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「ジャン=バティスト・ベシェール」の版間の差分

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'''ジャン=バティスト・ベシエール '''(Jean-Baptiste Bessières, [[1768年]][[8月6日]] - [[1813年]][[5月1日]])は、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]期の[[軍人]]。帝国元帥。
'''ジャン=バティスト・ベシエール '''(Jean-Baptiste Bessières, [[1768年]][[8月6日]] - [[1813年]][[5月1日]])は、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]期の[[軍人]]。帝国元帥。
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==生涯==
==生涯==
ベシェールは1768年8月10日、フランス南部[[カオール]]近郊の町プレサックに生まれた。23歳のに軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]王宮守備隊して働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東部[[ピレネー]]方面軍、[[モゼール]]軍転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった
ベシェールは1768年8月10日、フランス南部[[カオール]]近郊の町プレサックに生まれた。青年代は医師を目指ており頃に後に元帥なる[[ジョアシャ・ミュラ]]と親交を結んだ


23歳の時に軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]の王宮守備隊として働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東部[[ピレネー]]方面軍、[[モゼル県|モゼル]]軍と次々と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。
[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの信頼を勝ち取った。そして、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク]]侵攻では先導役を務めるに至った。


[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの個人的信頼をた。そして、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク]]侵攻では先導役を務めた。
エジプト遠征に際しては[[アッコ囲戦]]、[[アブキールの戦い]]での勝利に貢献した。


エジプト遠征に際しては[[アッコ囲戦 (1799年)]]、[[アブキールの戦い]]での勝利に貢献した。
[[1800年]]に勃発した[[マレンゴの戦い]]では執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。の騎兵突撃でさえも敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]の見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。<ref>戦闘中の彼の態度に対し、[[ランヌ]]将軍は激怒した。戦後、2人は激しく口論し、以降は犬猿の仲となった。</ref>

[[1800年]]に勃発した[[マレンゴの戦い]]では執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。の騎兵突撃は一定の成功を収めたのの、敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]の見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。<ref>ナポレオンはマレンゴの戦いにおけるベシェールの行動に不満を持ち、減給した。</ref><ref>戦闘中の彼の態度に対し、[[ランヌ]]将軍は激怒した。戦後、2人は激しく口論し、以降は犬猿の仲となった。</ref>


[[1802年]]に[[師団長]]に昇進した。
[[1802年]]に[[師団長]]に昇進した。


[[1804年]]に[[フランス元帥|帝国元帥]]となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。<ref>ここまで登り詰められたのは彼自身の指揮能力というよりもむしろ、ナポレオンに対する忠誠心や友情に依る所が大きかった。</ref>
[[1804年]]に[[フランス元帥|帝国元帥]]となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。<ref>ここまで登り詰められたのは彼自身の指揮能力というよりも、ナポレオンに対する忠誠心や友情に依る所が大きかった。</ref>この人事には多くの批判が起こり、[[マルモン]]将軍<ref>ナポレオンに古くから付き従い、多々なる活躍で彼を支えたが、第一回元帥名簿に記載されなかった。</ref>は「ベシェールが元帥になれるのであれば、誰でも元帥になれる。」と評した。


[[1805年]][[2月2日]]には[[レジオン・ドヌール|レジオン・ドヌール・グラン・テグル]]位、鉄冠コマンドゥール位を授与された。
[[1805年]][[2月2日]]には[[レジオン・ドヌール|レジオン・ドヌール・グラン・テグル]][[勲]]、鉄冠コマンドゥール位を授与された。


[[1806年]]には[[イエナ・アウエルシュテットの戦い|イエナの戦い]]、ビエジェンの戦いで戦った。
[[1806年]]には[[イエナ・アウエルシュテットの戦い|イエナの戦い]]、ビエジェンの戦いで戦った。


