コンテンツにスキップ

「涪州」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m スプリト がページ「フ州」を「涪州」に移動しました: ノート:涿州市#改名提案参照
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
(2人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
{{記事名の制約|title=涪州}}
{{改名提案|涪州|t=ノート:タク州市#改名提案|date=2020年9月}}
'''涪州'''(ふうしゅう)は、[[中国]]にかつて存在した[[州]]。[[隋|隋代]]から[[中華民国|民国]]初年にかけて、現在の[[重慶市]]一帯に設置された。
'''涪州'''(ふうしゅう)は、[[中国]]にかつて存在した[[州]]。[[隋|隋代]]から[[中華民国|民国]]初年にかけて、現在の[[重慶市]]一帯に設置された。


6行目: 4行目:
[[西魏]]のときに置かれた[[合州 (重慶市)|合州]]を前身とする。
[[西魏]]のときに置かれた[[合州 (重慶市)|合州]]を前身とする。


[[]]の[[開皇]]末年に合州は涪州と改められた。涪州は[[合川区|石鏡]]・[[武勝県|漢初]]・[[銅梁区|赤水]]の3県を管轄した。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、涪州は涪陵郡と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志上</ref>。
隋の[[開皇]]末年に合州は涪州と改称された。涪州は[[合川区|石鏡]]・[[武勝県|漢初]]・[[銅梁区|赤水]]の3県を管轄した。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、涪州は涪陵郡と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志上</ref>。


[[618年]]([[武徳]]元年)、[[唐]]により[[渝州]]涪陵鎮に涪州が置かれた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、涪州は涪陵郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、涪陵郡は涪州の称にもどされた。涪州は[[山南東道]]に属し、[[陵区|涪陵]]・[[南川区|賓化]]・[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|武竜]]・[[長寿区|楽温]]・[[長寿区|温山]]の5県を管轄した<ref>『[[新唐書]]』地理志四</ref>。
[[618年]]([[武徳]]元年)、[[唐]]により[[渝州]]涪陵鎮に涪州が置かれた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、涪州は涪陵郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、涪陵郡は涪州の称にもどされた。涪州は[[山南東道]]に属し、[[陵区|涪陵]]・[[南川区|賓化]]・[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|武竜]]・[[長寿区|楽温]]・[[長寿区|温山]]の5県を管轄した<ref>『[[新唐書]]』地理志四</ref>。


[[宋 (王朝)|宋]]のとき、涪州は[[夔州路]]に属し、涪陵・楽温・武竜の3県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志五</ref>。
[[宋 (王朝)|宋]]のとき、涪州は[[夔州路]]に属し、涪陵・武竜・楽温の3県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志五</ref>。


[[1277年]]([[至元 (元世祖)|至元]]14年)、[[元 (王朝)|元]]の東川都元帥の張徳潤らが涪州を攻め取った<ref>『[[元史]]』世祖紀六</ref>。元の涪州は[[重慶路]]に属し、武竜県を管轄した<ref>『元史』地理志三</ref>。
[[1277年]]([[至元 (元世祖)|至元]]14年)、[[元 (王朝)|元]]の東川都元帥の張徳潤らが涪州を攻め取った<ref>『[[元史]]』世祖紀六</ref>。涪州は[[重慶路]]に属し、武竜県1県を管轄した<ref>『元史』地理志三</ref>。


[[明]]のとき、涪州は[[重慶府]]に属し、[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|武隆]]・[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|彭水]]の2県を管轄した<ref>『[[明史]]』地理志四</ref>。
[[明]]のとき、涪州は[[重慶府]]に属し、[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|武隆]]・[[彭水ミャオ族トゥチャ族自治県|彭水]]の2県を管轄した<ref>『[[明史]]』地理志四</ref>。


[[清]]のとき、涪州は重慶府に属し、属県を持たなった<ref>『[[清史稿]]』地理志十六</ref>。
[[清]]のとき、涪州は重慶府に属し、属県を持たない散州となった<ref>『[[清史稿]]』地理志十六</ref>。


[[1913年]]、[[中華民国]]により涪州は廃止され、涪陵県と改められた。
[[1912年]]、[[中華民国]]により涪州は廃止され、涪陵県と改められた。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
30行目: 28行目:
[[Category:かつて存在した中国の州]]
[[Category:かつて存在した中国の州]]
[[Category:隋朝の州]]
[[Category:隋朝の州]]
[[Category:重慶の歴史]]
[[Category:重慶の歴史]]

2023年10月16日 (月) 23:13時点における最新版

涪州(ふうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の重慶市一帯に設置された。

概要[編集]

西魏のときに置かれた合州を前身とする。

隋の開皇末年に合州は涪州と改称された。涪州は石鏡漢初赤水の3県を管轄した。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、涪州は涪陵郡と改称された[1]

618年武徳元年)、により渝州涪陵鎮に涪州が置かれた。742年天宝元年)、涪州は涪陵郡と改称された。758年乾元元年)、涪陵郡は涪州の称にもどされた。涪州は山南東道に属し、涪陵賓化武竜楽温温山の5県を管轄した[2]

のとき、涪州は夔州路に属し、涪陵・武竜・楽温の3県を管轄した[3]

1277年至元14年)、の東川都元帥の張徳潤らが涪州を攻め取った[4]。涪州は重慶路に属し、武竜県1県を管轄した[5]

のとき、涪州は重慶府に属し、武隆彭水の2県を管轄した[6]

のとき、涪州は重慶府に属し、属県を持たない散州となった[7]

1912年中華民国により涪州は廃止され、涪陵県と改められた。

脚注[編集]

  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ 新唐書』地理志四
  3. ^ 宋史』地理志五
  4. ^ 元史』世祖紀六
  5. ^ 『元史』地理志三
  6. ^ 明史』地理志四
  7. ^ 清史稿』地理志十六