41時点における最新版

たちばな あきこ

橘 秋子
生誕 (1907-06-17) 1907年6月17日
日本の旗 日本 栃木県宇都宮市
死没 (1971-05-14) 1971年5月14日(63歳没)
国籍 日本
出身校 栃木師範学校(現・宇都宮大学
職業 バレエダンサー、振付家、バレエ学校経営者
団体 橘バレヱ学校
受賞 芸術選奨文部大臣賞(1960年)、芸術祭奨励賞(1966年)、
栄誉 紫綬褒章受章(1967年)、勲四等宝冠章(1971年)
公式サイト 橘バレヱ学校
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橘 秋子(たちばな あきこ、1907年6月17日 - 1971年5月14日)は、日本のバレエダンサー、振付家、バレエ指導者、学校経営者である。

栃木県宇都宮市生まれ。本名・福田サク。夫の牧幹夫もバレエダンサーで、一女の牧阿佐美も両親と同じくバレエの道に進んだ。

経歴

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栃木師範学校(現・宇都宮大学)第1部卒業。師範学校卒業後は尋常小学校に教員として勤務、主に音楽や体育を教えていた。

1929年白系ロシア人エリアナ・パヴロワの踊りに感銘を受け、自身もバレリーナになることを志し、教職を辞して上京。小林宗作のもとでリトミックを学ぶ。

1930年、エリアナ・パヴロワに師事。内弟子となる。1932年もエリアナのもとから独立。杉並区高円寺に転居。同時期に牧幹夫と同居、新生活を始める[1]

1933年4月9日、杉並区宮前に「橘秋子舞踊研究所」を設立した。

1933年5月12日、第1子となる女児(牧阿佐美)を出産。しかし、バレエダンサーに転向したばかりであり、また、当時はバレエダンサーが結婚・出産することは舞踏家としての活動が不利になるため、生後18日目に知人の知人に養育を委ねる[2]。出生届をすぐに提出せず翌年まで持ち越していたため、実母が橘の従姉妹の子として手続きをしたため、阿佐美の戸籍には「昭和9年生まれ」「福田サクの養女」と記されている[3]

阿佐美には4歳の頃からバレエ教育を施すため、自身のバレエ教室にレッスンに通わせた。1945年12月、阿佐美が小学5年生の時に手元に呼び戻す。

1948年、阿佐美が15歳の時に「福田阿佐美ベビーバレエ団」を結成させ、自身のバレエ団の公演に参加させた。

1950年3月、港区に日本初の「公認 橘バレヱ学園」を創設した(1971年に渋谷区富ヶ谷に校舎を移転)。

1953年、アレクサンドラ・ダニロワを「橘バレヱ学校」の指導者として迎え、正統古典バレエのダンサーを育成する場を確立した。

1956年、娘の阿佐美とともに牧阿佐美バレヱ団を結成。

1971年死去。死後、勲四等宝冠章が授与された。

受賞

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脚注

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  1. ^ 双方の家の宗教の違いから結婚を反対されたため、正式な結婚(入籍)はしていないという。(「日本バレエ史」(新書館)P.138-140)
  2. ^ 牧阿佐美著「バレエに育てられて」P.56-59)
  3. ^ 「バレエに育てられて」(新書館、牧阿佐美著)P.56-59

外部リンク

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