[[1807年]]には[[アイラウの戦い]]、[[フリートラントの戦い]]で戦った。これらの活躍により3つの位<ref>聖ハインリヒ大十字位、キリスト大十字位、金鷲位</ref>を授与され、[[ヴュルテンベルク]]駐在大使となった。
[[1807年]]には[[アイラウの戦い]]、[[フリートラントの戦い]]で戦った。これらの戦いにおける活躍により3つの位<ref>聖ハインリヒ大十字位、キリスト大十字位、金鷲位</ref>を授与され、[[ヴュルテンベルク]]駐在大使となった。


[[1808年]]、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなくスペイン方面に派遣された。[[7月14日]]に勃発した[[メディナ・デル・リオ・セコの戦い]]では14,000人の兵力で22,000のスペイン軍を打ち破った。その後、[[ブルゴス]]の戦いで勝利を収め、[[ジョゼフ・ボナパルト]]とに[[マドリード]]に入城した。
[[1808年]]、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなく[[半島戦争]]のため、スペイン方面に派遣された。同年[[7月14日]]に勃発したメディナ・デル・リオ・セコの戦いでは14,000人ほどの兵力で22,000人以上のスペイン軍を打ち破った。その後、[[ブルゴス]]の戦いでイギリス軍相手に勝利を収め、[[ジョゼフ・ボナパルト]]とともに[[マドリード]]に入城した。


同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、[[ソモシエラ]]、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。
同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、ソモシエラ、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。


[[1809年]]に勃発した[[オーストリア戦役]]ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。
[[1809年]]に勃発した[[1809年オーストリア戦役|オーストリア戦役]]では大陸軍予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。


[[アスペルン・エスリンクの戦い|エスリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によって事無きを得た。
[[アスペルン・エスリンクの戦い|エスリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であった[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、[[マッセナ]]元帥の必死の制止によってことなきを得た。


[[ヴァグラムの戦い]]では愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。
[[ヴァグラムの戦い]]でも善戦したが、危うく死にかけ、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。


同年[[3月28日]]、[[イストリア]][[公爵]]となり、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、[[ブリュンゲンの戦い]]での勝利に貢献した。
同年[[3月28日]]、[[イストリア]][[公爵]]となり、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、ブリュンゲンの戦いでの勝利に貢献した。


[[1810年]]、[[パリ]]の皇帝親衛隊の司令官に任命された。[[3月18日]]には[[ストラスブール]]の総督となった。
[[1810年]]、皇帝親衛隊の[[パリ]]司令官に任命された。同年[[3月18日]]には[[ストラスブール]]の総督となった。


[[1811年]]、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めた[[9月20日]]にはパリに戻った。<ref>スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れたと言われている。</ref>
[[1811年]]、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めた。[[5月3日]]〜[[5月5日|5日]]に起こったフエンテ・デ・オニョロの戦いでは[[マッセナ]]元帥の下で皇帝親衛隊騎兵部隊を率いた。しかし、決定的な局面で同部隊を投入しなかったため、引き分けという結果を招いた。<ref>マッセナ元帥は激怒し、戦後、2人の仲は険悪となった。</ref>[[9月20日]]にはパリに戻った。<ref>スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れたためと言われている。</ref>


[[1812年]]から始まった[[ロシア遠征]]では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。[[ボロジノの戦い]]では同騎兵隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。
[[1812年]]から始まった[[ロシア遠征]]では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。同年[[9月7日]]に勃発した[[ボロジノの戦い]]では同隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。


[[1813年]][[4月10日]]、皇帝親衛隊司令官に任命された。
[[1813年]][[4月10日]]、皇帝親衛隊司令官に任命された。


同年[[5月1日]]<ref>[[リュッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。
同年[[5月1日]]<ref>[[リュッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。日頃から彼に目をかけていたナポレオンは訃報を聞き、非常に悲しんだという。彼が亡くなった日は[[グロースゲルシェンの戦い|リュッツェンの戦い]]の前日であった。


==人物像==
==人物像==
[[Image:Bessieres.jpg|thumb|250px|ジャン=バティスト・ベシエール]]
ベシェールは生まれの身分が決して高くないにも関わらず、きちんとしたマナー心得ており、姿形もどこか風雅めいていた。又、性格も優しく、気いのでナポレオンの元帥の中では最も紳士的であったといわれている。
ベシェールはきちんとした礼儀作法わきまえており、姿形もどこか風雅めいていた。性格も清廉<ref>略奪などの悪徳な蓄財は行わなかったようである。</ref>かつ、気立ていのでナポレオンの元帥の中では最も紳士的であったといわれている。また、その人柄ゆえに多くの部下に慕われた

軍事指揮官としては慎重かつ剛毅であった。そため、部隊指揮官としては凡庸であったが、司令官としては優秀であった。

[[ジョアシャン・ミュラ]]の唯一無二の親友であり、ミュラと[[ジャン・ランヌ]]がナポレオンの妹[[カロリーヌ・ボナパルト|カロリーヌ]]との結婚を巡って競争になった際にはミュラの肩を持ったという。


前述の通り、ランヌとは犬猿の仲であった。
剛毅で慎重な性格、部隊指揮官としては凡庸ったが、司令官としてはむしろ優秀であった。


[[東京富士美術館]]に[[ロベール・ルフェーブル]]によるベシェール夫人の肖像画が所蔵されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3626 |title=ベシエール元帥夫人 |publisher=[[東京富士美術館]] |accessdate=2018-11-02 }}</ref>。
[[ジョアシャン・ミュラ]]の唯一無二の親友であり、ミュラと[[ジャン・ランヌ]]がナポレオンの妹[[カロリーヌ・ボナパルト|カロリーヌ]]との結婚を巡って競争になった際にはミュラの肩を持ったという。<ref>これがランヌと犬猿の仲となった一つの要因である。</ref>


== 脚注 ==
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[[東京富士美術館]]に[[ロベール・ルフェーブル]]によるベシェール夫人の肖像画が所蔵されている<ref>{{cite web|url=http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3626 |title=ベシエール元帥夫人 |publisher=東京富士美術館 |accessdate=2018-11-02 }}</ref>。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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ジャン=バティスト・ベシエール (Jean-Baptiste Bessières, 1768年8月6日 - 1813年5月1日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期の軍人。帝国元帥。

ジャン=バティスト・ベシエール
Jean-Baptiste Bessières
ベシエール元帥 (作者不明、19世紀)
生誕 1768年8月6日
フランス王国、プレサック
死没 1813年5月1日
ザクセン=アンハルト州、ヴァイセンフェルス
所属組織 フランス軍
軍歴 1791年〜1813年
最終階級 帝国元帥
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生涯[編集]

ベシェールは1768年8月10日、フランス南部カオール近郊の町プレサックに生まれた。青年時代は医師を目指しており、この頃に後に元帥となるジョアシャン・ミュラと親交を結んだ。

23歳の時に軍に入隊し、短期間ルイ16世の王宮守備隊として働いた。その後、スペイン方面軍、東部ピレネー方面軍、モゼル軍と次々と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。

1796年から始まったイタリア戦役ではナポレオンに随行し、ロヴェレートの戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらにリヴォリの戦いでも活躍し、ナポレオンからの個人的信頼を得た。そして、シュタイアーマルク侵攻では先導役を務めた。

エジプト遠征に際してはアッコ包囲戦 (1799年)アブキールの戦いでの勝利に貢献した。

1800年に勃発したマレンゴの戦いでは執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。この騎兵突撃は一定の成功を収めたものの、敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局ケレルマンの見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。[1][2]

1802年師団長に昇進した。

1804年帝国元帥となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。[3]この人事には多くの批判が起こり、マルモン将軍[4]は「ベシェールが元帥になれるのであれば、誰でも元帥になれる。」と評した。

1805年2月2日にはレジオン・ドヌール・グラン・テグル勲位、鉄冠コマンドゥール勲位を授与された。

1806年にはイエナの戦い、ビエジェンの戦いで戦った。

1807年にはアイラウの戦いフリートラントの戦いで戦った。これらの戦いにおける活躍により3つの勲位[5]を授与され、ヴュルテンベルク駐在大使となった。

1808年、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなく半島戦争のため、スペイン方面に派遣された。同年7月14日に勃発したメディナ・デル・リオ・セコの戦いでは14,000人ほどの兵力で22,000人以上のスペイン軍を打ち破った。その後、ブルゴスの戦いでイギリス軍相手に勝利を収め、ジョゼフ・ボナパルトとともにマドリードに入城した。

同年11月9日、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、ソモシエラ、マドリード、グアダラハラで戦った。

1809年に勃発したオーストリア戦役では大陸軍予備騎兵部隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。

エスリンクの戦いでは数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によってことなきを得た。

ヴァグラムの戦いでも善戦したが、危うく死にかけ、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。

同年3月28日イストリア公爵となり、ベルナドットに変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、ブリュンゲンの戦いでの勝利に貢献した。

1810年、皇帝親衛隊のパリ司令官に任命された。同年3月18日にはストラスブールの総督となった。

1811年、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めた。5月3日5日に起こったフエンテ・デ・オニョロの戦いではマッセナ元帥の下で皇帝親衛隊騎兵部隊を率いた。しかし、決定的な局面で同部隊を投入しなかったため、引き分けという結果を招いた。[6]9月20日にはパリに戻った。[7]

1812年から始まったロシア遠征では皇帝親衛隊の騎兵部隊指揮官に任命された。同年9月7日に勃発したボロジノの戦いでは同部隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。

1813年4月10日、皇帝親衛隊司令官に任命された。

同年5月1日[8]、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。日頃から彼に目をかけていたナポレオンは訃報を聞き、非常に悲しんだという。彼が亡くなった日はリュッツェンの戦いの前日であった。

人物像[編集]

ジャン=バティスト・ベシエール

ベシェールはきちんとした礼儀作法をわきまえており、姿形もどこか風雅めいていた。性格も清廉[9]かつ、気立てが良いのでナポレオンの元帥の中では最も紳士的であったといわれている。また、その人柄ゆえに多くの部下に慕われた。

軍事指揮官としては慎重かつ剛毅であった。そのため、部隊指揮官としては凡庸であったが、司令官としては優秀であった。

ジョアシャン・ミュラの唯一無二の親友であり、ミュラとジャン・ランヌがナポレオンの妹カロリーヌとの結婚を巡って競争になった際にはミュラの肩を持ったという。

前述の通り、ランヌとは犬猿の仲であった。

東京富士美術館ロベール・ルフェーブルによるベシェール夫人の肖像画が所蔵されている[10]

脚注[編集]

  1. ^ ナポレオンはマレンゴの戦いにおけるベシェールの行動に不満を持ち、減給した。
  2. ^ 戦闘中の彼の態度に対し、ランヌ将軍は激怒した。戦後、2人は激しく口論し、以降は犬猿の仲となった。
  3. ^ ここまで登り詰められたのは、彼自身の指揮能力というよりも、ナポレオンに対する忠誠心や友情に依る所が大きかった。
  4. ^ ナポレオンに古くから付き従い、多々なる活躍で彼を支えたが、第一回元帥名簿に記載されなかった。
  5. ^ 聖ハインリヒ大十字勲位、キリスト大十字勲位、金鷲勲位
  6. ^ マッセナ元帥は激怒し、戦後、2人の仲は険悪となった。
  7. ^ スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れたためと言われている。
  8. ^ リュッツェンの戦いの前日
  9. ^ 略奪などの悪徳な蓄財は行わなかったようである。
  10. ^ ベシエール元帥夫人”. 東京富士美術館. 2018年11月2日閲覧。

外部リンク [編集]